おもなタイトル
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| 10・31 じゃいあんつ いやー、こんな緊迫感のない日本シリーズも久しぶりでしたねぇ。 今年の巨人の強さはヤバイ。まともな監督がやるとこんなことになるのか。 しかし昨今のセパの実力差ってヤバい。 もちろんV9時代にも差はすごかったのだろうが、あの時は、川上がドジャースのキャンプから先鋭的な戦術を仕入れてきたジャイアンツが、当時の日本では見たこともないインサイド・ベースボールを展開していたという、戦術上の革新の要素が、なんだかんだいっても大きい。 それに対して、いまは第一義的に資本の差だからなー。 と思っていたら、松井がFA宣言。これで来年のセ・リーグを面白くできるかと思うと、かなりうれしい。ヤンキースでもどこへでもさっさと逝ってほしい。その先活躍できるかどうかなんて興味がない。 僕は巨人ファンだが、松井はもっとも嫌いな選手だったのだ。 なぜって? 松井が最高のバッターだというのは了解しているが、僕にとってはサッカーと野球の見方はぜんぜん違う。サッカーはあくまでもスポーツとして見るけど、野球に関しては、まずは「物語の消費」なのよ、僕にとって。だからメジャーリーグも見ない。「最高のプレー」に興味はないからね。というわけで、好きな選手はまずもってキャラ立ちの如何ひとつで好きになるし、どんなにいいアスリートでも、あの甲高い声でしょーもないギャグを交えたインタビューをしちゃう時点で松井は完全にアウト。 ノリか金本とるんかなー。ノリは好きだけど、ポジションがなぁ。 10・29 パブ 今晩はカミサンの友達のグループにアイリッシュパブで飯を食うことを誘われていたんだけど、ちょっと出不精になってしまい、パス。 確かに、ブラウンエールやステーキ・アンド・キドニーパイは少し懐かしくはあったが。 わざわざ言うまでもないだろうけど、イギリスのパブというのは、ひじょーにイギリス(ただ圧倒的にWhite&Masculineね。階級は場所による)を感じる場所である。 ロンドンのサザークやソーホーなんかのパブでは別にどうってことないんだけど、地方都市の駅前とか幹線沿いとか住宅街の中とかで、居心地悪い思いを感じながらビールを立ち飲みするとき、ものごっつブリテンを感じることがしばしばあった。 そういうシーンは、未だにいくつか記憶に焼きついている。 ストーンヘンジを目指して行ったソールズベリの駅前、時間つぶしに入った薄暗いパブで、延々とピンボールをする男の子たち。 終盤よく一人で飯を食っていた大学から少し歩いたところにある街道筋のパブでは、向かいの賭け屋でジャリ銭で買ったスリップを握り締めて大画面を見ていると、隣のおっさんがよくサッカー談義をしてきた(こういうときの話は半分も理解できないんだけど)。 中でも未だに一番懐かしく思い出すのは、寒さに凍えながらアストン・ビラ−チェルシーのつまらないスコアレスドローを見た帰りのこと。 震える彼女が温かい飲み物を欲しがるけど、缶コーヒーなんて当然どこにもないわけで、仕方なく住宅街のパブに入ってみるが、当然売り物にはビールとサイダー、レモネードなんかしかない(ま、この辺正確には、冷たい飲み物ではなくて、「ぬるい」飲み物なんだけどね)。すると、オヤジが自宅用と思しき薄汚れたプラスチックのカップで、ミルクティーを持ってきてくれた。 ま、そんな人情話にもなってない小噺はどうでもいいんだけど、その店内では、地元アストンの高校生ぐらいのグループに、その場に居合わせた失業者風のおっちゃんが加わり、一ポンド玉をめぐって延々とビリヤードをしていた。 地縁みたいなもので、年齢関係なくその場の暇潰しに興じちゃう、ちょっと日本では見かけない風景。 こういうパブには、基本的に周囲500メートルに住むお客さん(ほとんど白人、7割男)しか来ない。街道筋や駅前だとまだバス待ちの人とかも入るからマシなのだが、住宅街のパブには通りすがりで入ると、かなり居心地が悪い。(東洋人でなくても、たぶん) 半径500メートルの住人が、毎日のように集う、極めてローカルな社交場。住むところがかなり階級的に色づけされていることが多いイギリスでは、相当似た感じの人がひとつのパブにたむろすることになる。 イングリッシュ・パブとかアイリッシュ・パブは、それなりにレベルの高いものが東京にもできているが(新宿のダブリナーズ・インは結構好きだった。高いけど)、こんな雰囲気のところはもちろんない。六本木や横浜のパブは、それなりに本格派で、イギリス人やアメリカ人の社交場ともなっているのだが、いやだからこそ、上記のような住宅街のパブの雰囲気はまったく期待できない。