線路はどこまでも伸びて、終わりは闇の中に吸い込まれてゆくようである。車窓越しに目を凝らすが、私はどうしてもその先を確認することが出来なかった。空は蒼黒く、地と分かちがたい。その狭間に伸びているはずの道はどこまでも続いている。 気がつけば私は一人である。 車内には私と隅の方に、年若い女と、くたびれた中年の男性がそれぞれ離れて座っていた。 窓の景色は見覚えのないものである。 不意に慌てた。 乗り過ごしたのではないだろうか。いつものごとく、ぼうっとしているうちに。思えば、余りにも見たことのない景色ばかりである。 ちょうど放送が停車駅の名前を告げた。耳慣れない駅名を早口で告げられて、その言葉を私は聞き逃してしまった・・・。 とにかく降りた方がよい。いずれにしろ、早く戻らなくては。
私は慌てて身支度をし、列車が止まると転げ落ちるように飛び出した。
ここはいったいどこなのだろう。
無人駅の駅名を記した看板はペンキがはがれかけていた。ぼんやりとして、それを読み取ることが出来そうもない。 私はうろうろと端から端までさ迷い歩き、一つきりのおかれたベンチに腰掛けた。 しかし待てどくらせど、次の列車が来る気配はない。 ここはどこなのだろうか――否、私はどこから乗ったのか。
ひょっとして、――ここで降りてはいけなかったのだろうか。 廃駅かしらんという疑念がかすめるほど、ここには人の気配も、列車が来る気配もない。
――私はどこへ向かおうとしていたのだろうか。
不安になった。
細い野道はどこまでも続いて、終わりは闇の中に吸い込まれてゆくようである。薄闇のなか目を凝らすが、群青の闇に溶け込んではっきりとしない。 諦めて私はうつむき、トボトボと歩いた。
かすかに、懐かしい声を聞いた気がした。 (―――まったく君には呆れるね・・) いや、それはこの心細い状況に、私の脳髄が描き出した都合のよい幻聴なのだろう。 (その年で迷子になれるとはね・・方向音痴で時も場所もわきまえずぼうと居眠りする性癖のある君だ。一人旅なんぞするもんじゃない) と、そう、誰かならいいそうな気がする。
化野だ――。 私はひょっとして、同じ所をぐるぐると歩き回っているのではないだろうか。疲労のあまり、意識が朦朧としている。このまま、何もかも忘れて、眠ってしまいたいという強い欲求がこみ上げて、気がつくと私はその場に座りこんでしまっていた。 声をあげて泣き出したい気がした。
後方を振り返ると駅はまだ見えた。私は泣きたいような情けない気持を堪えて、もと来た道を戻る。ベンチに腰掛けていた方がましな気持ちがしたのだ。 ふと――気がついた。駅の横に小さな建物が建っている。風雨で茶色のしみができた木壁の小屋だ。私はなぜかとても安心した。ここへくれば大丈夫だと、そういう気がしたのだ。小屋には読みにくい文字の札が掛かっていた。その文字を目でちらりと追ったが、気が急いて、立て付けの悪い木戸をあけた。 中は居心地のよい座敷で、黒衣の男が一人座していた。 私は不意にどうこの状態を説明してよいかわからず、戸口でとほうにくれた。 男はひどく懐かしい声で私に呼びかけているのだが、何を言っているのかどうしても聞き取れない。私が、肝心のことを云えぬからだ。 とほうにくれて、ぐるぐると視線を巡らした。木戸の横に立てかけられている札の文字は遺失物係と読めた。
いったい私はなにを探しに来たというのだろう。
思い出すことができずに私はただそこに立っていた。
*
ああ、夢だったんだ・・、 厭な夢もあったものだ。 背中に汗が浮き出ている。布団の中で目が覚めたことにほっとした。部屋のすみに書物机が置かれている。私は無性に煙草が吸いたくなって、ごそごそと起きだし、その上に置いてあった煙草に火をつけた。
――あら、タツさん起きたんですか?
