松田博仁さんとの音楽談義 第4回

10月7日@ 砂田⇒松田
 昨日、たまたまテレビを見ていたら、オリコンの話が出てきました。そのヒットチャートが始まったのが昭和43年だそうです。私が一浪して、大学に入った年です。当時、私は歌謡曲ばかりを聴いていたのですが、時代的にも、歌謡曲は全盛期だったと思います。
 そのオリコンで、最初ではないのですが、5週連続1位を続けていたのが、『帰ってきたヨッパライ』だったそうです。「おらは死んじまっただ」という、なんともやけっぱちな歌です。この曲は、今でも記憶に残っていますから、何度も聴いて、その不思議な雰囲気に同調していたのでしょうが、あまり好きな音楽ではありません。
 昭和43年当時、私が好きだった歌に、布施明の『恋』があります。その年の紅白歌合戦で唄われています。今でもほとんど暗唱できるくらいですから、よっぽど好きだったようです。今もカラオケでときどき唄います。

『恋』(作詞・作曲 平尾昌晃 補助作詞 水島哲)
 恋というものは 不思議なものなんだ

 逢っているときは なんともないが
 さよならすると 涙がこぼれちゃう
 逢うたびにうれしくて
 逢えばまたさびしくて
 逢わなけりゃ悲しくて
 逢わずにいられない
 それと言うのも君のためだよ
 ぼくのこの胸も恋にふるえてる

 逢えばそれだけで 楽しいくせに
 わかれたあとの 涙がつらいのさ
 逢うたびにうれしくて
 逢えばまたせつなくて
 逢えなけりゃ悲しくて
 逢わずにいられない
 そんな恋だけど君が好きだよ
 ぼくは君だけを愛しつづけたい
 ぼくは君だけを愛しつづけたい

 ロカビリー歌手として名をはせていた平尾昌晃が、転身して、歌作りをするようになった、その初期の曲です。それは、意外な転身でした。
 実生活ではこんな「恋」をするわけではないのですが、青年になりかけの私には、「恋」の危うさを表現していて、聴いたり、口ずさんだりしていました。「恋ってこんなものかもしれないな」「こんな気持ちかもしれないな」ということを感じさせてくれました。

 一方、松田さんに勧められた『ラバー・ソウル』を聞き、また『恋』という歌を私が好きだということで、もう一つ考えたことがあります。それらに流れているのは、「青年の傷つきやすさ」「青年の危うさ」だと思います。私たちは、いつの年代でも、自分の心情に合う音楽を探しています。特に青年期はどこかで夢中に探していました。それはなぜかと考えると、「青年期の傷つきやすさ」がそうさせているのではないかと思います。そのことを、ビートルズは『ラバー・ソウル』の初期のアルバムで、とてもよく表現しています。

 松田さんの音楽体験は、ほかにどのようなものがありますか。何か、具体的にありますか。とても好きだったとか、影響を受けたとか、若いときからのお話をもう少ししてもらいたいのです。


10月7日@ 松田⇒砂田
 ありがとうございました。その前に補足しておきたいのですが、前述のグループサウンズの作品は、一部を除き、作詞も作曲も、ほとんどプロの先生方によって作られています。例えばタイガースの曲は、「すぎやまこういち」のベストと言えるものです。そこがボブ・ディランやビートルズをはじめとするロックと違っていて、またグループサウンズに関心があったのは、主に女性と子供でした。大人の、男性は、その計算された商業的ビジネスに冷ややかだったと思います。

 また、フォークルセダーズの一発ヒット、『帰ってきたヨッパライ』ですが、遅いテンポで録音したものを、テープ・スピードを上げてレコード化されたものです。当時は珍しい音だったことが、大ヒットの原因だったと思います。子供だった私も、この歌ははっきり記憶しています。この歌を収めたアルバム『ハレンチ』は、マニア間で高額取引されており、日本の歌謡史における衝撃的な存在ですが、世界的名盤というわけではありません。

