01/4/1 UP 以後追加編集
「広島」という地名の由来
築城前の太田川河口の三角州は、五箇村などと呼ばれていました。「広島」という地名の由来については、
@ 自然の地形を表現する「広い島」という意味。
A 毛利氏の租・大江広元の「広」と、城地選定の案内役をつとめた福島元長の「島」を合わせて、「広島」と命名した。
B 築城以前から現地の人々が用いていた地名。など諸説あり、はっきりしたことはわかっていません。
広島の地名由来記
袋町
戒善寺跡地は山号由来の大黒天の袋をとって「袋町」と命名された(戒善寺縁起より)旧町名・広島西魚屋
立町
広島市内を北から南に流れる太田川の流れなどを基に、タテ、ヨコの街区つくったことから。立町(縦町)という町名は今でも残っている。
本通
広島一の商店街。旧町名の銘板が歩道上に設置。東から「平田屋町」「播磨屋町」「革屋町」「東横町」「西横町」の五つの町に分かれていた。昭和40年に、「五つの町がひとつになって、広島のお買物のメインストリートとして盛り上げていこう!」ということで、本通という名前になったのです。
富士見町
瀬戸内海に浮かぶ似島(安芸小富士)を眺める。町名の由来となった展望がビルや高層マンションに遮られるようになって久しい。一番美しい眺め。
白島
広島城下建設のときに、太田川から流れ出る砂が堆積して「箱島」と呼ばれるようになったことから。
後に「箔島」に、さらに浅野藩主になってから「白島」になり、武家屋敷町ができたのです。
白島九軒町
江戸時代初期に家が九軒あったのが町名の由来とされる。
高取
北の荒谷山、南の武田山と火山の間を流れる安川に沿って広がる「高取」。
浅野の殿様が鷹(タカ)を取りにきたことに由来します。
古代山陽道が通う古の時代から人々の営みが盛んだった土地柄。
新興団地群の中に古い歴史を抱いています。
祇園
祇園2丁目にある「安神社」。スサノヲノミコトを祀っていて、この地名に由来しているといわれています。祇園という地名は日本各地に点在しています。スサノヲノミコトが祀ってある京都の八坂神社は、
明治維新の神仏分離までは「祇園社」と呼ばれていました。
加古町
江戸時代武士が軍役のため常備した船の船頭を水主(かこ)と呼んだ。
大勢住んでいたことが地名の由来らしい。
五日市
中世の定期市にちなむ(五日市町誌)。
寛永15年地詰帳に「いつがつぼ」の地名が見え、条理関連地名とする節がある(同前)。
「和名抄」の大町郷を当地とする説もある(地名辞書)。
横川
横川は太田川本流から分かれて西に向かう流路の名でもあり、これが地名になったものと思われる。
中広町
昭和8年広島市の町名大改正のとき新しくできた町名。旧地名の中郷と広瀬の頭文字をとって中広となった。
紙屋町
天正19年(1591)伊予国から住した伊予屋九郎右衛門という人がこの地で紙商を始めたことによる(知新集)また、紙屋何某という屋号から来たともいう。
胡町
堀川町の北側に平行して通る横町。町名について「地新集」は
「慶長八年福島殿時代、胡堂(現胡神社)西十日市より此ところへ引うつし、はしめて胡町と名つく、古名市の町というは其前より此処にて市立しけゆゑなり」と記している。
光町
昭和39年から現在の町名。昭和45年からは1〜2丁目がある。もとは広島市長尾町、若草町の各一部。同45年山根町の一部を編入。町名の由来は不詳。光かがやく町の意か。
海老園
昭和46年〜現在の町名。はじめ五日市町、昭和60年からは佐伯区の大字。地名の由来は海老山の下に位置することによるという(芸藩通志)。
井口
江戸初期は「井口あせば村」と称した。村内を西国街道が通り、難所とされた小己斐峠には一里塚があった。干潮時にはこれを避けて海岸の干潟を通るルートも使われ、都志見往来日記には「折りしも潮干落ち浜伝ひに通る程に子乞の山海にそばたち厳島つくねの島々の海上に浮び風景いわんかたなし」と記す。
広島方面からみると鈴ケ峰が広島湾を抱くように形をしており「猪の口」に似ているということ。また隣接する古江の入口、つまり「江の口」がなまったものといわれる。
大手町
旧広島城大手門より南に延びる筋に沿う南北に長い町。町名は大手門前に位置することから名づけられた。藩政時代は、白神組と呼ばれていた。
