| 横利根へらぶな釣りの歴史 home |
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| 「横利根の生い立ち」 | ||
| 横利根川の誕生は、利根川の改修と大きな関わりがある。文禄三年(西暦1594)頃から始まった、徳川氏による利根川の大改修工事によってそれまで東京湾に注ぎ込んでいた利根川の水を常陸川を通じて香取の海(当時佐原、印旛沼近辺は香取の海と呼ばれた広大な水域であった)に流すようになった。それによって流れ込んだ多量の水で佐原近辺の下利根は度々大洪水に見舞われた。洪水を防ぐ為に堤防を築いたり、流れ込んだ土砂によって今の地形が出来たと言われる。横利根は北利根と共に霞ヶ浦の水を利根川に流す排水路であった。天正年間十六島開拓の為川の両岸に堤防を設けた結果自然とこの流路ができたと伝えられている。利根川からの逆流を防ぐ為に大正3年(1914)から五年をかけて今の閘門が作られた。このように横利根川誕生には利根川の大改修と島の開拓という事業が大きく関わっていたといえよう。 参考文献 (佐原市誌) |
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| 香取の海時代の地図 | ||
点の部分が元の香取の海、霞ヶ浦、北浦とつながっていた。その後干拓により今の地形になる。縄文期以前には霞ヶ浦、北浦は直接海に開口していたらしく今の佐原に波の打ち寄せられていた痕跡が地質学上認められるという。 |
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| 昭和10年の横利根の写真 | ||
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| 閘門を通過する「さつき丸」 利根の女王と呼ばれていた |
べろ松ノ木前を行くさつき丸 この観光船が桟橋前でUターンして桟橋前の深場が出来た。まだ釣り師はいない | |
| 「佐原水郷にへらぶな出現」 | ||
| 佐原水郷にいつ頃へらぶなが出現したか? 記録では昭和三年に茨城県水産試験場で琵琶湖産の鮒を取り寄せその数の半分を鹿島神宮の南にある神ノ池に放しのこりの半分から産卵孵化させた稚魚を、同四年〜五年頃北浦南部や江戸崎方面に放流したという。これが最初といわれている。昭和五年頃土浦の瀬古氏や佐原の東海の池で関西からへらぶなを買い入れ飼育、さわらの大野省三氏も自分に池で大量に育てていた。八年頃には手賀沼の水産試験場でも関西から稚魚を移植した記録がある。土浦、佐原にあったへらぶなは昭和十一年の大洪水で全部逃げられてしまった。こうして水郷一帯にへらぶなが分布されるきっかけになったと思われる。 | ||
| 「初期の釣り」 | ||
| 昭和初期にはへらぶなを釣る人は佐原ではだれもいなかった。東京ではすでに大正末期にへらぶなの釣堀が出来て盛んであった。小林隆夫さんという水郷のつりの開拓者の一人が昭和十四年に大阪の土肥伸氏というヘラ釣りの大家を佐原に連れてきて多田島の江湖で試釣をしてもらい釣れることを確認。土肥さんはその後佐原の本州部落の農家を借りて移り住み横利根などで釣りをしながら多くのヘラ釣り人を育てたという。浅草へらぶな会が昭和二十三年、佐原はね浮きクラブが二十四年、日本へら研が二十五年とそのころ同好者によるへらクラブがぞくぞくと名乗りをあげた。そして当時の釣会の例会場所は当然ながら佐原を中心として回っていた。その中で横利根の釣は水深があり(当時現在より三尺ほど深かった)魚が濃い宙釣が出来る、冬でも釣れる、難しいけれど釣り方によって大きな差が出る等の理由から当然佐原の中でも中心的な釣り場であった。又ベテランじゃないとおいそれとは竿を出せない貫禄を持った釣り場であった。横利根でへらが釣れれば一人前という位当時の他の野釣場とは一線を画した釣り場でもあった。初期の水郷のへらエサはウドン、その後さつまいもの練り、オカユ、マッシュへと、移っていった。それから麩エサ、トロロ、グルテン、オカメ、等新しいエサがどんどん開発され、それを使って横利根で釣るといった野釣りの最高の舞台でもあった。 | ||