 平尾昌晃は、日本のプレスリーとしてデビューしました。「ささきいさお」もそうでした。少年少女の悲鳴や失神は世界的現象でしたが、これは、人によっては、対象はある程度、誰でもよかったのだと思います。そのためビートルズも、世間は同じように見ていたのでしょう。しかし、昔のロックをレコードだけでじっくり聴いた我々の世代は、この人たちは、「やはり偉大なバンドだったのだ」と、音楽的再評価をしたわけです。それはビートルズだけではなく、ローリング・ストーンズ、キンクス、ヤードバーズなど、切りがないほどです。

 前置きがずいぶんと長くなってしまいましたが、具体的な体験はたくさんあります。
 一番古いものは、昭和44年に跳びます。私が小学一年の頃です。私がテレビを観ていると、水や煙にまみれる建物が映っていました。母に「これ何?」と尋ねましたところ、「私たちの時代は、学校に行きたくても行けなかった。でも今の大学生は、親に学校に行かせてもらっておきながら、勉強もせずにこんなことをやっている」と答えてくれました。言うまでもなくそれは、東大紛争最期の安田講堂の攻防戦だったのです。
 荒れた安田講堂の攻防を、私はテレビを通じてリアルタイムで観ました。その時の母の説明は、幼い私にはたいへん分かりにくいものでしたが、「大学生がやるからには、それをやらなければならない事情があるに違いない」と、漠然と思いました。もし自分が大学に入れたら、「こういうことをしなければいけないのかな」とも思いました(笑)。 もちろん、その時にそう思っただけですが。

 私にとってあの映像と重なる歌があります。先にあげた、由紀さおりの『夜明けのスキャット』(昭和44年発売)と、その一年前に流行った、ザ・タイガースの『花の首飾り』(昭和42年発売、「花咲く娘たちは」ではじまる歌)です。前者は深夜の番組で、よく聴いた記憶があります(早寝できない子供だったようです)。というのも、私はよく父と一緒の布団に寝ていて、枕元には必ずトランジスタ・ラジオがあって、いろいろな歌謡曲が流れていました。そのときに聴いたから、そんな気がするのでしょう。

 しかし、安田講堂の映像には、どちらかというと『花の首飾り』のほうが合うような気がします。青年のピュアな敗北感というか、一つの時代が終わる虚しさ、寂しさをこの歌に感じるのです。また同じように、ザ・タイガースの『青い鳥』もそうです。学生運動はどこでも盛んで、警察と機動隊は大変だったわけで、そのものものしさは、当時の私にはお祭り騒ぎのように見えていました。これらの歌が耳に入ってくるたびに、当時の安田講堂の攻防戦を思い出してしまうのです。


10月7日A 砂田⇒松田
 全共闘時代を、名古屋にいて、小学校1年生の松田さんが見ていて、感じていらっしゃったことが語られ、たいへん興味深く聞かせていただきました。私のような世代の人間にとって、当時は渦中の大学生だったわけで、思い過ごすことのできない時代です。

 そのずっと前のことなのですが、もう一つだけお話させてください。それは小学生の高学年の頃です。昭和34年に第1回レコード大賞を取った水原弘の『黒い花びら』(作詞 永六輔 作曲 中村八大)にも懲りました。
 水原弘は、この歌と、『君こそわが命』という2曲しか歌わずに、若くしてこの世を去りました。高級クラブで大酒を飲んだ親分肌で、ちょっとデカダンスなところがあり、早世してしまいました。その一生については、村松友視が『黒いはなびら』という同名の小説で書いています。
 当時の私は、水原弘の唄う歌謡曲を、意味も分からずに口ずさんでいました。ほとんど暗唱できるくらいに唄うことができました。オマセな子どもだったのかもしれません。村松友視の小説を読んで、カラオケで唄ってみたのですが、ほとんど間違えることなく、唄うことができました。