(もちろん、六本木や銀座のパブとそっくりな店も、シティやソーホーにはたくさんあるんだけどね) じゃあ、こういう機能−−そこに行くと、いつも同じローカルな面々がたむろしていることを期待して、毎日のように暇潰しに一人で覗く−−をパブの代わりに果たしているお店って、日本にあるかなぁ、と思うと、それが案外ない。もちろん、一部の六本木や代官山のバー・ホッピングを常とするような人種には、そういうところもあるかと思うが、それはごくごく一部の話。 そうじゃなくて、一般的な郊外とか、地方都市とかを考えたときに、どこにでもあるのは居酒屋だけど、居酒屋って数人で座って飲むスタイルが基本になっているから、よほど偶然に隣り合わせない限り、見知った人が店に居合わせても合流とはならない。何より、誰か知ってる人いるかなぁ、みたいな感じでふらっと一人で入ることは一般的ではない。(「北の国から」の「熊げら」まで行っちゃうと、そんな感じだが) カラオケボックスも基本的には同じ。 ガード下の立ち飲み屋はどうだろう? 可能性としては同じような機能がありうるだろうけど、ああいうところで、ワイワイやってるの見たことないな。大体一人で入って一人で串焼きをつまんで、一人で野球中継を眺めて、15分ぐらいで出て行く。ラーメン屋や立ち食い蕎麦屋に近い利用法だよね。長居できなさ過ぎる構造だし。 ファミレスっていうのも考えられるけど、ヤンキーでもない限り、いくつも席またいで騒いだりはしないっしょ。長居はするだろうけど。 一番そうした「店そのものが極ローカル(地縁)・コミュニティ」っぽいのは、日本では「場末のスナック(昼時は「昼カラ」に変身)」みたいな店だろうな。地縁がいまだ息づいている東京の一角、上野なんかで、老舗といわれているちっこいバーやスナックに行くと、確かに大抵誰か知っている人がいる。 ただ、こういう店は基本的に安くはないんだよね。どんなにしても、1〜2時間で5000円近いことにはなる。1ポンド玉を2〜3個持っていって3時間粘れるイギリスのパブと違って、あんまり毎日行くという感じのところではない(いや、もちろん行く人はいるだろうが)。 それに、こういう店は、必ずママや女の子がいるから、パブとはぜんぜん違った雰囲気になる。ひどいと、ママ=「母」を共有する常連たちの擬似家族共同体みたいになって、べたべたしてどうしようもなくキショい世界が展開されていたりする。 つまり、圧倒的にオヤジの店でしかないのだ。 そんなわけで、極ローカル・コミュニティ機能を持たせた飲食店を、日本で作ったら、ニッチを突けて、それなりに繁盛するんじゃないかと思っている。 潜在的なニーズは、あると思う。W杯期間中にあれだけスポーツバーが流行ったことから見ても、友達とちょっとした知り合いと初めて会った人が入り混じってスポーツ観戦することって、日本人にも受けるわけじゃない。そして、そうゆうことのできる店は、圧倒的に少ない。 別にW杯じゃなくても、日々の野球中継でも、うたばんでも、友だちと見りゃあ、それなりに盛り上がる、っていうニーズもあるだろう。つーか、従来の都心のスポーツバーが狙っているチャンピオンズ・リーグを見に集まる層より、みんなで「ガチンコ」や「あいのり」を見るという新しいニーズを掘り起こされる層のほうが、潜在的には圧倒的に大きい(せせら笑いながら見てもらっても、マジになってもらってもどっちでもいいんだけど)。 「うち帰ってもつまんないから、絶対誰かいるあの店行って、ビリヤードでもしながらみんなで野球でも見るか」 こういうスタイルを20前後の連中に提示できればしめたものだし、それができる確率はかなり大きいと思う。 こういう機能を果たす店は日本にはあまりない、と言ったが、それは飲食店の話であって、実は全くないわけではない。それは、ゲーセンだ。というわけで、この「日本版住宅街のパブ」のライバルは、ゲーセンということになるだろう。 別に正統イングリッシュ・パブのスタイルに拘る必要はなくて、フードはピザでも巻き寿司でも何でも出せばいいんだけど、基本的には、端っこにいくつか椅子席を置いただけのそれなりに広いフロアを用意して、カウンターと立ちテーブルで飲み食いできるような、手で持てるもんを中心としたメニューをラインナップしたいところだな。 そんで、美味い生ビールを、パイントグラス一杯400円ぐらいで出す。 忘れちゃいけないのは、大画面のスクリーン。ビリヤード台かエアホッケー台も一台ぐらいあっていいな。 で、問題は立地条件。都心は×。といいながら、まだ定着していない段階では、車社会のところも避けたほうがいいわけで、割と職住近接の工場とかがある、郊外の中規模な駅から歩いて徒歩5分て感じのところが理想的かな? この条件どこだろう・・・金町とか?板橋のどっかとか? ・・・という構想を、この1年ぐらい持っているのだが、どなたか出資者いませんか(爆) 10・27 何だかいろんなことが起きていて 各方面(含、HP更新)にモチベーションが落ちている間に、世界中で気分が悪くなることばかり起きていますね。 