夢幻倶楽部

願いの音
その1


風シリーズ番外編に戻る
注意☆風シリーズの中ではありますが、BL要素の強いものとなりますので、
直貴×透のCPに抵抗を感じる方と、BLに興味のない方にはお勧めしません


 日曜日のスクランブル交差点は、雑踏の中にあった。
 行きかう人々の波は、デパートや店の中に散らばり、
 駅から吐き出される人の流れが、また、新たな音を作り出していく。
 スクランブル交差点を見下ろす歩道橋の上で、
 霧島直貴はすべての音を聴きのがすまいと耳をすましていた。
 顔半分を覆うくらいの薄茶の前髪を、春風が弄んでいく。
 直貴は、睨みつけるように、歩道橋の上から街を見下ろす。
 あたりまえのように聴こえる街の音。
 この音が、とつぜん、自分に届かなくなったら、世界はどう変わるのだろう。
 何もかもが、新しい色にぬりかえられていく春。
 そんな春の中で、ひとり、冬の中に置いていかれたら、
 まったく知らない世界に投げだされたら、何をどう感じるのだろう。
 少しでも、彼のいる世界に近づきたい。
 彼を理解したい。
 そう想い、直貴は、両手で耳を塞いでみる。
 けれども、日常にあふれる音を完全に遮断することはできず、
 遠く、くぐもった音が耳に届いてくる。
 ため息とともに、耳をふさいでいた手を離した。
 音が、直貴の耳にあたりまえのように聴こえてくる。
 聴こえなくなる、という感覚が、聴こえる直貴にはわからない。
 彼のいる世界が、直貴には、理解できない。
 少しでも彼に近づきたいと思うのに、彼の「今」が直貴にはわからない。
 苛立ったときの癖で、顔半分を覆い隠す長さの色素の薄い髪を何回もかきあげる。 
 同情や助けなら、誰にでもできる。
 だが、それは、彼のためにはならない。
 聴こえなくても、彼は、聴こえる社会で生きていかなくてはならないのだから。
 いきなり突き落とされた音のない世界に生きる彼に、直貴がしてやれることがあるのだろうか。

