第8章 自己とは何か
真実の自己とは何か。これは、禅が追求するテーマでもありますから、難しい問題です。
言葉の定義として真実の自己を「自己」、それ以外のごく普通の自分を示す言葉を「自分」
として話を進めましょう。
前回お話したように、自分とは脳内物質に影響を受けた脳が認識する自己意識です。
これは、生存本能が意識する自己とも言えます。
それに対して、自己というのは、生存本能に影響されない自己意識です。したがって、自己とは
さまざまな感情(好き、嫌い、怒り、ねたみ、そしりなど)に影響されないものです。
そういった自分と自己を見分けるには、どうしたら良いでしょうか。我々はまず、物事を認識したあと、 脳内物質が分泌され、ざまざまな種類の感情が脳内に広がります。これは、生存を目的とする ためにはやむを得ないことでしょう。特に問題となるのは、自己防衛本能に基づく「怒り、欲望」などの感情 です。この感情のもとに認識された「自分」は、全く真実の「自己」とは関係のない行動に出ることが 多くあります。取り返しのつかない行動に走ってしまうこともあります。いわゆる「魔が差した」と言われる ことです。したがって我々はまず、脳内物質によってどのような感情が脳内に生じているのか、冷静に 判断する必要があります。
これは、よく自己観察をしていれば、わかるようになります。例えば何かの事象に出会い、脳内物質が 分泌された、という事は何となくわかるものです。それは、脳内にパッと広がる感情、これを自己観察 すればわかるはずです。その感情を発生させたものが他でもない、脳内物質ですから。次にこのように 広がった感情が生存本能のうち、何を示しているのかを考えます。「怒り」であれば、防衛本能ですから 何から自分を防衛しようとしているのか、を考えるのです。もちろん、本当に自己防衛上必要な怒りで あり、実際防御体制をとる必要がある場合もあるでしょう。しかし、ほとんどの場合そういうことではなく、 単なる自己中心的な怒りであることが多いはずです。
次に、その感情をすぐに解き放つようにします。脳内物質が発生させている感情ですから、これは誰でも 可能です。この訓練をするのが「坐禅」です。坐禅では、色々な思いがわきあがってくるのを、すぐに 解き放つように、つまり無心になるように訓練するわけです。そうして、その感情が無くなって正常な 判断ができるようになる主体が「自己」ということです。
禅が目指すところは、「無我・無心」に尽きます。無我になってしまえば、そこには自然に真実の自己 が浮上してくるからです。しかし我々凡人は、どうしても利己的な自分が本来の自分の姿だと思い、 それに拘泥して、毎日悪戦苦闘を強いられることになります。少しでも他人より幸福な暮らしをしたい と思うでしょう。そういう防衛本能にひきづられた生活をしていると、何事に対しても「おびえがち」に なります。何事にも構えてしまい、何をやろうにもおじけづいてしまうのです。こうなると、毎日が 疲弊しているので、人生苦が如実に現れてくるわけです。禅では、それらをすべて幻影だとして、 利己的な自分に踊らされないよう戒めています。
無我という観点から言えば、自分と他人も二つであり、二つでは無いことになります。つまり、認識世界
の中では自分も他人も二つにはもちろん見えるのですが、同じ自己の認識世界に存在していることになり、
大きな視点でとらえれば、自分も他人も同じ生命世界を生きていることになるのです。
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