 さて、私の大学入学は昭和43年、卒業は5年後の昭和48年です。もろに全共闘世代ということになります。松田さんがおっしゃるように、昭和44年には安田講堂が陥落します。 昭和45年に三島由紀夫が自決しています。その年は、70年安保闘争もありました。それから学園闘争は少しずつ退潮期に入っていく、そんな時代でした。当時の大学では、学生がストライキを打ったりして、授業はないことも多く、レポートを提出すれば単位をもらえる科目が多くありました。
 私は文学部の日本文学科に籍をおいていましたが、人形劇のサークル活動に熱中していました。そのため授業にも、闘争にも、熱心な学生ではありませんでした。デモには何回か参加しましたし、べ平連と一緒に新宿の西口広場で機動隊に追いかけられ、フォークソングを唄ったことはあります。
 人から見れば明るい人柄の学生だったのでしょうが、そうした自由な、解放された時代の雰囲気とは別に、主観的・個人的な心情としては、悶々として、かなり暗いものでした。あるいは、時代性というよりも、青年期特有の暗さだったかもしれません。


10月7日A 松田⇒砂田
 水原弘の『君こそわが命』は後で知りましたが、酒の飲み過ぎを原因とする、早世とは知りませんでした。村松友視の小説は読んでみたいと思います。

 さて、前に出てきた私の団塊世代の上司のことですが、当時、得意先だった病院の医師が同じ世代で、その先生から、「自分は大学時代、いかに悶々としていたか」という話を聞かされたそうです。アパートの隣の部屋には始終、人が出入りしていて、いつも楽しそうにフォークソングを歌っていて、それが辛かったというのです。仲間に入ればよいのにと思いますが、とにかく悶々としていた、とのことです。

 ここで、私とフォークソングの出会いですが、チェリッシュの『てんとう虫のサンバ』とか、かぐや姫の『神田川』を小学校の遠足のバスで、初めて知りました。いずれも昭和48年の歌です。中学では赤い鳥の『翼をください』を合唱で唄いました。これは昭和47年にデビューした歌です。
 チェリッシュを聴くと、初めてカップヌードルの自販機を見たときのことを思い出します。自販機は、お湯の出るやつです。そこで買っている人はあまり見なかったのですが、衝撃でした。なぜ箸ではなく、透明のプラスチックのフォークで食べる必要があるのか、何かすごく特別なモノに見えました。

 さて、当時はこれらの歌が好きだったわけですが、それは、フォークソングに親しむ序章でした。
 昭和56年の浪人時代に、私は何となくレコード屋で、井上陽水と吉田拓郎のカセット・テープを買いました。吉田拓郎のレコードは、2枚目のアルバム『人間なんて』(昭和46年発売)、井上陽水のほうは、『ベスト』(昭和55年頃の発売?、陽水の顔が蒼白く立っている、少し不気味なモノです)というアルバムでした。ここで初めて、大ヒットをとばした日本のフォークに出会ったのです。
 しかし残念ながら、すでにフォークブームはとうに去り、またもや後追い、「聴くだけファン」になってしまいます。でも吉田拓郎の『人間なんて』は、すごい名作だと思いました。ネガティブでもなく、ポジティブでもなく、無政府状態なところがよいのです。それが予備校に通っていた私には、ピッタリでした。このアルバムには、『わしらのフォーク村』という歌が入っていますが、こちらは、さすがに古いと感じました。
 そのとき以来、「良い音楽というものは、時間が経過しても、いつの時代にも聴くに耐える作品なのだ」と、思うようになりました。そのことを初めて考えさせられたアルバムでした。
 井上陽水にもはまりました。それまでは、「探し物はなんですか」ではじまる『夢の中へ』(昭和48年シングル発売)以外は聴いたことがなく、全てが新鮮に感じました。また大学時代に、『氷の世界』(昭和48年12月発売)というアルバムが良いと仲間から聞き、それはレンタルレコードを借りて、何回も聴きました。どの作品も素晴らしくて、感動しました。リアルタイムで聴いていない分、ここでも世代的な遅れを感じていたわけですが、私は、ロックと並行してフォークソングを聴き込みました。
 社会人になってからは、「つま恋」まで、吉田拓郎のコンサートを観るために行ったこともあります。しかしそのときは、残念ながら観客はどこかクールで、かつての熱い雰囲気は今一歩でした。これもまた時代の変化かと思いました。

