おもなタイトル
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| 11・22 !! いやー、震えた。 ウィルキンソンの決勝ドロップゴールには、とにかくしびれた。 自分が実存を込めてサポートするチーム以外のスポーツの試合で、声にならない呻き声が知らず知らずに声になって出てしまったのは久しぶり。(まあ、オーストラリアの二連覇は面白くないなーぐらいには思っていたが) しかし、延長後半残り30秒っていうあのタイミングで決めるかね。決勝の舞台で、延長修了間近に同点で試合が推移して、ゴール前でボールが回ってきて、それを一切の逡巡なく決めちゃう。 スーパースターの星回りに生まれついた人っているんだねい。 2002日韓W杯予選最終戦のギリシャ戦で、最後の最後に決めたベッカムのFKにも匹敵するインパクトだろう。舞台設定としてはそれ以上か? ベッカムが誰もが認めざるを得ない本物のスーパースターになったのは、あの一発だったわけだが(あの日の翌日のDaily Miller かなんかには、マッチョでスキンヘッドの戯画化されたイングランド・サポが、「ここLoveに書き換えてくれるかな」と I Hate David Beckham と彫られた肩を差し出すカリカチュアが載っていた)、ウィルキンソンはどういう扱いになるんだろうね。 ラグビーっていう、いろんな意味で微妙なスポーツのスーパースターでも、やはり天下のセレブに収まるのだろうか。 とりあえず、ベッカムとウィルキンソンの二人が楕円球でリフティングしあうアディダスのCMが放映されていたが、あれは結構カッコよいね。 ま、グローバル資本どうのこうの、って話は、今日のところはナシにしよう。 11・20 ボジョレー・ヌーヴォー 解禁日だそうで。 初めての経験だが買ってしまった。今年はヨーロッパの猛暑のおかげで100年に一度の当たり年だなんて、煽り立てられるもんだから。 結論。 う〜ん、ただの若い酒(笑) 新酒は新酒だよ。直接的過ぎる味で、2500円に値するとは思わない。 ボジョレー・ヌーヴォーに一喜一憂するんじゃなくて、これから向こう20年ぐらい、2003っていう年号を記憶しておく方がずっと重要なことになるんだろうね。 ところで、ボジョレー・ヌーヴォーどうのこうのって、バブルのときの匂いがプンプンするんだけど、実はボジョレー・ヌーヴォーが一番はけたのって去年のことなんだってね。 ちょっと意外だった。逆に言うと、バブルのときのあのキラキラした雰囲気って、「不況期にみのもんたさんが作り出した赤ワインブーム」なんかよりも、ずっと裾野が小さかったわけだね。 11・19 まがい物のエリート育成 水曜日は、帰宅時間の関係で大抵は後半しか見られないが、『恋文』というドラマを楽しみにしている。 渡部篤郎は相変わらずうまい。それはもう分かりきってることだから、いい。 びっくりしたのは、水野美紀だ。このドラマが始まるまで、僕にとっては、魅力のかけらも感じないはっきり言って「どうでもいい女優」だった。 それが、どうだ。髪をアップにしたとたん、ハッとするぐらいの危うい色気に研ぎ澄まされた情感。参った。 それに比べてしまうと、和久井映見がどうしようもないぐらい醜いが、このドラマに関する限り、役柄上かえってリアリティを増している。 おかしな設定の小品を引き伸ばしただけのような、かなりダラけた展開のドラマで、とても退屈ではあるんだけど、俳優の演技を見るためだけについつい見てしまう。 今シーズン見ているドラマは、これと『マンハッタン・カフェ』だけ。でも、二つもドラマを楽しみにできるとは、僕にとっては十二分な当たりクール。 かつて『不平等社会日本』の結論の章で、佐藤俊樹さんは、アメリカ流の流動性が高くかつ格差も大きい社会システムを構築するのは現実的に不可能だと断じた上で、「西欧流の階級社会システムは、今後の日本社会が向かいうる一つのオプション」と一旦は評価するが、それ以上あまり議論を展開することもなく「気乗りがしない」とこの可能性を排除し、日本という社会に特有の与件(ブルーカラーとホワイトカラーの相対的近さ、など)を生かした、新たな機会平等社会の構築に向けた青写真を描いた。 3年前に出版されたこの本は、随分色々な論争を巻き起こしたけれど、その中の一つの形が、佐藤さんが最後の最後で排した可能性、つまり「階級社会を積極的に作り出すこと」の必要性こそがあるのではないか、というようなものだった。 代表的な論者は、例えばこの人。(知っている人もいるかもしれないが、彼は生まれながらに大きなハンディキャップを背負っている人だ。彼の著作をきちんと読んだことはないのだけれど、どこをどう振り切れたら、そういう逃れがたいバックグラウンドからこういう思想に辿りつくのか、とても興味がある) 僕は、彼らの懐古趣味的な議論に与する気持ちになったことはないけれども、「緩やかな階級社会」に落ち着いていくという線は、少なくとも「機会の平等を奪うほどに格差がどんどん増大していくのに、それが隠蔽されて、誰しもが「成功」を目指す競争に煽り立てられる社会」よりはよっぽどマシだと思っているので、佐藤さんがあっさりとその線を排しているのには、常々若干の不満を感じてもいた。 ただ、少し前のことになるが、こんなニュースを目にしてしまうと、今のご時世にこの国で「責任感と徳を備えた真のエリートを育成する」なんて試みが、いかに危っかしいまがい物に過ぎないか、ということをあらためて痛感せざるを得ない。 この、トヨタやJR東海という巨大勝ち組企業が、「真のエリート教育」のために担ぎ上げた伊豆山健夫なる男は、2年前まで僕の母校・開成学園で校長を務めていた人物に他ならない。 彼が校長に就任したのは、僕が高校を卒業してから数年後だけれども、彼の「悪名」は各方面から嫌と言うほど聞かされ、僕自身も(まあ間接的にではあるが)煮え湯を飲まされてきた。 簡単に言えば彼は、OBたちの間では、この期に及んで「東大合格者数ダントツトップの学校で居続ける」こと、そして顧客たる生徒のご父兄の間の短期的な評判を上げることだけに血道を上げた校長だったと評価されている。 その犠牲となったのが、廃屋寸前の宿舎に起居して褌を締めて海で泳ぐわが水泳部や、常に救急車が待機していることで名高い運動会を筆頭とした前時代的な「運動」−−近代的なスポーツという響きとはあまりにかけ離れている−−の伝統であり、高橋是清・初代校長時代から連綿と続く「バンカラ」な校風そのものだった。 伊豆山校長時代の十年弱で、そうした「古き佳き」活動への非効率な支出は徹底的に削られ、運動会などの野蛮で危険な部分、父兄からの苦情を受けかねない部分は、徹底的に馴致された。 その代わりに、東京大学を目指した効率的な教育は洗練の度を果てしなく高め、開成に入るための中高入試は、ほとんど秀才少年たちのくじ引きの世界にまで困難なものになっていった。 (そんな校長に対し、大先輩の愛すべき下町のおっちゃんたちの一部から辛辣な退任運動が盛り上がり、遂には伝統回帰志向の強い現校長が迎え入れられることになる。) そんな彼が「イートン校を目標にした」男子校の初代校長に担ぎ上げられているのだから笑ってしまう。 東京大学やイェール大学を一直線に目指す「効率的」に「洗練された」教育だけで、イートン校が生み出してきたような「ノーブレス・オブリージ」を備えた「上流階級のエリート」が形成できるはずがない。 威信・経済両面で恵まれた環境が約束されていることと引き換えに、社会的に巨大な責任をしょって立ち、自己犠牲も厭わない。 西欧流の階級社会を目指すというのならば、そんな「徳」を備えたエリートの形成は欠かせない。そのための教育とは無論、ITだの語学だのの「実戦的な」教育などであるはずはなく、徹底した教養教育と、一見無駄にも思えるような伝統校に代々伝えられてきたカルチャー抜きにはありえない。 「真のエリート教育」「国際人育成」の掛け声のもとで、効率優先の実戦的な教育がなされる高校が新設され、そのバックには、グローバル資本。 寒い時代だとは思わんか、というやつだ。 俺が俺が、ってわけじゃないけど、こんな奴を担ぎ出すなんてそんな学校話ンなんないって俺にはすぐわかっちゃうんだよ、って声を大にして言いたいね。 (終盤、極めて内輪受け) 11・11 宴のあとで。 憂鬱ながら、一応コメントしておかないといけないのだろうか。 二大政党制を促すような選挙システムで、少数政党が世論に響かない選挙活動をし、ロジカルに二大政党時代が到来した。それだけの選挙だった、と総括していいだろう。 イラク問題も、その根っこにある憲法9条も確かに重大な論点だ。 しかし、プライマルな論点ではなかったはずだ。 今回の選挙の最大の争点は、「機会の平等を脅かすほどの結果の不平等を促しかねない、構造改革路線を認めるのか」、もっと平たく言えば、「アメリカについていこうとして無理し続けるのか、欧州の小国のように適度に老いていこうとするのか」というその一点に尽きたはずだ。 