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一、昭和二十三年四月、早枝子嬢挙婚に際し、出立のご法話にいわく『女性はだれによらず愛憎の念が強い。これが通弊である。人は自分の長所はわかっても短所はなかなかわかるものでない。なんとかして自分の短所を発見してなおそうとする努力がたいせつである。愛憎の心は水火の二河である。抽象的な話しとしてではなくて、自分の現実の生活の上に水火を見つめつつ、白道を発見して念仏申すことが肝要である。
また、切迫したことばを用いてはならない。和顔愛語ということは、卑近なことであるがなかなか成就し得ぬものである。たとい自分に理があり分があっても、とがったことばやこわばった顔がでてきた時には、じっと内に転じて念仏申す習慣をつけなければならない。そうして初めてこの卑近な事が可能になるのである。また、終わりを慎むこと始めのごとくなるべし。最後まで貫きとおしたことだけがその人のすべてである。最後までやりとおした事が何もない人の生涯は零である。ゆえに人は事をなすの初めにあたって、最後までやりとおせるかどうかをよくよく考えてから着手しなくてはならない。継続し得ない事を始めてはならない』と云々。
一、同四月仰せにいわく『願力自然は無為自然から生まれるものである。なぜこのように自然ということばを用いられるかといえば、それは他力の信をあらわすためである。信巻の中心は三心釈である。そもそも如来願力のすべては至心信楽欲生にある。この三心が衆生に本無であるという自覚の上に、廻向の信が成立する。しこうしてこれは、衆生をして無上妙果に至らしめんとするものである』と云々。
一、同年六月仰せにいわく『末燈抄に”学匠沙汰して……浄土宗の人は愚者となりて往生す”とあるのは、学問をするのが悪いのか、またはその心の中に何かよからぬものが残っているのか、よくよく考えねばならぬところである。いったいに学校教育をうける者は、学校教育の持つ長短を認識しておくことがたいせつである。西洋の学問の知性でもってもの事の解決をつける、またつけ得る、という行き方を取り入れたものが学校教育の大半であるが、これが長でありまた短である。頭で解決がつくと「得たり」と思うが、ほんとうに得たとは得ないこと、すたること、愚者になるということではなかろうか。頭から下に降りるところに体解ということあり。東洋の、一言一句もこれを体解してゆくという行き方は、よく考え味わわねばならない。頭で理解している事などは、荒波にあえば一度に押し流されて消えうせる。身についたものだけが、そのとき残るのである。愚者になるとは頭の下がることである』と。
一、同じく仰せにいわく『打算的な人間となってはならぬ。若いときからそろばんづくで動くような人間の将来は、全く封じられている。気迫を大きく持つべし。しかして気迫の前にまず熱のある人物とならねばならぬ。熱を持つべし。そは一筋の道を歩むことなり』と云々。
一、同年十一月仰せにいわく『たとい他力の大慈悲の中にあっても、努力精進いよいよ念仏申すべきである。大きな安らぎ、歓喜の中に一道を貫くべきである。努力し精進し、しこうして将来に対するいっさいの幻影を放下し去るところに、念仏者の無碍の一道がある』と云々。
一、昭和二十四年一月、師のもとに参じ、本年はいよいよ故山に帰去すべき心境を述べたるに、山田・松岡両氏を招き、仰せにいわく『人は自分のことばが、一つ一つ考えて念仏申しながら言われるようになれば、一人前といわれよう。また、人間は一生に一度は必ず大きな苦難あり。これがのり越せるかと思うほどの事に会うものだ。しかしせアーない。念仏申してやってゆくのよ。また、三十代の精進。これで一生は決定する。真夏のごとし。照りやけつく日である。照りやけついて焦げるほどだと稲はよくできる。また、大いに精進して自分の性格を改変すべし。自己の習癖を見出して、それを見つめつつ念仏申してゆくのだ。また、教家となっては、人の旧悪を忘れてしまうことがたいせつな心得である』と云々。
一、同年四月、本部を辞し故山に帰る。送別の仰せにいわく『いまさらに新しく申すべき事はない。一道を貫いて早くその素志を果たすべし。大いなる志に生きよ』と云々。
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