 吉田拓郎は、ボブディランの影響をもろに受けていると思います。彼については、後日また触れたいと思います。


10月8日 砂田⇒松田
 私も井上陽水の歌である『夢の中へ』や『心もよう』(昭和48年発表)はよく聴きましたし、口ずさむように唄っていました。
 吉田拓郎は、『旅の宿』(昭和43年発売)、「浴衣の君は ススキのかんざし」ではじまる歌に親しみましたし、『結婚しようよ』(昭和42年発表)も聴きました。どっちかって言えば、井上陽水のほうが好きだったかもしれません。

 もうお気づきかもしれませんが、どんな歌手の歌にしろ、私は世間的に大ヒットした曲だけに親しんでいるようです。これは、これまでの人生に一貫していることで、アルバムを買って全体を聴き、その中から自分の好きな歌を探して、じっくりと聴くということをあまりしていません。中途半端な趣味にしかなっていないな、と思います。そういう意味では松田さんのほうが、アーチストと深い接し方をしていると思います。


10月9日 松田⇒砂田
 蛇足ですが、昨日は誕生日でした。今年はめでたくない誕生日ですが、こういうこともあるでしょう。

 さて、少し内容が前後してしまいますけれども、テレビ・ドラマ『横溝正史シリーズ』がブームになったのが、私の中学時代です。昭和50年代になって、角川グループが台頭してきて、『犬神家の一族』(原作 横溝正史 昭和51年・市川昆監督によって映画化)がブレイクしました。そして昭和52年にテレビシリーズが始まりました。そのエンディングに使われた歌が好きだったのです。茶木みやこの、『まぼろしの人』という歌です。この作品は、暗い感じの唄い方と、ピコピコしたキーボードの音が特徴です。

『まぼろしの人』
(作詞 寺山寿和 作曲 茶木みやこ)
 陽炎揺れる
 名もない駅に
 遠い汽笛のゆらめきが
 かすかな余韻を残す頃
 見上げた空には
 静けさが満ちていた
 なのにこの同じ空の下
 暗い思い出の残り火を
 吹き消すようにみじろいだ
 あの人はまぼろし
 だったのでしょうか

 たわむれ遊ぶ
 童のほほに
 優しいかげりを
 映す頃
 くれなずむ街には
 安らぎが満ちていた
 なのにこの同じ空の下
 辛い出来事の結末を
 呟くようにささやいた
 あの人はまぼろし
 だったのでしょうか

 私は中学3年でしたが、勉強する意欲がわかず、また友人を増やす意欲もわかず、うつ状態のようでした。そんなときに、この歌は私の波長にぴったり合っていました。茶木みやこについては、ピンク・ピクルスという京都のフォークデュオの一人だったことを、最近になって知りました。


10月10日@ 砂田⇒松田
 横溝シリーズは、私も映画やテレビ・ドラマをよく観ました。小説も読んでいます。探偵モノですが、怪奇的でもありますよね。何か、別世界のことが描かれていて、日本的な探偵モノの原点という感じです。
 でも、テレビのエンディングに『まぼろしの人』が唄われていたことは知りませんでした。今こうして松田さんが書いてくれた詞を読むと、とても良いですね。この詞を茶木みやこが、「暗い感じの唄い方」で唄い、「ピコピコしたキーボード」がリズムをとっているのですね。松田さんの話によって、ますます聴きたくなりました。
 ちょっと冗談ですけど、松田さんは、あの金田一耕助(横溝シリーズの主役である探偵)のイメージに似てないですか。長髪の髪型といい、長身で痩せ型といい、ちょっと似ている感じがします。金田一の眼力と聴力で、これからも音楽を探索してください(笑)。

