詩時評

詩の現在を読む

 

第五回 名あるいは呪文の使用法

(「樹林」2008年春号)

山田兼士

 

 

 

 

 小池昌代『ババ、バサラ、サラバ』(本阿弥書店)は、まずタイトルがユニークな詩集だ。八音の中に濁音の「バ」を四度繰り返す呪的な響き。「あとがき」には「現代詩を書いていると、唇が寒くなる。濁った音はあたたかい。唇の破裂と爆発を、そこに生じる摩擦熱を、寒いわたしは、求めていた」と書かれている。ちなみに詩集中に表題作なるものは存在しない。いずれかの詩に用いられている語でもない。ということは、「ババ、バサラ、サラバ」とは詩を開く呪文であるということだ。「バ」とは「馬鹿っ」の「バ」でもあると言う。

 一読してまず気になるのは、到る所に出てくる人や場所や物の名である。「金原時男」のような固有名詞もあれば、実在の人物や架空の人物や、「まぼろしのまさよ」まであって、どの名からも物語の気配が立ち上っている。その分、詩としては長くなるのも当然だろう。全七四行から成る「おんなともだち」の冒頭を引用する。

 

目にかかった前髪を 頭をふって払う/おかっぱ頭の小柄な女/シラスミチコと名を名乗った/その目はちいさく 白濁しており/ずっと奥のほうに ただ一点の黒点がある/シラスの目だ/わたしはほとんど目が見えませんと言う

 

小池作品にしばしば登場する異形の女のひとりだ。この後、「シラス」という名が「わたしはシラスの目がこわくてシラスを食べられなかった」という幼児期の記憶を呼び起こし、次いで「シラスミチコ」への異和と親和が描かれ、さらに、ミチコから「あなたは木のようですね あなたは木だ」と、直喩から暗喩へと呼び直される呪文によって「わたし」は欅の木に変身する。

 

皮膚は木肌となり 指先から葉が芽吹き/わたしは木になった 自分の名を忘れた(一行略)わたしは自分のなかの言葉という言葉を/ふりしきる秋の葉のようにすべて散らした

 

「自分の名を忘れ」ることと木に変身することは同義とされている。名こそが存在を決定する呪文にほかならないのだから。名を奪われた木は葉=言葉を振り捨てるしかない。

 ではこの作品は名をめぐる物語のエスキスなのか。いや、これを小説のためのスケッチなどと見るわけにはいかない。なぜなら、これは一編の詩としてこそ全体を獲得し得る世界の表象なのだから。木に変身した「わたし」は一行分の空白の後(どうやら人間に戻ったらしく)なにごともなかったかのように「わたしたちは少し似ています」と独白し、「わたしたちはいっしょに 昼間のバス停へ歩いていく」と、名作「永遠に来ないバス」を思わせる一節で作品は終わる。おそらく「わたし」の分身でもある「ミチコ」との物語の可能性を可能性のままに封印することで、詩は詩として完了する。だから、この作品は名をめぐる物語世界を暗示するのみなのだ。その世界とは、「わたし」が即座に欅になったり「シラスミチコ」がその名のまま「シラス」であったりするように、おそらく名の呪術による身体論的な世界だろう。世界としての身体、あるいは身体という世界、が詩集全体を貫くモチーフと思われる。その世界を切り開く(書き起こす)呪文こそが表題の意味だ。

 その身体=世界の換喩というべきイメージを詩集の中から拾ってみる。まず、箱、木、たんす、舞台、トラック、学校、メトロ、といった象徴的な《場》を表す言葉が挙げられる。次に、小さな椅子、靴、家、台所、店、といった生活の《場》を表す言葉。そして、短歌という形式、写真、画集、絵、母の背中、といった文学的《トポス=場》。これらの《場》は、小池昌代の詩が生成するほとんどすべての空間を暗示しているようだ。それらの《場》には大抵の場合、名をめぐるモチーフがこめられている。類例はいくつもあるが、その中から最も端的に「名」を主題にした作品「メトロ」の一部を見てみよう。

 

