評論・エッセイなど
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四元康祐「世界のまなざし」
山田兼士の評論・エッセイ
小川国夫の長篇詩―「遠い百合」について
癒えるということ―小川国夫とシュペルヴィエル
小池昌代の「詩小説」小論
中原中也の『散文詩集remix』序説
「現代詩手帖」アンケート「今年度の収穫」
ボードレールと中原中也、そして杉山平一(講演原稿)
阿部良雄の生成―『ひとでなしの詩学』の難解と誠実について
詩の現在を読む(1)詩のわからなさについて考える
詩の現在を読む(2)主題の重さ、詩の重さ
詩の現在を読む(3)老いの清新、若さの憂鬱
詩の現在を読む(4)「私」について
詩の現在を読む(5)名あるいは呪文の使用法
詩の現在を読む(6)詩による対話とは
谷川俊太郎《写真》の詩学
谷川俊太郎《絵本》の詩学
スペイン美術とボードレール―紀行文風に
《ロートレアモン伯》への序―「ロートレアモンの物語 Le Conte de Lautreamont」読解の試み
谷川俊太郎の本音本―『詩を読む』
詩の還暦宣言としての『私』のために
谷川俊太郎の詩学(5)二十億光年の私をめぐって
谷川俊太郎の詩学(4)詩集『歌の本』から詩と歌を考える
谷川俊太郎の詩学(3)新詩集『すき』からひらがな詩を考える
谷川俊太郎の詩学(2)『すこやかにおだやかにしなやかに』から定型という装置を考える
谷川俊太郎の詩学(1)小野十三郎から始まる
谷川俊太郎・こどもの詩学―八〇年代、九〇年代作品を中心に(1)
(2)
(3)
(4)
谷川俊太郎の二十一世紀詩―『minimal』から『夜のミッキー・マウス』へ(1)
(2)
(3)
物と歌―谷川、ポンジュ、プレヴェール、そして小野(1)
(2)
(3)
(4)
犬像論(1)
(2)
(3)
ジャン・コクトーの詩と歌と音楽(1)
(2)
(3)
中原中也とヴェルレーヌ(シンポジウム記録)
二人のデュカシアン ― 豊崎光一と出口裕弘
冥府の中の福永武彦(1)
(2)
文学は「物」とどう関わるか(正)
(続)
通教クラス現場レポート
小野十三郎邸界隈徘徊
ヒドルストン著『ボードレールと「パリの憂愁」』訳者あとがき
スティーヴ・マーフィ「イジドール・デュカスの政治的責任放棄」山田兼士・訳
中原中也とヴェルレーヌ―音楽的化合について
萩原朔太郎「蟲」を読む
ボードレールからドビュッシーへ(1)
(2)
(3)
(4)
(5)
フランス文学者福永武彦の冒険―「マチネ・ポエティク」から「死の島」へ(1)
(2)
(3)
(4)
フランス歌曲と詩人たち
『長野隆著作集第三巻』あとがき
『長野隆著作集第二巻』あとがき
『長野隆著作集第一巻』あとがき
『悪の華』を有罪にしたパリ
『大海辺』を読む
(
『小野十三郎論 詩と詩論の対話』
より)
『歌と逆に歌にーわがバリエテ』を読む
(
『小野十三郎論 詩と詩論の対話』
より)
100%の散文詩ーボードレールと町田康
詩批評 物と事の間―小野十三郎から瀧克則へ
海外の詩人たち(全40冊紹介)
群集の発見―ポオ「群集の人」
詩精神のリレー 出口裕弘『帝政パリと詩人たち』に即して
吉本隆明『転位のための十篇』について
散文を書く詩人たち
ヴェルレーヌ・陰影に富んだ美の世界
寂寥と諧謔ー高階杞一小論
萩原朔太郎の一行詩 鏡のうしろにあるもの
長野隆の「弘前」
晩年の詩人たち 朔太郎・賢治・中也
書くときの私
廃市論(1)
(2)
(3)
辞書の選び方・使い方ガイド
中島みゆき『パラダイス・カフェ』を読む(正)
(続)
オーニタ・ダンス・メランコリー
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