よく、聞こえない・・まだ悪夢から覚めないように声はぼんやりしている。振り向くのが、怖かった。私はどうしてしまったんだろうか。 ――あ、 「どうしたんですか。寝ぼけているの?」 私は、振り帰った。血の気がひいた。 優しげな微笑を浮かべた女性が立っている。色が白い。黒髪をきれいに束ね、割烹着を身につけたその女性は、私を見て途惑ったように首を傾げた。 私は何か弁解を口走ろうとした。女性は見るからに既婚者である。夫の留守に勝手に上がりこんで他人の家に上がりこんでいる不審な男――私を、このひとはどう思うだろうか。なんとか、悪気も悪意もなく何かの誤解であることを説明しなければ、――とそう思った。 も、申し訳ない――ぼ、僕は・・・。 ――だが、告げるべき名前が私の中には欠落していた。 「厭ですよう。ぱくぱくしちゃって。どうしたんです、さっきから」 私は自分の喉に手をやった。声が上手く――いや、言葉が。 「う、――・・」 「まだお休みになるんですか。お布団、干してもいいかしら。今日はいい陽気なんですよ」 とりあえず、私は頷いた。訳がわからないが、――とにかく落ちつくべきだ。この女性は私を不審者とは思っていないらしい。それとも――雨戸を締め切ったこの部屋は薄暗い。ひょっとして顔がちゃんと見えずに、彼女は私をだれかと誤認しているのだろうか。 私は俯いて机の方に向かった。机には、原稿用紙が白紙で放り出されている。触ってよいものかわからないが、それより他にすることもなく、机の引出しをそっと開け中を確かめてみた。何かの、――小説だろうか?意味の通りにくい文章が並ぶ原稿が束になっていた。
『――遺失物 関口巽』
伏せられた数枚の原稿の一番最初の見出しはそう始まっていた。ぎくりとする。これは――あの妙な夢はこれが原因なのだろうか。関口巽という名前には聞き覚えがあった。作家だろうか。 ――タツさん。 せきぐち、たつみ――彼女がタツさん、と読んだのは――。
『ところで、私は誰なのだらう』 無意識に、私は原稿用紙に向かってそう書きつけていた。小説は、男女が話している場面で終わっている。その続きを書くべき桝目に続けられた私の文字はひどくいびつだった。
私は、おかしくなってしまったんだろうか。
*
彼女は私が机に座ったきり、顔を上げることもしないことになんの不審も覚えないようだった。ぱたぱたと雨戸を開け、細い手なのに軽がると布団を持ち上げ、運び出してしまう。ひとしきり家中の掃除をしてしまうと、お茶と煎餅を盆に載せて持ってきてくれた。私の座卓のそばにそれを置き、何もいわない私ににっこり笑って自分の仕事に戻っていく。 「タツさん。ごめんなさいね。私今日は遅番に入っちゃったんですよ。お夕飯用意しておきましたから、おなか空いたら食べてくださいね」 割烹着を脱ぎ、羽織を着た彼女はまだ十分に若若しく華やいでみえる。こんなきれいな女性に世話を焼いてもらって申し訳がなく、また同じ部屋に寝起きしたのだと思うと鼓動が早くなる。 どうしたものか。やはりきちんと説明すべきなんだろうか。 机の前でとほうにくれるだけで時間はじりじりと過ぎていき、空腹を感じて食事をし、私はそうそうに床を引いて、結局帰ってきた彼女と顔をあわせる気まずさを味わいたくなくて、就寝してしまった。
*
彼女はどこかへ働きに出ているらしい。だいたい五、六時間ほど午前中に出かけ、午後からのときが十日に一度くらいある。私は依然として口が利けなかった。 彼女が家にいる間はひたすら私は机にむかっている。彼女はそんな私を不審にも思わないらしい。このままでよいわけがないのだが・・・。原稿用紙に向かって何も書かないと云うわけにもいかないので、覚書というか、夢から現在までのことをつらつらと書き連ねている。何日もすると、今更、病院へいったり、彼女に事情を告げるのも憚られた。