ワシントン近郊の狙撃事件はブラックムスリムの元兵士。もちろんアルカイダなどとは何も関係がなく、何も関係がないからこそアメリカの病理の根の深さが垣間見える。 Army or Jail or Death. かなりの誇張はあるにせよ、ゲットーの現実の一側面だ。大都市インナーシティの黒人男性の死亡率トップは、いまや殺人だという。殺されるか、殺してブタ箱行きか。そこから抜け出す唯一の就業機会は、軍隊。軍隊では金をもらいながら、銃とナイフと格闘を学ぶことができる。退役したらゲットーに舞い戻り、クラブやドラッグ・ディーラーの用心棒になる。 これが、世界唯一の超大国、自由と夢のアメリカのど真ん中で起こっている現実である。 こうした閉塞感というにはあまりに絶望的な状況の中、軍務につく黒人たちの間に、ウンマ(信仰を持った兄弟)の平等を説くブラック・ムスリムが、すごい勢いで浸透しつつある。沖縄のベースでも、簡易モスクで熱心な礼拝が行われているという。 ブラック・ムスリムといえばモハメド・アリ(aka.カシアス・クレイ)やマルコムXが有名だが、当時より制度的な差別がなくなったが故に、逆に構造的な排除と不平等が絶望化している現代の黒人たちに、精神的な安息を与えているのだ。 その一部に、「何が本当の敵なのか」を突っ走って考えてしまった狙撃犯が出てしまったことも、無理からぬところではある。 そして彼と共に逮捕された17歳の少年は、ほとんど身元もよくわからないジャマイカ出身の不法移民。一言で黒人と言ってしまいがちになるが、カリブやアフリカからの最近の移民は、何層にも成層化されたゲットーの中でも最下層に位置しているという。 かつてアメリカとタイマンを張っていた元超大国の首都で起こった、とんでもない事件は、信じられないような粗っぽさで解決された。あれはもうほとんど毒ガス作戦やで。カガクヘイキの使用ってやっちゃ。まあ、スペツナズ(→こんな亡霊みたいのがまだ残っていたこと自体オドロキ)なんて連中のやることだからな。 それにしてもチェチェンて、いつのまに「独立運動」が「テロの温床」にされてしまったのか。腹に爆弾を巻きつけ自爆覚悟のロシア軍に殺された兵士の未亡人が、犯行グループに入っているなんてエライ泣ける話だったのに。 反テロ同盟という名で大国が現状維持のための大同盟へと舵を切る中、忘れ去られていくチェチェンという最前線。それを世界に気付かせるために、死を覚悟した俳優たちが首都の劇場を占拠した行動が、この事件だったわけだ。 ボビー・ギレスピー(Primal Scream)の歌うように、"Someone's Freedom Fighter is Someone's Terrorists" なのだとしか言いようがない。 というような視点は、今回はそれなりに日本のメディアにも乗っていた。しかし、それはことが「元仮想敵国」のロシアだからだ。ブロードウェイの劇場で、パシュトゥン人やパレスチナ人が同じ事を起こしたら、どうなのだろうか。 それをいうなら、9・11自体、どうなのだろうか。 極東では、相変わらずのメロドラマを利用した駆け引きが続いているが。 北朝鮮に蹂躙された家族が、今度は母国に蹂躙されつつあることに吐き気を覚える。今回ばかりは、「洗脳という言葉を安易に使うのは、拉致被害者の24年間を頭から否定することだ」としたテリー伊藤が正しい。 彼らとて、安直に「洗脳」され、北朝鮮側の交渉に不利にならないように「約束事を守っている」のではない。生きるため、ギリギリのところで選択してきた小さな戦いの積み重ねに、現在があるのだ。 いわんや、子どもたちをや。拉致議連の平沢は、ヘギョンちゃんの即時帰国を、なんて間単にいうが、それは帰国とはいわんと思う。反日教育を徹底的に施されたエリートで、片言の日本語もしゃべれぬ少女を日本に連れてきてどうしようというのだ。 日朝という枠組みを取り払って常識的に考えても、実の母親が死に、父と(それなりによくしてもらっているらしい)継母と異母弟のもとを離れて、一度も会ったことのない祖父母とともに暮らすなんて、普通ありうるか? 拉致事件被害者の子供たちを、今度は日本が拉致し返してどうするって言うんだ。 金正日の戦略に乗らないためにはそれしかないというのはわかるが、その論理じゃあ朝鮮労働党と目糞鼻糞でしかない。 カミーユ・ビダン風にいえば、「大人の都合で…!」というやつだ。 このまま拉致被害者だけを日本に残したら、北朝鮮に残された子供たちの命が危険だ、というのならば。事ここまでいたって、それでも彼らに危害を加えてきたとしたら、それが判明したときこそ、アメリカに乗っかってマジで戦争すりゃあいいと思う。そん時は、僕も乗るね。 ただし、この10数名の拉致被害者だけでなく、帰国運動についていった日本人妻や半島に渡った在日朝鮮人の家族が多数粛清されていることも、旗印に加えることをお忘れなく。 