詩時評
詩の現在を読む
(「樹林」2007年春号より)
第一回 詩のわからなさについて考える
山田兼士
前号までの「詩同人誌評」および前々号までの「詩書評」に代わって、今号から新たに「詩時評」を担当することになった。連載開始にあたっての抱負を手短に述べておく。途中で変更があるかもしれないが、ひとまず現時点での基本方針である。
およそ三ヶ月ごとの時評なので、日々刊行されている膨大な作品群を網羅的に扱うことは最初に諦める。というか、始めから関心がない。もちろん、網羅的に読むことは前提だが(できるだけ多くの詩集詩誌に目を通したい)、その中で特に目に留まった作品や現象や主題等を、私自身の問題意識に照らし合わせることで、極力一貫した相の下に概観していく。できるだけ焦点を絞って、統一した詩批評にすることで、読み物としての鑑賞に耐えるものを提供できればと念じている。詩集詩誌を問わず広く現代詩全般の現状を紹介していくつもり。とはいえ、紙幅に限りがあるので、何らかの傾向や偏向も生じるかもしれない。そんな時のために、小野十三郎の名言「詩とは偏向する力の勁さのことだ」(『詩論』)をあらかじめ掲げておく。
第一回のテーマは「詩のわからなさについて」。そもそも「わかる」「わからない」というのは詩にとってどのような意味をもつものなのか。だれもが考えるはずのこの問題を、最新作を紹介しつつ検討してみたい。
八重洋一郎詩集『トポロジィー』(澪標)から見ていこう。「0」から始まって「100」そして「∞」に到る一〇二篇。短詩の連作と見てもいいしひと続きの長篇詩と見てもいい。詩集全体のテーマを簡潔に言うなら、身体の内と外の無限連関、となるだろうか。まず巻頭を引用する。
ふりそそぐなだらかな陽をあびて/海の底/刺し込まれた鋭い夢を抱いて/ゆるやかに成熟する/瑠璃光/真珠/粘体の痛みの/トポロジィー 無限屈折の光りかがやく/涙(「0」)
まるで胎内のような海底で詩は始まる。身体の内部に生まれる生命を瑠璃光、真珠、涙に喩えることで早くも詩集の主題が示される。身体内世界であるこの空間=場は「無限屈折の光」を発しているという。かなり難解な構図だ。現代詩の難解さへの非難に応えて妙にわかりやすい詩がめだつようになった昨今の状況から見ると(一時代前に逆行したかのような)わかりにくい詩の代表とも見られかねない。だが、この構図は繰り返しさまざまなイメージに敷衍されることで次第にその形と色を明らかにしていく。例えば「4」で示される身体の内/外の交換可能性について。
ある一点で裏返す 例えば私という虚無の一点/そうすれば すべてがつつみかえされる/か/何かの意味がうまれる/か/たいしたことはないけれど
身体を裏返すと「何かの意味がうまれる」というのは身体内宇宙(=私)と身体外宇宙(=世界)との交換可能性を示唆している。この困難な命題を、八重洋一郎は執拗なイメージ連関で追い続けている。
いま ここに/私という虚妄の一点 その一点を無によって裏返す/他在の殺到 宇宙の殺到/あなたという深い零点 その零点を一瞬によって裏返す/無始の殺到 無終の殺到(「8」)
ここでは私(=1)が無(=0)によって裏返される。すると、他であり宇宙全体である∞が「殺到」する。同様にあなた(=0)が一瞬(=1)によって裏返されると、今度は始まりも終りもない永遠の時間である∞が「殺到する」。つまり、空間も時間も0でありかつ∞であるような存在として、身体が形象化されている。この部分「8」は「裏返し裏返される超多次元の/無限変換」と締め括られる。このような哲学的命題を描くイメージの背後には数学的思考も含まれるのだが、それ以上に、イメージの大胆な飛躍、変換、敷衍、逆転を経ることで、詩集全体の輪郭は次第に明らかになっていく。例えば、次のように大胆なイメージ。
