勝手に「餓鬼の喉」を辿る〜荻生徂徠「峡中紀行」〜
荻生徂徠先生の「峡中紀行」では、武川村の石空川を遡行し、その最終地点は「餓鬼の喉」(喉の字はこの字では書かれていませんが、Web上では書き換えています)となっていますが、現在その地名ははっきりしないとのことなので、このサイトで勝手に想像してみます。なお、「峡中紀行」の当該箇所全文と符合しているわけではありません。論拠は、現在のワサビ沢の位置と「角川地名大辞典19山梨県」の記述に拠ります。

鳳凰三山と石空川上流部(精進ヶ滝)
荻生徂徠先生の甲斐への紀行は、宝永三年の九月七日に始まります。九月十二日に現武川村の宮の脇に泊まり、十三日に柳沢兵部丞信俊が乱を避けた古塁の跡である「餓鬼の喉」に登りますが、塁所には至らなかったということです。
柳沢での村人との問答では、「則在邑西南山中十里許」と答えたとのことなので、距離としては5.5kmといったところでしょうか。通常、一里は約4kmになるわけですが、ここでの一里は約530mの律令制下の距離で表したものでしょう。
石空川を遡行し始めて、「可五六里而至山姜澤」です。五六里でワサビ沢に辿り着いていますので、柳沢との距離は、やはり一里が約530mとすれば合います。ワサビ沢は石空川左岸の沢で、藪の湯温泉の奥に見える尾根の反対側になります。
このあと「自此両山夾径。径極険悪」となっており、地図で見れば、ワサビ沢を越えたあたりからの上流の渓相に合っています。「巳至一険突然横在前者下。謂是第一関。険上為千里眼。兵部君。避難餓鬼喉時。是其待暴客所。」とあり、これは見返り峠近くのあたりかもしれません。最初がよくわからないのですが、「巳」の方向に突然急峻な山が現れ、前の者の下にあるという「者」が人なのか山(尾根)かは分かりませんが、場所とすれば、おそらく見返り峠付近の河川敷あたりで、この急峻な山に登って石空川の下流を見ることはできそうです。そのため、「第一関」となっており、ここで敵を待ち受けたのでしょう。
「右眺山腹梢平処。謂是逸見塁処。左指両山相擁最深処。謂是山高類処。名橡平。」となっており、現在の地形とはちょっと合わないような気がするのですが、左に逸見の塁所、右に山高の塁所があり、橡平という名前ということです。ここも暴れ川なので、約200年前との違いは分かりませんが、ちょうど精進ヶ滝林道の途中にある遠望台の直下くらいの位置になるのでしょう。
紀行文の中では、このあと水害の話が出ており 、さらに進んだ後に「前眺瀑布三級」とあり、「級」を段とか階段の意味で考えれば、3段になっている滝が見えるとありますので、これは精進ヶ滝遊歩道を歩き始めて最初となる一の滝〜三の滝と考えてみます。最初に記した柳沢から十里という道程とは、大体符合します。

「瀑布三級」?(左より一の滝、二の滝、三の滝)この3つの滝は連続しています
この場所で、「左則餓鬼喉也」ということになれば、「餓鬼の喉」は、地花沢方向になります。地花沢の途中に滝が見えますが、この辺はかなり切り立っており、登るのはかなり困難であり、文とは合いますが、絶頂に至ると言うことであれば、沢を上り詰めなければなりません。地花沢は燕頭山になりますので、ここまで登りつめたということでしょうか。


写真左:蛇行する石空川 写真右:地花沢の滝上部
ここを登りつめてきたのでしょうか。
後から登る者に先に登る者の踏んだ石が落ちて当たったということですので、
かなり急峻であるということには当てはまるのですが。
水害の話のところでは、緑色の毒水と大きな石を流して来たということなので、ある程度の水量がある沢だと思います。一つ北側の沢も奥まで入っているので水量はあると思いますが、「瀑布三級」との位置関係が合いません。かなり手前になってしまいます。また、「瀑布三級」の手前で崖崩れについて触れられており、これはフォッサマグナの露頭部分のことを言っているのかもしれません。
ここまでは考えてみましたが、肝心の柳沢の塁所がどこなのかは分かりません。御座石方面に向ったとする方が正しいとすれば少し平で展望の良いところもあるのでこちらかもしれません。さて、実際はどうだったのでしょう?
砂防工事によって、小さな滝は埋まってしまいます。また、大武川や石空川のような暴れ川では、大きな台風でかなり変わってしまいますので、現状での推測は意味がないかもしれません。
ただ、旅行ではなかったとはいえ、山仕事ではなく、歴史をたどるために川を遡行するということが書かれている「峡中紀行」の、現代では明確でない謎(?)に迫れたような気はしています。真実を知っている人がいたら、是非教えてください。
冒頭にも書きましたが、すべてが符合しているわけではなく、なんともいえません。
文中には、「済石空川」とあるので、柳沢地区の大武川右岸を遡り、石空川を渡ったことになるので、そのまま大武川を遡行していったとも考えられます。とはいえ、後の文中では「此去十二三里」で一条の塁所となっているので、やっぱり大武川は遡行してないかもしれません。難しいですね。武川村誌では、餓鬼の喉は精進ヶ滝としているように読み取れますが、その論拠は甲斐叢記です。これはその前文にもあるように峡中紀行を含めて書いているようなので、どのように読み取るかが鍵になります。ただ、峡中紀行に先立たれて書かれた風流使者記には、「下注石空川」とあるので、餓鬼の喉は石空川の支流に思えます。また、時間的には夜明けとともに出たとしても、宮の脇から牧の原経由で精進ヶ滝まで往復して午の刻に宮の脇に戻るのは困難でしょう。
地花沢から見る石空川渓谷と八ヶ岳 ここを遡行してきたものと思われます。(渓谷の部分が暗くなってしまっています)
文中の漢字は、一部書き換えてあります。(表示できないので、仕方なくですが)意味が変わらないように配慮したつもりですが、何卒ご容赦ください。
参考文献:「峡中紀行・風流使者記」 河村義昌訳注 雄山閣(S46)
