診察などの内容は、素人が記録のために書いたものです。
私の聞き違いや勘違いもあるかもしれません。
おかしな記述がありましたらメールか掲示板でお知らせいただければ幸いです。

2004年10月

2004/10/14(木) 思いがけない知らせ    

この日は東京出張で、お客様のところでちょっと嫌なおじさんが出てきて気分悪・・・もあったものの、前の会社の同僚と久しぶりに会って昼食を楽しんだりとそれなりに楽しく過ごした1日。東京から松本に戻って、会社に戻って少し仕事をして、家に帰ると、夫も娘も寝ている。テーブルの上に「大事な話があるので、どんなに遅くても必ず起こして」と夫の書いたメモが置いてあった。うーん、何だろう、会社が倒産でもしたかしら…とかくだらないことを考えながら、お風呂に入って、その後夫を起こした。

何ヶ月か前から夫は1日中頭が痛いと言っていたので、いつも「病院に行ってきたら?」と言っていたのだけど、この日病院に行ってきたということ。そして、頭部CTを撮ってみたところ、なんと脳腫瘍と言われたというのだ。さすがの私も驚いた。頭痛いのが治らないと、冗談で「脳腫瘍かもー」なんて言うことあるけど、まさか本当にそんなことがあるなんて。大きさは約2cm。普通はその程度の大きさでは自覚症状は出ないことが多いので、ラッキーだったのかも、と言われたのだという。会社でも頭が痛くて頭を抱え込んでいたら、夫の上司が、そんなに痛いのなら病院に行ってこい、と言ってくれたらしい。それにしてもそんな状態なのに、娘の送り迎えや家事をお願いしてしまって・・・申し訳ないことをしてしまった。

夫は淡々としていた。脳腫瘍と言われたときには、体中から汗が噴出して気分が悪くなって10分くらい横にならせてもらったのだそうだ。でも少し休んだらすっかり落ち着いたということ。これまで私が乳癌の治療に前向きに取り組んでいる姿を見てきたので、自分も見習おうと思った…と言ってくれたので、とても嬉しかった。来週検査のために入院するという。ショッキングなことには違いないけど、いい結果を信じて前向きにやっていくしかない。それにしても、こんなに色々と重なってしまうとはどういうことだろうか。本気でお払いをしてもらおうと話し合った。

夜はいつも私が娘と一緒に寝るのだけど、夫が眠いというので、娘と一緒に寝てくれた。やはり何だかんだと言ってもとても疲れているのだろう。私はつい夜更かし・・・寝るとき夫を見たらよく寝ていたので安心した。ときどき乳癌と告知された直後の方からメールをいただいて、ご飯も喉を通らない、夜も眠れないという方もいらっしゃる。私はぜんぜんそんなことなかったのだけど、眠れないということほど辛いことはない。だから夫がぐっすり眠っているのにはホッとした。でも食事は昼食、夕食ともほとんど食べられなかったそうだ。

私が乳癌と言われたときは、さすがにその場で涙が流れたけど、それっきり。あとは平然としていた。そのときの私とこの日の自分を比べて、夫は私の方が気丈だった、と言ってくれるのだけど、病気が全然違うもの。脳の手術をするかもしれないと言われたら私だったどこまで平静でいられるか。はっきり言って、乳房の手術なんてなんでもなかったと思う。良性であったとしても、脳の病気というのは大変なことだ。乳癌なんて・・・全然たいしたことではないように思えてきた。

このとき、夫はどんなに不安だったことだろう。夫は、私が乳癌の治療に前向きに取り組んでいるのを見ていたから、自暴自棄にならないで自分も見習おうと思ったと言ってくれた。私でも役に立てたことがあったんだなーと嬉しく思った。

実は私達夫婦は決していい関係を築いてきたとは言えなかった。私は他の乳癌の方にはいつも「たくさん家族にも甘えていいのよ」と言っているけど、自分自身は決して夫に甘えることはなく、すべて私自身の中で対処、解決してきていた。それもいけないのだろうとは思ってはいたけれど。そしてそのくせ、決して大手を広げて「甘えていいよ」と言ってくれない(あるいは態度でも示してくれない)夫に対して大きな不満を持っていた。今から思えば、夫も怖かったのだと思う。たぶん、私がこういう大きな病気になってしまったことについて、私以上に不安だったのだろう。どうしていいのかわからなかったのだろう。

夫の病気をきっかけに、これからは夫に対して、母のような気持ちで優しく接してあげられることができるような気がしていた。少なくとも自分が癌になって夫にしてほしかったことはやってあげようと思った。これがきっかけで、少しは夫婦関係もいい方に変われるかもしれないと。私が乳癌の治療に取り組んでいる姿が云々・・・という話を夫がしたのは始めてだった。夫自身も、こういうことでもないと、なかなか率直な話ができないので・・・と言っていた。そういう関係を作り上げてしまったのは、たぶん私の責任なのだろう・・・。 

2004/10/15(金) 情報収集

ちょうど私の乳癌の診察日だったので、夫の病気のことを私の先生に話をした。そして図々しくも、他の病院も含めてどの病院がいいだろうか?ということを聞いてみた。松本平で脳外科の症例が多いと思われるところ、伝統があるところなどの情報をいくつか教えてくださった。大きさが約2cmという話をしたところ、頭が1日中痛いというのだったらもっと大きくなっているのかと思った、と私の先生もおっしゃっていたので、やはりこの大きさで見つかったことはかなりラッキーだったのかもしれない。「専門が違うのであまり役には立てないけど、何かあったらいつでも相談してください。」と言ってくださったのがとても嬉しいことだった。

それから私の乳癌の患者会の方を通じて、家族が脳腫瘍の手術をされたという方、また手術を受けられたご本人と話をすることができた。どちらの方も夫が検査を受けた病院での手術で大変良かったということだった。それから他の方から病院についての情報も詳しく聞くことができた。これだけ短い期間に情報が収集できたのも患者会がなければありえなかっただろう。夫もとても喜んでいた。

土曜日の夜は、夫が「たまには一緒にビールでも飲むか」というので、娘を寝かせた後、起きてビールを飲みながら話をした。久しぶりにしみじみと話し合った気がした。これまで決していい関係を築いてきたとは言えない私たち夫婦だけど、これをきっかけに少しはいい方向に進めるような気もする。そういう意味ではある意味良かったのかもしれない。夫や私の両親には、検査結果が出るまでこのことは言わないでおくことにした。

 

2004/10/18(月) 検査入院前夜

明日から夫の検査入院。今日も夜は夫が娘と寝てくれた。夫と娘が寝たあと、ネットで脳腫瘍の闘病記をいくつか読んでみた。自分の乳癌とのおつきあいの中では、ネットのおかげで救われてきた部分がとても大きい。だからこんなことがあると、すぐにネットを頼ってしまう。