宇宙には宇宙大の/蛇が/一匹 蛇は/どこへ脱皮する(「45」)
「どこへ」と疑問が発せられているのだが、その答は、身体内宇宙へ、というものだろう。「100」に示される美しいイメージもまた無限変換の一つのヴァリエーションだ。
深呼吸/光と影をひるがえし/記憶と希望をひるがえし/水平/線/に//宇宙蝶
空間と時間を「ひるがえし」飛び続ける「宇宙蝶」こそ、宇宙大のさなぎから脱皮した存在、つまり「0と「∞」の間に永遠に無限に宙吊りにされた人間存在の象徴にほかならない。このイメージはきわめて鮮明だ。
「わからない」を「わかる」に転じていくこのようなプロセスが本詩集の骨子と言えるのだが、そこにはさらにもう一つのわからなさが待ち受けていることも事実だ。この豊潤なイメージの連鎖が、では詩人にとって(あるいは読者にとって)どのような意味作用を持ち得るのか、という問いについに詩は答えないからである。だが、その問いは最初の「わからない」とは全く別次元の問いだ。読者ひとりひとりに問いかけそれぞれに魅力ある答の発見を促す豊かな謎なのだ。ここに本詩集を読む体験の意義があると思う。
「わかる」と「わからない」の葛藤にこそ詩を読む愉しみは潜んでいる。詩のわからなさとは一種の疎隔感のことだ。それは時間的空間的距離によってもたらされることもあれば、思想的感覚的違和によってもたらされることもある。その疎隔感を、読むという行為によって克服、とは言わないまでも馴致すること。そこには必ず新奇なる発見があるはずで、その発見の愉しみこそが詩を読む快楽(のひとつ)であったはずだ。
二十世紀フランスの詩人サン=ジョン・ペルス(一八八七ー一九七五)の詩集『風』(書肆山田)を読み通すことは現代日本の読者にとってかなりの労力を要するだろう。重厚に凝縮した一冊だ。いつごろからか私たちは、このような重厚さを現代詩に求めなくなってしまったのではないか。だが、この一冊にみなぎる知的に抑制された情念は、私たちの日常をはるかに越えて、詩の中でしか味わえない新奇な興奮を与えてくれる。例えば、
風がおそらく吹き起こるだろう、そうしてわれらが一夜の「美女たち」と共に引きさらうだろう、銀箔の冴える鉄格子に厚手の白いレースが掛かった涼しい住居を、鉤つきの鎖に下がるすべてのシャンデリアを、そして家族の大鞄、衣装戸棚の夜会服、また「外国人」の身分証をも……(「風」より)
具体的な描写しかしていないのに決してわかりやすくないのは、風によって引きさらわれるものたちの列挙が詩的布置によっているためだ。このドライブ感は読者の胸のうちになんらかの新しい渦を巻き起こしはしないだろうか。詩的興奮、とでも呼ぶべき一種の異界体験を。また、次のような一節。
おお、「詩人」、おお、二つの言語を駆使する者、すべて二倍に鋭い刃をもつものの間にある者、そしてすべて係争中のものの間で論争を呼ぶおまえ自身――神に襲われた人!多義性のなかで語る人!……ああ! 鋏とたがねの両端の間、翼と茨の争いに誤って踏み込んだ人のごとくに。(「風」より)
戦時中にアメリカに亡命し、生来のクレオール性に亡命者の境涯が加わることで「二倍に鋭い刃」を体現せざるをえなかった詩人の自画像は決してわかりやすくはないが、構造化された複雑さでもって読者の精神に揺さぶりをかけてくる。この震動に身を委ねることもまた詩を読む愉しみと言えるだろう。フランス領カリブに生れて外交官として重要な任務に就きながら詩人としてもノーベル賞を受けるほどの成功を収めたペルスの作品は、半世紀も前に書かれたとは信じられないほど清新な抒情をもって読者に迫ってくる。有田忠郎の端正な訳が二十世紀半ばの歴史的名作をみごとに「わかる」現代詩として甦らせていることも瞠目に値する。
