――不二裕太の場合――
今までとはちょっとだけ家に帰る足の軽くなった夏休み、兄貴との関係が少し修復され電話越しだけでなく直接顔を見て話したくなり、部屋の扉の前に立った。
階下で母親から、「昨日手塚さんの家に泊まりに行ってさっき帰ったばかりだから部屋に居るでしょ」と言われ、扉を一応ノックする。
「兄貴入るぞ」
返事がないので声を掛けて開けてみると、ベッドにうつ伏せに横たわっている兄貴がいた。テニスのラケットバッグと鞄をベッド近くに無造作に置いたままの珍しい状態に、具合でも悪いのかと思いそっと近寄ってみる。
小さな寝息を立てどことなく微笑んだ顔を浮かべ、整えられたベッドカバーの上で気持ち良さそうに寝入っていた。
天才と呼ばれ注目を浴びながらも、決して強さの底を見せることなく、いつも浮かべている笑顔で飄々と周囲を交わしているこの兄貴の素顔はこんなにも幼い。
人の気配に気付いたのか、不自然な体勢が苦しくなったのか、裕太の方を向いていた横顔がもぞもぞと動き、反対の方を向いた。その小さな動きにいつもは髪の毛で隠されている首筋が露わになり、日に焼けることのない白い肌に浮かぶ色の違う一点。
一瞬目を見開き、静かに顔を寄せていく。裕太とて思春期の男だ。周囲の友達と少し背伸びした話もしていて、これが何なのかも分かる。が…
“おい、兄貴昨日手塚さん家に行ったんだろ。何やってんだよ〜。えっ…まさか、手塚さんと…”
そのまま動きを止めて、こんなに近くにいる裕太の気配など気付かぬまま、無防備な姿を晒しているのになんだか無性に腹が立ってきた。そんな跡つけてんじゃねぇよ。
色の変わった一点をじっと見つめ、まるで吸い寄せらてるように唇を寄せると、同じ場所にかじりつくようにして、思いっきり吸い上げる。
「‥うっ・ん…」
小さく漏れた声に、ハッとしたように唇を離すと、向こうを向いていた顔が再び裕太の方に向き直った。何度か瞬きを繰り返し、ゆっくり開かれる瞳。
「ゆう・た?」
まだ覚醒しきっていない声で、驚くほど近くにいた裕太の姿を捉え、呟き微笑んだ。
「帰ってきてたんだ、お帰り裕太」
ゆっくりと身体を起こしながら、ベッド脇に膝立っている裕太にさらに深い笑みを向けてくる。
慌てて立ち上がり視線を外すように横を向く。
「どうしたの?」
「何でもねえよっ」
「おかしな裕太」
不自然でぶっきらぼうな態度に、小首を傾げながら笑うと、足をフローリングの床に下ろし座ったまま裕太を見上げた。
突然気付いてしまった裕太自身の兄・周助への思い。
不二裕太、中学2年の夏休みの出来事―――
――菊丸英二の場合――
「うぅ〜」
壁に貼られたカレンダーを睨みながら、菊丸は台所のテーブルに突っ伏した。突っ伏した腕の下には開いたノートと筆記用具、だが午前中から取り掛かっているはずが一向に進んだ様子はなかった。
冷房の付いていない自分の部屋での宿題を諦め、早々に1階の台所と続きになっているリビングの冷房を付けるが、ヒンヤリと心地良い部屋は逆に集中することが出来ない。
「やっぱ1人じゃ出来ないよ〜」
両腕を伸ばし、机の上で上半身ごとゴロゴロと繰り返す。何度か転がるとピタッと動きを止め、勢い良く起き上がる。
ニシャっとまるでイタズラ猫のような笑みを浮かべると、電話に向かって憶えてしまったナンバーをダイヤルした。
トゥルルルルゥ〜、トゥルルルルゥ〜、トゥルルルルゥ〜…
何度目かの呼び出し音の後、
『はい…』
「不二ぃ〜、助けて〜」
同じクラスの不二なら宿題も同じ。いつもきちんと終わらせているのを3年間同じクラスだったからよ〜く知っている。
『英二?どうしたの?』
「宿題終わんにゃい。一緒にやろ〜、不二ん家行ってもいい?」
『‥‥‥』
黙ってしまった不二の様子にもう一度問い掛ける。
「ダメ?ダメなの?」
『ゴメン、今日はダメなんだ。今手塚の家にいて一緒に勉強してて』
?何で手塚の家?だってクラス一緒じゃないし、宿題違う…
「ううううぅ…」
心の中の声を必死で堪えていたので、変なうめき声が出ていた。
『英二、大丈夫?明日か明後日でよかったらいいけど』
「…うん、どっちでもいいから、不二の都合のいい時に電話して」
『分かった、じゃ後で電話するね』
ブチッ、ツーツーツー…
不二の携帯が先に切れ、菊丸も持っていた受話器を戻した。
フウゥと小さなため息をつきながら、さっきまで座っていた椅子に腰を下ろし、両手を机について頭を乗せる。
確かに不二と手塚は仲が良いと思う。と言うより、2人が並んで醸し出す雰囲気には、悔しいけど誰も入れない。不二とは3年間同じクラスで、同じテニス部で他の誰よりも長い時間を一緒に過ごしてきたのに、何で不二の1番は俺じゃないんだろう。
ズルイ。
手塚が1番なんて絶対ズルイ!