にも拘らず、「今問われているのは憲法です」「ガンコに平和」などという軸しか立てられなかった、社民・共産両党の姿勢は、端から試合を投げているようなものだった。 この両党の体たらくの結果として、私たちは考えている以上に多くのモノを失ったといっていいだろう。 その程度の政策立案能力・パフォーマンス能力しか持ち合わせていないサヨクしか、わが国が持ち合わせていないことは、不幸の極みである。 しかしながら、自民(小泉周辺)&民主(主流派)のネオ・リベラル勢力に対抗する語彙と求心力を、既存の社会民主主義勢力に求めることが、土台無理だったのかもしれない。。 空しくなるので詳述はしないが、代わりに3年前に金子勝氏が書いたエッセイの一節を長めに引用しておく(榊原英資やゴールドマン・サックスの重役の代わりに、彼をシャドウ・キャビネットの経済閣僚に抜擢するぐらいの度量が民主党にあれば、二大政党制なるものも悪くはないのだが)。 今回これだけメディアが煽ったにも拘らず、低投票率に落ち着いたのには、それ相応の理由があるわけだ。 こうやって、「政治」(少なくとも、われわれに馴染み深い意味での「政治」というチャンネル)は死滅してゆく。 -------------------- 今のところ、この世代間格差を解消するイデオロギーとして、二十歳台以下の若年世代に提供されているのは市場主義的リベラリズム以外にないからだ。「終身雇用」制度を壊す雇用流動化政策、年功賃金制度に代わる成果主義賃金体系、そして年金の民営化や消費税による基礎年金充当である。そうすることで、表面上、確かに団塊の世代が享受する「既得権益」を削ることはできる。 だが、二十歳台前後の若い世代は、この主張を声高に言うことはできない。「個人の競争に任せましょう」という弱肉強食の論理で連帯するというのは、そもそも言語矛盾だからだ。かつて二十歳台前後の若い世代は、正義や平等を盾にして社会的に抗議する運動を行ってきた。彼らは弱者を切り捨てる「能力主義」的差別や選別に反対することで、連帯して共同行動をとりえた。だが、いまや団塊の世代が保守主義の立場から自らに有利な「平等」的配分システムを守ろうとしている。二十歳台前後にいる若い世代は、格差是正のために「能力主義で競争しましょう」という以外にないのだ。これもまた言語矛盾である。 それゆえ、彼らは大声を出して他者に働きかけて、まとまろうなどとはしない。三十歳台や四十歳台と違って、これらの若い世代は、メディアから流れてくる「規制緩和」の主張を一人で聞きながら、厄介なことに関わることなく、マッタリと「革命」ないし「崩壊」を待つのが最も「効率的」だからだ。 かくしてミーイズムと隣りあわせで「リベラリズム」が、この世代に静かに浸透してゆくことになる。 金子勝「三つの格差「所得・世代・学歴」を突き抜ける道」『論座』2000年7月号。 --------------------- 投票行動ということが根源的に無意味化している、「すーぱー・ふりー」でフレキシブルな若い労働者たちに、どういう声を響かせなければならないのか。 そろそろ、文句をいうだけでなく、他人任せにするだけでなく、真剣に考え始めなければならないと感じている。どんなに絶望的な試みであったとしても。 それは、今までの私たちには馴染みのない手法やチャンネルになるのかもしれない。 今回、わが町柏は激戦区だったおかげで、与野党の超大物が一人残らず次々に駅頭に立ち、毎日のように派手な棄て看板が立てられた。 その中でただ一人、小泉首相でも、安倍幹事長でも、菅代表でも、岡田幹事長でも、谷垣財務相でも、はたまた志位書記長でもなく、棄て看板に悪意のある落書きをされた人物がいた。 竹中平蔵氏である。 柏駅周辺に立てられた複数の棄て看板に書かれた「竹中平蔵先生来る」の文字の「先生」が、黒マジックの×印で塗りつぶされ、ある看板は二つ折りにされてピンサロ・プリティの前に棄てられていた。 これが偶然でないとすると、柏市民もそう悪くないセンスをしている。 久しぶりに柏市民であることを誇らしく思ったものだ。 そして案外、暴動も近いのかもしれない、と思った。 11・7 木更津フィッシュアイ・日本シリーズ 木更津キャッツアイも遂に日本シリーズということで、性懲りもなくカラダを削って逝ってまいりました、木更津沖堤防。 今日は、朝焼けまでシーバス狙いでルアー。そのあとはしばらく胴突きでメバルを狙いつつ、昼下がりになったらイイダコ。んで合間に、赤イソメの探り釣りでアイナメ。 という狙いはな〜んにも当たらないものの、なんかしら連れてしまうのが木更津の常。 結論から言うと、カワハギ・デーでした。 良型カワハギ4(2人で7)、キス3、ハゼ類3、ベラ2、イイダコ4、シマダイ1、良型ウミタナゴ(ほんのり赤味が差していたので、「真鯛の子供ということにしておこう」となり、刺身で食べても真鯛の気がしていたが、後でどこをどう調べてもタナゴだった)1、ちびメバル1、グーフー1など。 とまあ、飽きることのないぐらいには釣れますた。 カワハギと鯛系の魚が中心だったということで、今日のディナーは鍋。イイダコしゃぶからはじまって、絶品のカワハギの肝シャブをはさみ、メインのチリ鍋へと、最高でした。 しかし、惜しむらくは、手元まで釣り上げていた35cm級のカレイをクーラーボックスに入れ損ねたこと。 タモ網を用意するのを億劫がって、ブッコ抜こうとしたら、道糸から重量でブツリ、と。こんな1シーズンに1匹級の海からのご褒美は、ワンチャンスをモノにしないとね。 備えあれば憂いなし、というのを思い知った一日でしたが、ここでカレイへのリベンジの気持ちがメラメラ燃え出したのは、釣り道的には結果オーライかと。 11・3 貧者のスポーツ あまり注目を集めてはいないかもしれないけど、楕円球のW杯のほうは、一次リーグも終わり佳境を迎えている。 日本も、スコットランド戦&フランス戦では大いに期待させてくれたけど、最後のアメリカ戦あたりは、結局いつものように「なし崩し的に」負けちゃったな。 僕はラグビーファンというわけでも、通というわけでも全くないけれど、そろそろ決勝トーナメントが始まるっていうんで、押入れからスプリングボックス(南アフリカ代表)のジャージを引っ張り出してきて、着て歩いたりしている。 これは、4年前にウェールズはカーディフで買ったもの。実は前回W杯は、イギリス留学中だったので、ラグビーの聖地「カーディフ・アームズパーク」で、日本vsアルゼンチンを生観戦したのだ。(あれからもう四年かということに気づき、色々な意味でトオイメ) それにしても、今回のW杯1次リーグのこの勝敗表には笑った。 こんなにキレイに白丸と黒丸が斜めの線を挟んで並ぶ勝敗表は、久しぶりに見た。つまり、4つのグループで一つの例外もなく、強いところが取りこぼさずに勝ち、弱いところが順当に負けたということだ。 もちろん、第一には、ラグビーというのが真のインターナショナルスポーツでないから、国家間のレベル差がこんなにもある、ということなのだけれど、理由はそれだけではない。 たとえば、これがサッカーであったら、こうはいかない。前回のW杯の一次リーグでは、フランスやポルトガル、アルゼンチンなどを相手にした、興をそがれるほどのジャイアント・キリングが頻発したことは、記憶に新しい。それはちょっと異常な例にしても、毎年開かれる欧州CLで、レアル・マドリードやユベントスが、デイナモ・キエフやスパルタ・プラハに足元を掬われるのはよくある話だ。 無論、ラグビーにおける日本とフランスのレベル差は膨大なものがあるが、相手がフィジーやサモア辺りとなると、それほどの差があるわけでもない。少なくとも、デイナモ・キエフとレアル・マドリードの差よりは小さいと思われる。 にも拘らず、ラグビーでそうしたジャイアント・キリングが起こる可能性は、サッカーと比べるとぐっと少ないのだ。というか、サッカーでそれが起こる確率が、異常なほど大きいのだ。 よく言われる話だが、チームの強さがストレートに現れるのは、得点の数ではない。「攻め込む回数」である。 そして、攻め込む回数の中で、およそどのくらいの確率で得点が決まるかは、相手の守備力、というよりも、そのスポーツにある程度固有の「定数」で決まっており(少なくともトップレベルの試合では)、その「定数」がどう発現するかはランダムに、平たく言えば「運」次第であるという。 ご存知の通りサッカーは、10数回攻め込んでやっともぎ取った一点を、何個積み重ねられるかで競う、極めて低得点で勝負の決まるスポーツだ。とするならば、ロベルト・カルロスやリバウドが15回突破を重ねたブラジルに一点も入らず、それに対し、たった一度攻め込んだ日本がワンチャンスをものにして勝ってしまう、ということが起こりうる。もしくは、双方ともに一点も入らず、PK戦で勝敗が決まるということは十分にありうる。 