愛知県岡崎市

*参考サイト  ちえぞー!城行こまい

岡崎城(岡崎市康生町)

 岡崎城はなんといっても徳川家康生誕の城として著名であり、後には近世城郭として明治維新まで維持された城である。現在は岡崎公園として市民に親しまれ、天守や大手門などが復元されている。城のある「康生町」という町名も非常に象徴的だ。要するに家康が生まれた町って言うわけである。この町では家泰も岡崎城もとても愛されているらしい。
 といったわけで岡崎城はかなりメジャーな城であるのだが、この城の鳥瞰図を描くにあたって、古図を見つけることができなかった。私がいつも近世城郭の鳥瞰図を書く際に参考にしている『図説 日本城郭史』という本には正保城絵図が多く掲載されているのだが、岡崎城についてはなぜか掲載されていなかった。そこで手元にある城郭本をあれこれひっくり返してみたのだが、やはり岡崎城の古図が載っているのがない。しかたがないのでネットで探してみると、古図が載っているページもあったのだが、写真が小さすぎて何が何やら分からない。したがって、本来の城郭の形状があまり理解できず、現状を中心にして想像図を描くことしかできなかった。というわけなので、この鳥瞰図はかなりテキトーなものである。

 矢作川に注ぐ伊賀川と乙川の合流地点の河岸段丘に城は築かれている。
 本丸のある部分は川面からだと比高15mほどはありそうで、左右の川を堀と見立てて築かれた城である。河川の水運を掌握するといった意図もあったのかもしれない。
 岡崎城を築いたのは地元の豪族であった西郷氏であったという。しかし後に家康の祖父の松平清康が、この城を接収する。享禄3年(1530)のことで、これによって松平氏の本拠地は安祥城からここに移された。ほとんど平城であった安祥城よりも、要害性が重要視されたゆえの移転であったのだろう。もっともその当時の岡崎城は、現在よりも小規模なものであったはずである。台地先端近くに入り込んだ沢を加工して堀とし、数郭を配置する程度のものであったろう。その後、元亀元年(1570)になって家康がその本拠地を浜松城に移すまで、徳川氏の拠点となっていた。上記の通り、家康が生まれたのはこの城においてである。
 家康の浜松移転後も、嫡男信康が岡崎城主となっていて、依然としてその重要性に変わりはなかった。その信康は天正7年(1579)に信長に謀反の疑いをかけられ自刃させられてしまったので、その後は、石川数正、本多重次といった重臣が城主となった。
 天正18年(1590)、小田原の役が終わると、徳川家康は関八州に入部することとなり、岡崎城には近江から田中吉政が入城する。
 慶長5年(1600)、関ヶ原合戦が起こった後は、岡崎城は再び徳川家の手にゆだねられ、以後は「神君家康公誕生の城」として神聖視され、譜代大名が城主となる。本多氏、水野氏、松平氏、また本多氏と続いて明治維新を迎えることとなる。

 岡崎城は近世城郭らしく、石垣造りの城で複合指揮の天守や馬出しなども設けられているが、なんといっても印象的なのはその堀の深さ、鋭さである。本丸北側の堀は、深さ10m以上あるが、石垣の傾斜がほとんど垂直で、落ちたらただではすまないであろう。また、本丸北側の馬出し状の郭は東西に細長く延びており、進入した敵が細い列をつくって進入するのを本丸側から側面攻撃できるように意図されている。馬出し内部は石垣が組まれ、本丸側から攻撃されると、背後に逃げ場がなくなってしまう。
 一方、著名な城のわりには、造作が細かい点も注目されることである。本丸の南の腰曲輪側には2つの虎口が存在しているが、南西側のものは近世城郭にしては妙に幅の狭い虎口となっている。埋門でもあったのではないだろうか。また東南側の虎口は単純な坂虎口で、枡形などが存在していた形跡がない。この辺りは、中世岡崎城の構造がそのまま取り入れられたゆえんのものなのであろう。本丸北側の表門には枡形の形跡が見られるが、やはりそれほど造作は大きくなく、近世城郭にしてはささやかなものだったように思える。「神君の城」として重視されていたにしては、わりと地味な印象を受ける。
 本丸の北側一帯が二の丸であるが、ここは公園化によってかなり整備されてしまっているようである。そして二の丸の先はすでにビルが建ち並んでおり、完全に市街地化してしまっている。しかし、この市街地との境目部分にわずかながら堀と土塀が復元されていて、かろうじて城らしさを残している。大手門も復元されているのだが、門そのものがわりと小ぶりである上に、きちんとした枡形も存在していない。要するに全体が、中世城郭時代の名残を留めた地味な城であったといえる。家康は吝嗇家であったから、自分の城をそんなに豪壮にしようなどとはまったく思っていなかったのだろう。その意識は近世段階に至っても受け継がれていたものと思える。
 本丸の周辺下には腰曲輪とも言うべき細長い郭が巡らされていた。これによって川岸から本丸が直接攻撃を受けるのを避ける狙いがあったもので、この部分は中世段階から腰曲輪として存在していたであろう。ちなみに西側の腰曲輪の二の丸下辺りに「家康公産湯の井戸」というものが存在している。

内堀とそこに架かる赤い橋。古図を見た限りでは、この橋は本来はなかったもののようである。 本丸東南側の虎口。坂虎口となっている。
本丸内部にある龍城神社から見た復元天守。 復元天守は耐震工事のために閉鎖中であった。それにしてもこの天守、うまく全体を撮影できるポイントがない。
本丸北側の堀で。土橋の東側部分。深く、鋭いのが印象的である。 本丸北側の馬出し状の細長く延びた郭。土塁の内側にも石垣が積まれている。
本丸北側の堀で、こちらは土橋の西側部分。。馬出し側にも石垣が積まれているのだが、斜度が急であり、落ちたらただではすまないであろう。 馬出し先の枡形門跡。
二の丸にはこのような公衆電話BOXがある。なかなかいい趣味である。 二の丸に復元された大手門。
本丸の土塁上から天守を見てみた。 本丸南西側の虎口。近世城郭にしては入口が狭い。通用門といったところであろうか。
(以前の記述)岡崎城は徳川家康の誕生した城として有名である。ただしそのころは、現在のような近世城郭ではなく、土豪の館に毛が生えた程度のものだったであろう。現在見られるような天守は、江戸初期の本多康紀の時代に建てられたものだろうと言われている。その天守は明治になっても残されていたが、腐食が激しくなってきたので明治7年までには取り壊されてしまったらしい。ただし古写真が何枚か残されているので、それらに基づき、昭和34年に鉄筋コンクリートで建てられたのが現在の天守である。
 訪問したのは真夏の午前中だったが、とにかく暑くて、駅からちょっと歩いただけでも汗がどんどん噴出してきてしまった。しかし川原近くの日陰に座っているとけっこう風が通っていて涼しく、わりとたくさんの人がそこで涼を取っていた。

















大竹屋旅館