日本放送文化大賞の概要が発表されました。これは2003年10月のNTVプロデューサーによる視聴率買収事件の反省を受けて創設されたものだと言って良いでしょう。
ま、今までも日本民間放送連盟賞をはじめ賞と名のつくものは一杯あったんですが、高額の賞金(1,000万円)をつけたところが違いでしょうか。
なりふり構わず視聴率獲得に走る風潮を改めるために、高視聴率を稼いだということ以外の理由で褒めてやろう、しかも、単に言葉で褒めるのではなく目に見える形で、即ち高額の賞金を与えよう、という発想でしょうか。
賞金は多分個人がもらうものではなく(そもそもTV番組を「個人」が作ることは不可能だし)会社に払われるのでしょう。TV局が番組制作にかける金額と比べると、1,000万円という賞金はあまりにも少ないように思います。それでもこの褒章が何等かのインセンティブに繋がるようにしたい──そういう希いが透けて見えます。
苦心惨憺の結果考えられた策です(この策をあえて貶すつもりはありません)。
思えばあの事件が起こって間もなく「新しい評価基準を考える会」が組織され(委員は糸井重里、大石静、楠田枝里子、重延浩、鈴木敏夫、鈴木嘉一、テリー伊藤、藤平芳紀の各氏)、その答申が2004年の6月に発表されました。
その答申の冒頭に書いてあります──「本会は、放送内容の視聴質を、統一的、客観的基準で規定する番組評価基準は無い、と考える」と。
当たり前です。NTVがあえてこのような諮問委員会を組織するまでもなく、視聴率に代わる指標などあるはずがないのです。
TV番組に限らず、あらゆるコンテンツに対する「ものさし」は各人各様、極めて主観的なものであるはずです。それは作る側の表現の自由に対する、観る側の自由・感じる側の健全な多様性であると思うのです。
ところが、商行為を行うにあたっては、逆にそのような多様性に基づいていては料金を決めることの妨げになります。それで作り上げられたのが視聴率なのです。今さら視聴率では具合が悪いからそれに代わる質的な指標を、と言うのは時代の逆行でしかありません。
質の評価は各人各様のままで良いと思います。むしろ各人各様を堅持すべきだと思います。各人各様に代わる統一的な指標が現れたとしたらそれはファシズムではないでしょうか。
でも、それでは、つまり褒める人もいれば貶す人もいるというのでは、作った人が誰一人として浮かばれません。だから賞というものがあります。それぞれ趣きは違うでしょうが、賞によってそれは最大公約数であったり、あるいは先端的で優れた見方(鑑賞眼)の集約であったりするはずです。
これは基本的に、例えば朝の電車の中で女子高生たちが「昨夜のあの番組面白かったね」と言ってるのと同じだと思います。あるいはTV局のプロデューサーが出社したら親しい同僚から「昨日の番組よくできててたね」と褒められるのと同じです。
ただ、その辺のおっさんや女子高生、先輩や同僚に褒められたのでは権威がありません(もちろん尊敬する先輩や信頼できる同僚に褒められれば嬉しいものですが…)。その権威付けのためだけに賞というものがあると言って良いのではないでしょうか。
ここであえて「権威付けのためだけに」と書いたのは、つまり、基本的には僕たち局の社員が同僚の作品を褒めるのと何等変わらないということを言いたかったからです。
この欄にも何度か書きましたが、僕らは視聴率の高低に関わらず、良いと思った番組を褒め悪いと思った番組を批評する勇気が必要です。多くの社員はその勇気を持ち合わせていると思うし、少なからぬ社員がそれを実践していると思います。
でも、中には視聴率病に取りつかれて、「良かったね」と言われても「いや、視聴率取らないと意味ないですよ」などと返してしまう人もいます。
「視聴率は通貨だ」という流行のフレーズがあります。経済学部出身の僕はこのフレーズに完全に同意することはできません。もちろんそれに近い面はあります。僕に言わせるならそれは「視聴率は為替レートだ」になります。ここには「なんで上がったのか下がったのか、わけが解らないことも多い」という意味を込めています。
視聴率は絶対ではありません──そんな当たり前のことを確認するために、我々は、この日本放送分化大賞を含めて、視聴率以外の面から語るという習慣を身に着けなければならないと思います。
上記「新しい評価基準を考える会」の委員でもあり、制作会社テレビマンユニオンの会長である重延浩氏が、TVの賞を映画『誰も知らない』の受賞に関連づけて、最新の「テレビマンユニオンニュース」に書いておられます。
テレビの受賞と映画の受賞、この感覚の違いはなんだろうかと思い続けた。そして、こんな感覚の違いに気がつき始めた。テレビは完結の受賞であり、映画は序章の受賞であると。
(中略)テレビ番組の受賞にもそれぞれに深い思いはこもる。しかし、それらはなぜか過去への受賞という感覚である。受賞の後、新しく何かが始まることは余り無い。視聴者が再びその番組を見る機会はあまり無い。視聴者は、放送番組に次々と新しい現代を求めていく。(中略)テレビジョンとはそういうメディアなのかもしれない。
日本放送文化大賞の受賞番組が原則として再放送を義務づけられているのも、そういう趣旨への反省であるのかもしれません。
[追記]
一旦最終回を銘打っておきながら、何の断りもなく平然と「新1回」を始めるのはおかしいじゃないか、というご批判もあるかもしれませんので、少し挨拶(弁解?)めいたものを書いておきます。
実は最終回を書き終えた時点でいつかまたこっそり再開するつもりでおりました。
まあ、一旦ピリオドを打とうというのも当初から考えていたことでしたし、時あたかもNTVの事件で視聴率に対する巷の関心が強まり、私のサイトに対するアクセスも何十倍に膨れ上がり、自分ではちょっと居心地の悪い気分だったので、あえて再開を予感させずに終わるという形を取りました。お許しください。
「最終回」と言うのも表題の「嘘800」のひとつだったと笑っていただければ幸いです。
以前の原稿では視聴率の基礎知識みたいなものを中心に書いてきたので、今後は視聴率雑感風にぼちぼち追加して行きたいと思います。
ご興味があれば、またよろしくお願いいたします。
Copyright(c)yama-a Mar.2005
目次へ
次回へ
前回へ