だから、「マイアミの奇跡」にせよ、昨年のW杯の開幕戦フランス―セネガルにせよ、韓国―スペイン戦にせよ、ジャイアント・キリングは大抵、1−0もしくは0−0という試合になっているのだ。 私見では、こここそが、サッカーが「第三世界」で圧倒的に支持されている由縁である。 貧者が夢を見ることのできるスポーツ、これがサッカーの本当の醍醐味なのだ。 と同時に、聞いた話では、ここがまさにアメリカでサッカーの人気が薄い原因なのだという。 強いチームが攻め込んでも攻め込んでも得点できずに、ワンチャンスをものにした弱いチームに負けてしまうことのあるスポーツは、彼らにとって「ロジカルでないので面白くない」。その対極にあるスポーツ、つまり「攻め込めんだ数だけ得点できるロジカルなスポーツ」が、バスケットボールである。 さらに言えば、「ロジカルでないスポーツ」であるサッカーは、あまりにも試合を成り立たせるために個人に還元できる要素が少なすぎて、アメリカ人の大好きな「スポーツの数値化」がしづら過ぎるというのも、サッカーの競技としての本質的性格から導き出される、もう一つの結果である。 無論それは、アメリカ人が旧世紀の(あるいは来世紀のランバ・ラルやアナベル・ガトーの)「戦争の美学」とは相容れない、ロジカルな勝利を約束された戦争が大好きなのと、根底では繋がっているだろう。 10・23 最近のもろもろ ごぶさたしておりました。 急に忙しくなってきた(今までが暇すぎたのか)上に、体調も崩し気味です。 最近のニュースといえば、中曽根大勲位の大ゴネだろうが・・・ いっそのこと、無所属で福田康夫と戦ってみてはどうだろう。旧中選挙区の区割りで言えば、当然ながら5区の小渕優子を狩りにいった方が現実味があるが、こんな小娘を狩ってもそれこそ「晩節を汚す」というやつである。 大勲位の最後の戦い、相手は積年の難敵・福田赳夫の嫡子にして現内閣の大番頭・福田康夫・・・ 物語的には最高だ。 政治の劇場化、スペクタクル化というのならば、いっそここまでやるべきだ。特に大勲位のような千両役者ならば、国民を楽しませるのは「最後の義務」である。 政治の言語というものが、「国民」だろうが「市民」だろうが彼らの利害を回収できなくなった、というのならば、各候補者はとにかく選挙という戦いを最大のエンターテイメントとしてショーアップし、選挙民の耳目を集めることだけに努めるべきなのかもしれないと思う。 小泉や石原、あるいは田中康夫の劇場型政治が問題だというのは、実は、それだけ自分を商品として徹底的にショーアップしている政治家がまだまだ少ないから、彼らのやり口のみがあまりにクローズアップされ、無防備な選挙民に直撃しているということに他ならない。要はさまざまな候補者がみなショーマンシップを発揮し、それぞれのポピュリズムをてんでばらばらで無軌道に交差させあえばいいのだ。 各候補者がみなエンターテイメント精神のあるポピュリストとして、無秩序な選挙戦という舞台を勤め上げ、その結果として、実体は一つのサブカルチャーに過ぎないのに実際には「統治権力」として機能している政治という言語に80%を越える有権者が関心を向けたとき、ポジティブな何かがliminality(閾値)として生じる・・・可能性がわずかながらあるかもしれない。 福田康夫との死闘を制した大勲位には、クワトロ・バジーナ大尉ことシャア・アズナブルよろしく、こうつぶやいてもらおう。 「これでは道化だよ」、と。 しかし、政治家とは本来そういうものだ。 週に一度、ネギ畑の中の大学で「社会学概論」を教えているのだが、今日は予告どおり『ジェンダーと家族』を講じなければならない羽目になってしまった。 二週組みで、講義の翌週は課題文献を読んでのディスカッション中心なのだけど、ご多分に漏れず文章リテラシーはそれほど高くない学生なので(しかし僕自身、教養課程の概論レベルで小難しいビッグネームの本を読む必要は皆無だと考えている)、安野モヨコ師匠の大傑作『ラブマスターX』でもコピろうかなーと思って購入したが・・・ 深すぎで使えず。 このマンガを読みこなす域まで学生の意識レベルを上げていくには、4週間ぐらいジェンダーとセクシュアリティについて集中的に講義して、「性からの自由」と「性への自由」を3回転半ひねりぐらいする必要があるだろう。 しかしこんなテーマを、「郊外団地という空間の不気味(Uncanny)」というモチーフのもと、疾走感のある中篇に過不足なく描ききってしまうモヨタンの才能には敬服するばかり。 最近では、「フィールヤング」に『東京番外地』なる問題作を連載しているらしいし(さすがにこの雑誌を手にとる羞恥心は残されているのでまだ未読)・・・ 現在日本における最高の社会学者の一人(ただし天然)といって差し支えないでしょう、彼女は。 ところで、その前の週は「階層社会の現在」というようなテーマだったのだけれど、それにあわせて最近のいくつかの文献を読んでいたら、以前BBSで戦わせていたどんづまり議論の構造−−世代間の不平等を指弾するためには、世代間のUnityにはつながりようのない自由主義的な論理を持ち出すしかないというジレンマ−−が、3年前に既に金子勝さんに指摘されていた。 2000年7月号の『論座』に所収された「三つの格差「しょとく・せだい・がくれき」を突き抜ける道」という論文で、中公新書ラクレの『論争・中流崩壊』にも再録されている。この本の中にある大塚英志氏の論文(初出・Voice)も面白い。月刊誌というのも時には読んでみるものである。 10・15 こーきょーせい 日本社会学会に出てみたり、後期が始まってゼミに出てみたり。 と、久方ぶりあかでみっくなここ最近。 今日のゼミでの議論は、「公共性」。そのものずばりの斎藤純一さんの本が出発点。 割とドグマティックなこの本の「公共性」理解−−まあ、それはutopia is nowhere みたいなものではあるんだけど−−に、何となく気持ちの悪さを感じていた人が僕を含め何人かいて、一回ひっくり返した議論でなかなか盛り上がる。僕も最近使わなくなっていた脳内筋肉を駆使して、議論に何とかキャッチアップ。 まあその内容を要約して伝えたところで意味がないところだけれども、キーワード的に言えば、「公共圏の専制による生活世界の植民地化にどう抗するか」ということ。 正直「発話する主体」になんかダルくてなれないもんねー、ご同道のみなさま、ってなわけで。それでも僕らは、何らかのパブリックなものを練り上げて生きていかなければならないし、でも肩肘張るまでもなく、そうやってみんなちょぼちょぼ生きている。 サヨクの一角としての斎藤さんたちは、資本やネイションの論理の外側に公共性なるものを構築しようといろいろ努力しているわけだけれども、必然的に「強さ」を要求する「公共圏の一員としての発話する主体」と、ネオリベラリズムが要請する「自己決定しリスクテイクする主体」とは、実はかなり親和性が高いわけで。 ハーバマスが想定するような「市民」−−発話と対話に割くことのできる尽きない気力をお持ちの人々−−なんて、放っといたってネオリベの世で資本主義的にも「勝ち組」になれるだろうに、と。 そういったことから考えると、「強さ」の旗の下に、ネオリベと「市民派」が結びついている民主党の姿って言うのは、「野合」でも何でもなくて、「必然」なんだよね。 菅民主党の女性支持が壊滅的なほどに低いというのは、女性はその辺の専制主義を、そのしなやかな感性で直感的に感じ取っているからだ−−なんちてパパンと決め付けちゃうのは、いくらなんでもダボラだろうな。そもそもかなり性差別的だし。 ・・・って何が何だかわかんないか。またいつか噛み砕いて書きます。 というのもいつになるかわからないので、とりあえず往復書簡の原点にもなった過去の日記を参考までにリンク。 と書き終えたところで見た細かいニュース。 もう鯛ラーメン食べられないのかな・・・ ラウル選手も割りと好きだったんだけど。 10・13 ジョディ・モリス備忘録 またしばらくご無沙汰になりまして。 真球を使ったルーマニアとの試合や、楕円球を使ったスコットランドとの試合には、それぞれそこそこにカタルシスとフラストレーションを覚えたけど、とりあえずそれらはほっぽって、あまりみなさんに関心ないであろう(日本では)マイナーなフットボールのニュースを備忘録代わりに。 ちょっと前から、「まだ公開できないが、イングランド代表クラスのプレミア・リーガーがレイプ事件で逮捕された」と報道されていたが、リーズのジョディ・モリスだったのね。ロビー・ファウラーあたりかなーと思っていたが、ジョディ・モリスとはちょっと驚いた。 ジョディ・モリスという選手はそれほど有名ではないだろうけど、個人的には少し思い入れがありまして。 