オートリピート 無限再生    byよるの かいが

            


 安らかな寝息が、とある推理作家の寝室に響いていた。まだ夜は明けていない。カーテンを閉めていないから、日が昇ったら、眠っていられないだろう。寝ているのはこの部屋の住人ではないのだが。
 部屋の主は、寝息を立てる男から顔をそむけてうつぶせている。
 アリスの口からは、安らかではないため息が漏れる。
 なんでこんなことになってしもうたんやろう……とアリスは半ば呆然としている。
 嘘だったと思いたい。なんてリアルな夢だったんや、とでも言えるなら話は簡単だった。まあそんな夢をあんなに詳細に見てしまったとしたら、それはそれでアリスを悩ませかねないにしても。
 頬をつねるまでもなく、アリスを起こした原因が、夢ではないと大声で主張している。身じろぎしたせいで痛むのだ。とくに下半身が。
 それから手も痛む。やけにひりひりすると、腕を持ち上げてみたアリスは、思わず、ひゃ、と声を上げかけた。赤く痕がついている。火村の指のあと、だった。
 アリスは立ちあがった。痛みよりもなによりもこのままここにいるほうが耐えがたい。
 火村の、あのときの、ぎゅっと腕をつかむ感触はその痕を見ただけで簡単によみがえる。その他の痛みについても同様だった。もう連鎖的に、まざまざと。
 いやや!もう……手首にこんな痕がついているようでは足首も似たようなことにきっとなっとる……。
 足首をつかまれてひらかれて、思わず蹴飛ばすように火村を跳ね除けようとして、痛いほど火村の手に力がこもるのが分かった…。
 その後の行為まで浮かんできて、アリスはよろめきながらも駆け出した。洗面所にかけこんで、こみ上げる嘔吐感に耐えた。恥ずかしい。羞恥と、情けなさと、たぶん恐怖…。子供のように泣き出してしまいたいと思ったが、アリスは泣くことも出来なかった。
「仕事しよ」
 いいわけめいたつぶやきを宙に飛ばし、ワープロを取り出した。
 注文されてはいない小説を書きはじめる。
 指がカタカタと動く。自分でも驚くほどのスピードで、アリスの指はキーボードの上を踊った。……ある男が殺されるまでにさほど時間はかからなかった。さすがに、そのシーンでは皮肉っぽい笑いが漏れる。なにをやっとるんやろ?俺は。自虐的に笑いながらも、愛している女性に殺される男の話を書きつづけずにはいられない。
 別に火村を重ねとるわけやない。ことさら違うタイプに男を描きながら、それでも……。
 一秒でも、指を止めたら、本当に火村につかみかかったり、何か言ってしまいそうだったのだ。身体はズキズキと疼いて、そのことをどうにも思い出させる。せめて紙の上でくらい殺させてもらっても罰はあたるまい……などとどこまで本気か自分でもわからずに思う。
「これからどうしたらいいんや」
 ふと、文章が行き詰まった拍子にそんな言葉をつぶやいた。

 アリスが猛烈な勢いでワープロに向かっているのを、火村はキャメルを燻らせながら眺めていた。アリスがまるきり火村に気が付いていないことは見て取れた。そう来るかよ、と思う。