 音楽。

 直貴が、彼に与えられるものは、それしかない。


 別荘地へと続く道は、車の通り道であるにもかかわらず、
 自然の景観を損なわせないために舗装されてない。
 歩くたびに、乾ききった泥が埃となって舞いあがる。
 道の片側は急斜面の崖で、鬱蒼と茂る木々の間から、底を流れる急流が見え隠れしていた。 
 急流の先は深いダム湖へと続く。
 過去に事故があったらしく、危険と書かれた立て看板と、
 転落防止のためのガードレールがあるが、のりこえられない高さではない。
 深い新緑の中で、ガードレールの白さが、やけにまぶしく、異質に見える。
 ゴールデンウィークのこの時期、進学、進級祝いと、メンバーの親睦を兼ねて、
 霧島直貴を中心として活動しているアマチュアバンド『EASILY』は練習合宿に明け暮れる。   
 一年間通して稼いだライブの金は、地下スタジオ付別荘を借りるだけでほぼ消えるが、
 いまよりももっと上を目指すため合宿だ。文句を言う者はいない。
 アマチュアバンドとはいえ、『EASILY』の音楽はセミプロ級で、
 とくに霧島直貴の楽曲は、世間に認められつつあった。
 だが、二ヶ月まえ、プロバンドして認められるはずのライブステージで、
 彼らは、リードギターの光鶴岡透みつおかとおる を降板させることになった。
 透が、聴覚を失ったからだ。
 ライブはできたものの、『EASILY』は、プロバンドとしては、認められることはなかった。
 ギターがいなかった。
 あのライブのとき、透をステージにあげることができたのは、アンコール曲のときだけだった。
 ステージにあげ、ギターを弾かせることはできた。
 けれど、他のメンバーと音がずれ始めたことには気づかなかった。
 無理もない。
 ライブは生だ。
 いつも通りの演奏とはいえ、その時々によって、微妙にずれてくる。
 その微妙なズレは、聴覚を失った透にはわからなかった。
 けれども、透は、自分の感性で感じたのだろう。
 もう、自分は、ギターを弾くことができないのだと。
 演奏を終えたあとの、無理矢理、作ったような透の笑顔が、直貴の心の奥に、
 ずっと焼きついて、離れない。
 励ますつもりが、かえって、透を追いこむ結果になってしまった。 
 音を失い、ライブにでることもできず、メンバーに迷惑をかけた。
 合格したばかりの高校からは、自主退学か、聴覚が戻るまでのあいだの休学かをせまられている。
 透の周囲が、敵となって、透を追いこんでくる。
 音を失うとともに、透から笑みが消え、直貴や他の仲間たちとも距離を置くようになった。
 そんな透を、直貴は、『EASILY』のサックス奏者で親友の山岸あきら とともに、
 かなり強引な形で、練習合宿に連れだした。
 それも、他のメンバーたちよりも三日早めての合宿入りだった。
 耳に聴こえる音だけが音楽ではない。
 身体が覚えている音もある。
 聴こえなくても、ギターは、弾けるはずだし、リズムの狂いを直す方法もあるはずだ。
 直貴は、それを透に教えたかった。
 わずかなリズムの狂いや音の違いにうるさく、音楽に妥協しないのが霧島直貴という男だ。
 その直貴が納得できる演奏をメンバーがそろう三日後までに、
 今までのようギターを弾けるように、透に要求するというのは、どう考えても不可能だ。
 完璧を求めるつもりはない。
 ただ、透に、ギターを弾かせたかった。
 彼に音楽を取り戻させたかった。
 もう一度、心の底からの笑顔をみせたほしかった。
 以前のままの透でいてほしかった。
 すぐ後ろを歩いていた透が、いきなり、立ち止まった。
「透?」
 直貴が止める声は、透には届かない。
 透は、何かに吸い寄せられるように来た道を駆け戻っていく
 道の途中で立ち止まり、ガードレールから身をのりだすようにして、透が急流をのぞく。
 崖下から吹き上げる風が、透のさらさらの黒髪を揺らす。
 少し憂いを秘めたような横顔が、直貴に甘いため息をつかせた。
 どんなに想ってみても、告白することはできない相手。
 同性である透への直貴の恋。
 もしかしたら、透にギターを弾かせようとしているのは、直貴のエゴなのかもしれない。
 聴こえない透に、いままで通り、音楽をさせようとすることが、
 どれほど酷なことかは、わかっている。
 『EASILY』のヴォーカルとギタリスト。
 直貴と透のつながりは、それしかない。
 そのつながりを、直貴は切りたくないために、透にギターを弾かせようとしているのかもしれない。
「透!」
 声は、届かない。
 ギターのソフトケースを肩にかけたまま、崖下を、透はただ覗き込んでいた。
 透の身体が、崖のほうへと吸い込まれていくように思えた。
 自殺?
 一瞬、よぎった暗い妄想。
「直貴、なにやってんだ、おい」
 少し前を歩いていた玲が、駆け戻り、直貴の背中を叩いた。
「あっ……。玲……」
「透、連れてこいよ」
 玲に促されて、直貴は、やっと、透のほうへと駆け出した。
「透」
 直貴が肩を叩くまで、透は身をのりだし、崖をのぞきこんでいた。
「ど、う、し、た?」
 唇の動きだけを見て何を言っているのか読み取る読唇は、訓練をはじめたばかり透には、
 まだ難しいと聞いていた。
 だから、一語、一語、透が読み取れるように、ゆっくりと、直貴は、口を動かした。
 透が、なんでもないというように、頭を横にふる。
「……行こう」
 直貴は、強引に、透の手をつかむ。
 怖かった。
 あのまま、透が崖下に飛びこんでしまいそうで、怖かった。 
 透は、弱い人間ではない。
 けれど、音のある世界から、なにも聴こえない無音の世界にいきなり投げ出されたとき、
 以前の自分のままでいられるだろうか。
 つないだ手に、直貴は、ぐっと力をこめた。

<つづく>