自分の病気のときもそうだけど、まず探すのは専門的なサイトではなくて、患者本人が立ち上げているサイトだ。書いてある内容も患者がわかる言葉で書いてあるし、何よりも患者の気持ちを感じ取ることができて・・・とても力になる。でもこうした患者本人のサイトを探すのは怖いことでもある。乳癌と言われて最初にたどりついた方のサイトでいきなりトップページに「○月○日永眠いたしました」の文字を見たときのショックと言ったらない。胸骨傍リンパ節転移が見つかったときたどりついた方のサイトもやはり既に亡くなった方のサイトだった。誰にも言わなかったけど、そのときは「ああ、私も死んじゃうのかな・・・」と思って何とも言えない気持ちになったものだ。

幸い私が見たいくつかの脳腫瘍のサイトを立ち上げている方は今も元気に前向きに生きていらっしゃるようで、それはとても励みになることだった。そんなサイトを見たせいか、時間がたったせいか、ことの重大性がようやく感じられてきた。落ち込んでもしょうがないし、とにかく前向きにがんばることだ、と自分の乳癌の延長線上のようにケロケロとしていたが、それはやはり当事者ではないからだろう。時間がたつにつれ、夫がどんなに不安な気持ちに包まれているのだろうか、そして取り乱すこともなく冷静にしているためにどれだけの精神力を必要としているだろうか・・・ということを考え出すと・・・涙が出てしまった。自分の病気のことでは告知のとき一度涙を流したっきりの私だけど、こうして一人で色々と考えいるととめどもなく涙が流れてくるのだった。

 

2004/10/19(火) 検査入院・CT/MRI

今日から夫が検査入院。ちょうど私が仕事で甲府へ出かける予定だったので、そのついでに病院まで送り届けた。「絶対良性だからね、大丈夫だからね」と励ましたいけど、何か言ったらどっと涙があふれてきそうで・・・。無言になってしまう。夫は娘にあまり厳しくならないように、夫がいないときは甘すぎるくらいでもいい、とやはり娘のことが一番気がかりな様子。私もやっとのことで、「きっと良性だから検査がんばってね」と言って、病院で夫と別れた。

夫と別れたらやっぱり涙が流れてきた。一人で高速を運転しているとついつい余計なことを色々と考えてしまう。運転中に何度も涙があふれてきた。一人で遠出するのは気楽で好きなんだけど、こんなときは良くない。話し相手がいたり、事務所にいて次々とやることがあれば何も考えずにすむから、その方がいい。会社に戻って細細としたことをやっていると、どんどん時間がたってありがたかった。仕事をしていてよかった。一日家にいたらぐったりと落ち込んでしまいそうだ。

そしてありがたいのはやはり娘の存在だ。仕事が終わって娘を保育園に迎えに行き、「お父さんの病院に行く?」と聞くと「うん」という。「遊ぶ時間なくなっちゃうかもしれないけど、それでも行きたい?」と聞いても、やはり行きたいという。この子はお父さんっ子だからね。病院に行くと、娘の顔を見て夫はとても嬉しそうだった。今日はCTとMRIということで、たいした検査もなく、退屈にすごしたようだ。

 

2004/10/20(水) 検査入院・脳血管造影検査

今日は、脳血管造影検査というのを行う。この検査は家族の同意が必要なので、これまでの経過の説明も含めて夫婦で話を聞いた。まずCTやMRIの検査結果の説明があった。場所は中央よりやや右側後ろ寄りの部分。かなり中心に近く、静脈が入り組んでいる場所ということ。大きさは2cm×3cm程度。脳の他の部分は意外と圧迫していないようで、塊としての性格は弱いということ。最初髄膜腫と思われるという診断だったが、そうではないかもしれないということ。髄膜腫であれば、ほぼ良性と考えていいとのことだった。脳血管造影検査は、手術の際に重要な血管の配置を見るための検査。また、血管の染まり具合によって悪性の可能性を見ることもできる。血管がよく染まっているほど悪性の可能性が高いということ。

その後、検査を行う先生の説明があった。かなり具体的に検査の説明があった。ただ造影剤を入れても、全身に回ってしまっては、例えば造影剤を100cc入れてもそのうち脳に行くのは5cc程度にしかならないということ。無駄が多すぎるので、首のあたりまでカテーテルを入れてそこから直接造影剤を脳の血管に入れるということ。カテーテルは、お腹の下のあたりから入れるやり方が多く行われているが、この病院では手首から入れる方法をとっているといういうこと。従来のやり方だと、検査後6時間動けないのだけど、手首からだと2時間ですむ。それも手首さえ固定していればいいので、食事したりも普通にできる。手首からカテーテルを入れるときは局所麻酔を行う。カテーテルが進んでいるときは何の痛みもないということ。造影剤が流れるときは顔が熱くなるということだった。話を聞いているだけでかなり気分が悪くなった。自分の手術の説明を受けたとき以来の気分悪さだ。今時の病院はどこもきちんと説明してくれるのはありがたいけど、そこまで詳しく説明しなくても・・・と思ってしまうぐらい具体的で細かくて。

それから副作用の説明。命に関わるような重大な副作用もあるので家族の同意が必要なのだけど、その確率は交通事故にあう確率よりは低いということ。またこの先生はこれまで1000例くらい同じ検査をしているが、そのような事態は一度もなかったということ。
夫はこの検査は随分痛いらしいよ、と言っていたけど、説明を聞いた限りではそんなに痛いこともないような感じがして、「そんなに痛いわけじゃないみたいだね」と夫と話をした。夫の手をとるとじっとりと汗ばんでいたので、そのことを言ったら、「やっぱり緊張しているのかな」と言っていた。

しばらくして看護師さんが来て、肩に筋肉注射。そして検査へ。検査は1時間くらいということだったが、結局2時間くらいかかっただろうか。途中で検査室の前に行ったら、ちょうど検査の先生が出てきて、「無事終わりました。せっかく造影剤が入っているので、悪性の場合他からの転移という可能性もあるので、MRIをとっています。」と教えてくださった。先生の胸の当たりは汗でびっしょり濡れていた。検査を受ける側も大変だけど、する側はもっと大変だ。どれだけの集中力を要するのか・・・。

MRI検査も終わって、夫が病室に戻ってきた。割りと平気そうで、すぐにトイレに行ったりしていた。造影剤が入るときに熱くなるのは何ともいえず嫌な感じだったと言っていたけど、事前にたくさん脅されていたので、意外と大丈夫だったと言っていた。検査の結果の説明は翌日になるということだった。

 