10・22 感情の赴くままに書いてみる いよいよメディアの竹中バッシングが激しくなってきた。こうまでなってから騒ぎ立てたんじゃ遅ぇんだよ。 数字にしか興味がねぇ坊ちゃん面した小賢しい野郎を入閣させた時点で、小泉の言う「構造改革」なんて話にならないってこと、わかりきってたものを。 銀行国有化?公的資金投入?外科的手術をしなければならない危機的状況? 知らねぇよ。話見えねぇんだよ。わかんねぇんだよ。 「国民」とやらにリスクチャレンジすることだけ説いて、てめぇはリバーシティのペントハウスを売り抜けてる竹中からすりゃあ、どうせ俺たちみんなトーキョーの底を這いずってるガキだろうよ。 だからガキらしく言ってやるよ。 経済分析なんてメンドくせぇ。むかつくやつはぶっ殺してぇんだよ。そんだけ。 …と今更煽ってみたところで仕方ないだろうが、こういう気分が蔓延するのも時間の問題だろう。そして、それは正しいことだ。 就任当初の竹中は、構造改革をすると短期的には800万人の失業者が出ると、顔色一つ変えずにしれっと言ったものだ。そんなことができるやつを政治家とは呼ばないし、政治屋とさえ呼べない。そん時は、ITで580万人雇用創出とふかしたもんだが、当然空手形だった。 800万人の失業者が出るってことは、10万単位の自殺者と、100万規模の暴動が起こる可能性があるってことだ。 そんな事態のケツを持つ覚悟を、竹中に問うても意味のない話だ。「らいおん・はーと」が聞いて呆れる宰相も、いざとなったらおろおろするだけだろう。 しかし、盗聴法といい、住基ネットといい、有事法制といい、明らかにそんな修羅場の治安維持を容易にする方向へ、何らかの強い意志が、着々と石垣を築き上げ始めているのを感じる。じゃあ、誰が? 俺には、全部覚悟の上で絵を描いてんのは、中曽根大勲位としか思えねぇんだな。 もちろん、一番大きな手駒は、西新宿にふんぞり返ってる傲慢なジジイ。こいつは、好きなところもあるんだが、このタイミングでは乗りたくないな。 10・20 Zガンダム そろそろ、次の締め切りに向かってギアを上げなければならないのだが、ネット配信のZガンダムにはまってしまっている。これは、とても暗い物語だが、登場人物の多面的な襞も描こうとした意欲作なので、ファーストガンダムよりも好きかもしれない。 とはいえ、最初に見た小6〜中1のころと、やはりキャラクターに対する印象は違うな。 劇中では「非道な人物」として扱われる、ベン・ウッダー大尉やガディ・キンゼー少佐などといった、敵方の中間管理職には、十分にアイデンティファイできる。人質の拉致や毒ガス作戦なども、戦争なんだから当たり前の行為といえば当たり前だ。 結構部下にも慕われる、「いい人」たちが、与えられた条件の中で組織にとって最大の成果を出そうとする結果、敵に対してはどんな非道なこともする、それが戦争なのだから。まあ、戦争じゃなくても、同じか。 同時に、反乱軍と特務機関の争いから市民を守ろうとして、日和り、あっちについたりこっちについたりするスペースコロニーや地球の政治家たちも、十分に自分たちの仕事を果たしていると思うぞ。 それから、案外わかるのがジェリド・メサ中尉。これは、最初は敵方のエースとして登場するが、その後も大した成長をすることもなく、主人公のエースパイロット、カミーユ・ビダンに次次に大切な人を殺されて彼をライバル視してゆくキャラなのだが、彼の情けない自己鍛錬には共感してしまう。 「ティターンズ(敵方の非道な特務部隊)の正義」を無邪気に信じ込む、より正確には、自分の野望と復讐のために、無邪気に信じ込むように自分をも納得させるところなんて、とってもアメリカ人チックでグー。長身でリーゼントのジェリドの設定は、実際にアメリカ南部出身なのだ。 魅力的な人物が次々に登場する女性関係では、アイデンティファイできるのがマウアー・ファラオとレコア・ロンド。ファ・ユイリイやフォウ・ムラサメやサラ・ザビアロフなんかの戯言は見てらんないという感じ。第一、強化人間だのニュータイプだのって、精神不安定で軍規違反ばっかりして、本当に戦力として役に立っているのか? それを言ったらおしまいか。 こういうことを言うようになったのを、大人になったというのかな? カミーユ・ビダンに「そんな大人、修正してやる!」とか言われそうだ(爆。 10・19 関サバと岬サバ 妻の妹が柏に来たので、3人で居酒屋に飲みに行く。 初めてのところだったが、刺身などがなかなかおいしい。「岬サバ、岬アジ、岬イワシ」などというのを売りにしている。 聞きなれない名前だが、伊予は佐田岬で揚がったものらしい。 いじましいキャプションがつく。 「豊予海峡のお魚です、九州に上がれば、関サバ、関アジ、四国に上がれば、岬サバ、岬アジ。名前は関係ありません。おいしいものはおいしいのです。」 