死語:ボランティア

by:岩谷  宏

  遺棄された犬猫の保護に関して、“ボランティア”というものの
存在を認めることに、私は反対です。なぜなら、そういうものがあ
ると、世間の多くの人びとは、その存在に頼ってしまいます。「ボ
ランティアさんにお願いしよう」、という話になってしまうんです。
すなわち、各人の中に、動物愛護の精神と実践がいつまでも育ちま
せん。心と文化の、今の遅れた現状が、ボランティアなるものがあ
るお蔭で永遠に放置され維持されます。
  極論すると、保護ボランティアがいるから犬猫を捨ててもいい、
という、彼らの心の中の論理にもなりかねないのです。山梨県都留
市の山中の、数百匹の犬たちをテレビで見ていて、私はそう思いま
した。ああゆう“ボランティア”がいるから、みんな平気で犬を捨
てるのだ、と。
  もちろん、いちばん重要なことは、犬猫を捨てる人がいなくなる
ことです。
  しかし、ときどき捨てられた犬や猫に出会うという現状があるか
ぎり、それらの犬猫を保護することは、人間として当然の務めです。
犬猫は元々、人間の家畜であり、自律生活・野性生活がありえず、
したがって人間には、彼らに対する保護責任があります。
  そしてしかし、この、人間としての当然の務めを怠っている人が
あまりにも多いから、結果的にごく少数の人びとのところに保護犬
保護猫がたくさん集まり、そして、そのような負の像…『影』のよ
うな存在…としての「ボランティアのようなもの」ができあがって
しまうのです。その意味では、動物愛護ボランティアはある種の
“社会公害”の産物です。言い換えると、多くの人びとの負の意識
の結晶として〈ボランティア〉なるものが存在するに至っています。
このように考えてくると、ボランティアは、良いものではなくて、
むしろ悪いものです。それは、社会の悪の反映です。
  ですので、保護した犬や猫たちがたまたま多く集まってしまった
人も、“ボランティア”という自覚を持つべきではありません。自
分は、人間として当たり前のことをしているにすぎない。誰もがや
るべきことを、やっているにすぎない。ご近所のほかの人たちが捨
て猫等を見かけても何もしないから、結果的にうちに多く集まった
にすぎない、という認識を持つべきです。それが唯一の、正しい認
識だと私は思います。
  あたしゃボランティアだよーん!、なんて意識や態度をちらつか
せていると、そして、ご近所にそんな認識を持たれてしまうと、ご
近所はますます、“自分はなにもしない状態”を永遠に維持してし
まい、またその一部は、今後も犬猫を捨てつづけるでしょう。
  そこで、第二に重要なことは、われわれの先祖が犬や猫を家畜化
したことに対する、前向きの責任意識を、全社会的に普及すること
です。行政による殺処分とは逆の対応、すなわち、彼らに対して健
康的な生活を保証する対応が、一般市民の実践として普及する必要
があります。なぜならば、車の排気ガスが多くの人びとの肺を蝕む
ように、犬猫の殺処分という慣行は、非常に広い意味で、人間の心
の基調を蝕んでいるからです。罪なき動物の殺傷は、われわれのカ
ルマを傷つけます。
  犬猫の殺処分をやめることは、社会を良くするために重要なこと
のひとつです。
  そして、繰り返しますと、そのために第一に重要なことは、犬猫
の遺棄や虐待をしないための啓蒙教育、また法律の周知普及活動で
す。行政をはじめとして、到達性の良いメディアのオーナーは、と
くにこの活動に尽力していただきたいと思います。
  第二に重要なことは、捨てられている犬猫を見かけたときの保護
を、一般市民の当たり前のモラルとして定着させることです。その
ためには、「ボランティア」を完全に死語にすることが重要です。
  そして行政は、今の殺処分から発想を180度転換して、たとえ
ば急病で猫を飼えなくなった人の飼い猫等に対する、前向きの対応
を図っていくべきです。私自身まだ詳細を勉強していませんが、イ
ギリスや旧コモンウェルス国のRSPCA(動物に対する残酷行為
を防止するための王立協会)などのあり方が、参考になると思いま
す。




死語:ペット

by:岩谷  宏

  私は、動物に対する、ペット(愛玩動物)という概念にも反対で
す。
  ましてや、野性動物をペットとして飼う、という行為には断固反
対です。
  外部宇宙が、人間による開発利用のためにあるのではない、のと
同じく、動物もまた、人間からペット呼ばわりされるために生まれ
てきたのではない、と私は信じます。
  長々と書かなくても、分かるかたはすぐにお分かりいただけたで
しょう。
  真の動物愛護は、「ペット」を死語化・廃語化するところから始
まります。


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