| 「子供の頃の思い出」 | ||
| 昭和二十三年ごろ自分がまだ四歳か五歳の頃の話。家の父親がやはりへら釣が好きで背中におぶさって自転車で横利根に何回か連れて行ってもらったことがある。佐原から水郷大橋を渡って横利根に行くのにその頃は橋が無く自転車を脇に抱えて閘門の扉の上の狭い所を歩いて渡っていった^_^;怖くて身がすくんだのを憶えている(その後閘門の外に橋ができた)。今思うと良くそんなところを子供をおぶって渡ったと思う、落ちたら今頃生きてはいない。釣座を構えた場所はユゲの吐き出し(その頃はユゲ江湖というのがありそこから横利根に流れ込んでいる細があった)の角であったと思うが昔のことなのではっきりはしない。憶えているのは金魚藻がびっしり生えていてへらが釣れると藻の切れ目にそってへらを取り込んでいたことだ。あと水が綺麗で水面1m位下から釣れているへらが見えた。「今のはジャミだ今のはへらのアタリだ」と独り言を言いながら釣っていた記憶がある。それから「へらのアタリはツンと強く入る」と子供の私に教えていた。そのうち私が川に落ちてしまい玉網の柄で助けてもらったが父親は怒らなかった。家に帰っても母親には黙っていた。岡っぱりだったので深くはなかったが今思うと危なかったと思う。ちなみにエサはさつまいもの練りにうどん粉を混ぜたものだった。今は懐かしい思い出である。 | ||
| パナマ式閘門 大正3年(1914)竣工 昔の水郷大橋 昭和11年竣工 総工費45万円 | ||
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| 「釣り会による放流」 | ||
| 横利根川は水深があり流れも緩やか当時は廻りにたくさんのエコや細い川が流れ込んでおり、へらぶなの生息、繁殖に適していたため、魚影はすこぶる濃かった。しかし釣れるとなると当然釣り人も多くなる。いろいろな釣り会も,特に冬には横利根に集中するようになり、やはりへらが足りなくなった。そこで釣り会による放流も盛んに行われた。昭和三十二年には浅草へらぶな会が、三十七年には東京都釣連会などが放流している。その後日研による毎年の放流や各団体による放流などにより、佐原水郷でもだんとつの魚影をほこる釣り場へ成長した。 | ||
中島屋 地蔵下 |
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| 「水郷釣り場愛護促進会」 | ||
| 釣り会による放流などで魚影がだんだん濃くなると、網で一網打尽にするものもでてきた。そこでこれではせっかく濃くなった魚影も薄くなってしまうということで、昭和三十二年地元の有志、今は故人だが(市長坂本、関沢、塚本、香取ら)による「水郷釣り場愛護促進会」なるものが結成された。この会の活動はきわめて活発であった。佐原警察署、江戸崎警察署などと密接な連絡を取り密漁取り締方を依頼し発見の場合は直ちに通報これを取り締まる事とした。これにより取り締まった件数は電気漁、引網漁など昭和三十六年までに三十件を越したという。こうして船曳き網漁業問題は促進会の努力が実って香取水郷漁業組合と地元釣連と促進会の間で申し合い事項の成立をみて一応安定した。このように横利根がへらぶなつりのメッカと呼ばれるようになったのには、先人たちの努力もあったという事を忘れてはならないだろう。 | ||
| 「横利根銀座」 | ||
| 今でもそうだが冬の例会となると野釣りでは横利根に集中してその混雑ぶりは凄く横利根銀座と呼ばれていたくらいだった。今のように出船時間などなく場所とりのため真っ暗なうちから舟をだして船の上で寝ていた人もいたくらい。見えないのにエサを打ってる人もいて何匹かつれて明るくなってからはオデコというウソのような本当の話もある^_^; また冬は第二カーブが本命で各舟宿からモーターボートでレースまがいの場所取り合戦もあったくらい。この頃は横利根を制すものは釣り会を制すとまでいわれたくらいである。実際管理釣り場出現までは十月から三月までは横利根で例会という釣会がいくつもあった。この頃冬の横利根,夏の精進湖が横綱格。へら師は山のつりが終わると佐原に帰るといった。 |
