抱擁の距離




 内心忸怩たるものがないわけではない。やらなければ良いことをしてしまった、とも思う。
 古書肆の主は、書の並びを入れ替えながら、ふと思った。自然にその眉が 寄っている。不機嫌そうな仏頂面なのだが、これは中禅寺の物を考えているときの癖でもある。機嫌ももちろん良いとは云えない状態でもあるのだが。
 ――同じ学窓で会ったときからの、腐れ縁の知人、関口巽に及んだ行為についてである。
 しかし――やってしまったものは仕方がない。
 そう思ってもいる。どちらの比重が多いとは云い難い。だいたい――真にしてはならぬと思うようなことをするほど、物好きな人間ではない、と彼は 自己評価している。
 人間の行動などほぼその時の勢い次第である。
 だれも信念に基づいた行動などしておらぬのだ。
 理性もモラルもましてやなんらの宗教的あるいは習慣的禁忌も信じることのない己には、それを強く禁じる理がない。
 ただ――止めておけば良かったか。
 とそう思いもする、だけのことである。
 あるいは同じ抱くなら、最初にその欲望を感じた頃、果たして置くべきだったのだ。
 ――そうしたら、今ごろはきっと飽きていたに違いがない。
 結局のところ――関口と逢瀬する機会の余りに少ないことが京極堂のこのところの不満なのだ。
 恋情や愛情など日常生活にはなんの効用も関わりもなさない。――しかし、性欲は別である。古書肆で書痴、加えて憑き物落としを生業にする神主でもあるにしろ、生理は通常と変らない。むしろ関口などよりもよほど健全で真っ当であるぶん、それを感じる機会も多い。
 関口などは、――こういう関係を持つにいたって中禅寺の初めて知るところとなったのだが――あらゆる欲求に波が激しい。鬱病が持病の厄介な男だから仕方がないにしろ、催さないときは徹底して無欲になるらしい――否無気力か。
 「貴方、お茶入れ直します?」
 「ああ・・頼む」
 あらぬことを考えていたわけだが、千鶴子の存在まで見えなくなっているわけではない。中禅寺は思考を破るような声にも眉一筋も動かさずに頷いた。

   *

 玄関先でくぐもった声がした。こんな珍妙な声をだす客に心当たりは一つしかない。関口だった。
 「やぁ・・お邪魔するよ」
 「ずいぶんと久しぶりじゃないか関口先生。逃げ込むなら先を間違えているぜ」
 「ちゃんと間に合ったよ――やなことをいうな、君も」
 卓の横、京極堂の隣りへ関口はぺたんと腰を下ろす。
 ――その仕種に中禅寺は目を細めて、にやにやとやった。そう、関口は例の一件以来中腰でうろうろと自分の落ち着き場所を迷ってためらうことがなくなった。中禅寺が本を積み上げている右横、長方形の卓の中禅寺に近い方に腰を下ろす。
 「なんだよ、君は。何かあるのかい?」
 「人間――いや生物には固有の自己領域があると知っているかい?」
 雑談をしかけながら、中禅寺は何気なく関口の頤を指で捕らえ仰のかせると抵抗されるいとまも与えず、ちょこんと関口の唇を啄ばんだ。
 「よ、せよ、――な、何をするんだ君はいきなり」
 「ふふん。ちょっとした実験をね」
 「まったく、もう……千鶴さんが――」
 其処らへんに抜かりのある中禅寺ではない。妻がこの来客の為にただ今台所に向かったところなのは確認した上での悪戯だった。
 赤面した関口は、ぶつぶつと唇を拭う。胡座をかいていた足が崩れ、卓の上に肘をついて、関口は中禅寺の手元の本を覗きこんだ。
 「自己領域――テリトリィーのことかい、縄張りのことだろう」
 「ちょっと違うね。自己領域――セルフゾーンさ、訳すならね。同種の仲間に対するときの安心する為に必要とする距離のことだ。そう、君が立っていて、向こうから見知らぬ人物が歩み寄ってくるとする。君はその人物を検問しなくちゃならない。さて、どのくらいの距離 で歩行停止を求めるかね?」
 「さぁ・・とりあえず見えてきたら声をかけるんじゃないかな」
 「何メートルくらいだね」
 「二、三十メートルってところじゃないかな」
 「ふむ。じゃあ、その人物が挨拶をしながら近寄ってきたら?」
 「五メートルってところかなぁ・・良く分からないけど」
 「まあ普通の範囲だね。最初のは飛び道具の範囲だし、それは間合いだろう」
 ところで・・と中禅寺は言葉をきりゆっくりと関口に顔を近づけた。二メートル程あった距離が、縮む。一メートルの範囲で一瞬止まり、ふ、と微笑むとさらに近づく。数十センチの距離になって関口は微かに仰け反って逃げた。
 あえて中禅寺は追わず、身を起こすともといた場所に身体を落ちつけた。
 「生物間には適性な距離というものがあってね。三メートルぐらいが友人の距離、だそうだ」
 「そ、そうかい・・」
 「君は最近僕よりに座るようになった、と気づいてね。それだけさ」
 さらりといって読書に戻る。からかうなよ・・ともごもごいって関口はそっぽを向いてしまった。中禅寺は多少行き過ぎか、と自嘲しながらも、その背中をゆったりと抱き寄せる。抱擁され、関口はぎくしゃくと振り向いた。
 「きょ、京極――、だって千鶴さんが・・」
 「馬鹿だね。しやしないよ。どうだい僕に抱かれていると不快かい」
 関口は中禅寺の腕の中でもがくのをやめた。そっと体重が預けられ、腕の中の温かみが増す。
 「――そんなわけ、ないじゃないか・・」
 「ふふ・・」
 実を言うとゼロの距離というのは――恋人よりも母子の距離なんだぜ。
 「――だ、けど、・・・どうにも、動機がしてたまらないよ、放してくれよ」
 「……嬉しい事を云うね、関口君」
 