2004/10/21(木) 検査結果の説明と退院

昨日の検査結果の説明を受けた。検査の結果、夫の腫瘍は脳の膜から出ているものではなく、脳の内部から出ているものということ。膜から出ているものであれば、昨日話があったように、髄膜腫という診断となり良性と考えていいので、それを先生も期待されていたのだけど、そうではなかったということ。血管はきれいだということだったので、たくさん染まっていれば悪性の可能性が高いという昨日の話とあわせて考えると、悪性ではない可能性が高いと思っていいのではないか・・・これは半分自分への言い聞かせ。最終的に良性か悪性かは取ってみたいとわからないということ。

手術は5時間程度の見込み。静脈が入り組んでいるところだが慎重に行うということ。入院日数は10日〜14日。え、そんなに短いの?という感じでびっくりした。私と一緒じゃん。1ヶ月とか2ヶ月とか入院するのかと思っていた。「最低2週間は休みを取ってください」と言われて、え、退院後すぐに仕事もできるの?とまたまたびっくり。退院後も当分自宅で安静かと思っていたので。そういう話をきいていると、だんだんそんなにたいしたことないのかも・・・という気になってきた。それは当事者じゃないからなのかな。夫はやっぱりそんな風には感じられないのだろうな。

脳腫瘍の原因・・・はっきりしたことはわからないということ。ストレスが関係しているという話もあった。自分が乳癌になったことで、自分一人がストレスを抱えているような気になっていたけど、たぶん私は夫にもっと多くのストレスを与えていたのだろう。いつ頃からあったのか?ということもよくわからないということだった。

今後については、別の病院の話もいくつか聞きたいということをお願いして、快く承諾していただいた。私の先生の話や乳癌の患者会を通じて情報収集した中で、二つの病院宛に紹介状を書いていただくことになった。

説明が終わって会計ができるまで夫と話をした。後遺症で車の運転できなくなったりすることもあるのかな・・・と私も心配していたことだけど、夫がその話を始めた。都会ならともかく、この田舎では車の運転ができないというのは大きな問題だ。夫は、「そしたら自転車で会社に行けはいいことだし」と言っていた。自宅の最寄駅までだったら私が送り迎えするよ、と言ったけど、今既にいっぱいいっぱいの私にこれ以上負担はかけられないと言ってくれた。気持ちをしっかり持っている夫を改めてまぶしく思う。夫を家まで送って、会社に戻って仕事をした。

 

2004/10/22(金) 義父母と

この日は私の乳癌の患者会の集まりがあった。この患者会を通じてたくさんの貴重な情報をいただいたこともあり、お礼もしたくて久しぶりに顔を出した。ご家族が夫が検査を受けた同じ病院で脳腫瘍の手術をされたということで電話で話をきかせていただいた方もいらっしゃっていた。そのご家族は今は後遺症もなくとてもお元気ということ。もともと大変明るい方なので「たいしたことないわよ、大丈夫!」と言ってくださった。

他の方にも夫の脳腫瘍の話もしたところ、患者会の中でも親しくしている方が、やはり脳腫瘍の手術を受けて今は元気にしている子供さんが知り合いにいるということで、話を聞かせてもらうことができると思うと言ってくださった方もあった。やはり今は元気で、普通に学校に通っているということ。そういう話を聞かせてもらうのが一番心強いことだ。それにしても、脳腫瘍は1万人に1人という話だけど、結構いるものだね、と夫と話をした。この地域に何か脳腫瘍になりやすい要因でもあるのかしら??

夫の両親、私の両親とも、退院してから夫が連絡してくれた。夫の両親が今日こちらへ来ることになっていたので、そんなときに家をあけるのも・・・とも思ったけど、夫も患者会の方にお世話になったことがあって私が今日行こうと思ったことをわかっていて、「行っておいで」と言ってくれたので、その言葉に甘えて出かけてしまった。

家に帰ったときには夫が一人で起きていた。しばらくして娘を寝かせつけてくれていた義母が起きてきて3人で色々と話をした。患者会の集まりで、脳腫瘍を体験して今は元気に過ごされている方の話をまたきいてきたという話もした。

週末は義父母がずっといてくれた。当たり前だけど、最初はかなり動転していた義母も、我が家で週末を過ごすうちに、しっかりしている夫や私を見てとても安心した、来てよかった、と言ってくれた。

 

2004/10/25(月) セカンドオピニオンその1

検査を受けた病院の他に、松本平にある2つの病院で話を聞くことにした。今日はまず一つ目の病院。11:30の予約だけど、どうせしばらく待つだろう・・・ということで看護師さんに聞いてみたら、やはり1時間くらいは待つことになりそうということ。「お昼食べてきちゃおうよ」と夫に提案したけど、結構まじめな夫は、自分は待っているから一人で食べておいで・・・と。仕方ないので一人で病院のレストランを探してのぞいてみた。結構こぎれいなレストランで、ちょっとお値段高かったけど、パンなど買って落ち着いて食べる場所もないようなのでレストランで食事をした。なにしろ会社を抜け出す時間を最小限にしたいので、待ち時間を最大限に有効活用したい!と思ってしまうのだった。

食事を済ませて待合室に戻ってからもだいぶ待った。やっと名前を呼ばれて診察室へ。この病院は救急病院なので、腫瘍の手術はあまりやらない。腫瘍の患者さんが来た場合は別の病院を紹介している・・・ということだった。夫が検査を受けた病院の先生も手術が上手い優秀な先生なので、色々な病院でよく話をきいて決めてくださいということだった。この病院にはガンマナイフの設備がある。それもこの病院で話を聞こうと思った一つの要因だ。ガンマナイフの先生は別の先生になる。検査を受けた病院の先生もおっしゃっていたことだけど、ガンマナイフは他の場所からの転移などの治療に使うことが多く、夫のように原発と思われ、しかも良性か悪性かはっきりしていないものをガンマナイフで治療するということはあまりないということ。しかし、ガンマナイフの先生は腫瘍の患者さんを多く診ているので、また違った話を聞くことができるのではないかということだった。

ガンマナイフの方もかなり待たされそうなので、私はもう帰っていいと言ってくれたので私は病院を後にした。結局その後3時間くらい待ったらしい。それでも有意義な話は聞けたようだ。

夜、私の乳癌の先生のお知り合いの方から電話があった。夫の脳腫瘍の話を私の先生にしたとき、先生のお知り合いで脳腫瘍の手術を受けられた方がいらっしゃるという話が出たので、厚かましくも直接話を聞かせてもらえないだろうか?とお願いしてみたところ、早速連絡をとって我が家に電話してもらえるようにしてくださった。かなり珍しいタイプの腫瘍だったということだが、現在は内科の開業医として活躍されているということで、大変心強い方のお話を聞くことができて夫も喜んでいた。どの病院でもどうしても後遺症の話が出てくるのだが、医者としては最悪のケースも説明しておかないといけないからそういう話を必ずするけど、あまり気にすることはないという話もしてくださって、現役のお医者様がおっしゃることとあって、余計に心強く感じる。遠方からだったのにずいぶん長電話になってしまったようで、申し訳なかった・・・けどとてもありがたかった。

