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「晴明か!」 叫ぶとともに、彼は、月に届くかと思うほどの高さにひらりと翔んだ。 中空には天満月。 月あかりに白い狩衣(かりぎぬ)がきらめいて、平安京の闇に魔が翔ぶ。 月の光と競うかのように白く輝く肌。 その妖しいまでに整った貌(かお)には、冷たく蒼白い光をもつ眸。 闇の色と区別のつかぬ背に流れる長い髪が風になぶられる。 額には、光の粒子が集まり微かな二本の角を形どる。 鬼。 人間は、彼、近江(おうみ)のことをそう呼ぶ。 見下ろせば、平安京の南、朱雀大路へと続く羅城門の前に晴明は超然とたち、 文目もわかたぬ闇の中、見えてるかのように彼の紋章でもある五芒 星を紙に印し、それを天に放った。 一枚の紙がまたたくまに鳥に姿をかえ空に舞う。 唯一の色彩をはなつ近江の朱い唇が歪んだ。 身を翻し、かすかな桜の香りを風に散らしながら、疾風のごとく都の北をめざし 白い鬼が闇を翔ける。 晴明の放った式神が、一時的とはいえ北の守り神である神獣、玄武を顕現させ る前に北に着かねばならぬ。 平安京。 己が権力を手にしたいばかりに、無実の者に罪をきせ殺し、まつろわぬ者は 徹底的に排した。 陰湿な血なまぐさい政争の上に最高の権力とともに手にいれたのは、怨念。 地底で煮えたぎる溶岩のごとく地上に沸き上がり、わざわいはじめた怨念を 地底深く押し込め、封じるために、あらたに都は計画され、そして建てられた。 ゆえに、平安京は人の棲みやすさよりも、目に見えぬ侵入者に備え、 また、都の中で息づこうとする魍魎(もうりょう)たちを押さえ込むために、 幾重にも防御のための結界が張り巡らされてなければならない。 陰陽道を中心として、神道、道教、ありとあらゆる神仏の力と教えを取り入れ、 その力を内にこめ京の中を聖域となす。 よって、建物としての門、意識としての門、ありとあらゆる都の門は、門としての 働きよりも、物の怪や魑魅魍魎たちの侵入を防ぐためのものであり、 門から門の間には、神仏の加護の力の外へ流れ出るのを防ぐために、人の目には 見えぬ障壁が聖なる瑞垣となって立ちはだかり、より強く、より清らかな結界を作っていた。 そして、長方形に整備された都の外側は、平安京全体の守護として、陰陽道の核をなす 星の信仰に従い、星に宿る神、方位をつかさどる神獣に守られている。 神獣は、聖地に降臨する。 東の加茂川、西の大道。 南の巨椋池、北の舟岡山がそれである。 加茂川に身を泳がせるのは、東をつかさどる神獣、青龍。 辺境へと続く道を睨むのは、西をつかさどる神獣、白虎。 朱雀は、南をつかさどる神獣、巨椋池で羽根を休める。 そして、北をつかさどる神獣、玄武は、舟岡山から都を見下ろす。 東西南北の位置には、これら方位を司る神獣が降臨し、都への魔の侵入を、 怨霊の侵入を防ぐはずであった。 神獣、すなわち神の力を持つ獣である。 神の獣を操れる能力を持った人間などもいるわけもなく、平安京の東西南北の聖地に 四神の守りをおいたところで、いまだに姿を顕現されていない神獣など、怨霊にとって、 魑魅魍魎(ちみもうりょう)にとって、そして近江にとって無に等しいものだった。 織物の目をぬける水のように結界の間を通り抜け、闇にすむ者たちは、 都の中へと入り、傍若無人に駆け回り、疫病を、呪いを、わざわいを持ち込んでいた。 だが、幾重にも張り巡らされた結界は、彼等がどうあがいても入り込めない聖域をも つくり出していた。 宮廷と官庁街を中心とした平安宮がそれである。 