松田博仁さんとの音楽談義 第3回

10月2日@ 砂田⇒松田
 私の高校時代には、東京オリンピックがありました。昭和39年ですから、松田さんが生まれて2年後ということになります。私は都立高校でしたから、学校に切符が回ってきまして、クラス内のくじ引きで切符を当てたのです。陸上の試合を神宮の国立競技場で観戦しました。棒高跳びの競技が夜遅くまで行われ、何という名の選手たちかは忘れましたが、競技は夜10時くらいまで行われました。私たちは、多くの観客が帰ってしまったため、特等席に移動して、秋なのに寒い中で観戦したことを覚えています。
 当時は、高度成長期を実感できるような時代で、東京は、インフラが整備され、きれいな道路ができたり、国立競技場をはじめとした建築物ができたり、都市として急激に変貌した時代でした。

 前回の話にもありましたように、当時、ビートルズの音楽にはあまり興味を持てなかった私ですが、よく口ずさんでいたのは、荒木一郎の『空に星があるように』という歌なのです。その歌詞は次のようなものです。

 『空に星があるように』
 (作詞・作曲 荒木一郎)
  空に星があるように
  浜辺に砂があるように
  ボクの心にたった一つの
  小さな夢がありました

  風が東に吹くように
  川が流れて行くように
  時の流れにたった一つの
  小さな夢は消えました

  淋しく 淋しく 星を見つめ
  ひとりで ひとりで 涙にぬれる
  何もかもすべては 終わってしまったけれど
  何もかもすべては 消えてしまったけれど

  春に小雨が降るように
  秋に枯葉が散るように
  それは誰にもあるような
  ただの季節のかわりめの頃

この歌は、今でも口ずさんだり、カラオケで唄ったりするのですが、とにかく好きでした、でもこれは、一種の挫折感を表した歌なのです。例えば、私の失業した20代を象徴するような歌なのです。この歌を、高校時代から今まで、ずっと好んできました。
 私は、最初は歌詞に魅かれるという傾向があります。そしてとにかく好き勝手に音楽を聴いていて、音楽に関しては「雑食家」なのです。松田さんの場合は、「リズムとかメロディに魅かれるということが多い」と聞いていますが、松田さんの好きな作品について、どのようなところに魅かれたのか、魅かれるのかを聞かせてもらえませんか。


10月2日@ 松田⇒砂田
 東京オリンピックの件ですが、当時は学校に切符が回ってきたのですね。そのような観戦は、貴重なご経験ですね。私は後年、市川昆監督の映画をテレビで観ました。しかし監督の斬新なカットが災いしてか、わかりづらかったです (笑) 。私は、当時のソノシートを持っています。もちろん後年買ったモノで、音楽は入っていませんが、生の音の記録として追体験できます。もちろん、特等席で観戦された体験にはとてもかないません。

 『空に星があるように』ですが、こうして詞を読むと「それは誰にもあるような ただの季節のかわりめの頃」と、締めているくだりがクールですね。泣き言だけで終わらず、そういうものなのだということを投げかけてくれているようです。

 さて 私が今一番好きな歌は、小学〜中学時代に聴きはじめたもので、意外かもしれませんが、海援隊の『母に捧げるバラード』です。武田鉄也が、『幸福の黄色いハンカチ』でデビューする前の作品です。今、この歌が好きなのは、私がこんな体になってしまって、45歳になっても身体障害者の母に依存している自分がいて、思わず口ずさんでしまう、というのが理由だと思います。

 高校生の頃は、洋楽全盛で、邦楽はゴダイゴやアリスが流行っていました。当時私の周辺は洋楽好きが普通にいて、パンクやテクノなどの新生期でしたが、ロック革命を起こしたビートルズを無視することはできず、友達とお互いにアルバムを集めては、交換していました。また、アニメ映画や、スターウォーズなどの新しい特撮映画の時代に入って、サントラ盤が売れていました。その頃は、詞よりも音や曲だけで選んでいた時期だと思います。
 しかし、一番聴く価値があるのは、詞やボーカルが優れ、それ以上に生楽器の音や演奏が、その優れた曲にマッチしているものです。そういう意味では、安易で無機質なリズムボックスなどに頼った作品は、ほとんど聴きません。楽器の演奏や全体の音作りがないがしろにされている作品は、作り手の愛情がないというか、そういうレコードは消耗品でしかないと思っています。