 

2004/10/26(火) セカンドオピニオンその2

今日もまた別の病院へ。病院へ行く途中の道が工事で混んでいて、病院に着くのがかなり遅くなってしまった。11時に受付だったのだけど、私は11:30位までに着くようにすればいいかな?なんて夫と事前に話をしていて、結局11:30を少し回ってしまった。脳神経外科の待合室に行っても夫の姿が見えない。夫も工事渋滞に巻き込まれたか?と思いボケッと待っていたら、診察室から夫が出てきて、「いたいた!」と・・・。えー、もう既に診察室に入っているとは夢にも思わなかった。病院というところは待たされるのが当たり前・・・という感覚があって・・・。夫がまだ来ていないか聞いてみるとか全然考えもしなかった。反省。

診察室に入ると、ちょうど診察が終わったところということで、これから説明が始まるところで、一応大事なところには間に合ったみたい。検査を受けた病院でのフィルムを見ながら説明を受ける。脳の小さな模型があって、それを示しながら腫瘍がある場所などを教えてもらった。検査を受けた病院と同じように、髄膜腫とは考えにくいということで、星状膠神経腫の可能性が高いということ。グレード1〜4まであり、1は治療しない(経過観察ということだろう)。脳腫瘍の場合は、50%の患者がなくなる年数で考えるということで、グレード2だと15年。グレード4になると2年ということ。夫の場合はグレード2と思われるということだった。

この数字、ここに書こうかどうか悩んだのだけど・・・。今健康な人にとっては15年間で半分の人がなくなるというのは、かなりショッキングな数字かもしれない。でもこの数字は夫にとっては朗報だったようだ。それだけ今までかなり深刻に受け止めていたということだろう。この数字は治療しなかった人も含まれているし、様々な治療を受けた人全体での数字だ。だからベストの治療を受けた人に限って考えればもっといい数字になるはず。そして医学は常々進歩しているのだから、過去の治療を受けた人達の数字より今現在の治療を受ける方がもっといい数字になるはずだと信じている。

これは自分の乳癌でもいつも言い聞かせていることだ。私のような転移癌はよく言われるX年後の生存率というものはかなりショッキングな数字になっていると思う。私はそのことをはっきり聞いたことがない。私の先生は生存率の話はあまりしたがらない。治療の効果を比較するためなどに私がしつこく質問するとデータを見せてはくれるけど。過去の治療を受けた人の数字だから患者にショックを与えるだけになる可能性もあるので言いたくないのだそうだ。それに最新の治療を受けていればもっと数字が良くなっているという確信を持っていらっしゃることもある。だから私もそういう数字にいたずらに振り回されないでいきたいと思う。夫の数字だって同じことだと思う。

今後の治療については、やはり手術で可能な限り取るということ。どの病院でも同じ話だ。この病院で手術した場合、入院は1ヶ月程度になるだろうということ。手術の結果によって放射線治療が必要となれば2ヶ月くらいになるという。最初の病院とは随分違う。

話が終わって診察室から出ると、夫が「10年20年は生きられそうだな」と明るい顔をして「握手」と手を差し出してきた。しっかりと握手をして、今夫は始めて気持ちが軽くなったのだ、とこのとき始めて気付いた。私の方がひとりで意外とたいしたことないのかも・・・と勝手に気楽になっていたけど、夫の気持ちをわかっていなかったな・・・と思う。とにかく良かった・・・。

3つの病院で話を聞いたわけだけど、これまで情報収集した結果も含めて、夫はこの病院で手術をすることに決めたようだ。

 

2004/10/29(金) 再び検査を受けた病院へ

この日は夫が一人で検査を受けた病院へ行き、別の病院で手術を受けることを伝えた。先生は2時まで手術で、その後外来だったそうで、改めて夫と「すごいね」という話をした。私の先生を見ていても思うのだけど、本当にものすごい激務だと思う。常々感謝しています・・・。

ところできっかけとなった夫の頭痛だけど、どの病院でも、腫瘍と頭痛が直接関係あるかどうかわからないと言われた。この日も「頭痛のことも気のせいかもしれないし、あまり気にしない方がいいんじゃない?」とあっさりと言われたということで、ちょっと笑えてしまった。松本平の脳外科の先生4人に話を聞いてもみな同じことを言うので、この頭痛って一体???という感じだけど、もし腫瘍と関係なかったとしたら、それこそラッキーだったと言うことだね、と夫と話し合った。

 

 

 

2004年11月

手術は12/8ということで、ずいぶん間があいてしまった。夫は頭痛がどんどんひどくなって辛いようだった。やはりただ待っているだけ・・・という時間は精神的なストレスを増やして、そんなことも関係あるのではないかと思ってしまう。それでも、二人とも絶対生きるという強い意欲を持って、必ずいい方向に進むと信じていた。娘のためにも必ず行きぬいていくと。

その一方で、私はストレスを感じ始めていた。頭が痛いと頭を抱え込んでゴロゴロしている夫が居間にいることがストレスになりはじめていた。頭が痛いのなら寝ていればいいのに・・・。何もわかっていなかった私はそんなことを考えていた。入院は11月の終わり。夫が入院すれば少しは気が楽になるだろうか。そんなひどいことを考えていた。手術すれば全てが好転すると思っていたから。それにしても、ずいぶんひどいことを考えていたものだ。夫の痛みがどれほどのものなのか、私は何もわかっていなかったのだ。

 

 

2004年12月

 

2004/12/4(土) 手術の説明

気がついたら前回の記録からもう1ヶ月以上たっていたんだ・・・。この1ヶ月は自分のセカンドオピニオンのことで精一杯で夫のことまで気が回らなかった・・・というのも正直言ってあるかな。手術する病院を決めて手術の申込みをしたものの、入院が11/29で手術が12/8と、まあ間が空くこと、空くこと。最初は何事もなかったかのように(それは私だけ?)平和に穏やかに毎日を過ごしていた我が家だけど、夫の頭痛はどんどんひどくなっていって、家にいるときの半分くらいは寝こんでいることも多くなった。頭痛は脳腫瘍と直接関係あるかわからないと言われているのだけど、関係あるにせよ、別の原因にせよ、1ヶ月の間にそんなにすごい勢いで悪化するというのも考えにくい気もする。夫自身も言っていたけど、精神的なものも大きいのかもしれない。手術まで余りに間が空いてしまうというのも不安な気持ちを増大させるひとつの要因になるのではないだろうか。