99年ごろ、イギリスでだったか日本でだったか忘れたが、チェルシーのユースチームを舞台にしたドキュメンタリーを見たことがあって(ヴィアッリでなくてグーリットがトップの監督をやっていたから、撮られたのはもっと前か)、そんとき「ユースチームからの希望の星」みたいな感じで、トップチームで躍動し始めたのがジョディ・モリス。 今でこそアブラモビッチが、クレスポ・ムトゥからヴェロン・マケレレまで無節操に買いあさり、日本でも金満チームの印象が強いチェルシーだけど、ロンドンの"posh"エリアであるウェストエンドにましますこのチームは、元々コスモポリタンな金持ちチームの印象が強い。財政的にも、サポーター的にも。 僕がイングランドにいた99年ごろも、ルバフ・デサイー・デシャンの現役フランス代表トリオに、ジャンフランコ・ゾーラやトーレ・アンドレ・フローを抱え、その上リベリアの怪人・ジョージ・ウェアを補強するなど、「スタメン全員外国人」ということもあるようなチームだった。 そん中で、ド地元(ハマースミス区)出身でスタメンを飾るのが、デニス・ワイズとこのジョディ・モリス。キャプテンのデニス・ワイズが負けん気の強いファイターなら、ジョディ・モリスは、例のドキュメンタリー効果もあり、熱心に練習をこなし献身的な働きをする、若手優等生センターハーフとして、圧倒的な人気を博していた。 そのモリスがよりによってレイプですか、と。 う〜ん、大量補強のあおりを食ってリーズ・ユナイテッドというチームにお払い箱になったのが運のツキだったのかなぁ。 リーズというのは、何だか知らないけど選手もサポーターもとにかく「やんちゃ」なチームで、また逆にそれだから人気があるようなチーム。 僕がイングランドにいた頃には、今はリバプールに移った「ハリー・キュー」こと豪州代表・キューウェル王子を筆頭に、リー・ボウヤー、アラン・スミス、イアン・ハート、マイケル・ブリッジスと、弾けるようなイキのいい(そして、「英語をしゃべる白い」)若手が揃っていて、スタメンの年俸が数倍もあるマンU、アーセナルやチェルシーを苦しめ、「ヤング・リーズ旋風」を巻き起こしていた。それと同時に、ジョナサン・ウッドゲイトとリー・ボウヤーがインド系青年と乱闘事件を起こすなど、「ヤング・リーズ旋風」を吹き荒らすようなチームでもあった。 そんなチームだからこそ、ヨークシャーのしょぼい地方都市の人たちの気持ちをがっちり掴み、地元・リーズでは圧倒的な人気を誇る。 一度中田がいた当時のASローマが、UEFAカップを戦いにリーズに来たことがあったので、エランドロード・スタジアムまで行ったことがあるが、とてもじゃないが中田を応援出来るような雰囲気ではない。ロンドンやバーミンガムのスタジアムと、また一段レベルが違う。ちょっとでも相手方のタックルがあると、みんな総立ちで"It's Red !"。これで本当にカンデラが退場させられてしまったのだから驚きだった。 それに、当時のディフェンスラインの真ん中が南ア代表の黒人プレーヤー、ルーカス・ラデベであるにも拘らず、"Leads are White, Leads are White"なんて気勢を上げるんだから。サポーターのレイシズムが社会問題となっているイギリスでも、最も槍玉に挙げられるサポの一つは、間違いなくこのリーズであった。 一言で言えば、とにかくホワイト・ワーキングクラスの匂いをぷんぷんさせるチーム。 ハマースミスの優等生、ジョディ・モリスも移籍後あっという間にこの匂いが染み付いてしまったのだろうか。 ウッドゲイト&ボウヤーの事件と、今回のジョディ・モリスの事件。額に汗して働く男たちの夢であり生活の全てとしてのフットボールという、イングランド・サッカーの古きよき文化を今なおはっきりと伝えるリーズ・ユナイテッドの選手が起こした二つの不祥事は、ワーキング・クラスのファンタジーというものは女性と有色人種を排除することで成り立っている、という決まり文句を、改めて端的に示してしまったのかもしれない。 その一方で、「人種やジェンダーに関係なく、誰にでもチャンスを与える」コスモポリタンで軽やかなグローバリゼーションの論理から取り残されつつある人々にとっての、つかの間に逃避場所であったピッチ上は、急速にコスモポリタンな資本の論理が満たされる空間で覆い尽くされてきている。今や、デニス・ワイズもジョディ・モリスも、チェルシーのスタンフォード・ブリッジ・スタジアムには居場所がない。 何重にもしんどい話である。 だけどこんな話は、「高松宮世界文化賞」とかいうどうでもいい賞を授けたケン・ローチに、「ジョン・レノンに関心はありませんか?」なんていう的外れな質問して、「はぁ? 彼と私の共通点はともに労働者階級の出身だということぐらいでしょう」なんて返されてしまうような新聞記者がいるような国の人々には、とてもリアリティは湧かないだろうな。 しかもこの新聞記者、「ブサヨ」のアサヒの人じゃなくて、よきナショナリストの集う「正論」紙の人だよ。あ〜ぁ。 10・8 こんな夜更けにバナナかよ あまり注目している人も少ないだろうが、最近の講談社ノンフィクション賞をとった『こんな夜更けにバナナかよ』という本がある。札幌で自立生活(病院でも、実家の親の庇護下でもなく暮らす)をする末期筋ジストロフィー患者と彼をめぐるボランティアたちの物語である。 かくいう僕も、カミサンが買ってこなかったら手にとることもなかっただろうが、読み始めるとこれが面白い。 といっても、いわゆる感動ものではないし、カッコイイ障害者も、暑苦しいボランティアも出てこない。 中高時代の施設での「収容所生活」にトラウマを持つ主人公・鹿野氏は、「ひとりで生きる」という目的を達するために、しゃにむだ。人伝に人伝を伝ってボランティアを確保して複雑極まりないシフト表を管理し、それでも埋まらないとき(学生の試験中とか)には、障害者基礎年金と生活保護の中から、有給の民間在宅支援サービスを利用する。一時間でも「誰もいない」時があると、タンが詰まって死んでしまうのである。 その鹿野氏は、ボランティアに決して「頭を下げない」。それは決して感謝をしていないというわけではなく、「体を動かす必要のある全てのことを24時間人にやってもらう」と考えると、普通の感覚だったら絶望的なぐらい卑屈になるところを、そうならない、ということだ。 ボランティアに将来福祉系や医療系の仕事がしたい人を集めていることもあり、新人ボランティアが入ってきたとき、彼らは生徒として、清拭や吸引についての「鹿野教授の授業」を聞く研修生という立場を取ることになる。鹿野氏は知識の伝達者という立場を取るわけであり、どんなボランティアも大抵一度は「もう来るな」と言われる羽目になる。で、実際に半分は二度と鹿野邸に足を運ばないが、残りの半分は、鹿野ボランティアを支える存在に成長していく。 ボランティアの方も、正直なんでこんなに時間を割いて清拭やら吸引やらをやっているのかわけわからなくなってくるが、ある人は自分探しのため、ある人は恋愛を含めた鹿野邸での人間関係が楽しくて、ある人は何も考えずに惰性で、また今日も鹿野邸に集ってくる。 共通項を言えば、みな多かれ少なかれ、「シカノ的な人を巻き込む人付き合い」が結構気に入っていると言うことだろうか? 意味不明のタイトルからして面白い。別にさまぁ〜ず三村のツッコミではなくて、恐ろしさで夜眠れない鹿野氏が、夜中に鈴を鳴らして、こちらも疲労困憊で寝入っているボランティアにバナナを所望する。バナナ一本をゆっくりゆっくり食べ終え(というか口に押し込み)、ようやく寝かせてくれ、と思ったら、「もう一本」。 ボランティア氏は呆気に取られるが、「ここまで我儘いえるって言うのはある意味、立派。この人の言うことなら何でも聞いてやるよ」と怒りがすーっと引いていったという。 はっきり言って変な話だが、実はこういうの僕も経験がある。 「選挙」である(笑) 候補者は、自分の就職活動を人に無償に近い形で手伝わせておいて、いつも底抜けに我儘なのだ(笑) 福祉ボランティアの世界みたいのを、僕はここまでかなり他者化してきたが、鹿野邸が選挙事務所だと考えればまったく合点がいく。 選挙に関わって、「地域が見えてくる」だの「政治参加する」だのははっきり言って取ってつけたような言い訳で、何で睡眠2時間で人の就職を世話しているのかなんて、当人にはよくわからない。 その場になってしまえば惰性という言葉が一番近い気がするが、事務所や現場の人間関係の雰囲気がよければ、少なくとも惰性で眠い目をこすって遊説ルートの地図を作ることもできる。 現実問題、こういう外から見たら奇特な人が相当数いないと、日本の「民主主義」などと言うものは成り立たない。 組織票がちがちの古い農村選挙ならまた話も違うだろうが、それ以外なら、「市民派」はおろか、保守系の政治家だって、かなりの程度「こいつの言うことなら、しょうがねえから聞いてやるか」という奇特な、しかしそれなりに仕事のできる友人が、無償に近い形で事務所に何人か詰めてくれなければ、選挙にならない。