書評●高谷和幸詩集『回転子』2006年4月22日、出版記念会での祝辞)

河津聖恵

 

回転子という詩の潤滑油をみいだした高谷さんの詩集は、ある意味で難しいものだと思いつつ、ある叙情性をおのずとまといながら、読者を他者とひとつの光線のようなものと結びつけてくれる。「私」というものが、非決定なまま、ぽんと詩の中に置かれていて、それが、ある操作子となって、詩を動かせている、そんな気がしました。それは、とても現在的だと思います。今、恐らく詩において問いかけられているのは、私というものの存在で、その空虚と空虚ゆえの密度をどう描いていくか、そしてそのことで世界を空虚のただなかから呼びこんでいくことだとと思うのですが、この詩集ではそうした現在の詩の課題に果敢に、しかも柔らかく、あるいはおのずと面しているかと思います。

 

色々立ち止まる詩はありますが、たとえば、「非知」で、ここでは姿のない私が、いつしかむしろ屈折という変性を経て、みずからになっていく、母親の不在を不在のままよびおこす、そんな陽炎のような生の一瞬を見事に描いていると思います。また言葉と物の癒着をこの詩集では、あえてふりきりるようにしていると感じました。「剽窃」という詩の中でも、「雨とよばれるものが降る」とありますが、ここではそう書くことで、その後の姉妹の幻想を幻想たらしめていると思う。そしてやはり白眉は、「回転子」の一章で、ここにはいかに「わたしたち」という回転子が、言葉や事物や物語をふりきっていくか、という実験が行われています。「わたしたちは落ちそうで止まっている」という言葉がありますが、そのような「わたしたち」とは、人間の本質的な姿を描いているとともに、詩を書く私たちをこそ名指していると思います。「ところでわたしたちは(う)でずぶぬれになったのかって?」その問いかけもまた、たとえば吉本隆明のかつて人間が「海」を初めて見て、「う」という感嘆の言葉をあげたことにより、自己幻想が始まったという、一節を思いだしました。しかし高谷さんの実験は、それ以前で思いとどまること、自己幻想の手前で、ある本質的な事物に触れることにより発生する「空虚なわたしたち」にこだわり、しかし「う」と感動する一歩手前で、そこで回転すること、いまだ生まれない詩を生まれないままで、躊躇わせていくこと、そのことを目指されているのではないでしょうか。

 

高谷さんの詩作品は、このような意味で、物語や抒情の一貫性というものを欠いているのですが、言葉が言葉を呼び覚ますといったシュールレアリスムでもなく、空虚の中から呼び覚まされる言葉が、いかに実体と空虚のたたかいのなかで詩という現場へおのずと生かされていくか、というある意味で困難な、しかし読む者にとってはスリリングなものです。そして、その詩が信じられるというのは、そこに言葉への躊躇いのようなものが必ずあるからです。

 

これからもどうぞこの言葉と事物との不思議な葛藤を果敢に挑んでいって下さい。