異邦人としての宿命を生きざるを得なかったフランスの詩人に対して、現代日本には自ら異邦人と化すことで自身の「わからなさ」を宿痾として生きる詩人(たち)がいる。世界中を旅してランボーや金子光晴らの詩業を追い続けている鈴村和成が、自らの詩を生み出してきた場所は意外にも「夜更けの礒子埠頭」の車の中だという。『黒い波線、廃市の愛』(書肆山田)もまた「波止場の夜が書いた詩集」(「跋」)である、と。
いつか 黒い波線の揺れるところまで/切り口からこだまして/やがて来る影たちも ひとだまのようにさわいでいるよ(「黒い波線、ある水府の消息」冒頭)
母国のしかも地元の海辺で、詩人はまるで異界に迷いこんだかのように「影たち」を感じている。「さわいでいるよ」と語りかけている相手は、おそらく自らの分身だ。この孤絶感は一見するとわかりにくいものだが、日常の中にこそ異界を見てしまう(それゆえいつも旅に憧れる)孤独者の、逆倒した生活感覚の産物と見ればよくわかる。
視差ということか/他のゾーンでは 階段のように海が/沖合いまで連なり 夜の穴は街の火を補填する 爪に散る瑕も/眠りに落ちる人の針の動きも/まばたきする間もなくて 金色の鎖が小刻みに鳴る/黒子が冷えるよ(同右、末尾)
最終行の「黒子」は「ほくろ」であり「くろこ」でもある。自らの身体に巣喰っている異邦人性こそがこの詩人の「わかりにくさ」の正体なのではないか。この違和感は詩人ひとりの宿痾ではないはずだ。
ここまでは一見「わかりにくい」詩を「わかりやすく」読む試みをしてきたのだが、それとは逆に、一見してただちに「わかる」詩がいつの間にか「わからなく」なることの快楽を味あわせてくれる場合もある。例えば谷川俊太郎の詩画集『詩人の墓』(絵は太田大八、集英社)。この詩人には珍しい物語性をもった長篇詩だ(四行二七連)。詩的自伝とでもいった趣で、別に難しいところはなく進んでいくのだが、最後に恋人にこぶしでたたかれた詩人が「透き通って」そのむこうに町や子どもや恋人たちや母親が見え、さらに「倒れかかった墓が見え」る、という展開はどう読めばいいのか。末尾部分を引用する。
その墓のかたわらに/気がつくとひとりぼっちで娘は立っていた/昔ながらの青空がひろがっていた/墓には言葉はなにひとつ刻まれていなかった
詩に対する懐疑とも否定とも見えなくはないが、あるいは自己処罰と見るべきかもしれない。詩人の墓に言葉が全く刻まれていないというのだから。もちろん、これを沈黙の喩と見ることもできる。言葉を推敲して沈黙にいたる、という谷川詩学の一環だ。この無言の墓に見るイメージは読者によって様々だろう。「わかる」詩が「わからない」結末に到ることで多様にイメージを広げているのだ。このページに付された太田大八の絵は極彩色の風景の中で墓の形が白抜きに、つまり空白になっていて、「詩人の墓」のイメージを読者が自由に思い描くことを求めているように見える。
寺西貞子詩集『遥かな風韻』(編集工房ノア)は、さりげない風景や出来事がふとした瞬間に条理を逸した夢幻へと変容するダイナミズムを主題にした作品群。人間精神の不可思議をそのまま念写したかのような「わからなさ」の部分が魅力だ。
降りつもる雪の慙愧あるや、なしか/ゆき、雪/雪の抒情が虚空へ傾く。