一般に考えられるような、当選後の見返りや利益誘導なんて、市議・区議や県議・都議レベルではほとんどない。 逆にいうと、候補者や候補者の右腕の事務局長の最大の仕事は、惰性で事務所に人を集められるよう、人間関係を良好なものに維持していくことである(そういうことをお分かりくださらない候補者も時々いて困るのは事実だが・・・w) 翻って、鹿野氏のことを考えてみるに。 彼は、これだけのボランティアを集め、これだけのシフト表をやりくりする能力があって初めて、あの自立生活が出来ているわけである。 この本に描かれている鹿野邸の日常は、確かに嫌味もケレンミもない上に、地に足のついたものだが、おそらく全ての障害者が利用可能な普遍的なモデルではないだろう。 市会議員に立候補できるレベルの、人を使うスキルとカリスマ性と、人を使いまくる図々しさを持ち合わせていないと、こうした「自立生活」を営むのは困難だと思われる。 それとも、「生きる」という強い欲求さえあれば、人はそうした能力を誰でも身に付けることができるのだろうか? 10・1 こんなん出てしまった。 しばらく関西行ってて更新サボりました。スマソ。 最近肩の張る話題が多かったので、久しぶりに。 ここで何度も公言しているように、Zガンダムファン(ところで、「ガンダムの中でZが一番好き」というビョーキなところが、僕と上野俊哉さんの唯一の共通項かもしれない・・・)のアタシは、「連ジ」が出てすぐから、2年間ぐらいずっとこういうゲームが出ることを夢想していたわけですが、現実のものになっていたことを久々にゲーセンに行って発見。 とりあえずは・・・ヤザン・ゲーブルで、ギャプランとハンブラビに乗るしかないでしょう(笑) ということでやってみたら、ハンブラビの「ウミヘビ」イイ! 硬直も長いが、前作のグフのヒートロッドよりはるかに長くて、狙って使えば超強力。 そのあともいろいろやりこんでしまいますた。全体的に、メッサーラ、ギャプラン、ガブスレイなどのMA形態からのビームを当てるのはかなり難しそう。「史実」どおりビームの威力は増しているから、一発の重みが以前よりも高くなっているのだが、双方の機動性も当然増しているので、射角をあわせるのがかなり難しいのだ。 一方、エゥーゴはといえば、アニメではただのやられキャラだった量産のネモが滑らかな動きですごく使えて、コストパフォーマンス最強。連邦の方は、当然のように最初はクワトロ大尉で百式に乗ってみたが、シャア専用機特有のトリッキーな動きと装甲の薄さで、とりあえず修行が必要、というところでしょうか。ガンダムMkIIはよいですよ。 まあ、今後DXとか出てくるんだろうから、現時点でのMSの数は少し抑え目だという不満点はある。ティターンズで言えば、量産型のハイザックのあとはいきなりアッシマーになっちゃうから、その間のコストでマラサイかバーザムは必須だろうし、高機動変形機を各種取り揃えている割には、重装甲や強襲型は最上位モデルのジ・オしかないから、パラスアテネなんか入れたら面白いんじゃないの、と思う。 連邦の方は連邦の方で、リックディアスのあとは、MarkII、百式、Zになっちゃってるから、廉価版変形機としてメタスは不可欠と思われ。 それから、ややMSの設定が?なところもあるかな? コストがギャプランorメッサーラ<ガブスレイというのも少し納得いかないし、それよりメッサーラ、ガブスレイが地上でも使えるというのは、機体の構造上明らかにおかしいでしょ。ハンブラビやジ・オの地上転用ならまだわかるが。 とはいえ、途中にアニメが挿入される「ハイパー・コンビネーション」モードの発動だのもあったりして、リアルタイムなZファンも相当熱くなれる。 「ここで会ったが百年目、ってな」(byジェリド)、「出資者の方々は無理をおっしゃる」(byクワトロ)などなど、わかっちゃいるけどの定番台詞は、やはりゲームで聞くと改めてテンションがあがるし。 そうそう、エゥーゴvsティターンズだから、アクシズのキュベレイは出ないのかー、と残念がる向きもあるかもしれないんですが、これが出てくるんですねぇ、実は。おまけに○○○○と○○○○○まで従えて。 これにはちょっとビビったけど、もしかしてこのゲームやるかもしれない奇特な読者の方が、最終面まで行ったときのお楽しみとっておきます。行ったら行ったで瞬殺されると思うけど。 これでしばらくはまたゲーセンに足が向いてしまうのか・・・ ちょっと言い訳すれば、柏みたいな地方都市の、しかもセガみたいな大きいところじゃなくて、地下でやっているようなこじんまりしたゲーセンで、延々とガンダムやり続けてる子たちのコミュニティとか、ちょっと社会学的にも面白そうなのよ。「腕」に自信がないから、大会とかに参加まではしないけど、その脇で話を聞いてるだけでも結構面白い。 9・25 合掌 ショックを受けている。 エドワード・サイードが死んだ。 一昨年のアルベルト・メルッチ、昨年のピエール・ブルデュー、そしてサイード。 彼らの言葉をまさに響かせねばらない昨今、智の巨星が続けざまに墜ちてゆく。ますます困難なものになっているこの時代を、もう十分に闘ってきた彼らに見せつけるのは忍びない、という神の配慮があるかのように。 メルッチ、ブルデューもそうだが、サイードの思索も、全くもって現在進行形のもので、今日この日から「古典」にしてよいような類のものではない。 今の僕には、ブルデューが亡くなったときにアップロードされたこの文章のような秀逸なオマージュを書く用意も余裕もないので、とりあえずこのページあたりをリンクして、さしあたりの簡単な紹介に替えておきたい。 このページを読んでいる皆さんも、ぜひとも『オリエンタリズム』を手にとって、最初の章だけでいいから斜め読みして欲しい。そうすれば、冒頭に挙げた朝日の記事の見出しにある、「パレスチナの代弁者」なぞというものになろうとする欲望から、彼がいかに遠いところにあったか、すぐにわかると思う。彼が結果として、「パレスチナの代弁者」と見なされ、実際に非常に大きな替え難い役割を果たしていたのは、紛れもない事実ではあったが。 どんな状況でも常に未来を信じる、底なしのオプティミストだったサイードが望んだ世界に、ほんの少しでも(脳内だけでも)近づくために。 9・23 まだ離れられないでいる もう一週間もたったわけだが。masa-nさんもそのようで。 というか世の扱いはかなり軽かったけど、今日発売のAERAが「事実関係」をどう書いてるかには関わりなく、あの名古屋の爆音は、この日本という国においては9・11に匹敵するものであったといってもいい。 少なくとも、実際には1ヶ月の任期といっても過言ではない小泉改造内閣に一喜一憂するよりは、本質的なことのはずだ。 masa-nさんは「痛快事」と書いていた。 「アウトソーシング」だの「フレキシブル」だのを推し進めていくことには、このような必然的なリスクが発生するのだよ、という爆音を響かせたという意味で、痛快だというわけだ。 僕にも無論その気持ちはよく分かるが、さりとて楽観的にはなれない。 「これでアメリカは反省し、一国主義的態度を改めるだろう」というサッセンだったか誰だかの9・11直後の楽観的なコメントとは裏腹に、その後のアメリカと世界がたどった道筋を考えれば、テロリズムの哀しさということがわかろうというものだ。 おそらく、あの爆音というリスクを生み出す大元となった構造は何ら省みられることなく、爆風が辛うじて見せたそこにある「裂け目」は例のごとく隠蔽されて、ただリスクが起きたときにそれを縮減する技術=「危機管理」の徹底だけが謳われることになるだろう。 もっとも、9・11の後、ロジカル(ビン・ラディンには残念ながらこの部分が決定的に欠けていた)かつエスィカルな声明文を掲げながら、一週間に一度ずつ4機の飛行機をハイジャックし、日米欧のタワーを4本ずつ倒し続けていったならば、アメリカもヨーロッパも日本もネを上げ、世界は変わっていたかもしれない。 奇跡の逆転ホームランも打ち続ければ、どんな弱小チームもシーズン優勝できるというわけだ。 ただ、僕は、それほど度胸が据わっているわけでも、来世を信じているわけでもないので、名古屋の爆風にせよ、NYの航空機にせよ、そうした「痛快事」の続発を、諸手を上げて大歓迎というわけにはいかない。 格差の拡大と階層の固定化が避けられないものだとするならば、それを緩和しうる可能性をもつ「階層意識」のことについて、まとまった見解を書きたいと思っていたが、掲示板での議論が早足でその先に進んでいったので、ちょっと機を逸した感があるな。ま、でもいつかちゃんと書きますよ。 基本的には森永卓郎がいつも言っていることとは重なるのであるが、もう少し射程を広く取り、かつ攻撃的にならなければ、と思っている。 タイミングよくというか、今週のプレイボーイにもそういう特集があった。 