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二つの「空」のいれ物 草野象 :静寂とは必ずしも無音の状態ではない。普段聞こえない音が聞こえ、日常感知されることのない事物が発する微細な振動が伝わる状態。それは音の不在ではなく極小化された音の偏在である。耳が痛くなるほどの静寂には耳が痛くなるだけの理由があるのだ。 :山本昌男の写真を見て誰もがまず気づくのは、配置されたそれぞれの写真の間に巧みに配置された空白の部分だろう。もちろんどのような写真であってもその周囲には必然的に空間が存在している。多くの場合その空間は「余白」と呼ばれ写真本体に従属するものとして無視され、よくて控えめに脇役を演じ、決して写真と等価のものとみなされることはない。ビンテージを思わせる独特の色調、手札サイズからはがき大というプリントサイズで仕上げられた山本昌男の写真は、見る者にイメージの喚起を促す一個の独立した写真として、まず非常に美しい。その美しいいくつもの写真は白い壁面に、あるいは書物の上の平面に、写真相互に交わされる小さなささやきを聞き取るように、慎重に、丁寧に配置されている。現在、ニューヨークを中心に年数回に及ぶ展覧会が開かれ、海外での評価も高い山本昌男は`90年代の初頭から「空の箱」と名づけられたこうしたインスタレーションともいえる写真作品を発表し、1998年、同名の第一写真集を上梓している。写真集『空の箱』は一つの完成された作品集というよりは、無限にバリエーションを形づくることのできる作品の「書物」というメディウム上での試みである。英語名の「A box of Ku」から禅、展示における豊かなイメージ喚起力から「詩」と結びつけて語られることも少なくないその作品だが、実際の展覧の様子との対比で見ると、この第一写真集で山本が意図したことはある種の「検証」のようなものだったのではないかと思える。それは写真と写真の間で交わされる、あるいは写真と人の間で交わされる、ひどく聞き取りにくく決して語りえぬ物語を丹念に突き詰めていくための実験のようなものだ。例えば、原子や分子はそれ自体が物語ることはないけれど、実験と観察と検証で我々はその語られざる世界を知ることができる。 :写真という現象においてその実験をさらに押し広げるべく編まれたのが、2冊めの写真集として刊行された『中空(なかぞら)』である。よりインスタレーションへの指向を強めるべく「巻物」の形態で発行された本書には、当然のことながらページというものが存在しない。結果、この写真集を見る者は中心を喪失した流れの全体を見ることになる。ページの中に体よく収まった中心的物語りは姿を消し、並行し時に交錯して流れるいくつもの物語の断片を、この写真集を見る者は追うことになる。その感覚は化石化した時間の中を一人で駆け抜けてゆくような、奇妙でありながらどこか親しみ深いものである。こうした感覚のあり方は、一般的な写真集に慣れ親しんだ目にはひどく新鮮なものと当初は映るのだが、現実の認識のあり方にはむしろこの形式のほうが近いのではないか。我々は時間の流れの中で空白に出会いながら生きている。写真はそもそも時間を止めてみせる技術として誕生したが、この写真集の中で時間は再び動きだしている。そしてその原動力はおそらく空白の中にある。山本の作品では「空」は無ではないのだ。 |
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