その日も仕事に出かける彼女を見送り、昼飯を食べてしまうととたんにすることが無くなった。暇を持て余すままに、現在の心境というか、我ながら訳のわからない繰言だとは思うのだが、それを書き連ねていると、玄関口で威勢のいい若者の声が上がった。 「センセイー!!関口先生!上がりますよ〜!!」 お邪魔します、という声がかかり、けたたましく戸の開く音がした。 私がおろおろとしている間に、その声の主はばたばたと音をさせながら、入ってきた。 私はいっそ押入れにでも身を隠そうかと迷っていたのだが、良い隠れ場所を見つけるまもなく、書物机から腰を浮かしかけたときには、すでにその青年はふすまをがらりと引き開け、ちょこんとソコに正座して頭を下げた。 「ご無沙汰してました。陣中見舞いに参らせていただきやしたよ、先生。どうですか、進んでます?」 あもうもない。私が応えるまもなく、だれだかわからないが、赤井書房と社名の入った封筒を持っているからには出版社の人間だろう。どうやらずいぶん親しげに身を乗り出して私の手元を覗きこみ、読ませて頂いていいですかね、などと調子よく私の手元から書きかけの束をすべてさらっていってしまった。 最初の方はともかく、それ以後は私が書いたものである。慌てたが、力づくで止めるわけにもいかない上に、静止の言葉は 口にしたくとも、一言も出ない。 私は困り果てて、項垂れた。 「やあやあ進んでますね、順調で何よりだ。珍しい。ってのは余計でしたか。うへぇ、怒ったらやですよぅ、先生。いい調子じゃないですか。そうだそうだ、お茶いれましょう。お土産、いや、たいしたもんじゃないですがね。いちおう。ほら、あかふくやの饅頭ですよ、センセイもお好きでしょ。ここのは旨いですよねぇ、じゃあちょっと失礼して」 答えようもなく、口をはんびらきにしてぼうっとなっていたらしい私の顔を見て青年は、たいそう明るく遠慮もなにもなく笑った。 「やですよう、センセイ、呆けた顔して。また失語症ですか。それとも痴呆が・・いやいや、とんでもない。どうも駄目でさぁね、師匠と大将といると口が悪くなるばっかりだ。いけないいけない。いやぁでも今度のはジンと来ますよゥ。僕は結構関口先生の小説なんだかんだ云って好きなんですよう」 台所へ姿を消しても声だけは良く響く。私はなんだか嵐が過ぎるのを待つような心持でぼけっとそこにいた。 どうやら、私は関口巽というらしい・・。そして作家を生業としているようだ。 それが分かったことだけは進展なのだろうが・・。良く喋る能天気なこの青年は、二人分茶をいれ、持参した饅頭を自分も食べ、最後は勝手に筆がのっているときに邪魔しちゃいけませんでしたね、お邪魔しました、などという辞去の挨拶をまくし立てて、朗らかに帰っていった。
「あら、お饅頭。どなたかいらっしゃったんですね、鳥口さん?」 入れ違いに彼女が帰ってきて、そう云った。あれが鳥口というのかどうか判然としなかったが、彼女がそう云うのならばそうなのかもしれなく、私はあいまいに頷いた。 「タツ――さ、ん・・?どうかなさったんですの?」 彼女はさすがに、お茶を飲み、饅頭を食べているのに一言も喋らない私に訝しがった。私は困ってしまったが、なんとか笑顔を作り、首を振ってもといた場所に引き上げた。 「……どうしたんですか、あなた」 彼女の心細げなか細い声に胸が痛んだが、――私は振り向くこともどうすることもできず、ただ机の前に俯いて座った。 彼女は諦めたようにほっと息を吐き、やがておかわりの熱い茶を淹れてくれ、「あまり根をつめて、身体を壊さないで下さいね」とだけ云って、また台所に引っ込んでいった。 今日ばかりは、書き物も進まなかった。