プレイボーイ読者層、つまり15・6から25ぐらいまでのフリーターやら下層正社員やらにこういうことを訴えるのは大事だと思うが、そういうことを声高に言うまでもなく、この世代は「年収300万」に適応できてきているのだろう。 その一方、読んではいないが電車の中吊りで目にしたところによると、先週のAERAとYomiuri Weeklyには、「成果主義に殺されるな」という趣旨の似たような特集記事があったようだし、今週のSPA!では、「僕らのサービス残業限界点はどこか?」みたいなこの雑誌らしいシニカルな特集を組んでいた。 動きが取れなくなってしまってるAERAやSPAの読者層と比べると、プレイボーイ世代・読者層の後ろ向きのポジティブさが光る。 とはいえ、ルールというものはある。 「フレキシブル」を推し進めて業界最大手にまでなった、魚民・笑笑・白木屋のモンテローザ・グループとの闘争。これなどは、もろプレイボーイ読者層なわけだが、こうして立ち上がった人たちもいるわけだ。 すっかりこの件を忘れていて、先日は魚民でハシャいでしまった自分を恥じる。 もっとも、モンテローザの社長が書類送検されたとき、こんな眠たいコメントを寄せた「識者」もいる。 「労働基準法は終戦時などの貧困な社会を想定した法律。それなのに、この豊かな時代に二十億円も残業不払いがあるとは何とも情けない話だ。フリーアルバイターが多い職場で文句も出ないだろうと考えたとしたら、けしからん話。労働組合も、ここにいたる前にもっと権利を主張すべきだった」(帝京大学土本教授 産経新聞 01,10,29) 掲示板でも、労組の構造改革が何より必要という話に至っていたが、こんなコメントを読むと絶望的な気分になる。 話しはずれるが、このモンテローザって何から何まであぎとい経営のオンパレードだよね。あからさまな猿真似をした「月の宴」は、「月の雫」の三光マーケティングフーズに訴えられるし。 考えてみれば、魚民だって和民のパクリじゃないのかね。 ところで、研究業績のページを大幅に刷新いたしました。 ここの読者で、というか僕の友人で、僕がどういう仕事をしているのか全然知らない人も結構いると思うけど、この機会にコメントだけでも見ていってはどうでしょう? 一応仕事もしているのですよ(笑) ファイルは全部html化したのだけれど、ソースが醜いったらありゃしない。テキストからhtmlにするとかなり読みにくくなっちゃうし、どうしたものでしょう。Wordファイルと、テキスト経由htmlの併用、というアイディアも出ているのだが、う〜む、ちょっと面倒かつ煩雑だし、いいアイディアがある方はくださいましな。 9・19 掲示板をどうぞ 掲示板で友人と熱い(?)議論を交わすことが多くなっているので、すっかり最近更新した気になっていた(w 名古屋の「自爆テロ」の話題に触発されたものです。興味があればご覧下さい。 この友人は日ごろは割と極論が好きなタイプなのだけど、今回に関しては彼の議論の方が王道で、僕の議論の方がかなり逆立ちしていることは自覚しております。 ここにも少し触れている「階層意識」という問題については、近いうちに正面から取り上げなければならなそうですね・・・ はぁ。 ところで、最近、書き物をすると自分が枯渇しているのを強く感じるのです。今年の夏前までの一年半ぐらいは、ハイペースでものを書く時期だったのですが。 9月にも一本論文を揚げようと思っていたのだけれども、そうそう続けて無理絞り出しモードになってもしかたないのでキャンセルする模様。2日以内に奇跡的なアイディアが降臨すれば別ですが。 何だろうなぁ。取材を含めたインプットが足りないのかなぁ。自分の問題関心が微妙に変わってきていて、いまは仕込みモードにはいってきているのかなぁ。 事実はおそらくその両方でしょう。 最近のこのページにぬるい、あるいはつまらないのが多いことも、もちろんそれと関係しています。すみません。 僕はいまちょっとした出汁ガラという感じになっています。それにしてもなんとささやかな出汁しか取れない昆布だったことか! 9・16 哀しい「自爆テロ」 阪神優勝の余韻を引きずって迎えた週明け。 今日は割と緩いスケジュールで家で仕事をしていたので、ちらちらとテレビをつけていたが、昼のワイドショーまでは阪神ネタ一色だった。 「気配り大王」だという星野監督は、各スポーツ紙(とはいっても、もちろんトーチュウ以外)に自腹でさまざまな全面広告を寄せているのだが、中でも日刊スポーツに寄せた「日本経済のために優勝したんやないで(笑)」というメッセージにはクスリとさせられてしまった。俄か阪神ファンの顔をしながら経済効果なんて物語にあっという間に回収しようとするメディアに、茶目っ気たっぷりに先制のジャブをお見舞いしたわけだ。 そんな話をのどかに聞いていると、監督の言葉面とは裏腹に、「85年の阪神優勝からバブルが始まったんです」なんていうメディアの戯言をちょっとは信じてみたくもなる気分だった。 だが、1時過ぎ、そんな気分は文字通り「吹き飛ば」された。 皮肉なことに、というか、できすぎというか、ナゴヤドームのすぐそばで起こった爆風に、である。 Nステを一通り聞き終わった現時点でも、はっきりした情報が伝わってきてはいないが、僕が現時点で憶測する範囲での事件の流れはこうである。 軽急便(ここは今ほとんどサーバダウン寸前だろう)という、委託軽自動車ドライバー専門で、東海地方中心に頭角をあらわしてきた会社の名古屋営業所に、7〜9月の未払い分の委託料を求めてドライバーがナイフとボーガンを手に押し入り、ガソリンをばら撒いた。 ただし、この会社では、委託料は2ヵ月後の20日に振り込まれる契約となっていたから、もちろんこれは一般的な意味での未払いではないし、犯人もそれは承知していただろう。つまり、犯人の主たる目的は未払いの委託料を払わせることではなく、恐らく最初から、誰かを道連れに死ぬ気で、会社に押し入ったわけだ。 しかし、犯人は狂人とは思えない。それどころか、押し入った後の犯人はきわめて冷静かつ合理的に行動している。 まず、女性従業員を即座に解放。その後12時過ぎに「未払い分」25万円が振り込まれたことを確認すると、支店長以外の男子従業員を解放。 そしてその直後、支店長を道連れに、ガソリンに火をつけ爆死。 この経緯からも、「金を取り戻す」ことが彼自身の主眼ではなく、この25万は公団住宅に暮らす妻子へのささやかな餞別であったのだということがわかるし、無差別殺人が目的でなかったことはさらに明白だ。 ほんの少し2年前のWTCを思わせるようにコピー用紙が舞っていた爆発直後の絵面ではあったが、何ともやりきれない「自爆テロ」である。 敢えて言おう。 これは、不況下での急速な生産様式の再編=労働のフレキシブル化と、それを促す経済政策への「自爆テロ」であった、と。 調べた範囲で軽急便は、自社にドライバーを抱えることをせずに労務管理のコストを省き、徹底したアウトソーシングを実現することによって頭角をあらわしてきた、典型的な「フレキシブル」で「スピーディ」な企業である。 企業の立場から見るとこれが現在の運送業のあるべき姿なのであろうし、マクロに見れば、このようにして運送業の「収益性が上がり」、業界の「こーぞーかいかく」が成し遂げられていくのだろう。 しかし、そこで働くドライバーはどうだ? 犯人の給与は減り続け、フリーターの息子とほぼ同じ月収18万円程度になった3年前からは、妻がパートで家計を支えていた。そしてさらに、2ヵ月半の未払い給料が本当に25万円だとすると、ここ最近の月収は10万以下に落ち込んでいたことになる。 会社側の会見では、犯人の勤務態度が悪かったという話が出ているが、「死人に口なし」とはまさにこのことである。 ただでさえ弱い立場の委託ドライバーのこと、少しでも勤務態度に問題があるとガンガン仕事を減らされていたであろうことは想像に難くない。「25万円」のために「自爆テロ」に及んだということにはどうしても疑問符をつけざるを得ないから、ここまでの数年間で、会社・支店サイドの「下請け叩き」への恨みが積もりに積もっていたのだろうと推測するほかはない。 そこから先は現時点ではよくわからんが、支店長とて、「成果主義」の圧制の中で、やむにやまれず取っていた行動という部分も大きいのではないだろうか。 冷たい言葉で表現してしまえば、典型的なワーキングクラスの分解=不安定就業層化の一例である。 こういう状況に追い込まれたこの国の数多くの勤労者たちは、さまざまに歯を食いしばって頑張っているが、自ら命を断つ人の数はいや増す一方。その中に、そのほんの一部ではあるにせよ、「自爆テロリスト」が出てきてしまったことは、必然であろう。 敢えて誤解を恐れずに言えば、80年代の山谷闘争の先頭にたった故・山岡強一氏の「やられたらやり返せ」「黙って野たれ死ぬな」という言葉が浮かんできた。 それにしても、「25万円」のために自爆テロを起こしたのだとしたら、この国は、国全体が山谷になってしまったのだろうか? あるいはカメルーンか? しかしこれこそが、コイズミカイカクの端的な「痛み」に他ならない。 