地下鉄網が発達したニューヨークと違って、ロスアンゼルスではどこへ行くのも車でということになる。面積があまりに広すぎることもあるのだが、あの人通りの少なさは歩いている人間に危険を感じさせる。人が溢れているNYの街頭とは対照的だ。そこでは人が多すぎることが却って治安の良さを感じさせる。
初めてLAに行った時、朝ホテルの周りをぐるっと歩いてみたのだが、やはりちょっと怖い。前から黒人が歩いてきただけで私は思わず身構えてしまった。
そして、それが自分の中の差別意識なのだと気づいて愕然とした。さっき白人とすれ違った時には、私はこんなに身を固くしたりはしなかったはずだ。
思えば幼少の頃、私の母は黒人のことを平然と「黒んぼ」と呼び、白人よりも、また我々黄色人種よりも一段レベルの低い人種だと信じていた。
父は偏食がちだった私に対して、ちゃんと食べないと家の前で道路工事をしている人夫に私を売り飛ばすぞと脅したことがある。
父は言った。「あいつらは朝鮮人や。お前を朝鮮に連れて帰って、朝鮮の飯を食わされるぞ。朝鮮の箸はこーんなに長いんやぞ」
そう言われて私は、言葉も解らない国で、長い箸を持って朝鮮の料理を食べている自分を想像して、怖くなって半泣きになりながら嫌いなおかずを食べた記憶がある。
今から思えばとんでもない差別発言である。
幸いにして、私にはそこまでひどい差別意識はない。黒人がグレードの低い人種だとも思っていないし、朝鮮人が卑しい民族だとも感じていない──はずだった。なのに私は、白人とは平然とすれ違いながら、黒人には「襲われるのではないか」という恐怖感を抱いたのである。
頭では解っているのである。少なくともその点は父や母の世代とは違っている。ひとえにそれは時代が変わったからであり、教育の成果でもある。
私たちは小中学校で、差別をなくすための教育を受けてきた。そのことは今でもちゃんと機能している。そして、それがちゃんと奏功したのは、まだ自分の中に明確な差別意識が芽生える前の段階で教えられたからである。
私の父や母の世代には、自分の差別意識が正当なものであると信じきっていて、頑として「あいつらは低級だ」などと主張する人たちがいる。彼らに対してはいくら理屈で説明しても、その強固な意識を覆すことはできない。
私は正直言って、新しい世代に対してはちゃんとした教育をすることによって、古い世代については彼らが死ぬことによってしか、差別を減らしてゆく方法はないと考えている。
話を元に戻そう。
私は頭では解っている。だからあからさまな差別行動には出ない(はずだ)。しかし、私の心の中にある差別意識についてはどう対処すれば良いのだろう?
そもそも、思うだけで差別なのだろうか?
仕事上のつきあいのある人でゲイだと噂されている人物がいる。彼とは仕事の話を日常的に重ねてはいるが、顔をつき合わせて打合せをしていると、時々ふと「気持ち悪い」と感じることがある。
それは彼がゲイだからではない。彼が本当にゲイなのかどうかについては誰も確かめてはいない。仮に彼がゲイではないと判明すればその気持ち悪さが消滅するかといえば、決してそんなことはないだろう。しかし、私が彼を気持ち悪いと感じるのは、やはり彼のゲイっぽいところに対してなのである。
私はゲイを排斥する気もないし、ゲイが異常者であるとも思っていない。しかし、彼のゲイっぽいところは気持ち悪く感じるのである。
これがゲイでなければどうだろう?
知り合いの女性に「笑ったときに歯茎が見える男性は耐えられない」と言う人がいた。彼女が歯茎の見える男性を気持ち悪いと感じるのは差別だろうか?
思うだけでは差別ではなくて、「あんた、歯茎が見えて気持ち悪いからあっち行ってよ」と言った途端に差別になるのだろうか?
これがハゲに対してであれば差別であるような気もするが、歯茎が見える人に対しては単に嫌がらせではあっても差別ではないような気もする。
思うに1対1では差別にならないのである。何人かの人間が別の何人かの人間を、ひとつの共通項(例えばゲイであるとか、ハゲであるとか)で括って排斥して初めて、それは差別と呼ばれるのではないだろうか。
しかし、一方で、差別の始まりがひとりの人間の意識(例えば偏見や嫌悪感)であることもまた間違いない。
せめて、自分ひとりの心の中にとどめてしまうことが、最低限の義務ではないかと思う(もちろんあくまで「最低限」でしかないのだが…)。
Copyright©yama-a【essayistnet掲載】
目次へ
次作へ
前作へ