以前、関サバを作り出すドキュメントを見たことがある。大分県の佐賀関漁港に揚がった魚は「関○○」と称される。これは、佐賀関漁協のやり手の誰かが、広告屋と組んでバブル期に全国的に売り出した魚のブランド、比較的新しいいわば「作られた伝説」だ。 豊予海峡で取れる魚は確かに身がしまっておいしいが、当然ながら隣の臼杵漁港や佐田岬にも同じ質の魚が揚がる。しかし、「関○○」のブランド名は商標登録されているので、他の漁協では使えず、魚の値段も5分の1以下になる。 これぞ、資本主義の極北。ボードリヤールの世界。 こんなクダラナイ構造を支えているのが、「○○産」を異常に珍重する日本人の心性だ。資本制の構造の中で、「○○産」とレッテルを貼られて循環しないと、味の優劣さえも判別できないというダラシナサ。 もちろん、牛肉偽装問題を過度に騒ぎ立てるところにも同根の病理は感じる。 10・18 靖国神社 例年後期は、留学生向け授業のTAというのをやっていて、英語で解説などしなければいけないのでちょっと面倒なのだが、今日はその授業の企画で、秋の例大祭中の靖国神社に行く。 教官と僕の一般的な説明(遺族会の集票マシーン機能あたりまでは話した)のあと、アジア系も欧米系も、留学生たちは一様に、「ああ、その問題はよくわかる」「それは問題だ」というような顔をする。そこで、アメリカ人の留学生が、「アーリントン墓地にいったことがあるが、あそこはこんなところと違ってもっと広大で美しい」と胸を張る。 脱力と軽い殺意。しかし、面倒なので何も言わない。日本のナショナリズムって、一貫してこういう風に扱われてきたのだ。何も言い返さないことも含めて。 その後、ちょっとした出来心で、財布にあった100ウォン玉を賽銭にしてみる。どういう風に解釈されるか、と思ったのだが、悪戯心が過ぎたと、大後悔。 10・15 西麻布のリストランテ 論文一本校了。他人の評価はわからぬが、自分としてはなかなかおもろいもんが書けたので、「一仕事終えた後の昂揚感」を久方ぶりに味わった。 なので、数日遅れのバースデー・プレゼントを兼ねて、最近割りと話題になっている(らしい)西麻布のリストランテ、アル・ドジェへ。 「お前、最近楽しみっていえば食うことばっかかよ」と思ったあなた、その通りです(^^;) 考えてみれば、イタリアンって巷にいくらでもあふれてるから、案外金出してちゃんとしたリストランテって行っていないんだよね。 ヴェネツィア料理中心のとても小規模な店だが、イタリア人のカメリエーレのつかず離れずのサービスがとても心地よい。押し付けがましくはないが、こちらが興味を示せばいくらでも料理とワイン&チーズの相談に乗ってくれる。 料理は、いわゆる「イタリアン懐石」と揶揄されるようなポーションではあるが、さすがにどれも素晴らしい。特に、アンティパストでいただいた「ズワイガニサラダのミルフィーユ仕立て」の皮となっていたフェンネル風味のガレットなんて、発想からしてプロの仕事です。パスタは、オマール入りのアニョロッティと、サフラン風味の帆立貝のパッパルデッレとちょこっと変わったところをチョイスしたが、両方ともしっかりした味付けで、印象に残る味。もちろん、セコンド・ピアットにチョイスした子羊も文句ないロースト加減だったけど。 ワインも好みを告げたら、リグーリア産のヴェルメンティーノなんていう痒いところに手が届くチョイスをしてくれたけど、全体の中でもっとも絶品だったのが、チーズのチョイス。 ヤギや羊など癖のあるチーズの、割としっかりしたハードタイプやウォッシュタイプが好き、などとお願いしたら、3つのチョイスのひとつに、五十嵐史上最高のチーズを持ってきてくれた。トスカーナ産のペコリーノ・オーロ。オリーブオイルを毎日表面に塗りながら6ヶ月間熟成させる羊乳チーズの逸品らしい。乳の味をダイレクトに感じる素朴さと、洗練された香りの絶妙なブレンド。やばい。 というわけで、素晴らしい時間を作ってくれたカメリエーレとシェフに感謝。何かの時にはお奨めのお店です。コストパフォーマンスは悪くないといえましょう。 と、こんなことを毎日書いてたら、友達なくすな。つか、その前に破産するな。 10・13 蕎麦屋とバリ島 またまた間隔が空いてしまいました。うー生活が回ってゆかぬほど忙しい(ことになっている)。 今日の昼は、メシを作るのも面倒だったので、日本屈指の蕎麦処とマスヒロも激賞の、「竹やぶ」に行きました。柏に住んでいるのに、実は初めて。90年代の蕎麦界を引っ張ってきたカリスマ、ここに行かずには蕎麦は語れないとまで言われたお店です。 まずつまみに、ヤッコと厚焼き。しっかり味のしまった木綿豆腐も、上品な出汁の厚焼きも美味いが、値段も値段なので、このぐらいの味がしてくれないと困る。 それから、1300円の蕎麦掻き。スフレのように柔らかいモノが、ほわっと蕎麦湯に浮かされていて、これは絶品。