名とはなんでしょう/それはある存在の誕生とともに/第三者によって/すばやく封印された まじないの蓋/名無しは 呪われたもうひとつの名前です(五八行略)あなたは誰ですか/ホームに電車が入ってきます/轟音にかき消される/その名前

 

いささか説明的すぎるとも読まれるこの詩の中で、詩人は名が担う(ほとんど古代的あるいは神話的とさえいえる)呪的力を現在に甦らせようとしている。まるで和歌か短歌のように(本詩集の大部分が短歌雑誌「歌壇」に掲載されたものであることは偶然ではない)。現代短歌が三十一音という定型の《場》を今なお《呪術》として用いるのに対して、現代詩の作者である小池昌代は名のもつ呪術性を言葉の始原的な《場》の生成へと活用しているように読まれるのだ。

 これら名をめぐる展開に加えて、小池昌代独自の語感が創出した呪的名詞の代表が「からまちま」だろう。作品「ねじまわし」に頻出するこの奇妙な語は、「からまつばやし」を変形した語のようにも、新造語「空待間」のようにも、「ママちから」のアナグラムのようにも読めるが、その実体はどこにも描かれていない。まるでカフカの短篇「オドラテク」のようでもある。全六八行から成る作品の冒頭を引用する。

 

からまちまを知っているか、とあの人が言った/「からまちま」ってなんだろう/わたしはからまちまについて何一つ知らなかったが/知りません、と言おうとして、喉がつまった/それはなに? とも聞けなかった/ただ、あの人の/疲れた灰色の目をみつめただけだ//からまちま/聞いたもののこころに/髪の毛みたいに からんでは/水車のように まわりだす言葉

 

からんでまわりだす呪文の言葉はタイトルの「ババ、バサラ、サラバ」と全く同質と言っていい。内容をもたず(あるいは不明のままに)表現だけを担った魔法の言葉。それは純粋な詩の言語ではないだろうか。「ずっとむかし」どこかで知っていて「それをいまこのときまで/忘れていたにすぎないのかもしれない」ような言語としての詩語。マラルメ的と形容したくなる不可知の言語の可能性を求めることこそが、この詩人の詩的創造の根源にある欲望なのかもしれない。

 

からまちまのまちの/からまちまのひとびとは/からまちまのふくをきて/からまちまをおどる/からまちまのゆめをみて/からまちまのにおいのする/からまちまのとおりで/からまちまをかなしむ//風はなかなか吹き止まなかった/あの人はうたうように/あるいはじゅもんのように/からまちまについてのことばを重ねたが/語尾は/外の風に かき消されてしまう

 

延々と「じゅもんのように」繰り返される魔法の言葉はまた「うたうように」唱えられもする。だが、その「語尾は」いつも曖昧に消えてしまい、ついに実体=意味を曝すことはない。なぜなら、「からまちま」とは詩そのもの(ポエジー)であり、詩作品にはついに顕現できない何かであるからだ。

 もう一つ。「からまちま」と並んでこの詩には「猫バター」という奇妙な「名」のバーと呪術師めいた「小人のおじいさん」が登場して、やはり物語の可能性(例によって可能性のみ)を暗示しているのだが、何故タイトルが「ねじまわし」なのかはまったく分からない。ねじまわしのように回転しながら進んでいくから? だが、この詩には回転はあるにしても推進力はまったく感じられない。この分からなさを読者はどう受け取るか。意味不明と叫んで投げ出すか。不条理と呟いて眉をしかめるか。なんらかの意味を発見しようと頭を捻るか。それとも「馬鹿っ」と(呪文を)唱えて笑い出すか。そのいずれにも詩を読む行為の正当性はある、とひとまず言っておこう。案外作者は、自分の意識下世界につきあわせてごめんなさい、とでも言うのだろう。《呪的》とはそういうことだ。

 

    

 

 このような呪的言語は、特に、子どものために書かれた詩に用いられることが多いようだ。頭より体に直接訴える力が強いためである。柿本香苗『きんいろの夜』(編集工房ノア)にはずばり「じゅもん」という詩がある。

 