平安京の中にあっても、なお、門で仕切り、結界の力をより強固なものとし、 そして、その奥、天皇が住まう清涼殿を中心とした平安宮内裏は、さらに細かく門で 仕切られ、魍魎たちを待ち受ける蜘蛛の巣のように何重にも結界が張られていた。 内裏の中は、静謐としていて、魔の影は、どこにもない。 暗闇の中、清涼殿のまわりだけが白く神々しく煌いている。 近江は、目を細めて、清涼殿をみつめた。 鬼である近江がちかづくことのできぬ聖域。 闇に棲むものが活気を増す夜。 平安宮から響く、弓を引き鳴らす音が、近江の耳に障る。 陰陽師ほどの力はないが、異形の者の気配を多少は感じ取れる『滝口』と呼ばれる 武士たちが、弓で闇のものたちを祓っているのだ。 だが、魔は、魑魅魍魎は、平安京の西で蠢く。 大路小路で碁盤の目のようにして整えられている都は、朱雀大路を中心にして、 西の右京、東の左京に別れる。 計画的にかつ合理的に建築されるはずだった平安京は、左京ばかりが賑わいを見せ、 朱雀大路とは名ばかりの荒れ果てた大路から西の右京は開発途中のまま見捨てられ、 遷都から百七十年あまりの現在においては、ただの荒れ果てた湿地 帯が広がるばかりであった。時には、埋葬の習慣のない庶民の亡骸が無造作に放置され、 その肉を食らう猛禽(もうきん)達が右京の空を薄暗くするほどまでに大きな翼を広げ、 けたたましく死肉を食らう喜びの声をあげていた。右京に巣くうのは、 それら人間の目に見えるものだけではない。 その魂の微かな匂いに小さな餓鬼や魔が集まり、やがて、多くの魑魅魍魎の類が 跋扈(ばっこ)する地となり、もはや昼間でも、薄ら寒い何ともいえぬ異質の気配に 人間は本能で右京を遠ざけていた。 東が人の住まう地ならば、西は魔の住まう地。 形ばかりの四神は、魔の侵入を防御することもできずに、平安京は、人と異形の者が 共棲する魔都となっていた。 四神とは、すなわち、星神を地上におろし四獣にしたものである。獣を調教するごとく、 正しく顕現させれば、その力は、神の力となる。 そして、その調教者があらわれた。 陰陽師、安倍晴明。 彼は、四神のその力を顕現させるほどの能力を備えていた。 晴明は、まず、都の中にいる魔を徹底的に追い払いはじめた。 西は右京、魔の棲む地。 魔の住処であった右京は、たちまちにして星神の信仰である陰陽の力と 西をつかさどる神獣、白虎の力の前に清められた。 右京に巣くっていた力の弱い魔や魑魅魍魎は、白虎が顕現した瞬間に塵と化し、 かすかに力の残った魔や魑魅魍魎達は、逃げるようにして右京を後にした。 (右京は、もう棲めぬ) (住処がなくなった) (人の中に入りこもうぞ) (そうだ。そうだ) ひとたび、西を、右京を追い出された闇の居住者達は、ぞろぞろと、今度は、 東から、そして南から都の中に入ろうとする。 だが、すでに、東は、青白く輝く青龍が都の入り口にその長い身体を横たえ、 南の羅城門には、朱雀がその羽根を神々しいまでに大きく広げていた。 神のエネルギーの前に魔たちが都へと入り込む道は、閉ざされてしまっていた。 わずかひとつきあまりの間に、突然として現れた三つの神獣。その傍らには必ず、 晴明印と呼ばれる五芒星の印があった。 だが、まだ北だけは、その守りがない。鬼門であり、人間が忌み嫌う北は、 魔にとっては、このうえなく心地よく、そして、その力も増幅させやすい場所である。 まだ、この北に晴明が玄武を顕現させずにいたのは、晴明の力よりも、 闇の力の方が勝っていたためかもしれない。 近江は、北をめざし空を翔ぶ。 都の内と外を結ぶ一条戻り橋の欄干の上に、近江は、舞い降りた。 ここに玄武が顕現すれば、都へ入り込む道はすべて閉ざされてしまう。 (魔道をつくらねばならぬな) 近江は、玄武の棲む舟岡山を背にして都を睨んだ。 晴明の放った式神が背後に迫り、橋の上で清めの具象化のように 古代神話の神の姿に化身した。 近江が振り向き、式神に右手を向けた。 次の瞬間、式神はただの紙切れとなり、まっぷたつに千切れた。 神の力を借りなければ無に等しい人間の放った式神など、 まだ玄武の守りのない北においては、近江の相手ではない。 近江は何事もなかったかのように、再び都を睨みつけた。 闇に二つの瞳が蒼く燃えた。 蒼い光が螺旋を描きながら空洞を作り、空間を切り裂く。 人の目に見えぬ魔道が、一条戻り橋から都に一気に突き抜けた。 道を作ってしまえば、五芒星により玄武を顕現させたところで、その効力は弱い。 近江の切り開いた魔道の気配に気がついたのか、魑魅魍魎どもがそこを抜け、 都の中へと消えていく。近江もそれに続こうとする。少し力を使い過ぎた。 彼の住処である吉野に帰るまでに人間の命を、まだ、誰にも手を触れさせたことのない 無垢な人間の気をその体に入れなければならない。 唯一のあかりであった月は、雲にその姿を隠した。獣のぎらぎらした瞳が都の闇に 蛍が飛ぶようにして行き交い、百鬼夜行する魔の怪しげな光もその中に散る。 真の闇が都を包んだ。 だが、闇は、鬼の味方。 その深い闇の中、近江の前に立ちはだかった人間がひとり。 安倍晴明、である。 南北に長い平安の京。南の羅城門から北の一条戻り橋まで161丈。 人間である晴明が即座に追いつける距離ではない。 近江が立ち止まり、晴明を見据えた。 「そなた、何者じゃ?」 いらえはない。 闇の中、晴明が自分の胸の前で人差指と中指を揃え、手刀を作る。 手刀となった指尖で虚空に描かれた五芒星は、空にきらめく星のごとく、 自ら輝き虚空にその形を留める。 続くようにして横を、そして縦の線を手刀が描こうとした時、 「晴明、待て!」 近江が叫んだ。晴明がニヤリと笑う。 「九字が恐ろしいのか?鬼!」 近江が、喉の奥で笑った。 「私が鬼ならば、そなたは何者じゃ。そなたこそ人間の姿を借りた鬼ではないのか?」 一瞬、晴明の全身が凍りついたかに見えた。 その隙を狙い、晴明めがけ突き出した近江の片手が闇を斬る。 目に見えない鬼の力が、衝撃が、晴明の体を勢い良く投げ飛ばし、 石で作られた一条橋の欄干に晴明は体を強く打ち付け、 橋の中央に弾みながら倒れ込んだ。 近江は、振り向きもせずに都に入ろうとする。 「待ちやがれ!」 生身の人間ならば意識もなくなり、その命さえ危ういような衝撃だったはずだ。 だが、晴明は体を屈め腹を押さえてはいるものの、その目は、この闇の中でも はっきりとわかるほど、憎しみの光すら帯びて近江をねめつけていた。 近江が冷たくうすい笑みを浮かべた。 「それが、お前の陰陽師としての力か。その力ゆえ、恐れられることはないのか?」 静かに問うてはみたものの、いらえはない。 「お前は私と同類じゃ。見逃せ、晴明。いや、人の中に棲む鬼」 「……鬼ではない」 晴明は近江から顔を反らす。 「……鬼などではない。私は神になるのだ」 「戯言を!」 「鬼のお前にはわからぬ」 「笑止!」 ふたたび、近江は晴明に片手をあげる。保身の為の五芒星を晴明が虚空に えがきだすより鬼の力の方が速かった。衝撃の波は、晴明のその腹を直撃し、 二つ折りになったままの体は、宙を飛び、左に、右にと橋の欄干に体をうちつけ ながら、やがて地面にもんどりうった。さすがの晴明も今度ばかりは気を失った。NEXT
平安時代関連ということで、遥かなる時空の中でもいろいろとこねています。