そんなこんなでやっと迎えた入院の日。それもなんで手術の一週間以上前に入院しなければならないか、さっぱり???状態だったのだけど、月火水と知能テスト、視野の検査、心電図、肺活量等の検査を行って、木金は何もなかったそうだ。手術前日の火曜日はMRI検査があるみたいだけど、月曜日は何もないんじゃないかなー。やっぱり無駄に長く入院している気がしてならない。

この週末は外泊許可が出て金曜日の夜から夫は帰ってきている。夫の義父母も来てくれて、一気に我が家は賑やかになった。土曜日は手術の説明のため、夫と二人で病院へ行った。

まず説明書が渡され、そこに書いてある内容に沿って説明を受けた。まず何故手術が必要なのかということの説明。夫の腫瘍は神経膠腫である可能性が高いということ。これは最初にこの病院に来たときにも聞いたことだ。神経膠腫は良性の場合が多いが、その性質において悪性の一面を持つという。それは浸潤性ということで、周りの正常な細胞に浸潤していく傾向があるという。夫の腫瘍は画像上では境界がはっきりしているように見えるが、実際には手術のときになってみないとわからないということ。確実に取り去るために3cmのマージンを取って腫瘍を摘出すれば植物状態になってしまうという。脳の手術の難しいところはこの点だ。確実に腫瘍を残さないようにすることだけを考えていればいいわけでなはく、できるだけ後遺症を残すような脳の損傷を避けていかなければならない。

次に手術の方法についての具体的な説明。この辺は自分の手術のときもそうだったけど、細かく詳しく説明されて・・・あまり気分のいいものではない。でも自分の手術のときは、話の途中から相当具合悪くなったけど、今度は割りと冷静に聞いていられたのは、やっぱり自分のことではないからだろうか。冷たい妻だね・・・。神経膠腫は見ただけでは正常細胞と見分けがつかないということで、ナビゲーションシステムを用いるということ。蛍光色素を用いてより確実に腫瘍を摘出する方法もあるということで、その方法について別の先生から説明を受けた。この方法はまだ研究段階なので、研究費として病院側で費用を負担するということで、患者側の負担はないそうだ。研究段階とは言っても最近では大学病院以外でも行われるようになってきているということで特に危険はない。手術までに承諾書を出せばいいということだけど、その方法でお願いすることにした。

そして合併症の説明。腫瘍のすぐ奥に脳弓というものがあり、これを損傷すると記憶に障害が出るということ。短時間の記憶はできても5〜6分立つと忘れてしまう・・・という説明で、夫が「今もそういう状態ですから」と言ったけど誰も笑う人もなく・・・ちょっとしらけちゃったかな・・・。でも私も思ったよ、ああーじゃあ私の脳弓もいかれてるかも・・・って。とにかく物忘れ激しいからね。腫瘍のすぐ手前には左半分のものを見る機能があり、これを損傷すると左半分の視野が欠けてしまう。これは最初の病院のときから説明されていたことだ。そして腫瘍を取り囲むように脳梁という繊維がある。脳は左右にわかれているが、この脳梁が左右をつないでいるということ。ここを損傷すると、左視野で見たものや左手で触ったもの(脳の右側の働き)が何かわからない(脳の左側の働き)という症状が起こるということ。脳弓については、左右に存在し通常左側に機能が多いので症状が出ない可能性が高いが、症状が出た場合はリハビリが必要となる。視野については障害が起こった場合、回復はしない。脳梁については大きな障害にはならないだろうということ。

さらに腫瘍の周囲は静脈が多くある場所で、静脈を傷つけると大きな後遺症が残ってしまう。このことも最初の病院のときから説明されていたことだ。静脈を傷つけないようにするということ。

腫瘍摘出後、10日くらいで病理結果が出るので、その後の治療(抗がん剤、放射線治療、無治療等)が決まるということ。

説明をしてくださった先生は夫の主治医ということだが、手術は教授が行うということで、その教授に夫はまだ会ったことがないという。手術の前に少しの時間でも話をしておいた方がいいということで、月火のいずれかで時間を作っていただけるそうだ。脳外科の手術はとにかく体力勝負なので、教授と言われると気になるのが年齢。夫も同じことを考えたらしく、「おいくつくらいの方ですか?」と聞いていた。幸いそんなにお年ではなく(失礼!)、「県内で一番手術が上手いから教授になったと思ってください」と言われて、夫も相当心強く思ったようだ。最初にこの病院に来たときに外来で話を聞いた先生は術後の治療が専門ということで、術後の治療方針などはについてはそちらの先生が中心になるらしい。今説明をしてくださっている先生も手術にも立ち会うということで、目に強い光をあてたときに脳の視野をつかさどる部分が反応するかどうかを見たりというようなことをなさるということ。それぞれの先生に専門分野があって、チームを組んで手術にあたるということだ。大きな手術だからということもあるだろうけど、大学病院だとやはりずいぶん違うなあという印象を受けた。

手術は朝8時半から始まり、暗くなるまでには終わるでしょうということ。私もその日は会社を休んで1日病院にいようと思う。

色々怖いような話も聞かされたけど、医者というものはとにかく最悪のことまで説明しなければならないものだから・・・と夫も言っていて、それより画像上のことであっても、境界がはっきりしていることなどはいい情報だ。ずいぶん長かったけど、やっとここまで来たという感じだ。本人はきっと不安な気持ちでいっぱいだと思うけど、当日の朝も娘も連れていって元気を分けていきたい。きっと上手くいくはず。

 

2004/12/7(火) 手術前夜

手術前夜はみんなでホカ弁買って行って、病院でゆっくりしようと話していたのだけど、義母は先に帰って食事の準備をしてくれると言い出したのでお願いすることにした。義父が体調があまりすぐれなくて病院に来れないので、一人にするわけにも行かないというのもあるのだろう。

仕事が終わって病院に着いたときには義母は帰った後で、娘は残っていた。前日に3人でゆっくり過ごせて良かった。娘にも「お父さん頑張って」の握手をさせた。私達が帰るときは、いつものように病院の玄関まで送ってくれた。病院を出るとき、夫の手を握ったり、その他のスキンシップ・・・別にたいしたことはしてません・・・。「頑張ってね」と伝えた。私が病気になって一番求めていたのは夫とのスキンシップだった・・・だから・・・いっぱい私の体の暖かさを伝えてあげたい。自分の病気がなかったら、ここまでしなかっただろうな・・・と思う。

 

2004/12/8(水) 手術

手術は8時半からなので8時頃義母と娘と病院に行った。善光寺の病気平癒のお札も持って行って、手術室には持っていけないけど、病室に置いておいた。「南はどっちだっけ?」と大騒ぎ。いよいよ時間になり、ストレッチャーに乗って手術室へ。移動の間もずっと夫の手を握っていた。家族が行けるのは手術室のある棟のICUのフロアまで。夫はエレベーターで行ってしまった。