 昭和52年というと、私が29歳の頃です。ある業界紙の会社に28歳で入って、駆け出しの記者をしていました。その時代は、私にとっては、音楽との付き合いが一番少なかった時期なのです。私たちの世代の29歳といえば、夢の実現にまい進していた明るさのある時期と思われがちですが、私の場合、ここでも暗い心情を持っていました。松田さんの中学3年生の頃と似ていますね。


10月10日 松田⇒砂田
 横溝正史の作品は、江戸川乱歩のモダンな感じとは違い、風情のある神秘的な地域が舞台で、また奇をてらったところが人気となったようです。実は私も少しだけ探偵に憧れた時期がありました。確かに金田一の影響はいろんな点であるかも知れません。なれるものなら、なってみたい気がします(笑)。
 「まぼろしの人」は茶木みやこのベスト盤などに入っています。これも持論なのですが、歌を作るとき、普段、気持ちがお気楽な人が作ると、マイナーで.暗い感じになりやすく、作者が暗さや辛さを、さらに一歩飛び越した瞬間に、明るい歌ができるのではないでしょうか。そんな感じを、私は持っています。

 中島みゆき、ユーミンも、私の大学のときに流行りました。昭和57年くらいからです。この頃私は、昔の洋楽にはまっており、邦楽はあまり聴いていませんでした。その範囲で言うと、中島みゆきの暗さはダメでした。ちょっと「念仏」のようにも感じられ、あまりなじめませんでした。ユーミンもこの頃にレンタルレコードで時々は聴きましたけども、当時のアナログ盤は音が悪く、途中で聴くのを辞めたという経緯があります。しかし今はリマスターCDで、良い音で聴けますし、中島みゆきも含めて、じっくり聴いてみたいなと思います。

 それから今、砂田さんにお送りするCDをたくさん用意しています。簡単な解説メモを書きましたので、聴いてみてください。たいへん勝手なのですが、これまで.どんな音楽を好んできたのか、今の私がどんな音楽に親しんでいるのか、が分かるようになっております。まず第一弾を、明日、お送りする予定です。この対談は、幅広い読者に読んでいただいておりますので、二人のそれぞれの音楽観にアプローチしやすいように、二人で活用できればと思います。


10月10日A 砂田⇒松田
 CDを送っていただけるとのこと。ありがたいことで、楽しみにしています。私のプレイヤーは安ものですから、松田さんの構成してくれた音楽を聴き、音楽をテーマにした対談をする以上、もう少し高いのを買わなくてはいけませんね(笑)。

 先日、70年前後の話がありましたが、少し思い出したことがあります。私がいた大学には、一号館という建物があるのですが、そこを全共闘が占拠していました。そこにサークルの同級生が「泊まり込みに入る」と言い出したのです。我々サークルの仲間は、彼が入ると言うのを「是とすべきか、非とすべきか」、喫茶店で議論をしたことがあります。そんな議論が成立するような時代でした。
 ただ、私は東京の人間ですから、泊まり込みをしようなんて言ったら、親が許すわけがありません。当時、磯田光一という評論家が、学生が闘争に参加していることに関して、「学割を使っている」という言い方をしました。闘争にシンパシーを感じていた私には、その言葉はこたえました。私は「社会人になってから、経済的にも自立してから、やりたいことを自由にやるようにしよう」と思っていました。ときどきデモにも参加しましたが、ぜんぜん熱が入らなかった理由の一つがそれでした。その一方で勉強もせず、人形劇の創作に埋没していました。

 20歳前後の私もまた、テレビの歌謡番組を観ることが楽しみでした。当時の歌謡界は、今考えれば最盛期、ブームと言っても良いかもしれません。『夜のヒットスタジオ』など、面白くて楽しみにしていたテレビ番組がありました。
 男性歌手では、布施明、沢田研二です。森進一とか、五木ひろしとか、前川清(「クールファイブ」の一員)、北島三郎とかになってきます。演歌ではそのあたりになります。でも、さすがに当時は、演歌を好むという感じではありませんでした。布施明や沢田研二を、特に注目していました。でも実を言うと、女性歌手がそれ以上に印象に残っています。歌手名を整理してから、いずれお話することにします。