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| 「昭和三十年代の横利根」 | ||
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| ポプラ近辺そのころ農舟が多かった | ||
| 「仕切り網の設置」 | ||
| 度重なる放流によって確実に魚影は濃くなっていったが、放流しても利根川や霞ヶ浦に逃げてしまうのではという話が持ち上がった。仕切り網を設置したらという話が持ち上がり放流関係者や舟宿組合が検討にはいる。当初は賛否両論があり議論もあったが、結局船宿組合で昭和五十九年に仕切り網を設置することになった。賛成派は放流したへらが逃げないので魚影が確保できるというもの。反対派は横利根が自然の川ではなく釣堀化してしまうのではないかというもの。最初は十一月から三月まで設置して後は取り払っていたが,平成元年より年間を通して設置するようになった。結果として魚影は確実に濃くなり、日曜の混雑でもある程度釣れるようになりオデコはほとんどなしという状態にまでなる。それまでは日曜はオデコ覚悟という釣人が大半だった。横利根は冬の釣り場というイメージがつよく夏は閑散とし釣人の数も少なかった。夏でも宙でつれたが五,六寸の小ベラが多かった。仕切り網設置後は放流の型も良くなった事もあるが八寸から尺の数つりが出来るようになった。前は横利根なら5.6キロで優勝ということが多かったが今は日曜でも優勝10キロはザラ、平日など優勝20キロをオーバーもめずらしくなくなった。仕切り網によっていかにへらが濃くなったかの証明でもある。実際仕切り網の設置がなかったら横利根人気もここまで続いたかどうかわからないところだ。 | ||
| 「管理釣り場横利根?」 | ||
| 確かに網で仕切って中に魚を放流すれば、管理釣り場といえなくも無い。しかし今巾をきかしている管理釣り場と全然違うのは、生きている自然の川ということだ。機嫌の良い時はつり人を暖かく迎えてくれるが、いったん牙を剥くと何人をも受け付けない荒々しい形相に一変する。釣り人のチャチなテクニックなど一切受け付けない厳しさを併せ持っているのだ。それが自然と遊ぶ釣本来の姿のような気がしてならない。確かに管理釣り場はたくさん釣れて面白いでも、釣りの一番重要な自然と遊ぶという要素が欠けているような気がするのは私だけだろうか?管理釣り場の釣は、釣堀から始まったゲームフイッシングへら釣本来の姿なのかもしれない。それに自然を加えれば、もっと巾広くへらぶな釣を楽しむ事が出来るような気がするのだが。管理場オンリーの方に望むのは、是非野に出て野釣りの楽しさ厳しさを味わってほしい、そしてへら釣師として、釣り人として大きく成長してほしいという事です。そういう私も管理場ファンでもありますが^_^; | ||
| 「現在の横利根」 | ||
| 現在の横利根は一帯が水郷筑波国定公園に指定された事もありポイントの目印であった看板が序じょに無くなり、すっきりした反面名物のポプラや、大きい松ノ木がなくなったり、護岸工事や、近くにスーパーやら大きな建物も出来て昔に比べると風情はなくなったが、釣果だけを見ると昔と比べて大きく進歩したといわざるを得ない。しかしいったん舟に乗って横利根に出ると一変して昔の横利根に戻る気持ちにさせてくれるし「メッカ」といわれた貫禄をみせてくれる。先人たちの努力によって支えられ、幾多の名人たちを生み出した、又幾多の名人達が挑戦した横利根の歴史は、そのままへらぶな釣の歴史でもある。 こうして時代の波に揉まれながらも生き残ったヘラ師の心の故郷「へらぶな釣のメッカ横利根」はこれからも消えることなくその名を後世に残すに違いない。又そうあってほしい。 |
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| 参考文献 「佐原町史」 「佐原市史」 「関沢潤一郎著 へらぶな釣り」 写真 関沢潤一郎(私の父親です) | ||