不安定就業者を大量に作り、個人の生活を徐々に追い詰め、その結果「リストラクチュアリング」された企業業績は回復し、株価は上昇を始める。 企業という入れ物を強引に立て直し、それを率いるトップだけをぐんぐん引き伸ばして、あとの中身=人は放置プレイ。こんな形で株価を上げて何になるって言うんだ。 そこを大胆に指摘して戦えば少しは風が吹くかもしれないものを、亀井や藤井にそんな気はないらしいことも、やるせない。 名古屋の爆発事件報道が一段落したあと始まった6chのワイドショーでは、「マダムに会いたい」という糞みたいなコーナーで、たかの友梨の豪邸を拝見していた。 彼女は非常な「努力」をし、類稀なる「経営手腕」を発揮した結果のごくごく正当な対価として得た、7000万円のジュエリーをごろごろと見せびらかしていた。 星野監督は、おそらく巨人ファンに配慮したのであろう、報知には「勝ち組み、負け組み、そんなんないんや」というメッセージを寄せた。 残念ながら、それは間違いのようである。 9・11 ポルトガル料理 今日、駒場の帰りにしばらく気になっていた松涛のポルトガル料理、Manuel Cozinha Portuguesa(マヌエル・コジーニャ・ポルトゲーザ)でディナー。 一言、素晴らしい。小泉流に、さぁ、「感動した!」 それでいて、お値段は一人5000円以下。 アジの南蛮漬けという前菜が気にはかかったけど、家の冷蔵庫にさんざん鎮座ましましているので、頼みませんでした(w ところで、夏以降更新頻度が低下している原因の一つに、メシネタはここに書き込まなくなったっていうことがある。 前にもこの日記でチョコっと書かせてもらったことがあるけど、このサイトにこのハンドルでまとめて書かせてもらってるのです。今日のマヌエルも、もちろんあり。 グルメサイトとしては、現在大きすぎず小さすぎずの規模で、一番役に立つ情報が得られるような気がします。 ユーザーとしても結構楽しいので、みなさんもぜひご利用を。 9・10 中秋のアジ釣り 野中さんが引退するそうだねぇ。 彼のことは、僕もかなり昔からいろいろな意味で注目していた政治家だけど、この件については、masa-nさんが過不足なくまとめてくれているし、まあ繰り返さないでいいでしょう。 もちろん僕自身感じるところはあるのだが、「野中捨て身の勝負」みたいな記事があまりに多すぎるなーって言うのもある。何をいまさらっていうところもあるし、こうゆうのは夕刊紙の一番ダメなところが出ちゃってるよね。 というわけで、世事にも構わず充実した日々を過ごしております(笑) 今日は3時起床の5時渡船で木更津沖堤防に。 夏の風物詩、アジ釣りのラストスパートの季節であります。 アジ釣りのポイントでいつも殺伐としている一番沖のA堤防ではなく、型はまずいが数は出るという情報を信じてB提の先端へ。 夜明け前の危険を避けて、4時の一番船じゃなくて5時の渡船にしたのがどうかなぁ、と不安に駆られながらポイントに着くと、続けざまに竿をしならせているおじさんが一人。聞くと夜明けと同時に今釣れ始めたばかりだという。 はやる心を剥き出しにコマセを混ぜ、同行者にサビキ仕掛けを指南して投入させると、早速爆釣モード。オモリが底に着底すると同時に、キラキラした小アジが水面に跳ねる。 最初のうちこそ、釣りがほぼ初心者の同行2人の面倒を見てやっていたものの、周囲のあまりの景気のよさにだんだん血走ってきて、面倒見はおざなりに、自らの竿に夢中になる。 しかしなぜか、それほど釣果の伸びない自分・・・う〜む。まあ、それでも20匹ぐらいは釣りましたが。 アジフィーバーは予定通り7時でお終いで、一服。 さて次どうしようかなー、ブラクリで堤防のニッチを狙ってくかなーとどと考えながら、念のために用意しておいた粒のアミエビをアジ用のサビキ仕掛けにつけてみると、いきなり強烈な突っ込みで、30cm級のキュウセンが釣れた。ベラ類は関東では捨ててしまう釣り師が多いが、素焼きにして生姜醤油で食べるととても上品な味わいで、関西や瀬戸内では専門に狙う人もいるらしい、典型的な西高東低な魚。 こりゃいける、ってんで、底の方の枝バリ中心にまじめにアミエビをつけてやり始めると、思わぬお客さんが。 20cm弱の黒々したメバル君。俄然やる気になり、メバルを狙ってくと、一時間ぐらいの間にこのクラスが3匹。 春にメバル狙いで木更津沖堤に乗ったときは、モエビまで買って専用の胴突き仕掛けと万全の体制で臨んだのに気配なしだったことを考えると、何なんだって感じですが(w モエビのときは餌のつけ方がどうのこうのって真剣に考えたのに、釣れてるときは冷凍アミエビ、しかもちょっと干からびにぱくついて来るし。 相変わらず、「釣った」じゃなくて「釣れた」のレベルから脱却できておりませんね。 しかしそのメバルタイムも、9時30分で終わり。 少し粘ってみても釣れるのは、10cm未満のシマイサキの赤ちゃんに時々思い出したようにアジが混じるだけになり、それさえも10時の声を聞くと干潮に合わせてパタッと止まる。 その後、堤防で寝て午後の満潮に合わせようかなーとも思いましたが、1リットルの水が入ったペットボトルが飛ばされるほどの強風で、とても寝ていられず。午後一で沖堤防を降りました。 とはいえ、3人で120匹の大釣り(うちアジが95匹ぐらい)。 自分としても、アジは25匹ぐらいでしたが、良型メバル3匹、良型キュウセン3匹、良型ウミタナゴ1匹もゲットしたので大満足で帰途につきました。 ところで、帰路は京葉道路を篠崎まで進み、一旦東京を経由して帰ってきたのだけど、京葉道路が終わるところの料金所に、なにやらおじさんたちが整列して何かを配っている。 受け取ってみると、何とススキ。「これは京葉道路の路肩に生えていたススキです。明日の中秋の名月には、ぜひこれでお月見を」だそうです。そういや、満月周りの大潮だからこその大釣りだったわけだね、今日は。 まあ、いいアイディアだとは思うけど、炎天下の中一台一台ススキ配っていたオジサンたちはちょっと可哀想。 確かに、集中砲火を浴びている道路公団のささやかなイメージアップにはなったと思うが。料金所と草刈のおじさんたちが、自ら汗を流そうと盛り上がった現場の発想なら微笑ましいんだけど、オジサンたちにあれだけ無理を強いるこんな姑息なプレゼントが、「上からの発想」だったとしたら、気分悪いなー 9・7 空しい日曜の午前。 朝起きるとテレビは続けざまに、亀井静香のふてぶてしい顔と高村正彦のすまし顔を映し出していた。その間に挟まれてるおじさんは誰だったかな? 考えてみれば自民党総裁選の報道と言うのも変な話である。 これが、日本の総理大臣を決めることに直結する最高に重要な選挙であることは、言うまでもない事実ではある。しかし、各候補者の政策を訴えるというが、党員でなければ当然投票には何の関係も無い。まあそれをいうならば、東京都知事選挙の公開討論会を全国ネットで流し続けるのも、同じようなものか。 意外にあまりピンと来ていないものだが、自民党総裁選には公職選挙法は適用されない。なぜって? 自民党の総裁は、政党という私的な団体のトップであって、公職ではないから。あくまでも私的な選挙という扱いなわけだ。 だからこそこの選挙は最もヒートアップする。実弾、お土産やり放題。もちろん、あまたの公職選挙でもそういう話はいくらでもあるが、連座制の適用以後の公職選挙法は、少なくとも重大な抑止力としては機能しているので、往時のような派手さは失われつつある。 自分に投票権も何もない、こんな実弾相見える空中戦で、政策を聞くもへったくれも馬鹿馬鹿しくてあったもんじゃないのだが、あれだけドバドバ垂れ流しされると、つい見入って日曜の午前を浪費してしまう。 亀井静香は信じられない愚かさ。「具体的な政策? そんなもん、今と正反対をやればいいだけですよ。私が総理になったら、あっという間に株価20000円ですよ」。 あのテレビを見てこんなタワゴトが心に響いてしまう人がいたとしたら、お目にかかりたい。そもそもお前が乗っかったおかげで前回小泉は勝ったようなものじゃないか。 藤井さんとか言う人は、悲しいぐらい場慣れしていない。痛々しくて見てらんない。 もちろん、話している内容など覚えているはずもない。 中では高村さんが最もまともな印象があるが、どうせこの人の芽は120%ないんだろうしなぁ。 今日盛んに叩かれていたが、小泉にしたって、道路と郵政にあれだけこだわるのは、言ってみれば角福戦争のなれの果てでしかない。 構造改革、ったって一番難しそうなところから、しかも特にマクロな話でもないところから始めようとして、2年間あれだけのエネルギーを注ぎ込んできたというのは、ひとえに郵政と道路が橋本派=旧経世会の権力基盤だからというに過ぎないのは、衆目の一致するところである。 マクロな日本経済運営よりも、党内ヘゲモニーの確立と私怨が優先される。