朝からバタバタとしていて家の中がゴチャゴチャ状態なので、一度家に帰って、家事をしたり、今日1日の待ち時間を有効活用するための準備などした。家を出て、銀行の用事を済ませたり、自分の高額療養費の申請。病院についたのはお昼を過ぎていて、義母と昼食をとりながら話して過ごした。義母も買物や義父のことが気になるということで、一度家に帰って行った。その後は手紙を書いたり、年賀状の宛名書き、本を読んだりして過ごした。まあ、どうしてこんな状況でそんなに冷静に過ごせるの?と言われそうだけど。色んな意味で心が麻痺しているのだろう。別にオロオロしてもしょうがないし、当分は間違いなく手術は終わらないわけだし・・・と妙に冷静にかまえてしまう。

夕方には娘も来て、お絵描きをしたりしりとりをしたりして相手をした。5時〜6時頃終わるという話だったと思うけど、6時15分くらいになっても呼ばれないのでスタッフステーションに様子を聞きに行こうとしたら、ちょうど看護師さんが私達を呼びに行こうとしているところだった。手術は終わったのでICUに行ってくださいということ。ICUへは小学生以下の子供は入れないということだったが、病棟の看護師さんに聞いたら「大きいし大丈夫じゃないですかね」と言ってくださった。でも実際には娘はやはりICUで夫に会うことはできなかった。

ICUに入ると、執刀された教授の先生が出ていらっしゃった。お礼を言って、手術結果の説明は手術前の説明と同じ先生がしてくださった。少し時間がかかってしまったが、予定どおりで特に途中で何か起ったわけではないということ。術前、術後のCTの写真を並べて説明を受けた。予定していた部分はほぼきれいに取れたということ。脳の構造物を傷つけたりもしていないということで、一安心だ。ただ、予定していた場所の他にも蛍光色素に染まっていた部分があったが、その部分まで切除すると後遺症が残る可能性が高いことと、蛍光色素に染まっていたからと言って必ず浸潤しているとは限らないということから、今回はその部分は何もしていないということ。

術中の迅速診断の結果では、最初に予想されていたとおり、神経膠種でグレード2。神経膠種は病理学的には良性だが、5年〜10年の間に悪性転化する可能性があるということ。可能性があるというよりは、悪性転化することが多いということだった。この話のときに、「ご本人がいらっしゃらないので言いますが」との前置きがあったので、「本人には話されないでしょうか?」と聞いたら、「ご家族の判断になります」と言われたので、本人は全てを話してほしいはずだと伝えた。治療開始前のアンケートでもそう書いてたじゃん。大体別に本人に言うとか言わないとかそんな深刻ぶる事ではないと思うけど。義母はこの話を聞いて「5年後にはほとんどが悪性になる」と拡大解釈してすっかり落ち込んでしまったのだけど、それもそんな余計なことを言われたからというのもあるんじゃないかな・・・。それに、先生眉間に皺よせて、いかにも深刻そうな顔で話されるのだもの、そんな顔して説明しちゃダメよ。手術直後でお疲れだっただけかもしれないけど。

摘出した部分と、浸潤が疑われる箇所の一部の組織を病理検査して、その結果は7〜10日後になるということ。全てはこの結果を見てからだ。それによって、今後の治療方針も決まってくる。

説明を聞いた後、夫に会った。話も出来た。頭が痛いと言っていた。術前からの頭痛がやはり治まらないらしい。やはり腫瘍とは関係なかったのか・・・。精神的なものでは・・・ということであれば気持ちが落ち着いてくれば良くなってくるのだろうか。だといいけど。娘はやはりここまで来れなかったことを言うと、「ジュースでも買ってやって」と何度も言っていた。話もできて、私のことも娘のことも気遣ってくれるくらいなので、脳の手術をした直後ということを考えればものすごいことに思える。

不安材料はあるけど、今は予定どおりに手術が終わったことを素直に喜びたい。後のことは色々考えないことだ。手術の傷や痛みはこれからは回復する一方だもの。

 

2004/12/9(木) 手術翌日

朝、ICUの面会時間は7:30〜8:00ということなので、出勤前に病院に行った。手術の翌日から通常勤務なんて、冷たい妻だろうか。夫は昨日とあまり様子は変わらないようだ。夫は身体のあちこちが痛いと言っていた。私の化学療法のことを気にかけてくれて、今度は私の方が頑張れ・・・と。こんなときに私のことなんて気にしなくていいのに・・・とちょっとウルウルしてしまった。

午前中にはICUを出て個室に移ったそうだ。仕事が終わって病院に行くと、ちょうど義母と娘が帰ろうとしているところだったので、娘と二人で病院に残った。義母は夕飯の準備をしてくれるということで、ありがたい。夫は朝よりはだいぶよくなっているようだった。食事はおかゆと味噌汁一口ずつぐらい食べたそうで、少しでも食べれればいいことだ。娘はICUでは会えなかったので、個室に移ってようやく夫に会えた。夫としても娘の顔を見ることが一番元気になれることなので、良かった。

夫が私の手術のときのことを話し出して、「次の日には歩き回ってたよな」と言う。乳房と脳じゃ全然わけが違う。手術の時間だってた全然違うし。「あんなの切ったうちに入らないよ」と話した。焦らずゆっくり回復していけばいい。夫はあいかわらず私の化学療法のことを気にかけている。「大丈夫だよ、私はいつも元気だから」というと「あんまり無理しないで頑張れ」と・・・。心に染みる。

家に帰って義母と話をした。義母は手術後の説明で、5年後位には悪性になると思いこんでしまったようで、かなり動転していたようだったのだが、今日先生(どの先生か不明)と話をして、「全ては病理結果を見てからです」と言われて、とりあえず落ち着いたということだった。

 

2004/12/10(金) 術後2日目

今日は自分の化学療法の点滴の日でもあったし、仕事もたまっているし、たまには食事も作らなければ・・・ということで、夫の病院には行かなかった。義母が日中ほとんど病院にいてくれて、夕方には娘を連れて行ってくれた。夫は大部屋に移り、歩いているということだった。夕食も八宝菜が出ていたということなので、普通食になったのかな。昨日よりはだいぶ元気になっていたということだった。

「嫁サンだって大変なときなんだから俺のことばかり考えてちゃダメだ」と夫に怒られた、と義母から聞いた。そんなこと言ったらお義母さんがかわいそうだよ・・・。自分の息子がこんなことになったら、そんな平常心じゃいられないのが当たり前だもの。

夜夫から電話があった。病院の公衆電話は病室から少し離れた休憩室にあったはずなので、「車椅子?」と聞いたら歩いてきたという。回復は順調そうだ。私の副作用を心配しての電話だった。当日はたいしたことないみたいなので・・・と言ったら、かえって心配させたようだ。土曜日はゆっくり行くからね、というと、「楽しみに待ってるよ」と言ってくれた。

