松田博仁さんとの音楽談義 第1回


 松田博仁氏は、15年間にわたって、株式会社東京リーガルマインド(LEC)の正社員として、資格試験講座などの業務を担当してきました。平成11年にHRD本部を立ち上げ、再就職支援の全ての業務を手がけてきました。年齢は、昭和37年生まれの、現在45歳です。

 砂田好正は、平成17年10月1日から、松田氏がリーダーを務めるHRD本部制作において、専門準社員として勤務を始めました。前職が業界紙の記者ということもあり、松田氏の下で、テキスト制作をしていました。年齢は、昭和23年生まれの、現在59歳です。その仕事は、平成19年6月30日で終了・退職しています。
 
 松田氏は、平成19年2月の会社の健康診断において、がんに侵されていることが判明し、3月に入院、現在岡崎市のがんセンターで治療・療養をしています。職場を離れてから、半年後に就業規則に基づいて退職を余儀なくされ、現在、入退院を繰り返しています。
 
 松田氏と砂田は、この間、電子メールで交流していましたが、特に今年の9月頃から、毎日のようにメール交換するようになりました。そこでは、音楽に関する話題が多く取り上げられ、二人の共通の趣味が分かってきました。9月中に交わされたメールの中で、病気の治療と音楽がテーマになった部分を抜き出すと次のようになります。

 

2007年9月2日 松田⇒砂田
 いつもこうしてメールをいただけることは、私にとって大変有り難いことです。病巣からの痛みは幸いまだありません。薬の副作用である体のダルさと精神的倦怠感が行動に制限をかけてしまいます。いろいろ書きたいことはありますけれど、どうにも歯がゆいわけです。早いものであっという間に半年が過ぎてしまいました。まだ自分が重い症状である自覚はないのですが、タヒボ茶というサプリメントと気功を併用しています。(後略)

9月9日 松田⇒砂田
 実は、少しばかり気分が落ち込んでいました。抗がん剤の副作用は、他の人の話ではうつ状態になる場合があるそうです。私は胸焼けの薬を点滴した時に、一度ひどい不安感に襲われました。本当に辛かったです。
 さて音楽ですが、今はマイルス・デイビスの『死刑台のエレベータ』を聴いています、マイルスのCDはほとんど持っておらず、あまり詳しくないのですが、今の私には、波長が合うようです。
 私は、元々ビートルズのコレクターですが、だんだん波長が合わなくなってきたようです。世代は違いますが、後追い世代で、ビートルズのレコードはたくさん買いました。少年時代は気楽でしたけれども、今思うと、辛い家庭環境にあった少年たちは、ビートルズをあまり聴いていなかったと思います。
 昔のロックには詳しいです。神田のジャニス(注・砂田の同級生が経営している東京・神保町のCDレンタル店。職場で一緒に仕事をしているときに、松田氏がよく行き、CDを借りていたという話を聴き、その偶然にお互いに驚いたことがあります)にはお世話になりましたけど、やはり最近は、リーモーガンなどのジャズが合うようです。


9月13日 松田⇒砂田
 先にふれたマイルスですが、私は、ほとんどジャズは知らないので、新鮮に感じているだけかも知れません。以前は、たまにグループサウンズなんか、カラオケで唄っていました。ザ・タイガースは私の子供時代でしたが、懐かしいです。(後略)


9月16日@ 砂田⇒松田
 いかがお過ごしですか。
 マイルス・デイビスですが、聴いてみればすばらしい音楽だろうなと想像するのですが、面倒臭がりで、いまだにテレビの特番くらいでしか知りません。私は、音楽を好きだと言っているのですが、それは間違いないことなのですが、その音楽の知識と言ったら、まるでないのですよ。ただ、子供のころから、ひたすら日本の歌謡曲が好きだという、それだけのことです。それが今のカラオケにつながっています。私のカラオケは結構、お上手なのですよ(笑)。日本の歌謡曲は、かつては黙っていても聞こえてきたし、お手軽なところがいいわけです。
 松田さんの世代がグループサウンズに哀愁を感じるのは、何か自然なことで、そうだろうなと思います。確かに一種のムードがあって、それが、当時の若者の時代的ムードを作り上げていたところがあります。カラオケをやっているとときどき聞こえてきます。ああ、そんなムードにあこがれた時代が確かにあったな、と感じます。ただ、私自身は、フランク永井の『有楽町で会いましょう』が、なんとなく「歌の原点」という感じなので、グループサウンズには、はまらなかったところがあります。でも、松田さんの世代が、グループサウンズに親しみを感じるのは、よく分かるような気がします。
 ついでに言うと、ビートルズというのは、私が高校生のとき、同級生がLP(大きなレコード)『ミート・ザ・ビートルズ』を持って来て、「お前も聴け」などと言われました。ところが私は、それも本格的に聴くわけではなく、BGMで流れるのを聞いた程度なのです。その一方で、昭和30〜40年代半ばの歌謡曲は、テレビにかじりついて聴いていました。レコード屋さんに行って、シングル盤を買ったりしていました。紅白歌合戦などというと、必死な形相で視聴していました。坂本九の、中村八大が作曲した『上を向いて歩こう』など、結構のめり込んで聴いていました。(後略)