堀川町
広島城築城の時、石材木材搬入のため開削された平田屋川近辺に初めて町屋が建てられ、堀川新町と呼ばれたことに始まる(知新集)
吉島
古くは葦島と書いた。地名の由来は、葦の茂った中州の意か。羽衣町は、もとは吉島町の一部で吉島羽衣町と呼ばれた。
宇品
南の宇品島(元宇品町)にちなむ。島の形が牛が伏せたようなので牛ノ島といわれたという説がある。他説では、昔広島湾を江ノ島・内ノ島が宇品奈島に変化し、さらに宇品島に変化したという。昭和43年から宇品神田、宇品御幸、宇品海岸などの地名が誕生した。
段原
「知新集」によれば「このあたりもと海辺の葭はらなりし世俗葭と葭とを誤り遂に音もてよひ、又それより艸冠を省きて段原とよえるか」とある。
的場町
由来はむかし源蔵という的製造業者が居住したことによる(知新集)。京橋筋の横町とした江戸期以来人家が密集した地である。
己斐
山間の地であることから峡(かい)村の意味であるとも、また「国郡志書出帳」では「神功皇后長問の熊襲御征伐の時、当所え御船を止め給ふ所え県主大きなる鯉を奉りたれば、皇后殊に嘉し給ひたる故を以て鯉村と申す」との伝承によるともいわれる。
草津
往古、神武天皇、神功皇后の営陣の地でもあったとの故事により軍津(いくさつ)と呼ぶようになり、その後には久曽津に、そして慶長の頃、草津と称されるように伝えられる。
神社由来記
身近な神社さがし、小さな社にもいろんな歴史あった。
胡町・胡子神社
えべっさんは480年以前から人々に商売繁盛をもたらす神として信仰されており、胡町はこのえびす神の守護のもとに、商業地区としてにぎわいをみせることとなった。毎年11月に行われる胡社の祭礼は「えべっさん」と呼ばれて、市民に親しまれている。
基町・広島護国神社
31年11月社殿を現在地に造営し累次合祀して現在現在9万2千余柱を奉斎。このうち1万余柱は地域職域義勇隊動員学徒女子挺身隊等の公務原爆関係の御祭神である。
基町・広島中津宮
室町時代の末期、当時の豪商中津某が筑前宗像大社から勧請したのに起源すると伝えられている。天正17年(1589)毛利輝元公の広島築城に際し、城郭の西の守護神として鎮祭された。
中町・白神社
昔この地は巨岩が突き出す浅海で海難が多かった。そこで、岩の上に小 を建て白紙を掲げ、難所を標示した。これを白神(白紙)と称し1475年後土御門天皇御宇九州豊前大友時盛が祈願し神殿を建立したと伝わる。
江波・衣羽神社
約800年前、平清盛が厳島神社を造営直後、当時の安芸の国府が厳島神社の御分霊を頂いて江波山の頂上近くに建立したお宮です。現在の神殿は234年前、同じく国府が山の中腹を造成して建立しました。
白島・碇神社
祭神は大綿津見神で古くは箱島明神とも称した。創建は奈良朝時代初期で当時は海辺であった。太古よりしばしば社辺で船が難破したため、地と海の神を鎮祭し奉ることに始まり、広島最古の氏神と考証される。天正10年(1582年)毛利輝元は社殿を改築し、社領の寄進ををした。
古江・三輪明神
日本最古の神社奈良県桜井市三輪町三輪山御鎮座の三輪明神大神神社の広島分 。
古江・新宮神社
今から六百数十年余り前の延文年間に、紀伊国熊野新宮権現の祭神余津事解男命を勧請して此の地に祭ったのに始まる。
三篠・三篠神社
天正年間猿田彦神を楠木大明神を称して創祀。慶応3年宮社造立。明治に至り黒皇神社と称す。大正3年楠木鎮座、黒皇神社は新庄鎮座、熊野神社、打越鎮座、八幡神社、青木神社を合併。社号を三篠神社と改称した。
五日市・塩谷神社
陸の守護神猿田彦神、海の守護神塩桂神がお祀りされ五日市海老山の麓の海に面して鎮座されております。商売繁盛、縁結び、航海安全、安産等の神として信仰されています。
廿日市・速谷神社
安芸の国の成立にかかわる飽速玉男命を祭神としている。平安時代の延喜式に「名神大社、月次、新誉」とある。大正13年には国幣中社に列せられたが、現在は安芸の国総鎮守で、交通安全、延命招福、殖産興業の守護神として信仰されている。
山根・長尾天満宮
学問、書道の神様菅原道真公が901年左遷されて太宰府に移る途中、この地で休息されたと伝わる。その後朝の時代1640年に社殿を建て天満宮と称した。
牛田・早稲田神社