 ビートルズの話題に戻りますが、『ロッキンオン』という音楽雑誌の創設者、渋谷陽一氏が盛んに言っているのですが、彼は団塊世代より少し下で、育ちは、大阪と東京・下落合ですが、「当時、中学でビートルズを聴いていた人はクラスでほんの数人だった」と、いろいろなメディアで語っています。砂田さんの高校でもやはりそうだったのでしょうか。
私は高校当時から、ビートルズの『ひとりぼっちのあいつ』という作品が大好きです。非常に優れた詞で、これは昭和40年の作品ですが、私は昭和54年に聴き込みました。


10月2日A 砂田⇒松田
 ビートルズが登場してきた頃、ビートルズを聴き込んでいる人が少なかった、という渋谷氏の話は参考になります。私の高校時代も、何人かの先端的な人が数人いただけ、という感じがします。
 確かに、ビートルズに「これだ!」と思った日本人は、少なかったかもしれません。でも、熱狂していた少年少女は、全国レベルでたくさんいました。そのような人たちは、私には、平尾昌晃とか、ミッキーカーチスのような、和製ロカビリーに群がった少年少女と同じように見えました。私のように、野球に精を出していた高校生には、「これだ」という感じはありませんでした。また、ビートルズという、若者たちが奏でる音や外見は、私のような高校生の感性とは、ちょっと違っていたように思います。
 日本は、経済も成長し、うまく言えないのですが、光明があったように思います。欧米を制覇していた海の向こうのビートルズの存在より、当時の日本では、後年現れた国内のグループサウンズのほうが、時代の雰囲気とかを表していて、日本の若者もとっつきやすかったように思います。

 グループサウンズのザ・リガニーズの作品に、『海は恋してる』(昭和44年)という歌があります。「海はすてきだな」ではじまります。ときどき、カラオケで唄います。ほかにグループサウンズの歌では、パープル・シャドウズの『小さなスナック』(昭和43年))という、「僕が初めて 君を見たのは」ではじまる歌ですが、ときどき唄います。これらのグループサウンズの歌は、明るさが感じられます。湘南で粋がっていた若者の雰囲気が、とてもよく出ています。
 加山雄三・作詞・作曲の『お嫁においで』(昭和41年)という歌があるのですが、その詞のはじめに、「もしもこの海で、君のしあわせみつけたら、すぐに帰るから、君に指輪あげよう」というのがあります。ここに出てくる「海」も明るいのです。それに対して、私の大学時代の昭和45年前後に登場する「海」は、波乱万丈と言うか、波高く、荒れている感じがします。やくざ映画なんに出てくる「海」は暗いですよ。

 それから松田さんは、私のような「団塊の世代(全共闘世代)」からは、「遅れた」ように感じていらっしゃるかもしれませんが、実は、私も「遅れた」と感じているのです。『遅れてきた青年』というのは大江健三郎の小説ですが、これは、戦争体験のない、戦争世代から「遅れてきた」という意味なのです。小説の内容は忘れましたが、ここでも「遅れてきた」と感じている世代が描かれています。
 松田さんの世代が「遅れてきた」と感じる場合、私たちの「全共闘世代」に「遅れてきた」とお感じになっているのかもしれません。でも私たちの世代もまた、「60年安保世代」から「遅れてきた」と感じているのです。つまり、世代という問題意識から言うと、「遅れてきた」と感じるのは、どの世代にも共通することのようなのです。私の世代の兄貴分は60年安保世代で、松田さんの世代の兄貴分は全共闘世代だ、というように、いつの時代の青年にもありがちな、若者の感じ方のように思います。


10月2日A 松田⇒砂田
 ありがとうございます。文学に疎い私には、大江健三郎の話題は大変参考になりました。また先の歌も機会を見つけて聴いてみたいと思います。

 さて、先述の『ひとりぼっちのあいつ』ですが、『ラバー・ソウル』というアルバムに入っています。

 『ひとりぼっちのあいつ(ノーウェアマン)』
 (歌詞 ジョン・レノン 訳 松田博仁)
彼は、どこにも行き場がないようだ。
空想の中に閉じこもり、誰のためでもない、あてのない計画にふけっている。
何をどう考えるわけでもなく、この先、自分がどこへ行くのかもわかっていない。
でも、かくいう僕やあなた方も、どこか彼に似ていると思いませんか。
行き場のない君よ、聞いて欲しい。君は大事なものを見失っている。
行き場のない君よ、今の君にとって、世界は意のままだと思うよ。
君は見たいものしか見ようとしないから。君には、この僕が見えてるかい。
行き場のない君よ、心配はいらない。あわてることは何もない。
きっと誰かが手をさしのべてくれる。
それまで君は、ただじっと待ってれば、それでいいのさ。