 アリスが風呂に入っている音で、火村は目が醒めた。息を殺すようにして、様子をうかがっていると、アリスは悲痛な顔でワープロをカタカタやり出したのだ。火村が風呂を使っても、コーヒーをいれても、なんの反応もない。
 もう数時間は経っている。アリスの抵抗が大きいことは予想がついた。だが昨日は、どうしても止められなかったのだ。いつか越えてしまうだろうと思っていた一線だった。後悔の仕様もない、と思っていたはずが、やはりアリスの様子には胸が重かった。
 昨夜、なにがどうしたと言うのではない。いつもどおりに、仕事の終わったアリスと、ここで飲み明かす予定だった。フィールドワークが済んだばかりで、やや興奮はしていたかもしれない。アリスの仕事が切羽詰っていてずっと会えず、久しぶりだった、ということも。最低だが、たまっていたのかもな、とも自嘲する。
 キスしたときに、アリスが俺の名を呼んだ……から、だ、と火村は目を閉じた。キスしてしまったのは初めてではない。実は、結構何度も、なのだが。アリスが黙殺するか、やめてや、あほ、と笑うかのどちらかだった。酔ったアリスが火村に口付けて来ることさえあった。
 会話の途切れたすきに、すぐそばだったアリスの顎を捕まえて、長めにキスして、舌でアリスの唇をちょろっとなめた。
 アリスは目を閉じていて、火村の唇が離れても目を開けなかった。
「火村」
 呼ばれて、もう、スイッチが入ってしまったのだ。そうとしか言えない。火村が、自分でも呆れるほど簡単に、理性は飛んでしまった。
 腕をつかんで、アリスの唇に噛み付いた。舌を届く限りの奥まで入れて、深くまさぐった。ンぐっ、とアリスののどが苦しげに鳴った。それにさえ、欲情する。
 自分の上に引き倒すと、アリスの柔らかな髪が火村の鼻先をくすぐる。ごほごほ、と、いきなりのこんなキスにアリスがむせ返った。
「……な、君はっ!なんちゅう、っ、ことすんねん、くるし…っ」
 髪と同じく明るい色をした瞳には涙が浮いている。一気に真っ赤になり、抗議の声も掠れていて、わたわたと慌てている。
「ご免な、アリス」
 微笑みながら、火村は言った。アリスが顔を赤くしたり蒼くしたりするうちに、もうシャツのボタンは外し終え、ズボンも半ば引き下ろしてしまった。
 素肌のアリスを抱きこもうとして火村はソファの狭さに顔をしかめる。酔っているのかアリスの動きは鈍い。力を入れて手をつかんだまま立ちあがると、つられて立ちあがってくる。
「ひむら……」
 泣き出しそうな声と顔だった。思わず強く抱きしめて、口をふさぐ。
「ひむら……いやや」
「……やめられねぇよ」
 低く押し殺した声を火村はアリスの耳元に吹き込む。その間にもじりじりと寝室へ向かって歩き、アリスを押し込んでしまうと、そっとドアを閉めた。
「んっ、なんで、こんなことになっとるん?」
 とっくにベッドに押し倒され、胸元にキスを浴びせ掛けられながら、アリスがひどく呆然とした調子でつぶやくのが聞こえた。どうも自分の置かれている状況が把握できてはいないらしい。
「あ…」
 アリスに触れた。ちゃんと熱を持っているそれに火村は微笑んだ。
「アリス…」
 掠れた声で呼ぶと、アリスは赤い顔で気まずそうにうつむいてしまった。その顔を追いかけてのぞき込みながら、優しく触れているだけで熱を増すそれをキツく弄る。
うあ、あ、あかん!よしてや、そんなせんで、いやや、てっ、」
「ちゃんと、やらせろよ。いい子にしてろって」
「もう、や、ややぁって、ひゃ……」
 それへの愛撫は続けながら、火村はまたあちこちにキスをはじめた。胸の赤くとがったのをキスで吸い上げる。アリスのそれが不意に限界に近づいてるのが分かる。
「うっ……く……」
 肩にすがり付いて、声を殺してるのが分かる。火村の手に、どうしようもないと訴えるようにアリスの熱が擦り付けられ、弾けた。受け止めてやって、火村はにやりとした。そっと手のひらにこぼれたそれをアリスの後ろに擦り付ける。閉ざされていたアリスの目が、見開かれて火村をうかがっている。