しかし、まったく腹がクチくはならず、せいろを一枚追加。こちらはといえば、やはり「藪」の系列といっていい典型的な東京風のコシの強い蕎麦。もちろん美味いが、もちろん美味いという程度かな? しかし、この箸を三回つけたら700円が飛んでしまう量は何とかならんものか。 蕎麦って本来こういうもんじゃあないとは思うんだけど、大一枚ぐらいは覚悟して、絶品の蕎麦掻きをつまみに酒を飲む「隠れ家」とするには、いい店かな。ただそれには、車でしか行く気にならないロケーションというのが、限りなく痛い。 バリで凄いのありましたね。爆弾テロで200人から死んだのをはじめて見ました。 お労しいことです。 自国民がたくさん死んでキレていたオーストラリアの外相は、「アルカイダの影が見える」みたいなことを言っていましたが、さすがに現時点でそれを言うのは、どうかと。 しかしまあ、メガワティの「無差別テロ」という断定には??な、何らかの「意図」は感じるのも事実です。 というのも、バリという日本にも大人気のリゾート地、しかも日本の連休中でありながら、日本人の死亡者ゼロ、重軽傷者もごく少なかったのが、引っかかるのです。 テレビでは、「外国人の集まるディスコ」と紹介されていましたが、ここは恐らく「ヨーロッパ人やアメリカ人、オーストラリア人などの白人観光客の集まるディスコ」だったのではないか、と。 東南アジアやインドに旅行したことある人ならご存知でしょうが、バンコクのような大都市でもリゾート地でも、白人系の旅行者が集まるスポットと、日本人や韓国人の集まるスポットは、なぜか完全に分かれるものです(まあ、本当は理由は大体わかるが、面倒くさいので割愛)。 バリには逝ったことがありませんが、おそらく同じようなものだとすると、あれだけしか日本人がいなかったということは、ここは完全な白人スポットなのでしょう。実際、死傷者のマジョリティはオーストラリア人で、イギリス人やドイツ人の犠牲者も多くいたとのことです。 だとするならば、これはやはり単純に「無差別」というようなものではなく、アルカイダとまでは現時点では言い過ぎにしても、何らかのイスラムの影を感じさせるものとなります。相手はアメリカではありませんが、少なくともユダヤ−キリスト教世界の住人たちをターゲットにしたわけです。 変な話ですが、このニュースを聞いて同時に、「いまだ日本人はムスリムにそこまで恨まれていないのだな」と思うところもありました。これはもちろん、日本とムスリム世界との歴史的な関係性の希薄さと、中東方面の対立に一応「中立的」に振舞ってきた(ま、その内実は、石油を売ってくれる国をできるだけ幅広く確保しようと思っていただけなのだけれども)日本の伝統的外交政策に起因しています。 しかし、こうゆう観光客が集まるごくフツーのスポットが狙われたという意味では、衝撃的な「無差別」テロです。しかも、最近治安が悪化していたとはいえ、場所はイスラエルやエジプトのような「最前線」ではなく、そしてニューヨークのような「中枢」でもなく、あくまでもインドネシア。 これは、いまや世界中が「最前線」になっていることを意味しているという意味で、衝撃的なことです。明日六本木の「外国人が集まるディスコ」が標的にされても、驚くにはあたらないということです。 そして、僕はこの前の「朝まで生テレビ」の、カンサンジュンさんのとある言葉を反芻してしまいました。 彼は、ヨーロッパ(大陸)の反発姿勢を考慮すると、アメリカのイラク派兵時に共同作戦を張るのは蓋を開けたら日英だけ、という事態は十分ありうるが、そうなったら、日本はムスリム世界を敵に回しました、と世界に宣言しているようなものではないか、とごく当たり前のことを、しかし滅多にメディアが取り上げないごく当たり前のことを、ゆっていたのです。 そして、もしそうなった場合には、イスラム教原理主義者は、日本や世界の日本人コミュニティを確実に矛先を向けてくるはずだが、その覚悟はあるのか。アメリカと同調することが国民の安全を守る生命線と誰もが言うが、ムスリムを敵にまわしてテロを呼び込むことは、国民の生命と財産を危機に晒すことにならないのか、と続けました。 (山本一太なんていう跳ね上がりの坊ちゃんが、「テロとの戦いから逃げてどうする」などと喰って掛かってましたが、無視してください) 僕は、確かにムスリムを敵に回すということに過敏に反応するきらいがある。 パキスタン人の友人はたくさんいるし、イギリス時代にはチュニジア人やウズベキスタン人の友人もいたが、アメリカ人とは生涯を通じて一人しか仲良くなったことがない、という日本人としてはおかしな偏りをもった「国際交流」をしているので、個人的な皮膚感覚で、アメリカ人は知らない人たち、ムスリムには親しみがあるのだ。アハハ。 (ところで、「朝生」パネリストなどもそうだが、現在の日本の各界のエリートが、単純にアメリカ人と数多くの個人的な親しい関係を持っていることには、改めて驚かされることがある。つか、最近「連邦議会上院で秘書官やってました」とかいう連中が、ロビイストだの国防省幹部だのとの人脈だけを誇って、メディアやあろうことか政界にも進出することがあるが、あれ、何とかならんもんか。アメリカのロビイストや官僚連中なんかと妙なつながりのあるヤツを国会議員なんかにしたら、それこそ物理的・直接的に「国益」を損ねる可能性があると思うのだが) しかし、そうした僕の個人的な傾向はともかくとしても、カンサンジュンさんの言っていた、ごくごく当たり前のことは、この機会によくよく反芻する必要があると思われ。 白人たちの集まる六本木でテロがあるのもそれはそれでとても嫌な話だが、正面切って渋谷やお台場が狙われるような恨みは買わないようにしたいもの。そう思いませんか? 「日本だけが逃げ切ろうなんてけしからん」なんて粋がる向きもあるだろうけどさ、実際問題いくら爆弾落としたってテロなんてなくなるはずないんだからしょうがないじゃん。そのことは、アフガンで証明されているはずなんだけどな。 10・8 正泰苑にて、あの問題について考えた。 更新せなんでスマン。 と、誰に謝るわけでもありませんが、確実にアクセス数には跳ね返ってきてます(笑) 昨夜は、町屋に住んでいる友人と飯を食う、ということで、町屋といえば、やはりさんざん噂を聞かされていた正泰苑に予約を取りますた。 上ロースは終わっていたので残念だったけど、並みのロースでも生でOKだし、カルビやらコテコテホルモンやらも、さすがに文句のつけようのないぐらい美味かった。(カミサンが一緒だったので、ホルモン系をあまり食べられなかったのは心残りだが) しかし。なんか焼肉って、あるレベルを越えると、あんま僕の中では優劣がつかなくなるんだなぁ 、ということを再確認。なんていうか、僕は硬い肉は硬い肉で結構好きなタイプだから(シュハスコとかも十分楽しめる)、日本で言うところの「舌の上で溶ける至上主義」みたいのは、ある程度で打ち止めになってしまうのですよ。 だから、僕的には、肉そのものはあるレベルに達していれば、むしろ「韓国家庭料理」みたいのが充実している焼肉屋のほうがポイント高いんだよなぁ。新宿のハンアリとか。 とはいえ、正泰苑も間違いなく素晴らしい店です。牛角の代わりに、正泰苑が各駅にできたらどんなに素晴らしいことでしょう。安楽亭の代わりに、とまでは言わんが。 それはそうと、北系のお店らしい正泰苑で焼肉を食いながら、ブラジル人の友人と拉致問題について話す、というのはなかなかスリリングかつ奇妙な時間だった。 この件についてはそろそろ打ち止めにしたいけど、宮崎学親分がかなり決定的なことを言っているので、紹介。 これはぜひ読んで欲しいから内容はあまり書かないけど、つまりは「拉致は英雄主義、盲動主義が起こしたこと」という金正日の言葉は、ある意味では嘘ではないということ だね。この説明が最も納得がいく。 そして、今こそ在日朝鮮人の人々を、日本社会の一員として絶対的に守らなければいけない、という主張には、強く共感。繰り返しになるけど、在日の方々には迷惑な話だろうが、否応なく北東アジア情勢の鍵を握る存在になってしまっているのだ。 彼らが声をあげることのできる環境を作るのは、日本人と日本政府の仕事だ。もっと言えば、宮崎親分も言うとおり、これまで北朝鮮を持ち上げてきてしまったサヨクの仕事でもある。ここで「ケツを拭く」覚悟を示したサヨクのことは、メロドラマに思考停止(悪質には、したふり)している連中より信頼していいと思う。 ああ、思考停止していない政治家が「保守」の側にいることも付記しておかなければ、 フェアではないね。野中広務。6日の昼間、鶴瓶と南原の「新/平成日本のよふけ」。 この番組の常で、「こんなことまで喋っていいの」ということ(いや、喋っちゃいけないことはもちろん喋ってはないんだが)を、面白おかしく喋ったり、小渕さんの死を今更ながらに芝居じみて喋ったりしたあと、最後に拉致問題の話になった。 ここで、彼ははっきりと、戦前の朝鮮人強制徴用の話に触れ、日本人にも過去を直視することを説いていた。 この野中の態度を、相変わらずのプライドなき弱腰、骨まで腐った戦後民主主義、と詰るのは容易い。しかし、この話が始まるや一転静まり返ったスタジオの雰囲気は、野中がそんな型どおりの論難を越えるリアリティに触れていることを、何よりも雄弁に物語っていた。 野中は何も突飛なことを言ったのではない。ただ、「戦争中、朝鮮人が工場や鉱山で、日本人とは全然違う酷い扱いを受け、使い捨てされるのを、私はこの目で見ているからね」と強調するだけだ。 「私は、この目で」。この文脈で、このセリフを、60も近くなってから中央政界入りしたホンモノの叩き上げの政治家、野中広務 が口にすることは、実はものすごく重い意味がある。 