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ソラ、カラ、クウ
山本昌男写真集『空の箱 A box of Ku』
内田也哉子
「太陽」1999年5月号  

 
「空の箱」
ソラのはこ?カラのはこ?クウのはこ?はじめて手にした、薄い箱のような写真集に、私は一瞬戸惑った。もう一方の側面を見ると、"A box of Ku" と表記してあったが、何度もくりかえし発音するうちに、どの読み方も、それぞれに”含み”を残す、豊かな響きが魅力的に思えてきた。そして、どういうわけだが、日本語でつづられた文字を眺めていると、箱の中に在る「無」の空間を思い起こし、アルファベットのつづりを見つめていると、箱の中にギッシリ詰まった"Ku"という、形あるなにかを、無数に想像してしまう。この、一見シンプル極まりないタイトルは、まだ本を開く以前から、私の中の”予感の湖”に、ゆるやかな波紋を描きはじめていたのだ。
ふと思い立ち、「イメージ」という言葉を辞書の中に探してみた。〈像。心に浮かんだ姿・形。おもかげ〉。山本昌男の作品は、実際、現象〈現れて見える姿・形〉を映しているにも拘わらず、”本当は心の世界に戻って、こっそり撮ってきた写真なんじゃないの!?”と言いたくなるほど、私的なイメージを醸し出す。
山、煙、滝、空、花、海、鳥、雲、人……どれも、私たちが普段目にしているものに違いない。しかし、この「箱」の中に潜む彼らの姿は、まるでデジャ・ヴュのように、見たことのある気がするだけの、架空の存在に見えるのだ。果たして、これは錯覚なのか……いや、そうとも言いきれない様子が、確かにここには漂っている。どうやら、過去と未来へつながる、かすかな記憶の糸を気づかぬ間に、体中にグルグルと巻かれてしまったようだ。でも、決して、その糸を解こうとしない、心地好さそうな自分が、そこにいた。
ほとんどの写真はモノクロームなのだが、正直言って、私はこれほどまでに〈イロ〉を感じさせる白黒写真に、出会ったことがない気がする。そして、また逆に、ほんのわずかに登場するカラー写真を見て、”なんて無色透明な……”と、溜め息をつきたくなるのだ。そういえば、鮮やかな色彩の夢を見たときに、”夢にはイロがありません”と、片付けられてしまった覚えがある。色と無色の世界を、伸びやかに行き来するこれらの像は、まさに〈ユメ〉そのものなのかもしれない。
一枚一枚の作品が、時に被写体が何であるかわからないほど小さいサイズであったり、長い間ポケットに忍ばせていたせいで擦り減って、角がとれてしまったようなトリミングがあったり、まるで、誰かの大切なアルバムを覗き見しているようだ。しかし、その独特な演出もさることながら、不思議な質感の印画紙に焼き付けられた、大きな風景の小さな断片は、私の眠っているはずの六番目の感覚を、たとえようもないくらい刺激する。
この気持ちはたぶん人に説明してもわかってもらえるようなものではないと思う。人によっては”まったくわからない!”と拒絶するかも知れない。例えばコンクリートから突き出た、一本の曲がった鉄の棒や、空に浮かんだ、煙にも見えそうなちょっと情けない雲のかたまり。どこを探しても、わかりやすいディテールは見当たらない。むしろ、「自然」という、ただでさえ雄大な存在と向き合ったときの、なんとも恥ずかしいような、二歩も三歩も退いてしまったような、切ない距離感が私を惹き付けてやまないのだ。
笑われてしまいそうだけど……私には今、ささやかな欲望がある。確かにちょっともったいない気もするが、この写真集に載っている、全ページの作品を切り抜いて、それらがやっと納まるくらいの、小さな正方形の箱に〈ウタのハコ〉と書いて、息子(雅樂)に手渡したいのだ。当然、一時間も経たないうちに、かじったり、にぎりつぶしたり、らくがきしたり、ふんずけたり、etc. で、原形はスッカリなくなってしまうだろう。でも、それを覚悟のうえで、まだ一年と半年しか生きていない、小さなひとに、この箱の中に広がる永遠の〈空〉を垣間見てほしいのだ。その時は勿論、自分用にもう一冊、しっかりと確保するつもりだが……。
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