名前 2 食べ過ぎた。はっきり言って気持ちが悪い。 食事を作ってくれる御婦人には悪いのだが、あの量はどうにかならないものか。基本のセットがあって、足りない分は各自で、の形式は胃袋の大きい者には好まれる形式だろう。ただしその逆にはつらいものがあり、過分は食べ残すか友人に協力を乞うしかない。自分の胃の容量にはあの基本一揃えすら手に余る。 そう最後のグレープフルーツ、あれを食べるんじゃなかった 胃の容積を考えれば、まだ油にまみれた海老の方が負担は低かったのに。もたれるけれど。 残飯入れに放り込むことを許してくれなかった友人に文句を言ってやろう、とベッドから身を起こした。友人の姿を求めると、意外に真摯な視線とかちあって戸惑った。 「―――――なあ、ロイ」 深刻そうな声に、自分が同室者を問い詰めていた先刻を思い出した。 普段の軽妙、悪く言えば八方美人風の取り付きやすい風体と違う、真剣な表情に思わず居住まいを正す。重たげに開かれる唇を追って――――― 「ちょっと俺のこと呼んでみてくれねえか」 「―――――・・・・は?」 なんだソレは? なんなんだ?? 「・・・呼ぶって、何を?」 愚問であるとわかっちゃいるが、聞かずにはおれない。 「俺」というのだから、その同室の友人の名前を呼べ、とのことだろう。 「ナニって、名前」 うるさい、わかったから 「マース、ヒューズ?」 なんで自分は友人の名前の語尾に疑問詞をつけているのだか。 にしても深刻な顔をして何を言い出すかと思えば。 訳がわからん シカトこいてやろうかと一気に気分を急降下させた。 「あー、違っていつもみたく呼んでくれ」 「・・ヒューズ、・・?・・」 仕様がなく、付き合ってやった。これでいいのだろうか。 「やっぱ『ヒューズ』かー」 こちらは訳がわからない、という顔をしているのに綺麗に無視してぶちぶち自分の世界にこもるし。いい加減付き合っていられない。 いまだ苦痛を感じる消化器官をだましだまし、寝台に投げ出した本に手を伸ばそうとした。 「なあ、なんでヒューズなんだ?」 「は?」 『ヒューズ』は『ヒューズ』だろう、そのどこに疑念をねじ込む余地があるというのか。新手の言葉遊びか? 友人の思考の飛躍、いやその道筋をたどれずに気の抜けた声を漏らしてしまった。 「セディクは『マース』って俺のこと呼ぶじゃん」 彼が問題としているのは、ファーストネームで呼ぶかファミリーネームでか、ということのようだ。 隣室の居住者であるセディク・カルローはヒューズをファーストネームで呼ぶ。 「よくわからんが・・ライエットは『ヒューズ』と呼んでるだろう」 そしてセディクの同室者のジーン・ライエットは、ファミリーネームで呼んでいる。どちらかといえば、ファミリーネームを用いる方が多数派だと思われた。 「ああ、でもアヴィセントのヤツは『マース』呼びだな」 途端に、角縁の眼鏡をひっかけた顔が妙に反応を示した。 いったい今の一言のどこに彼はこのような如実な反応をみせたのか。 『マース』という言葉?違う気がする、なにか自分の口調に気に入らないところでもあったか。 もしかして『アヴィセント』という人名に呼応したのかもしれない。だとしたら余計にロイの脳内に「?」の疑問詞が行き交うことになる。 今度は「なぜ友人は『アヴィセント』に反応したのか」の議題が生まれるからだ。 実はヒューズはアヴィセントが嫌いだった―――なーんて阿呆な話もあるまい。 アヴィセントはこの士官学校において敵の少ない人間である。やもすれば人付き合いにマメなヒューズ以上に。「彼が好きか嫌いか」の二択を突きつけられて寸部の迷い無く「嫌い」を採る学生はほとんどいるまい。 「動物」「野生生命体」と評されるだけあって、運動に関しては並みはずれた動きを見せる。「頭が弱そうなところが嫌だ」とかいう輩もいるが、あれでなかなかやるもので欠点はとったことが無い。 などなど友人のデータを頭から引き出していたロイだが、結局ヒューズのしかめっ面に答えをつけられない。 「何か俺は妙なことを言ったか?」 なぜこんなに自分が低姿勢なのかわからないが、とりあえず聞いてみた。 「あのさあ、なんでアヴィセントは『アヴィセント』で、俺は『ヒューズ』なワケ?」 