特に武道の神として崇敬され、毛利氏の崇敬厚く、又浅野氏の入国以来維新に至るまで家老が代参し、供貢を奉献せられ、明治42年、神饌幣帛料の供進の指定社に列した。
仁保・住吉神社
昔、このあたりに毎夜怪物が出て人々を妨害したので、遂に人々はここを通行しなくなった。困った人々は、社を建て、寛政5年9月10日(1793年)住吉の神を勧請し、それからここに怪物は出なくなって人々は、大変喜び以後敬神しているといわれている。
船越・岩瀧神社
明暦2年丙申2月15日平原山(現岩瀧山)に時の神主渡辺大和守保正御神託により一所一村の総氏神として花都の八幡宮竹浦の新宮社西の祇園社を合祀御遷宮し岩瀧八幡宮と改め現在に至る。また近隣に例のない神楽殿もある。
中野・切幡神社
芸藩通志に「切幡神社ハ、中野村ニ在ッテ、神水、神薬石、有リ」と記されている。天照大御神をはじめ17柱の神々が御鎮座されているといわれ、なかでも昭和49年に広島市指定重要文化財の指定を受けた、神木の大ケヤキとシイ林もありかなりの古社である。
海田・熊野神社
萬寿3年旧暦11月20日紀州熊野新宮より勧請され古来新宮そいわれ、明治6年熊野神社と改称された。古来安芸の国の代々の国主の尊信厚く、世能の庄の総鎮守として崇敬された。社蔵の棟礼、神職30余代諸人に尊崇されている。
府中・多家神社(えのみや)
古事記に「神武天皇阿岐国多家祁理の宮に七年座しましき」とあり日本書紀には「神武天皇安芸の国に至り座して挨宮に座します」とあり、当多家神社は別名挨宮とも祁理の宮とも云われ神武天皇御留躚の地として知られている。
祇園・安神社
祇園社として創建されたのが前身であり、初めは武田山の麓の松尾山にあったといわれる。正安元年(1299)の祭礼の日、厳島社司桜尾城主・平員家の軍勢によって銀山城が攻められ、その時社殿が兵火にあい焼失。その後武田氏により現在地に再建。毛利、福島、浅野の各領主の崇敬を受けた。
大町・麦田八幡神社
武田家の末孫麦田某という人が山の形が菱形をし家の紋所に似ているので天文年新しく社殿をつくり八幡大神を勧請し菱山神社と称したが武田氏滅び麦田家もともに滅び後に村民が菱を麦と誤って伝え麦田八幡神社と称するようになった。
可部・三入神社
鎌倉時代以後可部地方を支配していた熊谷氏が甲斐国(現山梨県)から勧請したものと伝えられる。その梵鐘は全体に調和もとれ広島市の重要有形文化財に指定されている。
広島なんでも一番
路面電車の利用者と車両・・・・年間利用者3,822万人、車両108両(03/3月末)は日本一
アストラムライン(新交通システム)営業距離(18.4km)は日本一
国産の乗り合いバスが走り始めたのは広島が日本初・・・明治38年(1905)西区横川から安佐北区可部の間に12人乗りバス走る
海でとれる「カキ」の身の量(4,545トン 平成13年)は日本一
広島の特産品「広島菜」の漬け物の出荷量 (およそ4,000トン 平成14年)は日本一
縫い針をつくり出す量は日本一。国内のほぼ100%をしめます。300年以上も前から広島で作られ、世界でも使われている。
「はちまん」 おてんば 「がめる」 ちょろまかす
「がんぼう」 いたずらっ子 「いびせい」 おそろしい
「ずいたれ」 くいしんぼう 「やねこい」 面倒な
「はぶてる」 ふてる 「はぐいい」 はがゆい
「めぐ」 こわす
「いらう」 さわる
「ねぶる」 なめる
男の人が釣りに行き、帰ってからの奥さんとの会話
「はあ 今戻ったでー」
「どこー行っとっちゃったん」
「宮島の沖の方へ釣りに行ったんじゃ」
「まー、こんとに釣れたんね」
「鯛もおるんでェ。刺し身にしてくれーやー」
「したげるけェ、はァ先ィ風呂へ入りんさい」
昔そのあたりが海だったことを示す町名
白島(はくしま)
舟入(ふないり)
古江(ふるえ)
草津(くさつ)
加古(かこ)
比治山、黄金山、江波山は入り江に浮かぶ島
読みにくい町名
温品(ぬくしな)--- (むくしな)とは言わない事。笑われた。
東雲(しののめ)---しののめ字わかるまでバスに乗れない?
戸坂(へさか)
毘沙門台(びしゃもんだい)
高陽(こうよう)---向洋(むかいなだ)と迷った
己斐(こい)------西広島のこと。わかるまで行かれない。
庚午(こうご)