10月11日@ 松田⇒砂田
 今日CDをお送りしました。解説メモも同封しましたので、それに沿って聞いていただければ幸いです。

 サークル仲間が、全共闘占拠の会館に入ることについて議論されたことは、ホットな事件でしたね。そういう議論が、当時はどこにでもあったように思います。私も「学割を使っている」という言い方は、誰かから聞いたことがあります。割と有名な話です。私たちの世代から見ると、彼らは社会人になってからは、社会と闘うどころか見事に順応していったように見えます。いずれにしても、全共闘とは一体何だったのか、その総括がいまだにされていないことに、疑問を感じてしまいます。

 そういえば、大学の人形劇サークルが舞台になった映画がありました。『神田川』というタイトルで、草刈正雄が主演でした。高校時代にテレビで観ました。
 また私も、布施明、沢田研二はよく観たり、聴いたりしていました。森進一、五木ひろし、前川清、北島三郎もそうです。当時の歌手では、『喝采』(昭和47年発売)を唄った「ちあきなおみ」ですが、大全集が出るとかで、ぜひ聴いてみたいと思っています。


10月11日 砂田⇒松田
 サークルの仲間との議論がわき起こったことは、松田さんも感じていらっしゃるように、少なからず、自由感、解放感があった当時の学園風景を現しています。これは私たちの世代の良いところだと思います。
 ただし、その一方で、悶々として暗い内面であったということも事実なのです。また、同世代として言いづらいのですが、否定的に考えざるを得ない面もあります。

 一つだけ言っておきたいのは、当時の縦看板によく書かれていたのですが、「自己否定」「自己批判」を迫る標語がありました。これは、最悪のスローガンだったと考えています。「造反有理」とかは元気があっていいのですが、「自己否定」とか、「自己批判」というのはいけません。
 「自己否定」というのは、例えば、東大生自身が、東大は国家の官僚構造に寄与する大学であり、東大生である自己を否定して、東大解体を目指す、多分、当初はそういうことだったと思います。そこまではよかったのです。ところが言葉が独り歩きしだして、文字通り「自己を否定する」ということになっていったように感じます。私だけかもしれませんが、そんな感じがします。
 「お前は自己を否定しろ」「自己批判しろ」と、言うほうは、自己を棚に上げて追及していました。当時、あさま山荘事件(昭和42年)や企業爆破事件(昭和44年)など、突出した事件の行動論理には、そんな「自己否定」があったと思います。私自身も、こうした「自己否定の論理」から抜け出せたのは、ここ10年くらいだと思います。今は、もう少し、自己を肯定的に、ポジティブに考えてみようという感じです。

 それで、松田さんが観た映画『神田川』は、松田さんもご存知でしょうが、かぐや姫の南こうせつが歌った『神田川』(昭和48年 作詞 作詞 喜多条忠 作曲 南こうせつ)が原作です。喜多条忠という作詞家は、私と同世代です。「貴男はもう忘れたかしら 赤い手拭いマフラーにして 二人で行った横丁の風呂屋」という歌詞は、当時の雰囲気をよく伝えています。
 「若かったあの頃、何もこわくなかった ただ、貴男のやさしさがこわかった」で、歌は終わります。この神田川という川は、高田馬場の北側を流れている細い川のことです。当時の人間風景がとてもよく現れているのですが、しかし私なんかには、ちょっと出来すぎという感じがあります。「そんなに優しい人がたくさんいたかな」と、皮肉を言いたくなるところがあります。
 映画は、『妹』のほうだけしか観ていないと思いますが、どちらもそんなにヒットしたわけではありません。歌のほうが、まだしも良いと思います。
 私も『神田川』を気持ちよく聴いており、批判がましいことは言えないのですが、私たちの内面は、「かなり幼いもの、簡単に分析できるようなもの」だったと、今の私には思えます。そのため、『神田川』の歌も、カラオケではほとんど歌いません。「若気の至り」ということが多くあった大学時代を思い出して、恥ずかしくなってしまうのです。