――けたたましい音が鳴っている。列車の到着を告げるあの音にも似ている。さっきからずっとなっていたのだろうか…否、 違う――これは夢ではないのだから。 不意に、なにもかもが面倒になった。 厭だ。 如何して、今日はこんなに煩いんだ。 私は、泣きたいような、眠たいような、鬱々とした心持になって、布団を引っ張り出し、床をのべ、蹲って頭からうわかけを被った。 「――えぇ、はい。――そうですわね・・。――まぁ、そんな――・・・」 話し声が聞こえた。 そうか、電話だったのだ――。 「――ええ、お待ちになってくださいね」 彼女がこちらに歩いてくる足音がする。 「あのう、タツさん――まぁ、寝ちゃったんですか。榎木津さんから、お電話が掛かって――」 電話になぞ、出れるわけがない。大体、その人物が誰なのか皆目私には分からないんだ――。 彼女はしばらく、困ったように電話に出るよう勧めていたが、私は眠った振りを続けた。 「――あのぅ、ごめんなさい、なんだか内の人、布団にくるまっちゃって。ええ、いえ、そんな。――・・あらでも寝ちゃってるんですよぅ、如何しましょう。ええ、はい、じゃぁ・・」 声は途切れ途切れに聞こえた。耳をそばだてている内に、私の周りをゆるやかな睡魔が包み込み、私はそのまま寝入ってしまったようだ。 ――ねぇ、タツさ、ん――エ、ノ・・キヅさんが――・・来――け、ど・・・・ 眠りに落ちかけた私にその声は、水面から水を伝わるように遠く届いた。なんだかそれは酷く不安をかき立てる、そのままにしてはいられないような言葉のような気がしたが、私はその胸騒ぎの意味も知らず、――つかのまのやすらかな眠りの国へと逃げ出した。
「起きろッ!セキ!この僕が来ているのにまだ起きないとは何たる冒涜ッ!猿は寝るより他にすることがあるだろう!寝てるだけでいいのは猫だけダ。京極んちならともかく僕の前で寝てたって可愛がってはやらないゾ」 割れるような大音響の意味は半ばも理解できなかった。寝入り端を布団から文字通り引きずり出され、上下にゆすぶられているのである。 「さぁ、可愛がって欲しいなら猿は猿らしく芸をシロッ」 「う・・」 芸をしろ、芸をしろとは何事なのだ。私は乱暴に肩をつかまれて吊り下げられ、息の詰まることもさることながら、男のわけのわからない言辞に目を回した。 助けを求めて、どうやら・・たぶん、私の妻であるはずの女性を見る。彼女は、ちょっと困ったような、しかしそう慌ててもいない顔で笑っていた。 「う・・」 「なんだ?人語もとうとう忘れたのか、しょうがない男だな、いや、猿だな、関。いいから、しゃんとしろッ!買い物に行くぞ。雪ちゃんは、もう支度はしてあるのかい?」 ゆき、というのか、この女性は・・。 「えぇ、でも、私、四時から仕事に出なくてはならなくッて」 「だいじょうぶ!僕は車で来ている。ちゃんと間に合うように送ってあげるから心配はいらない。さぁ、関がぐずなのがいけないんだぞ、はやくしなさい!」 真っ赤なスポーツカーに乗せられて、ついた先は銀座の高級デパートだった。 目を白黒させる関口をよそに、彼――たいそう身なりが良くて車からして金満家らしい――しかも、言動はともかくとして良く見れば大層美男子な――榎木津と『ゆき』はたいへん楽しげに、ショッピングを楽しんでいる。どうやら襟巻きを品定めに来たらしい。 彼らが選び出したのは、濃緑の手触りのよさそうな一つと、淡い若葉色のものと、檸檬色の鮮やかなものの三つだった。 三本も買うのかと私が見ている先で、 「はい、これは雪ちゃんへ。こっちが千鶴ちゃんへだゾ。僕がこれダ!御揃いなのダッ!」 若葉色が『ゆき』へなのはともかく、どうして濃緑が彼ではなく、檸檬色の一番派手なものが榎木津のものなんだろうか。確かに似合ってはいるが・・。 三つとも榎木津のものと思って選んでいたらしい『ゆき』も驚いていたが、いいからいいからと押し切られて、済まなそうに、ただやはり嬉しいのか顔を綻ばせて受け取っていた。
二人は相当に親しいらしい。道順も教えないのに、彼は『ゆき』の職場へとぴったり四時に送り届けていた。
