よるのかいが


   

 ひどく静かだった。
 私は不意にあたりの静けさに気づき、訝しんだ。
 こんなに静かなはずはない――
 ほとんど耐えがたいほどの静穏さである。
 私自身の呼吸音さえ、しかとは聞き取れぬような気がする。ペンと紙のたてる音も
 ――いや、
   先刻から少しも先を書いていない。――音は聞こえるはずもない
 嗚呼――、
 無音に耐えかねて私は微かに嘆息の音を響かせたはずだった。聞こえない。私は耳を塞いでいるのか。…なぜ聞こえないのだろう。
 唐突に、聴力を失ってしまった気がして、痛くなった。胸が、ひどく痛い。なぜか息苦しい。そう言えば私の呼吸音は聞こえないままだ。
「いや――」
 不安につぶやいた私の声は確かに聞こえた。すうっと呼吸も楽になる。ほそく私の息遣いが空気を震わせているのがわかる
 私は息を詰めこそとも音をさせぬよう、身をこわばらせていたようだ。
 無音のなかに響く私の息遣いは、忌まわしい雑音だった。
 ――ああ、音を立ててはならなかったのに
 空気が重かった。
 ここに居るのはひどく辛い。
 ペンを離し、私はそっと立ち上がった。
 軽く眩暈がするようだ。
    ***
 ……関口は、眩暈坂をあがった。道は暗かった。影が薄い。関口の歩き方はおぼつかない。夕刻に人影が見えないのはおかしい、などと自分の部屋と変わらぬ辺りの静けさに眩暈に似た惑乱を起こす。
 しかし篭って一日中原稿用紙を前にしていた関口の時間の感覚が惚けているだけで、曇った空は暗いが、いまは人通りの少ない時間なのだ。
 関口はせわしい息遣いをしていた。――いくらなんでも、息ぐらい上手く出来ないのか、関口君――、とかれの毒舌家の友人なら、呆れた調子を声に込めて言いそうなものだ。
 その友人の古本屋は、見慣れた『骨休め』と記された木札を下げていた。
 玄関で関口は、よく通らぬほそく小さな声で繰り返し呼びかけた。大声を出そうと努力を重ねるようだったが、関口の声は余計に裏返り聞こえにくくなるばかりだ。自分でも諦めたか、とうとう声が出せなくなったかして、関口は勝手に上がりこむことにしたようだ。いつもの座敷へ向かう。
 関口の目つきは独特である。
 友人たちには惚けていると言われる、確かに惚けた、夢見るような目だ。目だけならば、あどけないとも形容できそうな、気弱で、微かに霞がかったそれだ。
 その平常から不安定な関口の瞳が、なおひどく揺れ、踏み外しかけた心を覗かせている。
うつろな視線はゆっくりとさ迷い、なにかを探した。そこにきっと居るはずだった人物――京極堂は、居ない。
 京極堂のいつもの席には、沢山の古めかしい本だけが占め、それを手にしているはずの主人の姿はない。
 うつろな関口の視線がそこに向けられ、ふっと消えた。
 関口は目を閉じた。
 ひどく静かな倒れ方だった。がくりと前のめりになり、畳に抱きとめられるように、関口は倒れこんだ。
 不自然だった関口の呼吸音が意識の喪失によってようやく自然なそれに変わった。