「なんっ……」
「濡らさなきゃ痛いだろ」
 アリスの足首を空いてる手でつかんで、ひょいと無造作に脚を開かせようとする。声にならない悲鳴をくぐもらせて、アリスは火村の手を振り払おうとした。
「だめだ、アリス……」
 手に力が入る。両の足首をつかんで無理やりに開かせてしまった。あらわな姿勢にアリスが身をひねって抗議してるが、離してはやらない。身体を割り込ませて、指でそこをなぞってやる。ぬめりで、以外にあっけなく指が入る。アリスの身体が痙攣するのが分かった。奥まで探ると、アリスが熱を取り戻しかけていた。…辛いばかりでもないらしい。
「は、っ……」
 もう、口はきけないらしい。かすかな喘ぎ声も噛み殺されている。
近づきたくて、アリスの足を抱え上げもっと開かせて、腿がアリスの胸に着くような姿勢をとらせて、抱きしめながらのしかかった。
「んんっ……」
 アリスの中は、温かい。ゆっくりと押し進めて、動く。
「もっと、なかまで入れさせてくれ、アリス」
「うっ…、ふ、うっ……」
 もうこれで、おしまいになるかもしれない。いや、もう二度とないだろう……そんな思いに火村は何度もアリスを求めた。
 アリスが泣きだしても、やめられなかった。

 

 アリスが顔を上げると、一瞬だけ火村と目が合った。火村の髪は少し濡れている。風呂に入ったんだろう、気い付かんかった、とアリスは思う。火村だって風呂に入らずにいられるようなありさまじゃなかったことも思い出した。
「コーヒー、飲むだろ?」
 答えるまもなくコーヒーが目の前に置かれる。
 火村の指がカップから滑り落ち、それだけ置き去りにされる。
同じところを持つのがためらわれて、アリスは両手で包んで、取っ手にふれずに飲んだ。

 火村の指がキャメルの箱を叩き、一本を取り出す。いつもと同じ一連の動作でタバコを吸う。
「ところで?どうする?」

「……ところでってなんや……なんやその手は」
「慰謝料払う用意くらいはあるぜ?――俺としちゃ、責任とって結婚がいいけどな」
 アリスの手を火村はそっと握ってはなさない。そのまま、ニヤニヤと笑っている。
「そういうんや、ないやろ!君はっ……ふざけんなや」