 小一時間ばかり時間をつぶして関口は席を立った。「そろそろお暇するよ」とそう言って立ち上がりかけた彼に、中禅寺は「明日は暇かい?」と尋ねた。
 「特に用事もないけど・・なにか用かい」
 「ああ・・野暮用だがね。じゃあ一時に駅で待ち合わせよう、おくれるんじゃあないよ、関口君。いくら君といえど、昼の一時なら起きられるだろう」

     *

 まだ午前中と呼べる時間に自分から起き出した関口を見て、彼の妻は顔を綻ばせた。
「あら、めずらしい」
 常ならば、起きても愚図愚図と布団の中に昼一杯いて、どちらかというと辺りが寝静まった夜中にいつまでも起きているのが関口の日常だ。あまり、健全とは仲の良くない性分の人間である。
 おふとん、干してもいいかしらね、と気遣うように訊く妻に関口はこっくりと頷いて、出かける予定があるんだ、と告げた。
 「本屋でも見てこようと思って」
 京極堂と出かけるのだ、とはなんとなく云いづらかったのでそう云った。
 「あら、京極堂さんじゃなくて?」
 「え、いや、新刊書を、その」
 あら、じゃぁ、と彼の良く出来た妻は札入れの中から幾ばくか取り出して卓袱台の上に置いた。
 「あ、いいのかい」
 かれらの生活は決して豊かではない。なんとかつつましく日々暮らして行けるだけというものである。
 「まぁ、だってタツさん、普通の本屋さんに行くのにお金がなくっちゃあしょうがないでしょ」
 そういえば現在関口は文無しだった。
 あまり使うこともない関口はほとんど小遣いなぞ持ってないのだ。・・・昔から生活力のある友人達のおかげで、自分で金を出すということをしないというか思いつかないのである。
 「お金もたないで出かけるつもりだったんですか?」
 くすくすと明るく彼の妻は笑う。
 関口は顔を赤らめて、簡素だが温かく美味しい朝ごはんを無心に食べるふりをした。