 

2004/12/18(土) 外泊許可

この週末は外泊できるかも・・・という話は夫からきいていて、予定どおり外泊許可が出た。やっと病院から出られて夫は本当に嬉しそう。それでも土曜日は寝たり起きたりで、やはりまだまだ具合が悪いのか・・・という感じだった。それが、日曜日にはメキメキ元気になり、回転寿司を食べたいと言って、結構な量を食べ、家でも動き回っていた。病院でほとんど何も食べないような状態が続いていたのが嘘のようだ。病院から出してもらっている頭痛の鎮痛剤があわないらしく、母が使っていた市販の頭痛薬を使ってみたらすごくあっていたようで、そのせいもあるかもしれない。でもやっぱり家に帰ってきたからというのが大きいだろう。

 

2004/12/20(月) 病理結果の説明

病理結果が出たということで、一緒に説明を聞くことになった。

手術中の迅速診断と同様、神経膠腫のグレード2ということ。断端は手前側は陰性だが、奥は陽性。やはり全部取りきれなかった。まだ残っている以上、当然再発の危険性はある。神経膠種は転移性や増殖スピードの面からは良性だが、浸潤性という点で悪性的な一面がある。

再発予防のため、放射線治療と抗がん剤治療を行いたいということ。放射線治療は私もこの病院で受けたので、夫婦揃ってお世話になることになってしまった。まず放射線治療の説明があった。副作用としては放射線照射部の脱毛や、めまいなど。放射線を正常な組織にまであててしまった場合、放射線壊死という副作用が現れる危険性もあるが、逆に言えばそこまでギリギリのラインでやっていかないと効果が表れないということ。

抗がん剤は、インターフェロンとMCNU。インターフェロンは5週間毎日点滴。その後は1〜2ヶ月に1回。一生続くのだそうだ。副作用は熱やだるさなど、風邪をひいたような状態になるということ。MCNUは頻度は忘れてしまった。たぶん何週間かに一度だったと思う。5〜7年続けたいということ。目だった副作用はないそうだ。

取り残しがあったということはショッキングなことではあるが、再発しにくい要因として、まず第一に年齢、次に後遺症が残っていないこと、その次が摘出率ということ。つまり、完全に摘出して後遺症が残ってしまった場合より、取り残しがあっても後遺症がない方が予後がいいということだ。

夫はこの話を聞いている途中で気分が悪くなり貧血状態になって、途中説明中断となった。後で「やっぱり怖い」と言っていた。それはそうだ。怖くてショックなのが普通だろう。転移がわかっても平然としている私みたいなのがきっとちょっとおかしいのだと思う。

まあ、いいことばかりという話でもなかったけど、できうる治療をしっかり受けて再発しないように最善を尽くしていければ、と思う。

 

2004/12/21(火) 放射線科受診

年明けから始まる放射線治療のことで放射線科を受診したようだ。この病院は私が乳癌の手術後放射線治療を受けた病院。同じ先生だろうと思っていたら、やっぱりそうだった。夫のセカンドオピニオンの病院も紹介してくださったそうだ。この先生は私が11/27にセカンドオピニオンを受けた先生を紹介してくださったので、夫婦そろって治療だけではなく、セカンドオピニオンでもお世話になってしまった。こんなことで家族ぐるみでお世話になりたくはないけどねー。

実は私自身のセカンドオピニオンの結果の報告とお礼をこの先生にまだしていなかったので(失礼極まりない!)、今ごろになってようやく報告のメールを入れて、セカンドオピニオンの先生が私の放射線治療も再検討しては?とおっしゃっていたことを書いたら、時間があるときに来てくださいとの返事・・・。夫の放射線治療の話も私も聞いておいた方がいいと夫の主治医の先生から言われていたので、どうにか上手く連続で予約を入れてみようと思う。

 

2004/12/22(水) 退院

ようやく退院ということで、母が朝病院に迎えに行ってくれた。退院と言っても、来年になったらまた入院になると思うけど、本人も家に帰れて本当に嬉しいみたい。入院してるときはどんどん精気がなくなっていっているようで、帰って具合悪くなってしまうような感じさえしていた。処置も必要ないわけだし、やっぱり家が一番、だよね。

退院後の夫は、比較的元気だった。平日には、しばらく家事などを手伝うために来てくれていた母と食事に行ったりしていたようだ。母から聞いたことだが、このとき夫は母に色々話をしたそうだ。私の病気がわかったとき、自分は本当に冷たかったと思う。自分が病気になってから、そのことがよくわかったと。これからは3人で力をあわせてしっかりがんばっていくと。
今まで、年末年始は毎年九州の私の実家に行っていた。「今度は行けないけど、来年は必ず3人で行きます」と。そして、母が帰るときも「俺ら3人もう大丈夫ですから、安心してください」と。夫はそう言ったそうだ

 

2004/12/27(月)・28(火) セカンドオピニオン

夫は術後の治療について、放射線の先生から紹介してもらった首都圏の病院に行った。私と同様、高速バスで。連続して日程が組めたようで、泊まりは義弟宅。いいなあ、私はかなわなかったセカンドオピニオン&東京の夜をエンジョイプラン。

1日目の病院では持っていった検査資料が不足していたようで、十分な説明は聞けなかったようだ。でもとてもいい先生だったということで、夫の主治医の先生に連絡してくださって資料を送ってもらう手はずを整え、セカンドオピニオンについては夫の主治医の先生に送ってくださることになったそうだ。

2日目の病院は予約制ではないということで、どれだけ待たされるのだろう・・・と不安に思ったりもしたが、朝早くから順番待ちしたようで割りと早く終わったようだ。内容は、主治医の先生の治療方針でいいだろうということ。予定より随分早いバスで帰ってきたようだ。

セカンドオピニオンのときには、義弟宅で飲みながら話し込んだり、やはりこの頃はまだまだ元気だった。29日には、一足遅いクリスマスパーティ。娘がクリスマスイブにおなかを壊して、延期していたのだ。例年のようにケーキを焼いた。このときの写真を見ると、夫はげっそりしているようにも見えるが、まだまだ元気だった。これが3人で過ごす最後のクリスマスになった。
 

 

2005年1月

お正月は大雪だった。夫は元旦早々「公園で雪遊びをしよう」と言い出し、3人で近くの公園に出かけた。娘の写真の背後で雪をかき集める夫の写真が残っている。雪が積もると、ソリをしたり、カマクラを作ったり。娘のためにいつも張り切っていた夫。これが最後の雪遊びとなった。
3人で信州で過ごす最初で最後のお正月だった。私は生まれて始めておせち料理を作った。夫は「うまい、うまい」と言いながら食べてくれた。私は決して料理は得意ではないけれど、夫は私が作る料理やお菓子を、いつも「すごくうまい!」と言って食べてくれた。こうして最後のお正月は過ぎていった。