「なんで怒るんだよ、アリス……」
 アリスの手ごと、火村の手は口元に運ばれる。手のひらに乾いたキスが落とされる。口付けたまま、視線を上げた火村とアリスの目が合う。アリスは赤面して慄いた。
「イヤヤ……ひむら」
「今日だけな――。明日からはおまえの言うとおりにする。他人でも、友人としてでも――いっさいこんな振るまいはしないと誓おう」
 火村は立ちあがり、アリスの手をひいた。ゆっくりと背中を抱きしめて、アリスの柔らかな髪に口付ける。火村の腕の中で、アリスは身体をすくめた。 
「今日だけって、なんやねん」
「いいじゃねえか。この世の思い出に、一日くらい恋人モードでいさせろよ」
「……強姦犯人がなにを言う!もー友人なんかやない、顔もみとーない。明日から君とは他人やっ」
「明日からな」
 抱きしめられているから、火村の震えが、アリスにも伝わっている。恋人の距離だ。
「……そうや明日からや」
 アリスはその腕を振りほどけなかった。
「こっち向いてくれよ」
 掠れた声が耳もとに吹き込まれる。ぞくっと、背筋が震える。キモチワルイ、と思おうとアリスは考える。
「――アリス」
 呼ばれて反射的に目を閉じてしまう。キャメルの、火村のにおいには馴染んでいて不快には思えない。この男の息だっていうのに、とアリスは唇をかむ。コトンと火村の頭が肩に落ちてきた。アリスはため息をつく。
「いいすぎやった。すまん、火村。無理やりやなかったのは覚えとる。やつ当たりや、そんな深刻にならんといて。――他人になんてなりとうない」
「…そうだな」
 言い終えて、火村の腕の中でくるりと向きをかえたアリスの口に、火村のそれが押し当てられる。遠慮がちな乾いたキスだった。
 なにするんや、と昨夜のように激しいキスを想像して、拒もうと身構えたのに、言う前に外されてしまった。
「まだ、今日は終わってねえだろ……友達は明日からだ」
「そうやな。だいたい身体がついていかへんわ。君、乱暴なんや……疲れ果てとる恋人のために、食事でもつくってえ」
 火村は奇妙な顔で笑った。照れたようにもとれる笑いをアリスに残して、やけに素直に食事をつくりはじめる。
 アリスはこらえきれずに笑い出した。笑うとアリスも冗談ではないほど身体のあちこちに響くのだが、もうさほど不愉快ではなくなっていた。
 「食べさせてやろうか、アリス?」
「……復活したんか、火村せんせえ」
 さっきのバツの悪そうな顔がかわいかったんやけどなあ、とアリスは独白しそうになる。もうけろりとしているのが憎たらしい。
 食事を終え、動けないアリスは、誰かさんのおかげで退屈や、と火村をレンタルビデオに走らせた。それを出されると弱いのか、火村は、へーへーと言うなりだ。
「なんでそんなくっつくん……」
ビデオ鑑賞を始めたはいいが、火村はいつもの位置でなく、アリスのすぐ傍らに肩を寄せて座ってしまった。アリスの言葉に、余計に手を伸ばしてアリスの肩を抱き寄せてしまう。
「一日は短い。文句いうなよアリス」
 勝手にせいや!この男は、と半ば呆れ、アリスは画面に注意を戻した。
「……あんな、火村、これどういう基準で選んできたんや?」
「ラブストーリー」
 ええかげんにしい!と思うがアリスは口に出す気にもならない。
「――好きだ。アリス」
 かなり意図的に甘い響きを含ませているような声でささやかれ、アリスが緊張しつつ振り向くと、キスが降ってくる――何度目だ、これで。ビデオが半ばを過ぎてから、30分おきにいっぺんは、されている。「好き」か「愛してる」つきの。ぜんぶ、舌さえのぞかせない乾いたキスだ。好きの大売出しやなと、されるたびに考えた。今度は、手を持ち上げて、そこに唇を押し当てている。
「……っ、すまん、アリス」
 いきなり謝られて、一瞬、我慢できんとでも言われるかと顔に血が上ったアリスだったが、火村の青褪めたようすに首をかしげた。
 火村が見つめていたのは、めくれた袖からのぞく右手首の指の痕だった。
「ああ……ほんまやな、慰謝料くらい請求したってもええくらいや」
 冗談ぽく言ってやったアリスの言葉も耳に入らない様子で、火村はそれを見つめ、そっと手でなぞった。
「……なんでもする、済まないアリス」
「そうやなあ。ほな、痕消えるまで、延長してもらおかな。今日俺すっごい楽やもん。明日も三食、君が奥さんしたら許す」
「そんなんでいいのか、アリス…」
 そんなカオしとる君と、このままで別れられんやろ……、胸の内でつぶやいて、火村の抱き寄せてくる腕に身を任せる。抱きしめられながらキスされて、キスが離れたとたん、慌てて言った。
「いっくら、恋人モードいうても、キスまでやからな」
「……ばかやろう。言われなくても分かってる」
「したら、絶交やぞ」
「ばかやろう」

                                                 END……?

 