 解釈は聴く者の自由ですが、この時期にジョン・レノンは、引きこもり気味の青年の心情を唄っています。

 私の家庭は転勤族であり、私もその都度、転校していたのですが、いつも行く先々の土地に対して、何らかの悩みや不安を抱えていました。この作品は、そんな私にいつも、多くを語ってくれました。砂田さんも機会があったら、『ラバー・ソウル』を聴いてみてください。このアルバムには、ほかにも優れた作品がたくさん入っています。

 


10月2日B 松田⇒砂田
 ビートルズはイギリスの片田舎(リバプール)で突如として登場しました。彼らの作品は、ときにイギリスで50年代にも唄われていた『マザー・グース』を思い起こさせ、またロックンロールと黒人音楽の影響が顕著です。先の『アイ・ウォナ・ホールド・ユア・ハンド(抱きしめたい)』で、昭和39年にはすでにアメリカでデビューしています。
 時代の雰囲気もそうですが、音楽雑誌も含めて極東の日本には情報が少なかったという事情があったようです。当時の雑誌『ミュージックライフ』編集長の星加ルミ子が告白していますが、「最初にビートルズのサンプル盤を聴いたときは何とも思わなかった」、と言うのです。つまりプロの耳でも、ビートルズが日本でブレイクするとは思わなかったわけです。当時の日本の空気は、明らかに違っていたようです。

 昭和41年の来日騒動をピークにして、ビートルズは、少なくとも「当時の女性ミーハー・ファンには忘れられた」と、私は見ています。ビートルズが公演しなくなった時期、すなわち翌年の昭和42年からグループサウンズが出てきて初めて、遅れてきた日本版ビートルズ(あるいはローリング・ストーンズ)現象が生まれたと思います。最初はスパイダーズに始まり、タイガース、テンプターズが人気でした。中にはモロ、演歌をエレキで奏でるような奇怪なものも多かったと思いますけども、それが当時の日本の空気に合っていたかもしれません。

 「海」といえば、私の中では映画の影響もあると思いますが、加山雄三の『夜空の星』(「僕のいくところへついておいでよ 夜空にはあんなに星が光る」)とか、アメリカで始まったサーフィンブームとベンチャーズ、アストロノウツに代表されるエレキブームがあると思います。『夜空の星』の頃は、日本のエレキの神様、寺内タケシが加山雄三とタイアップし、エレキの「若大将」などと言われ、明るい日本を垣間見せています。

 またエレキブームとは別に、一人で海を渡る石原裕次郎の映画『太平洋ひとりぼっち』は印象的です。もう少し前には『狂った果実』がありましたけれども、その暗さは、『水の中のナイフ』というポーランド映画が、同じ匂いがします。もっとも「海」で先陣を切った映画は、『太陽がいっぱい』であるのは間違いありません。あのサントラは、映画を見てない人でもグッサリくる暗さがあります。

 「海」を明るく表現した音楽は、映画『南太平洋』ではなく、やはり湘南エレキサウンドでなかったかと。もっとも、サーフィンやエレキは世界的ブームで、同じ時期の映画を観ると、必ず同じ雰囲気がします。そして、確かに昭和45年前後に登場する「海」は荒れている感じがします。大島渚監督の『青春残酷物語』、つげ義春の漫画『ねじ式』が浮かんできたりします。

 私の小さい頃は、よく家族で、車で遠出しました。休日は多くの家庭がそうだったと思います。赤いスポーツカーに乗ってドライブしている、サングラスの若者たちが騒いでいて、カーラジオからはエレキやジャズが聞こえてきました。何となく、そのようにはしゃいで「海」に向かう明るい若者に、子どもの私は憧れていました。

 さて砂田さんが言われる通り、私は、いつも団塊の世代(全共闘世代)から遅れたように感じていました。大学に入っても学生運動はなく、新宿の西口で『友よ』を唄えるわけでもなく、時代はすっかり変わっていました。田中康夫の小説『なんとなくクリスタル』にはやるせなさを感じました。私は、安保世代も全共闘世代も勝手に一つに括って認識していましたから、そのような感覚は新しい発見です。


10月3日 砂田⇒松田
 『ラバー・ソウル』を、今、アマゾンで予約しました。数日で到着するでしょう。それにしても私は、ずいぶんと遅れていて、恥ずかしいくらいですが、聴かせていただきます。ビートルズの世界への誘(いざな)い、ありがとうございます。
 また、歌詞のご紹介もありがとうございます。「行き場がない」という感覚は、私はこれまで何回も、そんな状況におかれています。そのうち、18歳〜28歳くらいのお話をするつもりですが、その青年時代に、私は「行き場がない」という感覚を何回か味わっています。
 そんな私にとって、「心配はいらない」「きっと誰かが手を差し伸べてくれる」というフレーズは、今でも心を打ちます。今は、行き場がなくても、前向きに行き場を探すようなことはなくなっていますが。