2005/1/4(火) 放射線科&脳外科受診

新年早々、朝一で夫婦で放射線科連続予約。まず夫の診察から。最初にセカンドオピニオンの話になった。資料が不足していたため返事待ちになっているということで、今後の治療についても、セカンドオピニオンの先生からの返事が来てから検討ということになった。放射線の先生は、放射線治療のみで、薬による治療は必要ないかもしれないと考えていらっしゃるようだった。放射線治療するとすれば60グレイ。夫からは、もっと多くした場合や、1日2回やった場合はどうかという質問があったが、いずれも治療成績が良くなるということはなく、患者の負担が増えるだけなので、そういうことはやらないということだった。

夫の診察のあと、私の診察も二人で一緒に聞いて、私は会社へ。夫はその後脳外科を受診した。

脳外科の方でも結局同じで、セカンドオピニオンの結果が得られていないので、それを待って今後の治療方針を決めるということだったそうだ。治療方針が決まらないというのは患者本人にしてみれば落ち着かないことだけど、放射線の先生もおっしゃっていたように、今焦って治療する必要性は何もないし、焦らずゆっくりと決めるしかないのだろう。

夫は、お正月には、まだ元気だったように思う。しかし、その後からじわじわと頭痛はひどくなっていったような気がする。ほとんど何もせず居間でゴロゴロしていた。 
ところが、ある日「ボーリングに行きたい」と言い出したのだ。その日も大雪だった。朝から私は雪かきで疲れきっていた。ひどい頭痛で何もできない夫に雪かきをさせるわけには行かない。私がひとりでやるしかなかった。すごい量の雪だった。私だって、本当は術側の腕にあまり負担をかけてはいけないのに・・・そんなことを思っても、どうにもなることではなかった。誰かが雪をかかなければならないのだ。終わったときにはクタクタだった。それでも、娘も遊びに連れ出してあげなければかわいそうだし、ボーリング場へ行った。
夫は家であんなに辛そうにしていたのが嘘のように元気になった。ストライクを連発した。ボーリング場のものすごい喧騒の中、ストライクを何度も出して喜んでいる夫を見て、「本当に頭痛いの?」とまで思ったのは事実だ。とにかく、私は疲れていた。不機嫌だった。
違う週末に、今度は娘が「ビリヤードをしたい」というので、またボーリング場に行った。そのボーリング場にはビリヤード台もある。ビリヤードを始めると夫はまた元気になった。好調で、ボールをポンポンと落としていった。私はやはりずっと不機嫌でブスッとしていた。なんで出かけると元気になるの?腑に落ちなかった。
・・夫が本当に楽しい時間を過ごしたのは、たぶんこれが最後だ。なのに、私はずっとブスッとしていた。どうしてもっと楽しく過ごせなかったのだろう。夫が少しでも頭痛が軽減できる時間を過ごせたことをどうして喜んであげられなかったのだろう。後からいくら思っても無駄なことだ。

2005/1/28(金) 再び入院

1月半ばに待っていたセカンドオピニオンの回答も来て、今治療を受けている病院の方針でいいのではないか、ということで予定どおりの治療を受けることになった。夫は通院という希望も言ったようだが、まずは入院して様子を見て、ということで入院治療になった。

金曜日からというのも変な感じで、1日入院して土曜日にはすぐに外泊になった。入院前も同じだったけど、家に帰ってもとにかく1日中頭が痛いそうで、この先どうなってしまうのだろう・・・。一番辛いのは本人だけど、見ている方も結構辛い・・・。

私はひどい人間だ。夫が入院してホッとしていた。手術直後は、「とにかく優しくしてあげよう。私が病気になってやってほしかったことは全部やってあげよう。」そう思ったことなど、すっかり忘れていたのだろう。ただ、何もせず頭を抱えている夫を気遣うのにも疲れていた。夫は、娘のちょっとした行動も気に障るらしく、必要以上に娘にきつくあたったりすることも多くなった。そんな父の言葉を受ける娘を気遣うことにも疲れていた。とにかく何もかもに疲れていた。
それにしても、この治療のペースの遅さにもイライラする。手術から2ヶ月近くもたとうとしている。そんな時期に、ようやく放射線治療が始まったのだ。最初に検査を受けた病院で手術を受けたらどうなっていただろう・・・。夫が生きているうちにも、亡くなった後にも、何度もそう思った。そこで手術したとしても、夫が実際に手術を受けた病院の医師が立ち会うという話だったので、手術自体はもしかしたら同じ先生が執刀したりしたのかもしれないけど、その後はもっとスムーズにに進んだのでないかという気がしてならない。放射線治療を受ける病院も同じになるけど、それでもきっと通院でさっさと開始できたのではないだろうか。そんな気がしてならない。放射線治療までに間がこんなに開いたことが、夫の腫瘍を悪化させることにつながったということはないのだろうか?すぐに放射線をあてていれば、こんなに早く広がらずに済んだのではないだろうか?そう思わずにはいられない。

 

 

2005年2月

 

2005/2/2(水) お見舞い

毎日は無理だけど週に1回くらいは病院に行こうと、この日今回の入院後始めてお見舞いに行った。以前の入院のときと同じように、途中でお弁当を買って、病院で夫と話しながら夕食をとった。

放射線治療は特に副作用もなく順調なようだ。インターフェロンは1時間の点滴だが、説明のあった発熱等の症状はなく、その代わり、頭痛がますますひどくなるらしい。回数を重ねるごとに痛みの程度は少なくなってきているような気もするということだけど。

 

2005/2/11(金) 退院

放射線治療とインターフェロンの点滴は毎日続くわけだけど、この日退院することになった。インターフェロンの後の頭痛はあいかわらずひどいようで、そんな状態で車で毎日の通院ができるのか心配だけど、他の病院の頭痛外来に行きたいということもあって、夫の希望で退院となったらしい。放射線治療の影響で白血球も下がっているということで、その数値によっては退院(週末外泊も)できないかもということだったが、大丈夫だったようで、予定どおり退院となった。

 

2005/2/14(月) 頭痛外来受診

最初に検査に行った病院に頭痛外来があるということで、その病院に行ってきたそうだ。漢方薬を処方されたということだが、その薬を飲んだら今までとは別の場所が痛むようになってしまったという。退院してきても、絶え間なく頭痛があるようで、家でもほとんど寝ている状態。

     

 

 

2005年3月

 

 

 

 

2005年4月

 

 

 

 

2005年5月

 

夫をなくして思うこと・・・

 

 

 

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