          ***

 待ち合わせている人間というのは、常識として、物陰には隠れないものではないだろうか。特に人の多い駅での待ち合わせなのである。もうちょっと目に付く場所に立っているのが当たり前だろう。
 柱の影で人ごみから顔を背けて立ち、それでも気になるのかきょときょとと辺りを小動物さながらの動きで覗い、またすぐに柱の影へ顔を引っ込める。
 目立たない場所に立っているが十分に目立っている。駅員にも胡乱な目で見られている。忘れていたが、赤面症で失語症で鬱病気質な、十分に真人間からはみ出した男なのだった。
 ほう、と中禅寺は溜息をつく。まあ何処にいようとすぐ見つかるので彼の挙動不審さもまんざら役に立たないわけではない。
 「関口君」
 「あ、アア、遅いじゃないか、京極堂」
 「何を言うんだ。約束まであと五分もある」
 謂われなき非難は止めたまえ、だいたい君は時計が読めるだろうに、今までなんど僕を待たせたことがあると思っているんだ、憶えているかい、どうせ憶えてないだろう君のことだ――云々と。
 「悪かったよ・・」
 渋々ながら関口は項垂れて謝った。ただ顔だけは不満そうに口を尖らせている。
 「ところで、どこへ行くんだい・・」
 切符を買って電車に乗りこんだところで関口がようやく尋ねた。切符を買ったのも中禅寺であるし、この男のことだから、電車の行き先など見てもいないだろうかと中禅寺はつい悪戯心を出して、
 「うん、四谷までね。知人の店が開いたんだ」
 「ふうん、古本屋かい」
 「ああ」
 電車は四谷とちょうど逆方向に向かってるんだが。
 関口はなんの疑いもなく納得している。
 「そうだ、帰りにどこかカフェでも行こうよ。雪絵が小遣いくれてね。何か美味しいものでもお土産に」
 「君にしては良い心がけだ」
 車掌が駅名を告げているのだが、関口はまるで聞いていない。目的の駅へついたので、「降りるよ」と声をかけると慌てて立ちあがりただ従う。
 駅から裏通りへ入り、古本屋などありそうもない怪しげな歓楽街に入っても、関口には一片の疑いも生じないようだ。
 ただ、一軒の宿屋へ中禅寺が足を踏み入れた時には、さすがに古本が並んでいもしないことに「京極堂?」と怪訝そうに声をかけた。
 中禅寺はいいんだよ、と顔つきで黙らせ、さっさと一部屋借りてしまうと関口を連れて部屋へ向かう。
 「京極堂・・?ここは」
 「連れ込みに連れて来るなぞ、嫌がるかと思ったんだけどね」
 「君の知り合いの店ってここなのか?こんなとこへ来てどうするんだい」
 中禅寺は自分の眉間に深く皺が刻まれるのを自覚した。それこそ、自分の店を連れこみだと思ってかけ込んできた男女をこれから追い返さなければいけない、とでも云うかのような仏頂面だ。まあじっさいそんなことがあったとしても、店先でこの店主にジロリとやられれば たいてい逃げてゆくだろうが。
 関口は座布団をだして、中禅寺にも勧めた。黙ってみていると、中禅寺の不機嫌顔にはいいかげん耐性のある関口は平然とお茶を淹れた。
 「ずいぶん歩くもんだから喉が渇いたよ」
 と、なんだか幸せそうなのんきな顔でお茶を啜る。
 連れこみ宿なわけである。当然部屋には布団がすでにのべてある。
 いつもより、百倍もお膳立てされた状況なのだが、いつもの半分も雰囲気がない気がするのはどうしたものか。
 気勢をそがれて、中禅寺は紙巻煙草に火をつけた。しばらく黙って紫煙を燻らせる。
 いっそ本でもあればいいのだが、さすがの中禅寺も今日は本など持参していない。
 関口は何も考えていないのか、小さな卓に肘をついて、とろんとした視線を中禅寺の指先から上がる煙に注いでいる。眠そうだ。
 「眠いのかい?」
 「アア、ウン・・。今日は早起きだったから」
 煙草盆の上で押し潰して消し、空いた手で関口の頬をささえた。素直に顔を寄せて、その手を枕に関口が目を閉じる。ほんの数ヶ月前に無理やり身体を繋げた仲だというのに十年来の恋人か夫婦ででもあるような安心し切った姿だ、と中禅寺は苦笑した。
 そっと手に力を込めて関口の身体を自分に近づける。抱きかかえても関口は拒まなかった。ふうっと柔らかな息を吐いてすぐまた目を閉じる。
 いつもなら、片手には本があって、それを捲って気を紛らわすのだが。
 かすかな熾きのような熱を堪えながら、手持ち無沙汰の手で関口の髪を弄ぶ。
 「・・くすぐったいよ、京極堂」
 眠たげな声が応える。
 かすかな熱をこらえる感触に親しんでいるのはなぜだろうか。我慢する方がどうやら自分は慣れている。
 頬を撫ぜ、首筋に指を置く。シャツの隙間から奥を撫ぜているとようやく鈍い腕の中の身体に緊張がはしる。
 顔を赤くして目を開けた関口に「君は寝ていてかまわないんだぜ」と皮肉を呟き、淡々とシャツのボタンを外していく。
 「ま、待ってくれよ・・っ、いきなり」
 身を起こした関口の口を塞ぎ、その舌を絡めとる。
 「ちっともいきなりじゃないと思うがね」
 ぼやいた声は少なからず本気だった。