 松田さんたちは、ご自分たちはどのような世代だとお考えですか。よろしかったらお話ください。


10月11日A 松田⇒砂田
 あの頃の自由感とか解放感は、私たちの世代にはうらやましいものです。

 また、「自己否定」とは、本当に嫌な言葉ですね。まさに、自己を棚に上げ、都合の悪いときにだけ弱い人間を追及する。そのような低レベル組織が、いかにも好んで使いたがるスローガンです。そういう軍隊のような組織では、音楽を聴くことも、唄うことも許されず、制限されるように思います。
 あさま山荘事件は、小学4年の頃、当時誰でもがそうであったように、テレビ中継を見ていました。最悪の事件だったと思います。あれは、当時の学生も「マズイ」と思ったでしょう。またこの事件には、先の安田講堂のときとは違い、音楽がイメージできないのです。話がそれますが、あのときに機動隊の体力を救ったのは、カップヌードルだったそうです。

 南こうせつの『神田川』は、確かにうまく、当時の雰囲気を伝えています。私が聴いたのは中学生でした。まず曲が良かったことと、「そんな青春もよいな」という、大学生以外の人にうけていたようです。私自身が心に響いたという記憶はありません。ただ、「そういう青春もありかもしれないな」と、思った程度です。
 ちなみに平成5年にサイモン&ガーファンクルが来日し、東京ドームで公演がありました。その前座が南こうせつで、お決まりの『神田川』を唄いました。来場者には当然、久々の再結成サイモン&ガーファンクルが本命なわけで、南こうせつの『神田川』のほうは、あまり盛り上がりませんでした。私は、そのときに録音したテープを持っていたのですが、残念ながら、当時の友人に貸して以来、いまだに戻ってきていません。

 私の大学生時代は、閉塞されたあきらめ感、夢は描けず、「こんなことして何になるのか」という、つましい感じがしていました。私たちの学生時代は、山田太一の『ふぞろいの林檎たち』(1980年代にTBS系で放送されたテレビ・ドラマ)が、ブレイクしていました。私たちの世代の時代背景を描いた代表的な作品です。
 バブルの予兆は、まだみじんもなく、フアッションも地味でした。また、お互いに明るくふるまうことが強要され、何か空回りしている虚しさがありました。ほとんどの人が、おとなしくて、議論をすることもなく、突飛な行動は無視されるような時代でした。逆に、現在の学生のように、1年生から就職一直線でまい進しなければいけない焦りも、あまり感じていない世代でした。
 砂田さんの世代に対しては、「燃えるモノがたくさんあり、うらやましい時代に生きた人たち」という印象を持っています。
 個人主義に傾注してしまい、連帯を欠いた私たちの学生時代は、学園祭でお祭り気分を味わうとか、シラケた普通の女子大生と合コンするとか、レンタルビデオの新作に期待するとか、中古レコードや古本屋めぐりとか、そんな感じでした。しかしそれらについて、非常に形骸化していると感じていた私は、まるで冷めたホットケーキのように、漠たる日常を過ごしていたのです。その一方で、目前の勉強は、しっかりとやっていました。


10月12日 砂田⇒松田
 CDの束が着きました。今、松田さんの構成してくれた順番で聴いています。ありがとうございました。それについては後日、対談の中で話していくことにしましょう。

 ここでは、二人の会話は世代論に偏っています。青春期のことであり、二人にとって見過ごせない、それぞれの時代です。そしていつの時代にも、私たちのそばに音楽がありました。さて、ついに松田さんからCDの束が送られてきました。それは、松田さんの音楽ワールドそのものでした。

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