繊細に選ばれた音韻「あるや、なしか」と共に「虚空へ傾く」雪のイメージを自由に思い描くことは詩を読む醍醐味と言えるだろう。「まぶしい記憶」や「光の声」「六十年後の夏」といった幻想詩も秀逸。
中岡淳一詩集『宙家族』(書肆青樹社)は建築物と人体との構造的類推を主題にしている。例えば「段差の憂愁」では、中世の石畳や日本家屋の三和土の伝統に思いを馳せることで「バリア フリーという思想」への静かな批判を試みる。末尾部分のみ引用する。
こころに刻んだ記憶ではない/足裏に刻まれた記憶が削がれて/黄色く変色した眼となり/つま先が僅かな段差を/頑なに拒絶する
決して声高な批判ではなく、慎ましく静穏な憂愁の中で「頑なに拒絶する」身体が現代文明を批判していることはよくわかるのだが、その明白さに反して作者の意図がどこにあるのかはついにわからないままだ。答えはやはり読者に委ねられている。
詩誌に触れる紙幅が少なくなった(第一回ということでお赦し願いたい)。五〇冊ほど読んだ中から特に目に留まった作品を数篇紹介する。
吉田義昭「もうひとつの地球」(「鰐組」220号、ワニ・プロダクション)は、大災害のニュースについての「息子」からの問い掛け「本当のことなの」をキイワードに「本当に死ぬこと」や「本当の地球」についての思考を読者に要求する。「疑いながら、本当のという言葉をつけてはいけない。この地球はたったひとつしかないのだから。」と断言しつつも「私がこの地球で本当のお父さんになれたかどうか、私だって本当は疑ってはいる。」(末尾部分)「本当の」をめぐる微妙な疑問が深い余韻を残している。
北川朱実「インドの雨」(「石の詩」66号、石の詩会)は「その村では/人が雨になったり/雨が人になったりした。」と、魅力的なわからなさから始まって「かわいて/一刻も早く神話になりたがっているものたちが/ゆっくりと雨につかまっていく」と、やはりわからなさが心地よい余韻を響かせて終わる。中味をゆっくり読めば次第に「わかる」ように書かれているのだが、冒頭と末尾のわからなさの方にこそ作品を際立たせる独自の魅力がある。
豊崎美夜「「四季」変奏」(「アリゼ」百十六号、アリゼの会)は、タイトル通りヴィヴァルディ「四季」の言葉による変奏だが、冬から秋までの季節感を独自の言語感覚でとらえている。「複雑な音符の並ぶ冬」「一枚の春が 行ったり来たり」といった、わかるようでわからない言い回しに読者の想像力が加わることで多様なイメージが浮かぶような仕掛けになっている。技巧的な作品だ。
最後に「第三回詩学最優秀新人」の二人に触れておきたい。文月悠光はまだ中学生ながら詩のわからなさに自然体で身を委ねる資質をもった詩人。「かかとからつま先へ。水の穂になでられた足が波に映って、きりたつ。足裏はしろたえの丘である。波にこだまし、丘は光を芽ぐむ」(「海に立つ」「詩学」672号)物語性のある散文詩だが、情景描写が特異なニュアンスを孕んでいて、今後が期待される個性の持ち主だ。
もう一人の「最優秀新人」犬飼愛生は詩誌「Pechika」6号(ペチカ企画)に「喫茶シャガールにて」を載せている。「自分の心を捻り出すようにして/【それ】の残骸を見た」「【それ】の主な成分は/若さと攻撃性でできていて」「途中で【それ】を再構築しようとするが/やはりうまくいかない」と繰り返される【それ】を例えば「詩」に置き換えてみたい誘惑に駆られるが、やはり【それ】は【それ】なのだろう。未成の詩、あるいは詩のエッセンスのようなものを「また風呂敷に包んで/家の見えないところに仕舞った」と作品は終わる。このわからなさを出したり仕舞ったりしながらこの詩人は書き続けていくだろう。今後の飛躍に期待したい。