 関口の身体からシャツを脱がせてから中禅寺は手を離した。一人でさっさと布団の上に移動して、自分の着物も手早く脱ぎ去る。
 「おいで・・関口君」
 色気を含ませた声で云われて、関口は真っ赤になったままうろうろと布団の端をさ迷い、やがてあきらめたのか云われるがまま、中禅寺の元へ来た。
 ひょいとその身体を布団へ伏せ、「ズボンくらい自分で脱いだらどうだい?」と笑って、その足を持ち上げる。下着まで取り去った上で、関口の両足をぐいと持ち上げた。
 「き、京極堂・・」
 「関口君。手を出して。ほら、こうして自分の脚を持ち上げていて」
 胸につくように折り曲げた脚を自分の腕で抱えさせる。関口はなにがなんだか押し切られるがまま自分の手で自分の足を抱えている。
 じりじりとした熱を押さえこんで、中禅寺はゆっくりと関口の身体に触れる。元から色が白いほうなのだろうが、日光とは無縁の生活を送っているためもあって、関口の身体は不健全に白い。
 素直に反応した部分に手をあててやると身体がほんのりと色づく。
 枕元に用意されていた油を手に取ると、ゆっくりと奥の窄まりに触れた。きゅっとそこは中禅寺の指を締めつける。
 「・・・っ!」
 関口の脚が中禅寺の両側で震えている。たっぷりと指にのせて運び、ためらいなく挿入する。
 悲鳴を噛み殺して、関口がもがいた。脚が崩れる。背を向けて逃げ出そうとする身体を、逃すつもりもなく、そのまま後ろから、抱いた。
 自身にも油分をなすりつけ、ピッタリと重なりながら。
 ずるりと、関口の狭間は中禅寺を飲み込む。熱くなりきっていない其処はそれでも柔らかく中禅寺を受け入れて震える。
 「ア、ア・・っ、ンッ!」
  抵抗を諦めたように関口は中禅寺の腕の中で弛緩して震えた。
 「・・・しばらく、こうしてようか」
 「う・・、う、や・・」
 一番深く呑みこませ、中禅寺は関口を抱きこんでただその背にのしかかったままでいた。
 「眠ってもいいんだよ、関口君?」
 「・・っ、う、ね、寝れるわけないだろ・・」
 中禅寺は関口の喘ぎ混じりの非難に、忍び笑いで応えて、ひどくゆっくりと、その身体は抱きこんで放さないまま、身体をゆらし始めた。

           ***


 結局二人が連れ込みを出たのは夕暮れ間近になってのことだった。ふらつく腰を支えられ関口はそれでもなんとか歩いている。
 手には、先ほどわざわざ寄ったカフェのケーキの箱が揺れている。
 「そう言えば・・」
 「なんだい、関口君。忘れ物でもしたのかい」
 「いや、きみ、四谷の本屋へ寄るんじゃなかったの?」
 「・・・また、今度でいいさ」
 「そうなの?」








蛇足な抱擁の距離







 「まあ、お土産を買ってきて下さったの?」

 差し出したケーキの箱をみて雪絵はにっこりとした。世間の多くの女性の嗜好にたがわず関口の妻もお菓子は好きなほうである。

 「うん、なかなか美味しいケーキだったよ」
 カフェの中で一つ食べてきた関口は何気なくそう云った。雪絵は少し怪訝そうな表情をする。
 「あら、でも、タツさん、お金使わなかったんですか」
 放り出してあった札入れを雪絵が取り上げて首を傾げていた。
 「アア、そう言えば、みんな出してもらっちゃったかな」
 きまり悪げに呟く関口に雪絵は少し困ったように笑う。
 「また榎木津さん?それとも中禅寺さんに?」
 「え、ああ、ウン」
 「お土産まで買ってもらっちゃったんですか?後でお礼しないと・・」
 「あ、うん、そうだね・・・」