10月5日 砂田⇒松田
 先日、加山雄三がテレビに出ていましたが、今でも、クルージングの船を何台も買い換えて、楽しんでいるようです。彼の歌には、「夜空に輝く星」がよく出てきますね。そして一つの世界があります。それがすたれない理由でしょう。
 『太陽がいっぱい』の映画は、私も観ています。アラン・ドロンがよい味を出していますよね。「海」から船が引き上げられるラスト・シーンは、素晴らしいものでした。最後に犯人であることが白日の下にさらされるという筋書きですが、太陽の光に満ちた、きれいな「海」が印象的です。

 ビートルズの『ラバー・ソウル』が、アマゾンから届きました。昨日から2度聴きました。もちろん、楽しいひとときでした。その中の『ミッシェル』と『ガール』は知っていました。やはり良いですね。彼らの何のてらいもない、自然なメロディや演奏ぶりが、なんとも印象的でした。

 話の角度が変わりますが、私は松田さんと1年3カ月くらい一緒に、テキスト執筆の仕事をしたわけですが、松田さんの文章に感心したことがあります。私のほうが、文章を書いた経験も多いし、上手い、下手で言えば、私のほうが数段、上手いのかもしれません。しかし松田さんの文章は、すごくストレートに、自然に、心情とか意見を書いています。そこに感心しました。
 例えば松田さんは、「好きです」「嫌いです」とか、「良いです」「悪いです」というように、ストレートに、端的に、自分の心情や意見をぶつけることができます。そのほうが、書き手の心情が読み手に伝わるのです。私のほうは、書きながら、そのことが「良いのか」「悪いのか」とか、「正しいのか」「間違っているのか」とか、その善悪を考えてしまっています。だから、私の文章は、回りくどく、小手先で飾ってしまうのです。ライターと称している私には、そういう意味で、松田さんの文章がとても勉強になりました。
 それで、ビートルズの「ラバー・ソウル」を聞いたときに、同じような感想をもったのです。当時のイギリスの若者の心情を、素直に、ストレートに、自然に、表現し得ていることに、とても感心しました。そこで私は、松田さんの文章の長所は、ビートルズをはじめ多くの音楽に接してきた、その音楽体験の積み重ねから得たものではないか、と考えました。もう少し、松田さんのビートルズ体験を語っていただけますか。


10月5日 松田⇒砂田
 私の拙文を評価して頂けたことは光栄ですが、過大評価とも思え、恐縮の至りです。単に素人ならではの、無防備で、青臭い文章と思ってください。確かにある意味、ジョン・レノンなどの影響はあるかもしれませんが、おそらくは、海外の、特にアメリカのライターの影響と思います。
 加山雄三は、ビートルズが昭和41年6月から7月にかけて来日した時に、彼らと面会できた貴重な日本人の一人です。宿泊先(当時のヒルトンホテル)に出向いて一緒にすき焼きを食べ、自分のレコードを聴いてもらったそうです。もちろん彼らがその後、加山氏のレコードに影響された痕跡はありませんが(笑)。
 当時の世論は、ビートルズ来日に批判的だったようです。公演の主催は、中部日本放送など数社でした。実は私の父が名古屋の新聞社にいて、その社宅の向かいが警察署だったのです。新聞記者のサツマワリでいろいろ聞いていたと思うのですが、「機動隊まで出したビートルズの公演警備は異常だ」、と言っていました。長髪で、騒音を出すような連中は来なくてよいと、えらく同調して怒っていました。
 また、JAL便から降りてくる彼らの映像がテレビ・ニュースで何度も流され、当時幼稚園児だった私からは、宇宙人のように見えました。一般庶民にとっては、フーリガン並みの騒動に見られたようです。砂田さんのお住まいのある早稲田界隈は、騒々しくなかったですか。

10月6日 砂田⇒松田
 ビートルズ来日は、昭和41年なのですね。私が高校2年生のときになります。私は、テレビでそのニュースを見た記憶があります。飛行機のタラップから降りてくるビートルズの姿を、かなりよく覚えています。それを迎える少女たちの熱狂振りも映っていました。当時、私の家の周りが騒然としたということはありません。警備がものすごいというのも、テレビ・ニュースで知りました。
 松田さんのお父さんが新聞記者をおやりになっていて、その異常な警備ぶりに怒っていらっしゃったという、微笑ましい話がありましたが、日本の庶民の受け止め方もまた、かなり冷たかったようです。イギリスから若者愚連隊が来た、日本の若者の熱狂振りは尋常でない、というように受け取ったはずです。何しろ、漫画を読むのも不良扱いされる時代ですから、ビートルズがまともに受け取られるはずはなかったでしょう。
 私自身は、批判がましい気持ちは少しもなかったのですが、逆に、来日を歓迎したということもありません。ただ、「ああ、ビートルズという音楽グループが来日したな」という、軽い受け止め方でした。