2chなどで公然の秘密とされている、野中自身の出自を考えたとき、「この目で見た」というセリフは、旧内務官僚だった中曽根や後藤田が発言したのでは持ち得ない重さをもって、視聴者にのしかかった。 もちろん、司会の南原たちを含めて、スタジオのオーディエンスが、野中の出自を知らなかった可能性のほうが大きいが、それでも、彼の言葉がいやに重いことは、かなり伝わったことだろう。 言うまでもなく、一国の代表団として、野中が90年代に北朝鮮で繰り返した迎合姿勢は、到底容認できるものではない。もしかしたら、野中のそうした態度の背後には、ある種の利権が存在していたのかもしれない。(とはいえ、パッキーカードを導入した張本人である平沢・拉致議連会長ほどには、実質的な在日コリアンとの利害関係は、なさそうに 見えるが) しかしそれでも、丹波で過ごした少年時代に、半島出身の「帝国臣民」と文字通り「隣で」暮らしていたであろう野中が、若き日の思いを今に至るまで持ちつづけていて、視聴者の反発を承知でああいうことをテレビでしゃべったという事実には、いささか胸が打たれた。 確かに、北朝鮮との交渉は、現在進行形の国家暴力である拉致問題に関する「現状回復」がなされてからでないと、話にならない。(そして、現状回復というのは、おそらく金王朝の打倒でしかなしえないだろう。) しかし、そのあとで。北東アジアにおけるミニ・アメリカのような独善に陥るか。国境を越えた想像力と共感に向かって一歩を踏み出すか。それがこれから、問われてゆくだろう。とりあえず、野中の言うとおり、足元の歴史に目をそむけずに、語り継いでゆくことが必要だ。もちろん、韓国や北朝鮮や中国にも、目をそむけてほしくない歴史、踏み出してほしい一歩があるのだけれども。 10・2 兵どもが… あまりに予想通りの脱力の結果を持ち帰ってきた拉致問題調査団について、どうこう言ってもどうしようもないので、あえてここでこんなページを紹介してみようと思う。 「かりの会」、つまり、在北朝鮮のいわゆる「よど号グループ」のホームページ。どこまでが日本にいる「支援者」の手による更新なのかはわからないが、ともかくも、共和国にいる彼らが、あの隔離された状況でこんなものを作って情報を発信し続けていたのである。それだけで驚きだ。 僕自身、このHPの存在をごく最近知ったのだが、案外いまだに存在自体そこまで知られていないんじゃないだろうか? わりに頻繁に更新されているから、以前から知っていたらコマ目に覗いたのに、と残念に思う。 かなり膨大な情報量のあるページなので、いちいち論評するようなことはできないから、興味があれば実際にリンクで飛んでいってほしいが、まあ一言で言って、第一に「この人たちは何でも知っている」。エンロンの破綻の具体的な背景から、「利家とまつ」から、果ては「ごくせん」なんて日本人でもよう見ないくだらないドラマまで見ている。ま、それだけ日本の「支援者」の層が厚いっていうことだが。 そして、第二に、「案外まともに世界を見ている」。もちろん、サヨクではあるのだけど、高度資本主義社会へのスタンスとか、アメリカ支配の構造とか、かなり的確な論評をする。言うならば、標準的でまっとうなサヨク言説であって、決して電波というほどのものではない。 ただし、例外はもちろん北朝鮮そのものに関すること。これを言っちゃあ、自分たちの犯罪行為が次から次に出てくるってこともあるだろうし、何より、何か言ったら自分たちが北朝鮮で生きていられなくなる、ってことなのだろう。彼ら自身、体のいい囚われの身なのだから。 そして第三に。「このヒトたち、ある意味強烈な愛国者です」。少なくとも、サヨクの中でもインターナショナリストの系譜ではなさそうなのね。その手段とかは別にして、こんなにストレートに「日本」を憂えているページなんて、今時そうそうない。 少なくとも、『月刊 石原慎太郎』なんていう軽薄としか言いようのないムック本を編集する、自称「平成の暴れ論客」のデブより、ずっとまっとうな「日本」への愛情を感じる。(←まともに読んでいるわけではないが、福田和也だけは、どんな人に支持されているのか、さっぱりわからんのだ。「女にモテたことのないヤツは、石原の存在そのものを生理的に嫌悪する」だなんて煽るけど、お前ほどモテそうにないヤシも滅多にいないよ。ネタとしてさえ、一片の面白さもない) この状況下でまっとうな精神を保っている(ように見える)「よど号グループ」は、何を思い、何に絶望し、何に希望をつないで生き長らえているんだろう。とても興味が沸いてきた。 現在の営み 過去の営み 2002・9(塩原紀行、文系研究者の憂鬱、ルーツ探し、その他GO評+コイズミ−キム会談などコリアン噺多し)
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