イネムルイネムル/ぼくのじゅもん/ねこののどもとゴクリとうごく/イネムルイネムル/となえてなでる/こがねのヒトミゆっくりとじる/イネムルイネムル/ゆめみることば/よるのえりまきやみよのとけい/イネムルイネムル/となえてねむる(全文)

 

「イネムル」という語は未だ「居眠る」という意味を引き摺っているが、繰り返しによって呪術的役割を果たしていると言えるだろう。また、次のようなオノマトペ

 

コチリ 時計が動く/ホトリ うす紅色のため息はおちる/両手でうけとめて また想う(「想う」全文)

 

にも、呪的な要素が込められていることが分かる。「コチリ」という擬音語と「ホトリ」という擬態語の対句法などうまいものだ。さらにもう一つ。

 

ぎゅむむ/ぎゅむ/きのうつもった雪を/ふむ/ぎゅむむ/ぎゅむむ/ひと足ごとに長靴が/しずむ/ぎゅむむ/ぎゅむむ/ただあの人を想って/あゆむ/ぎゅむ/ぎゅむむ(「あしおと」全文)

 

「ぎゅむむ」と「ぎゅむ」と。微妙に音をずらした繰り返しが「あの人」への想いの強さ深さを端的に表現している。このオノマトペにもまた呪的な力がこもっていてユニークだ。

 かつて萩原朔太郎、草野心平、宮沢賢治、中原中也といった革新的な詩人たちに頻用されたオノマトペだが、現代詩でも、ここぞというところで独自のオノマトペが用いられることはしばしばある。尾崎まこと『カメラ・オブスキュラ』(竹林館)より「白夜」。

 

ジャイ ジャイ ジャイ/白夜に冷たい雨が降ってきた/ジャイ ジャイ ジャイ/思わず正午のステップを踏んでしまう//透明ゼミの鳴き声が/水滴の走る窓を突き抜けてくる/ガラスに映る男の目は/すでに赤く飛び出ている/尻のポケットを膨らませているのは/最後に残った/僕の夜だ(末尾部分)

 

セミの鳴き声を通常のオノマトペではなく独自の音で表現することによって「透明ゼミ」の禍々しさを表現している。近未来的な悪夢のイメージである。もっと端的に次のような短詩もある。

 

ああ、神様/ああ、ああ、ああ/が私です(「ああ、ああ、ああ」全文)

 

最も原初的と言っていい「ああ」という叫びを三度繰り返すことで「私」を表現する、というのは、明らかに呪的な手法だろう。

 松本衆司『ひかり屋』(編集工房ノア)にも、同様の呪的感嘆詞が用いられている。

 

詩集を読む/ああ、と、こころが/ゆれる/かみさまの/日記のようだ/今日の母音は/昨日の音色と少し違って(中略)ああ、いいではないか/肉体は悲しいのだから/あの、マラルメのように…/海の、遠くからの、微風の/懐かしい匂いを/感じながら(「母音」途中と末尾部分)

 

ここでは、原初的と言うより(マラルメの詩「海の微風」が引用されているように)洗練された詩語として「ああ」が用いられているのだが、「昨日の音色と少し違」う「今日の母音」を聴き分ける繊細さにこの詩人の特長がよく出ているように思う。

 木澤豊『幻歌』(草原詩社)には、印象的な地名が随所に鏤められていて、それらの名が呪的力をもっているのは小池作品と同様だ。

 

カミ・カジヤという地名に/夜には草間に鉄を打つ火がみえる//雨が降るような/雨が降るような//葉のおとがいい/おとに浸され冷え切った岩がいい/身切って見切る/カミの家が炎をあげている//被さった枝がオーンと呼んで/あれから 火が立った//鳥形の影が立った/あいつが追いたてた/あの場所は/円筒形で垂直だ//空が閉じて、暗くなって/ストーブの炎の立つ音か/いや あいつがカリカリ食っている/食ったら行く(「場所が立つ」後半部分)

 

「カミ・カジヤ」「カミ」「オーン」「カリカリ」という音の連鎖は、この作品に神話的な呪術性を与えると共に、作者の鋭敏な聴覚をも示唆することで、原初的エネルギーと芸術的洗練の統合を実現している、と言えばいいだろうか。タイトル「場所が立つ」とは、そうした場の自立こそが詩の生成に不可欠であることを語っている。