9月16日 松田⇒砂田
 こちらはえらく蒸します。今日は、弟が法事に行っており、私は家でのんびり過ごしています。私が昭和歌謡に関心を持ったのは、やはりザ・ピーナッツです。ヒット曲しか知りませんが、今は良い音質で全集が出ているようです。宮川泰先生の名前を知ったのは、私の世代だと昭和49年のアニメ『宇宙戦艦ヤマト』の音楽でした。ピーナッツの音楽で有名な大先生だと知ったのは、後のことです。
 また坂本九は、例の壮絶な事故で他界され、残念でなりません。やはり彼も最近全集が出ているようです。『上を向いて歩こう』の作詞は永六輔さんで、以前講演会をお願いしましたけども、ご都合が悪く、その代わりに松島トモ子さんを紹介されたことがあります。

9月16日A 砂田⇒松田
 (前略)さて、ザ・ピーナッツの話がありましたが、これは私にとっても強烈に懐かしい歌手です。ただし、音楽の知識がない私ですから、彼女たちが宮川泰の作曲した歌を唄っていたとは知りませんでした。今、歌の名称を思い出そうとしましたが、メロディは一部思い出すのですが、それもおぼつかなくなっています。
 私が言いたいのは、テレビで『シャボン玉ホリディ』という番組があって、クレージーキャッツなどと一緒にザ・ピーナッツが出演していたのです。最後のハナ肇とザ・ピーナッツの掛け合い(その前に毎回同じジャズを唄うのですが)が始まると、寂しくなってしまうほど、好きでした。この番組には、青島幸男とかも出ていたし、彼は脚本も書いていました。私は、毎週日曜の6時30分の開始を楽しみにしていました。確か、6時からは『光子の窓』という番組があり、この両方の番組を視ていました。光子というのは、草笛光子です。日本テレビ系でやっていました。どちらも面白い番組でした。もちろん、ザ・ピーナッツの明るくて、リズミカルな歌も楽しみの一つでした。
 それから、坂本九というと、なんといっても、NHKの夜9時(あるいは10時だったか)からやっていた、『夢で会いましょう』ですね。中村八大がピアノを弾いて、永六輔も出ていたはずです。梓みちよが『こんにちは赤ちゃん』を歌いました。寅さんの渥美清も出ていました。この番組も楽しかったし、その日が来るのを待ち望んでいました。
 ついでに言いますが、こんなふうに楽しみにしている番組は、今はなくなりましたね。時間があったら、見るという番組ばかりです。こんな番組や歌謡曲が、僕の小さいときの楽しみでした。

9月21日@ 松田⇒砂田
 お返事遅くなりました。今日私は歯医者に行ってきましたが、猛烈な暑さに参りました。東京も暑かったのではないでしょうか。実は私はまだ中野のアパートがそのままになっていて家賃を払い続けており、今月こそは片付けに行こうと思っていましたが、この調子ではまだ難しいようです。今一番気になっているのは、このことです。(後略)

9月21日A 松田⇒砂田
先ほどの続きですが、知っている人は知っているのですが、私も昔CDを2枚出しています。いずれも、社団法人音楽出版社協会から受賞しました。歌モノですが、私は全体のアレンジや音づくり担当で、唄ってはいません。歌手は、佐野まり、という人で、ブログhttp://marisano.exblog.jp/がありますので、よければ覗いてください。彼女は、もう何年も南米に住んでいますので、しばらく会っていません。また残念ながら、CDの在庫がもう無いため、MDにでもコピーしないと聴いて頂けないのが残念です。LECに勤めながらの録音はきつかったのですが、後悔はしていません(営利目的ではありません)。
今日はジャズ100選というCDを買って聴いています。余計なモノを買っている場合ではありませんが、もし何かよいモノがあればお知らせします。(後略)

 

 こんなような気軽な調子で、二人の音楽談義が始まりました。以後、対談は継続され、現在進行の対談として掲載しますので、ご期待ください。

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