 風呂掃除も火村がした。夕飯の買い物も片付けも、もちろんだ。仕事あけで荒れた部屋の掃除までやってくれた。アリスは寝そべって、働く火村を見ている。
「君は呑んだらあかん。……理性がゆるむやろ?」
 つまみまで作らせて、アリスはほとんどチェシャ・キャットのような笑顔で言い渡した。
「……分かったよ、なんでもおっしゃるとおりにするさ」
 そこまで本気でいったわけでもないのに火村は自分のグラスには水だけをついで酒みたいに煽った。アリスに、水割りまで作ってくれる。一人でのむと言うのはおちつかないもので、ついぐっと呑んでしまううえにすぐ火村が次を作ってくれるのでペースが早い。
「酔わないから、いいだろ」
 火村はよほど手持ち無沙汰なのか、アリスのすぐ傍らにきてその背を抱き寄せて時折肩や背を撫ぜる。
「ひ、むらぁ」
 ……酒で理性が緩むことを案じるならば、どちらが禁酒すべきであったかは明らかだった。アリスはもう背を完全に火村に預け、寄りかかっている。
「もうせえへんの?」
「なにをだよ」
「なに…て……、キス」
「酔ってるな、おまえ」
 しらふの火村は深いため息を付いた。アリスをあおのかせて、濡れた唇を避け、口のはたに軽くキスしてやる。
「うー、な、どして?…気になっとったん」
 とても乾いたキスばかりだ。アリスは自分からキスをすると、火村の舌を舐めてみた。
「今日だけ、だから、いいか。…あと24時間」
 0時を回ったのだ。
「ずっとキスしててやりたいよ」
 火村は手を伸ばして離れたアリスの顔を引き寄せた。喉に手を回し、頭を抱え込んで、口を合わせる。ゆるく閉じられていたアリスの歯列を押し開けて舌をもぐりこませてやった。少しだけ、アリスの身体に震えが走ったが、拒まれているのではないと伝わる。
 器用に口蓋を舐めまわされて、震えが走るのがとめられなかった。
顎にかけられた火村の指に力がこもって、いっぱいまで開かされる。
喉が鳴るくらい奥まで探られて、どこまで入れられるのか怖くなる。絶対、自分のより火村は舌が長い、にしても、喉まで届くわけもないが届きそうな気さえする。ぐっ、と詰まった音がして、本当に苦しくなったとき、やっと火村が離れた。
「ンッ…あほ、・・窒息、するわ」
「息継ぎしながらやるさ」
 次のキスはまた触れるだけだった。
「ひ、むら……も、いやや」
 アリスは泣きそうになって、火村の肩にすがった。あちこちのひりひりする痛みが、キスで火のついた身体に、おかしなほどいやらしく感じる。ただ辛かったはずの痛みが口付けられていると甘い。
「ヘンタイみたいやんか・・も、イヤヤ」
 半ば酔ったままの、混乱したままの頭が、とても言えないはずの窮状を火村に訴える。途切れ途切れの、ほとんど喘ぎと大差ないアリスの言葉を聞き終えると、火村もかすれた声でささやき返してくる。
「ベッドへ行こう」
「や、いやや!」
「だいじょうぶだ、アリス……キス以上はしねえよ」

 

 猫が傷を舐めて直すように、丁寧にぜんぶ舌で辿ってやった。火村の唾液で全身を湿らせて、アリスは眠りに落ちている。痕を増やす真似もしなかった。言葉どおり、火村はキス以外になにもしていない。そこへのキスもキスといっていいならば、だが。
 しがみついたまま眠るアリスの手を、こればかりは譲れず、強引に外し、風呂に入りにいく我慢も限界の火村だった。

 

「…風呂、入らないのか?」
 朝食の仕度をしながら、アリスを起こすと、彼はテーブルに着き、ただ飯のできるのを待っている。真っ先に風呂に行くだろうと、出来あがる前に起こしてやったのに、声をかけても反応が鈍い。
「なんで?ええよ、朝っぱらから」
 火村は手を止めて振りかえり、アリスを見つめてしまった。
 昨日の記憶がないのだろうか。相当酔ってはいたようだが。
「覚えてないのか」