                     *


 微かな音がする。
 規則正しい、安心を誘う音だ。
 ぱらり、ぱらり、という紙のめくられる音のようだった。
 関口の睫が微かに震えた。
ぱらり、という音。
 聞きなれた音だ。
 関口は目を開いた。京極堂が気難しげに眉をひそめ、書に視線を向けている。
 ぱたんと唐突に和綴じの本を閉じて、京極堂は立ち上がった。
 近づいてくる……関口はまだ身を起こしていなかった。歩いてくる京極堂を寝ぼけたような不鮮明な目で見ていた。
 「京極堂……」
 呟いて、自分の声にやっと関口は正気づいたようだ。
 慌てて半身を起こすが、動きはまだ鈍い。
 「僕は……眠ってしまったのか? 京極堂、いつ戻ったんだ、起こしてくれれば……」
 「君など起きていても眠っていてもどうせ大した違いはないよ」
 「ひどいな……」
 なにか不平を口にしようと顔を上げた関口は言葉に詰まった。
 間近に京極堂の顔がある。
 ……目が合った。
 京極堂が視線に感情をのせるのは珍しい。
 どぎまぎして関口は目を伏せた。
 京極堂の切れ長の鋭い目が、奇妙な色を湛えているように思われたのだ。
 意味ありげな、どこか妖しい目つきだった。
 「な、なんだい、京極堂……」
 「また君は向こうへ行っていたな」
 「京極堂」
 「あちら側、だよ、……関口君」
 関口は息を呑む。
 数センチ先に京極堂のほそく整った鼻筋がある。
 自分の吐息が届いてしまいそうだった。……い、き
  ――呼吸音、無音だ……薄れかけていたあの行き詰まるような感覚を関口は思い出していた。
 気が遠くなったようなうつろな目を再び関口はしていた。
 ほとんど重なり合うほど近い京極堂の微かな体臭に包まれているような気がする。
 息苦しく感じて、身動ぎし、顔を伏せて関口は息をつく。
 その関口の肩を京極堂がつかんだ。動揺が関口の身体に走る。
 「――関口君」
 名を呼ばれて、反射的に京極堂の顔を仰ぎ見ると、ひとすじあった空間がもう消えていた。
 身体に震えが走る。関口は身を竦め、きつく目を閉じていた。
 「京――……」
 いったん自由になった口で、関口は、京極堂、と言おうとした。
 それをまた重ねられた唇に阻まれる。
 先よりも深く長かった。
 「うっ……」
 あまり顔色の良くない、青ざめたようだった関口の顔に赤みがさす。
 かすれた小さな声すら漏れる。
 ――ただでさえ、関口にとって心を動揺させ、対処しかねる行為である。
 それを突然に、しかも故意に関口を混乱させるような仕方で抱こうとしている。
 京極堂の骨ばった指が、シャツのボタンを辿って行くのを関口はいたたまれぬ思いで見守った。
 「――たつみ」
 すぐ耳元でささやかれた。
 関口は、愛撫の意思が込められた言葉に身を震わせる。
 肌を直接合わせているときだけに京極堂が使う巽という呼び方は呪術のように作用する。
 辿ってくる指の冷たさに、自分の身体の熱さを知らされる。
 関口は京極堂の胸に顔を摩り付けて熱を逃がそうとあがき、密着する肌に余計熱くなってしまう。
 もう一度京極堂が名を呼ぶ。
 精神への愛撫と肉体へのそれ。
 両方を受けることは関口の狭い許容範囲を越えすぎていて、苦しいほどだ。
 溺れている、溺れる……苦しい、心地良い……。
 温かい蜜のなかに溺れ、足掻いているようなものだった。
 京極堂の手指は器用すぎる。
 関口に正気を失いかけさせ、そして意地悪く引き戻す。
 息も絶え絶えになり、京極堂の腕のなかで、関口はだらりと力を失い支えられている。
 「――巽、」 身を起こした京極堂がゆっくりと関口の身体を引き上げた。
 ――膝の上に関口を抱く。
 「はっ……う……」
 押し入ってくる感触の苦しさに関口は呻いた。
 辛さに京極堂の肩にすがって、腰が逃げる。
 京極堂は静かな目をしていた。あの奇妙に意味深な見るものをぞくりとさせる目で関口を見ていた。
 関口はその視線に気づけるような状態ではない。
 うっすらと開いた目には涙を滲ませ、京極堂が蠢くたび、熱い吐息をはね上げる。
 京極堂は目にだけ変わった色を覗かせるほかは酷く平静な表情で、関口のさまを見つめていた。
 不意にその眉がひそめられる。
 いつもの不機嫌な表情というより、切なさをこらえてでもいるかのようなものだった。
 関口を強く引き寄せ、口付けを流し込む。
 よりいっそう優しく甘い愛撫のなかに関口を溺れこませようとするようなしぐさだった。


 ……意識を手放し、腕の中で眠り込んでしまった関口を京極堂はそっと横たえた。
 身仕舞いをしてやってから離れる。
 先刻の息苦しそうな寝顔が京極堂の脳裏を過ったようだった。
 ――どうせ、うつつの悪夢の中にいるのだ。
 なにもねむりのなかまで好き好んで悪夢を見ることもないだろう?
 
 疲れ果てたのだろう関口はいまは安らかな寝息を立てている。
 
……きっと夢は見ていない。  


はつがきの京×関でした。今書いているのとは結構雰囲気がちがうかと。なんせ2年近く前なんで。