軽く混乱した。本当にこの男は何を主張したいのか。要領を得ないのはこちらで、つまり自分が馬鹿なのか。 しばしの沈黙。 ヒューズがふざけているのでも、からかっているのでもない、とその凹レンズを通した視線でわかる。しかしそこまでまっすぐに視線を向けられるのもやりにくいもので、ヒューズの白いシャツやら腰掛けた椅子の背やらに目のやりどころを探しつつ、それでも考えをまとめようと努力した。 頭の回転が良い友人の混乱を見かねたのか、待つという行為ができないほど性急に答えを求めていたのか、 「なんでさ、俺のこと『マース』じゃなくて『ヒューズ』って呼ぶんだろってさ・・・」 「ああ、納得」と混乱の迷路から脱出できた明晰感を味わう時間もそこそこに。 ふつふつと怒りが煮えたぎった。 (はあっ?たった、それだけのことで!?) ふざけるな、と怒鳴ってやる気でいた。けれど、その勢いを削がれた。 「俺さあ、おまえのこと『ロイ』って呼ぶじゃん?なのに俺の方はファミリーの『ヒューズ』なままなんだなあって」 教師陣に対してや、場合によっては『マスタング』を使うが、日常は『ロイ』の一本で統一している。そのことをいつもつるんでいるロイ自身よくよく知っている。 それでもヒューズが今見せているこだわりが、ロイにはいまいち像を結んでこないのだった。 「なんだ?ヒューズでは駄目なのか?」 「いや、だめっつうわけでもないんだが・・・」 今日の同室者は非常に歯切れが悪い。 つられるように、短気な片割れも苛立ちより困惑が勝って、辛口の毒舌も鳴りを潜めてしまう。 再びの沈黙。よくしゃべるヒューズも常時口を動かしているわけでないから、沈黙も珍しくない。 必死で話題を探して会話を続けていないと不安であり、そうでもしていないと周囲から「寂しい人間」と見られるかもしれない。そんなよくある「沈黙が少ないことが、相手との距離の短さ」という世間に氾濫する間違った認識に捕らわれることもない。 だから時に流れる静かな時間は、時計の秒針が刻む規則正しい音の中に相手の挙動の音を拾う、一つの心地よさがあった。 だがこの沈黙は、どうにも居心地が悪い。 「なあ、ロイ」 ちょっと俺のこと『マース』って呼んでみてくれよ。 それで彼の気が済むなら良いと思って、自分で考えることを放棄して要求に従った。 ヒューズはロイの声で囁かれたファーストネームの音韻をたどるように、椅子の背を抱えて足元に視線を落とした。 「――――ロイ、」 無意識のうちに本の背表紙をなぞっていた指を止めた。その間、目線は友人の姿の上に常に置いている。 「少しの間、『マース』って呼んでみてくんない?」 「・・・なぜ?」 最も回答の欲しい問いかけに、適切な答えは返らなかった。 「別に一ヶ月ずっと呼べっつうんじゃなくて、明日一日でいいから」 彼の真意が測れないまま、真剣な表情に押されて思わず首を上下させてしまった。 ―――――わかった マース、と呼んだらいいんだな そのままぎこちない雰囲気の中、両人それぞれの作業に分かれたが。 なんだろう。ヒューズの考えていることが気にかかる。 自分は、他人の感情に敏感でない、豪語することでないが疎すぎるほどだ。戦略で相手の思考を先取りしたり、挑発して自分のテリトリーに引き出したり、という方面は秀でているのに、対人関係においては途端に機能麻痺に陥る。 ヒューズは何かを気にしている。『呼び名』にかこつけて、それにかかる何か。 彼がここ何日かに、何かに気を取られているのは知っていた。その何かが、疎い自分には掴めなくてやきもきしていた。先ほどのやりときで、ヒューズが隠そうとしていた『何か』が発露したと思う。なのに自分は不器用にも取りこぼした。こういうとき、自分の鈍さにたとえようもなく自己嫌悪し、一抹の哀しさに吐息をこぼす。 ヒューズが感じているのは――――不満? 否、違う、と。噛み合わないものを感じる。 それよりむしろ、 ――――『不安』。 何かが形になった、そんな気がする。 けれどまだ掴めない。遠い。 |
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