勉強も1番、テニスも1番、生徒会長で、テニス部部長。その上不二の1番なんて絶対に許せない!負けないもんねっ!!
菊丸英二、1番奪取を決意した夏休み―――
――手塚と不二の場合――
日本式な庭がそうさせるのか、真夏の暑い時期にも係わらず、どこか涼やかな風が入ってくる静かな手塚の部屋で2人、小さな座卓に顔をつき合わせてサラサラとノートを埋めていく。互いに開いている教科書は違うものの、相手のノートに時折目をやりまた自分のノートに書き込んでいく。
そんな2人の穏やかな空間は静かに過ぎていった。
不意に不二が手を止めて、じっと手塚の顔を見つめる。しばらくそうしていると、手塚が顔を上げ2人の視線がようやく合った。
「何だ」
「うん、今日お父さんとお母さんいないんだよね」
「ああ。遅い夏休みが急に取れたらしく、2人で温泉旅行に行った」
「おじいさんの部屋って、離れとは言わないけどこの部屋の反対方向だよね、ちょっと遠いし」
まっすぐ見つめてくる瞳から軽く視線を外し、ペンを持ち直した。
クスッ
「手塚って確信犯だよね。こんな日に僕を家に誘うなんてさ」
「悪いか」
「ううん、そんな手塚も好きだよ」
ニッコリと、だがどこか甘い響きを含ませて囁くように言う不二に手を伸ばし、引き寄せた。2人を隔てていた座卓の上で徐々に近付いていく顔、その唇が触れ合う正にその瞬間。
低く振動する音の後、鳴り響く着信音――
不二の鞄の中の携帯が持ち主を呼ぶ。
「…手塚」
ほんの少しでも動けば触れ合いそうな距離で不二が声を掛けると、仕方なさそうに手を離し、2人の顔は離れて言った。
鞄から携帯を取り出し、小さな画面に表示される文字を確認してみれば英二の名前。
「分かった、じゃ後で電話するね」
ピッ
電源ボタンを押し、会話を終了させると手塚に向けて、いつもの何を考えているのか分からない笑顔を向ける。
辛抱強く手塚も黙ったまま、まるで睨むような鋭い視線を向けてくる。
「いやだなぁ、そんな顔で睨まないでよ。何か悪いことしてるみたいじゃない」
「菊丸に会うのか」
「うん、宿題終わらないから一緒にやろうって」
「お前の家でか」
ますます鋭くなっていく視線と深く刻まれた眉間の皺。
反対に不二の笑顔は深まっていく。
「それは、これから決めるけど。何なら図書館にする?それなら手塚も一緒に出来るでしょ?」
「…いや、いい」
意志の力で心の内を静め、目を閉じ不二の笑顔の下の視線をかわす。
「ふふっ、誰も知らないよね、手塚がこんなに独占欲が強くて、嫉妬深いなんて」
「お前にだけだ」
その言葉に不二の笑顔が、意味深なものから甘さを含んだ艶のあるものに変わっていった。普段無口な手塚が2人きりの時だけ饒舌になり、言葉と共に行動まで大胆になる。
「うん、知ってる。でも僕も同じだよ、手塚にだけはね」
電話によって中断されていたことを再開しようと、手塚の手が不二の顔に伸ばされ引き寄せた。
髪と同じく、色素の薄い本来は切れ長の瞳を閉じると、柔らかな印象のみが際立つ繊細な少女のような顔になる。その中にある小さな唇に触れる寸前に、
「それは今夜確かめてやる。しっかりとな」
そう囁いて口付けを交し合った。
静かで、どこか涼しげな風の入る部屋の中で、2人の周りだけが徐々に温度が上がっていった―――
手塚と不二、出逢ってから3年目の夏休み―――
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