「なんやねん君は。朝から恥ずかしいこと思い出させんで。……ぼんやりやけど、覚えとる、俺ばっかり、悪かったわ」
 強いて、明るく開けっぴろげに言っているようだ。しかし、ほとんど覚えていないのだろう。覚えていて、こうなわけがない。
「……いいから、風呂に入ってきてくれ。俺が居たたまれないんだ」
「なんで君が居たたまれんねん?」
 文句を言いつつもアリスは風呂に向かった。その後姿を見送り、、パンにバターを塗り付けつつ、火村は脱力感を味わった。
「もう辛くねえんだろ?どっかでかけるか」
「んー」
「ドライブ行くか。運転するぞ」
「んんー」
「……ビデオ借りてくるか」
「んー」
「何とか言えよ、アリス、好きだ、愛してる」
「んんー」
 聞き流されて、火村は顔をしかめる。
「……ええやん、このまま、二人でここにおったら」
「……俺の忍耐力をどこまで試す気だ」
 アリスはそれでも夢うつつで火村に答えない。いろいろ悩むのだろう、やはり。他人になれるような間柄じゃない。……友人に、戻るといっても、忘れられはしないだろう。火村も考え込み、ため息を付いた。
「痕、もう消えたな……ごっこもおしまい、か」
「……ほっとしとる? どうしてつけなおさなかったん?」
 火村は絶句した。そうしたいのは山々だったが、最初の朝の様子を思い出せば、出来ないに決まってる。もごもご言いかけて、結局火村は押し黙った。
「冗談や。昨日されてたら、俺壊れとるわ」
 また、返す言葉に詰まる。
「俺なあ、いっちばんこわかったんは、どうなるんやろってことだったん。これから、どういう、関係になるんか、怖かった」
「いいじゃねぇか、こう言うので。友達で、たまに…」
「恋人モード入るちゅうん?」
「……キスまでの恋人なら俺は考えさせてもらいたいがね」
「…………とりあえず、ここでおしまいな。痕消えたし、今日はお友達や」
「分かったよ。夕飯は俺作ってやるから。早く回復してくれ。まだダルイんだろ」
「……そーいうことは友人にいったらあかん」

 

 二人でほどほどに呑み、アリスはベッドで、火村はソファで眠った。火村は早朝にこっそり起き、一人で仕度して出かけるつもりだった。今朝は講義があるのだ。そうそう簡単に休講にしているわけには行かない。
「こーひー」
 唐突に寝ぼけた声がそう言った。「ねてろよ」といっても、アリスが首を振るので、コーヒーカップを渡してやった。コーヒーを呑みながらアリスは火村を見ている。寝ぼけているのかと、話し掛けずに火村はさっさと仕度を終え、「じゃあ、またな」と、玄関へ向かった。
「なあー、火村」
「……なんなんだ」
「ちょお、これ見て」
 玄関先で革靴を履くためにかがみこんだ火村の前に、アリスは左足をヌッと突き出した。パジャマのすそをずり上げる。
「……夕飯なにがいい?」
「急にすき焼きがどうしても食いたくなってん。よろしく」
 ばたんと閉まったドアの外で火村は、休講にして今すぐ、よからぬものを見せてこの生理現象を引き起こした責任を、アリスにとらせるか、夜まで待つかたっぷり3分は悩んだ。その間にやや冷静になったので、歩き出したが、今日は一日うす蒼い指の痕の張り付いたあの足首がちらつくな、と考えてちょっと右手を握り締めてみるのだった。

 

                                  Endless end…

                                              …あとちょっとだけ。

 某月某日

 

 真夜中の高速を飛ばす火村のベンツのなかに車の崩壊を促しかねないコール音が響いた。
『ご免、火村!これから一週間君とは他人や。今日の、キャンセルな。電話もなしな!ほな、急ぐから!』
「おい――アリス」
『ツーツーツー……』
「他人はねえだろ。他人は!」
 切れた電話に怒りをぶつける火村だった。
「だいたいな、他人だというなら、無言電話するぞ、下着の色聞くぞ、夜中に忍び込んで……」
 くどいようだが電話は切れている。 

それから五日後

 

『ヒムラ〜?・・なー、意外と早く終わってな。これから会えへん?会いたいねん、なあ』
「どちらサマ?」
『…恋人の声も君わからんの?失格やで、そんなん。なあ、まいはにー(はあと)』
「……アリス、分かった、今すぐ行くが、恋人は優しいだけじゃないんだぜ――覚悟してろよ」
『お、お友達やん、そんなーひむらー』
「・・で、なにが食いたいんだ?」
『う、うん(そんな怒ってないか、ヒムラ、ほっ…)君の作ってくれるもんなら何でもええねん』
「レバニラに、にんにくステーキか?心配するなアペリチェフは赤マムシドリンクだ」
火村は、アクセルを強く踏み込んだ―――