10月6日 松田⇒砂田
 ビートルズの来日時は、今お手元にある『ラバー・ソウル』が最新アルバムで、『ペーパー・バック・ライター』(「どうか私の本を買ってください」というユニークな詞です)が、最新シングルでした。そのため、武道館では、『ペーパー・バック・ライター』のほかに、『ラバー・ソウル』のアルバムから、『一人ぼっちのあいつ』『恋をするなら』を演奏しています。

 ちょうど私が高校の時(昭和55年)、テレビでビートルズ特番がありまして、初日のコンサートの模様が放映されました。しかしこのライブは、やる気のない演奏のように感じられ、ガッカリした記憶があります。この初日(6月30日)ライブは、何度も再放送され、おかげで「ビートルズのライブは最低だ」という悪評が広がってしまいました。これは日本だけで公式にソフト化され、レンタルビデオ店で容易に借りられますが、お勧めできません。
 演奏がひどいと言われた理由は、いくつかあります。「時差ぼけ」「ライブに対する熱が冷めていた」、また私の新説ですが、「ロックをサイケに演奏しようとして失敗した」という実験説です。当時は実験的なアルバム『リボルバー』を完成させていましたから、何か別のアプローチをしたかったのではないかと。しかし、当時の機材ではそれは無理であり、理解できた人はいなかったと思うのです。それはともかく、来日時にテレビ放送された二日目(昭和41年7月1日昼の部)のコンサートは、初日よりはなかなか良いのですが、再放送はなく、既存のビデオにも一部しか入っていません。これは残念なことです。

 『ラバー・ソウル』は、多くのアーチストに影響を与えたアルバムです。私も、何度聴いたか分かりません。彼らの音楽は、繰り返し聴くことで噛めば噛むほど味が出るような感じで、その偉大さが分かります。
 またビートルズの音楽は、アルバムによってまったく異なった印象を受けます。解散が迫ってきた頃、『レット・イット・ビー』では「なすがままにまかせよ」と唄い、『ア・ハード・デイズ・ナイト』では、「今日も犬のように働いた」と唄っています。『ヘルプ』では、人生から助けを求める心情を唄っていると言われています。こうして見ると、ビートルズの音楽世界は多様で、その全貌はとても語り尽くせません。ビートルズついては、随時、触れたいと思います。


10月6日A 松田⇒砂田
 しばらく時間をおいて思い出していました。
 ビートルズが出てきた当時は、私はあまりに幼く、時間の経過する中で、しばらくビートルズのことは忘れていました。なぜなら、その時代だけの流行りものだろう、と勝手に思ったのです。おそらく当時ビートルズを聴いたことがなかった人の誰もが、そう思っていたはずです。
 例えば、小学2年(昭和45年)の頃でした。クラスの女の子たちが、「ビートルズが正式に解散したらしい」と話していたのです。テレビ怪獣や万博ブームに浮かれていた私には、それがどんなに重大なことなのか、想像できませんでした。
 その後昭和49年、小学6年の運動会で、バックに、すごくキャッチーな音が流れました。それが『オール・マイ・ラビング』だと気づいたのは、中学1年のバス旅行の帰路でした。

 話は、翌年の昭和50年に跳びます。「あの時かかっていたのはビートルズ?」とクラスの女の子に聞いたら、「そうだけど」とのことでした。ただし、そのことを本当に確信したのは、それからさらに2年先の昭和52年です。私がビートルズのレコードを買い、本格的に意識して聴いたのが中学3年の頃だからです。そのときはとにかく、今まで気になっていたものがやっと聴けた、という安心感に浸りました。

 私にとって、小学校から中学校2年までの、音楽の授業は退屈でした。教科書に出ている音楽にはなじめず、笛吹きのテスト練習でうまくやれないで先生から怒られました。音「楽」どころか音「苦」だったのです。その頃にビートルズを聴いていたら、音楽をどんなに好きになれたかと、今でも悔しい気持ちになります。



  松田さんのビートルズ体験には圧倒されます。松田さんに負けないように、自分の音楽体験をもっと語りたいとも思うのですが、この後も、松田さんの音楽ワールドが多く展開されます。ご期待ください。

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