「構造改革は、一点突破全面展開」などというくだらないキャッチフレーズに騙される国民も国民だが。 連中の体たらくを一通り見たあと、ゲストとして招かれたヨーダ宮沢は冷笑し、中曽根大勲位は一喝する。 中曽根大勲位に「小泉君も含めてみんな小事に拘るばかりで、国家観がない」と言われればその通り。憚りながら、大勲位の国家観には小生ついていけませぬが、ないよりはあったほうが、言葉に出来ないよりは出来た方がマシだというのには同感でござる。 ヨーダ宮沢は、相変わらず理路整然。しかし、ヒトゴトのように政局や政策を語るのは相変わらず。貴方が政治家であったならば、この国ももう少しまともになっていたかもしれないのに。ね、お認めになるでしょう? とまあ、こんな感じ。 あー空しい。 しかしいつの世もこんなものなのだろう。 9・2 その男、デンマークで虎になる。か? 今日午前中家で仕事をしているという名目でネットを見ていると、インターホンが鳴る。 なんだろうと出て行くと、ちょっとくたびれた前掛けをしたおじさんが、一人で味噌の行商をしていた。 炎天下の中、ご苦労様だなぁ、という気持ちもあったし、何より満足のいく味噌が買えるのならば、とちょっと財布を出しかけたのだが、「奥様いらっしゃいますか? そうですか、いらっしゃらないのならまたの機会に」と先に言われ、その機会さえも奪われた。 間抜けな人だなー、うちでは料理を作るのも味噌にうるさいのも僕の方なのに。大体午前中から家にいる男性なんて、そういう可能性も結構高いんじゃないだろうか? それはともかく、GKの川口が、出場機会を求めてデンマーク・リーグに移籍した。ノーシャランFC。ニックネームはタイガース。 確かに移籍当初に点を取られすぎたって言うのはあるだろうけど、ポーツマスでの扱いは酷すぎた。2001-2002シーズン序盤にあれだけ点を取られたのは、ディフェンス陣の責任も大きかったはずだが、やはり背の小さい東洋人と言うことで、ハイボールの処理の拙さを過剰に問われてしまったのだろう。(もちろん、先のウルグアイ戦を見るまでもなく、ハイクロスは川口の相対的な弱点の一つには違いないが、彼はその欠点を、ここぞのセービングと正確な足技で補ってきたGKである) 今シーズンも、これみよがしにチェコ代表のスルニチェクを獲得され、ベンチ入りどころか、リザーブリーグにも出れない第4GKの位置にまで追いやられてしまっては、移籍するしかないだろう。 この辺のファンページで、デンマーク紙からの抜粋を見ると、第2GKとして獲得された節もあるが、いくらビジネス的なプラスアルファがあるにしても(クラブ公式サイトは早速日本語ページを作っていた w)、こんな貧乏クラブが完全な控えGKのために20万ドルは出さんだろう。 巨人揃いのデンマーク人とはいえ(イギリス時代の仲良かった女の子は182cmあった。お兄さんたちはみんなover200だって!)、どいつもこいつもシュマイケルなわけではあるまい。川口にもチャンスは与えられるはず。 しかし、デンマーク・リーグって言うのも相当マイナーなものである。時々CLの一次リーグぐらいまで、ブロンビーというチームが勝ち残っていて、これどこ、え、デンマーク?というぐらいが、かなりのサッカー好きでも標準的なレベルじゃないだろうか。 トルコ、ポルトガル、スコットランド辺りは言うに及ばず、ギリシャやベルギー、ロシアのリーグなんかよりもイメージが湧かないが、現実にUEFAのランキングでは、ブルガリアやノルウェーのリーグより下の24位だった(笑) ちょっと調べてみたが、デンマークのトップリーグには、こんなグラウンドを使っているところさえある。ほとんど牧場だ。川口の入るチーム(ノーシャランFC、ちょっと前までファルムBKと呼ばれていたらしい)のグラウンドはそこまで酷くはないが、それにしても10000人のキャパに入った最大入場者数がU21代表試合で使われたときの4600人。 普段のリーグ戦なんて、イングランドのリザーブリーグより観衆少ないだろうし、川口人気でギャルが押し寄せていた高校サッカーの静岡県大会よりも少ないだろう。 こんなところまで都落ちして、それでも何を掴みたいのか。はっきり言ってよくわからんが、このスケールが大きいようで、実は異常に視野が狭いところが、川口らしくもある。 川口能活というのは、本当に不器用な人間なんだと思う。不器用であるが故に、中高時代からサッカーだけに没頭したサッカー馬鹿。またそれ故に目先の試合の結果や練習に没入できないチームメートが理解できず、怒鳴り散らして孤立し、思い悩む。自分のキャリア設計など省みず、レベルの高い環境に身を置くことをひたすら望み、挫折し、また思い悩む。 そういうことを何度も何度も繰り返し、そのたびに壁にぶつかり、突破できたり出来なかったりしてここまできた選手が、川口能活である。 イマドキ珍しい、というか、ここまで不器用な人間は普通トップ・アスリートにはならないよ、とさえ言いたくなるぐらい不器用に思える。 また、根は人懐っこいんだろう、そういう挫折だらけの自己形成のエピソードを、Numberやらの記者に、悶々と、あるいは嬉々として語りまくる。だから川口のインタビュー記事は、際立って面白いことが多い。 トルシエに干されていた時代(アジアカップでポジションを再奪取する前ごろ)には、単身突然カンボジアに貧乏旅行して、「自分の悩みがいかにちっぽけかを悟った」という。 最も練習量を必要とされるGK、それも川口のようなタイプの選手が、トレーニングを数日完全に休んでカンボジアに行ったというエピソードは、川口の精神的に追い込まれやすい一面をよくあらわしているし、そうしたことの顛末を記者に語らずにはいられない彼の性格も、本当に人間臭い。 こんな人物は、確かに2chではネタにされやすく、テソ(「キャプテン」の2ch活用らしい)などと呼ばれてよくネタスレを立てられているみたいだが、個人的にはなぜか好きなキャラクターである。 自分とは全然違うタイプだし、実際隣にいたら「暑苦しいなぁ」と思うことが多いだろうことはほぼ間違いないんだけど。 もしかしたら、いま自分がなすべきことを的確に把握する頭のよい中田や、才能に溢れた天衣無縫な小野だけでなく、川口のような古典的な体育会系の人物がトップアスリートで居続けてくれる、ということに、ある種のノスタルジックな癒しを感じているのかもしれないな。 いずれにしても、この人物があと十数年にわたって、挫折しながら成長してゆく「物語」を見続けていきたいのです、僕は。 もちろん一日本代表ファン、あるいは草サッカーのGKとして、ヨルダンでのサウジ戦や、マイアミでのブラジル戦は何度でも再現して欲しいしね。彼の逆境でこそ突然スイッチが入るセービング(2chでは「確変キター」と呼ばれているらしい)は、日本代表最高のエンターテイメントだ。 確かに、GKは40近くまでプレイできるポジションなんだから、MFやFWみたいに焦る必要は無いかもしれない。今はデンマークの牧場に埋もれていても、川口にはまだまだ時間がある。 ノーシャランだってUEFAカップには出られるみたいだし、長い目で見れば最後に笑うのは川口かもしれない(と信じたいな)。というか、痛々しい自己形成を経た30代後半に、どんな惨めな形であれ、川口が笑ってグローブを脱ぐ姿を、見られることを祈りたい。 ps冗談ヌキに、吉田栄作の後釜に「マネーの虎」の司会にするには、いいキャラだと思うよ、川口能活。あの暑苦しさ、渋みがかった元甘いマスク。 9・1 心機一転、新学期モードで更新してみる ちょっと前の記事だけど。パフィーの由美っぺが、先日の『氣志團万博2003』(結局行かなかったが)も大好評だった、氣志團の綾小路"セロニアス"翔と同棲しているらしい。 TMレボレボ→綾小路翔って、確固とした趣味が無いようなあるような。 韓国は大邱で開かれていたユニバーシアードからは、もっぱら「北朝鮮美女軍団」の映像だけが配信されてきたわけだが、この大会で男子サッカーが優勝していたことをご存知だっただろうか? 結構なサッカーファンでも知らなかったでしょう? こんな状況にワイドショーは、「ここまで話題になってしまったこと、それだけで金正日の目的は達せられているわけです」とかしたり顔だったが、資本主義社会はそんな甘いものではないのでご心配なく。程なく高橋がなりさんあたりが『美女軍団vs将軍様』なんて制作し、健全でオバカな資本主義国の青少年はハァハァしちゃうでしょう。 金正日さんから見れば、平和ボケした日本の若者なんてちょろいもんなのでしょうが、そこにあるのは単なる記号化された萌えだけで、アナタや北朝鮮人民に対する敬意なんてこれっぽちも生じません。 なんでも商品にしちゃう(だけの)資本主義社会の恐ろしさを思い知ってください。 現在の営み 過去の営み
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