 

    

 

 今回読んだ詩誌の中からも、名と呪文(とオノマトペ)が際立った作品をいくつか紹介しておきたい。これらの使用例が詩を書く、また読む、人へのヒントとなれば幸いです。

 岩井八重美「名前」『火曜日』第93号)は名そのものの呪=祝性を直球で歌った作品。

 

生まれてくる子のために/並べられた名前/どれがいいと聞かれた時/一瞬走りぬけた震え/選ばれるたったひとつと/捨てられ忘れられる/いくつもの名/命芽生えるたびに/寄せては引いていく/かすかな潮騒が聞こえる(全文)

 

名を選ぶ時に「一瞬走りぬけた震え」とは、命名という呪的行為に対する畏怖の表明だろう。名とは呪文と同義である。

 長島南子「深爪」『すてむ』vol.39)は、名を変えることで存在自体を変容させる呪術を表現している。

 

タロウは外あそびを覚えた/こっちを見ろとわたしをひっかかない/好きな相手ができたらしい/わたしをさしおいてとんでもないやつだ/ヤスオと名前を変えてやった/押さえこんで爪を切り/深爪にしてやった/全身真っ白のわたしのヤスオは/やっぱり美形だ(後半部分)

 

 左古祐二「宣言」PO』No.128)では、小池昌代「おんなともだち」(前掲)と同様、直喩から暗喩への呼び直しが呪性をいっそう深める結果をもたらしている。

 

“きみの笑顔はプリムラのようだ”/などと喩えるうちに/きみの笑顔の/今そこにある素敵さは/ことばの隙間を/うかうかとこぼれ落ちてゆく(十一行略)ぼくは/やはり/“きみはプリムラだ”/と宣言するほかないのだ/ぼくのことばの全重量をかけて(途中と末尾部分)

 

直喩では「こぼれ落ちてゆく」しかない要素を掬い取るためには隠喩による呪術を用いるしかない。「ことばの全重量をかけて」とは詩語の全能力を用いるという「宣言」である。

 三井喬子「アンブレラ」『部分』35)では、オノマトペとは呼び難い通常の名詞が、繰り返しによって(全三十五行中に十四回用いられる)オノマトペ的な呪性を帯びている。

 

お忙しいところ申し訳ありませんアンブレラ/降ってます降ってますアンブレラ/天使さんが降ってますアンブレラ/白い小さな形だけれど/当たると痛いアンブレラ(二十二行略)アンブレラアンブレラ/天使さんはもう消えちゃった。/踏み出せば/たった一歩だアンブレラ/定められていることではありますが/落ちてみますかアンブレラ/鈍色の/その世界の底に。(冒頭部分と末尾部分)

 

こうした繰り返しはリズムを整えるという形式上の役割を果たすだけでなく、世界と「私」の間に魔術的な関係の通路、つまり詩の可能性、を創り出すという機能において、やはり呪的と呼ばれるべき何かなのだ。

 最後に、昨年急逝した元「詩学」編集人・寺西幹仁の遺作「月海」を挙げておきたい。高階杞一編集・発行による詩誌『ガーネット』vol.54)に掲載されたものだ。

 

散らばった私をかき集めることもできず

私は眠るのです

ばらばらのまま眠るのです

 

くすくす くすくす

と笑う

くすくす くすくす

と笑う

くすくす くすくす

と笑う

今日は赤の波長が狭い(全文)

 

三度繰り返す笑いのフレーズはおそらく不眠の夜(あるいは朝?)のための入眠儀式の呪文だろう。最後の一行は、その呪文があまり効果を持たなかったことを示している。心身の疲労が垣間見えるようで痛々しい。「散らばった私」を統合できない苦しさがひしひしと伝わるようだ。それにしても、と思う。この最終行とタイトルに見られる独自の詩的センスは並大抵の詩人のものではない。月刊商業詩誌の編集発行という激務から解放されて(どんなかたちであれ)、再び正面から詩作に向き合う時間を持たずに急逝した寺西幹仁に、改めて哀悼の意を表さずにはいられない。