さて、私はどうしたらいいのだろう。彼女と引き離されるととたんに不安になった。 「そら、千鶴ちゃんへは君がわたすんだゾ関!お使いだ、それくらい猿でもできるだろう」 車中で包装された襟巻きを押しつけられる。断れない私は受け取ってしまって途方にくれる。そんな女性の名に心当たりは全然ないのだ。 「――口が利けないのか、関口」 何気なく云われたそれは、疑問というより確認だった。私は思わずびくっとし、となりの榎木津という男の顔を見る。その横顔は、何の表情も浮かべていない。 ――綺麗な男だった。 陶磁器のように白い肌、薄茶の瞳。血の通った人間の男だなどとどうしたら信じられるのだろう。これほどに美しい男はそうはいまい。 「難儀な猿だな――関。いいから京極堂のところへいけ。会いたいんだろう」 信号で車が止まる。まともにこちらを見られ、その琥珀のような透き通った目がまともに私を見た――否、私ではなく、私を透かした後ろを見るような――不思議な目つきだ。
白塗りの土塀が続く長い坂道を、真っ赤なスポーツカーは駆け抜け、坂を登りきったところにある一軒の小さな店先に止まった。 榎木津が降りたので仕方なく続き、私はしばらくためらった。榎木津は声もかけずどんどん突き進んでその家に上がりこんでしまい、私は開いた木戸の前で途方にくれた。 店には、上手いのか下手なのかよく分からないが、読みづらい字で――『京極堂』とかけてある。 古書肆だ。
私はのそのそと上がりこみ、とにかく声のする方へと向かった。古書肆の店先は古本に溢れているがどれもキチンと整理されていて、気持がよい。なんだか懐かしいような甘酸っぱい心持すらする。私は相当の本好きだったのだろう。――どうにも信じがたいことだが、自ら売文を生業にしていた、と云うことなのだから。 「なんだい、関口君。そうぼうっと突っ立ってないで、座り給えよ。いくら君が貧相で存在感に欠けるといっても、そこでそうしていられたんじゃあ、邪魔くさくっていけない。あいにく千鶴子は留守にしているが、まあ茶の一杯は出してやるから其処へ座るがいいよ」 ――痩身の男は不機嫌そうな顔をして、その長台詞を喋る間、本から顔を上げないままだったのだが、ふと私をみて――。眉を潜めた。
「――ああ、まったく君は、また、喋れなくなってるのかい」
簡単に言った。そして、私になんら弁明も反応も期待してないそぶりで、茶殻を捨てると、新しく淹れなおしてくれた茶を私の前に置いて勧めた。 私はなんだかびっくりすると同時に酷く安心してその茶を啜った。 「そうだ!猿が人語を喋れなくなってしまった。雪ちゃんがえらく心配してる。こんな猿は喋っても喋らなくてもオンナジだがな、雪ちゃんを心配させるのは良くないぞ、京極」 「良くないぞ――って云われてもね」 榎木津のものいいに、京極堂は苦笑して私を見る。 「困ったものだね、君も・・」 「う・・」 何か言おうとしているのだが、言葉はもどかしいほどままならない。仕方なく私は苦笑いを返して、茶に視線を落とした。 「鬱になってるわけじゃあ、無さそうだ」 男達はなんだか悪し様に私について論評しているようである。どうやら、同郷か、同窓か、とにかく私とは長い付き合いの人物達のようである。だが、よくも其処まで本人を前に遠慮容赦なくこき下ろせたものだ。 私はしばらく二人のやり取りを聞くともなく聞いていたが、街中に連れ出されて疲労が溜まったいたものか、ついうとうととまどろんでいた。
* 「――そろそろ起きないか、関口君。夕飯は食べるかい?」 私は、心地よいまどろみから男の低いよく通る声に起こされて、恐る恐る目を開けた。知らないはずなのに、酷く懐かしい気がするのはこの男があの夢の人物を思わせるからだろうか。 男は煙草を燻らせている。 私は、ようやく身体を起こし、ぼんやりと座敷を見渡した。外は夕暮れているようだ。明るく心地よかった座敷に秋の匂いが満ち、心持ち肌寒い。 卓に伏して寝入っていた私の肩にはだれかの羽織がかけられていた。それが身を起こしたことで落ちている。きちんと羽織直すと温かく感じた。不安はどこかに霧散してしまった。 「榎木津は帰ったが・・。まぁ君はゆっくりして行き給え。雪絵さんには千鶴子から連絡させておこう」 私はぼんやりと頷いた。そうこうしている間に、『千鶴子』と呼ばれた、たぶんこの男の細君が顔を出して、食事の用意が出来た事を告げた。 何一つ喋れないから、食事の出来を誉めることもお礼を述べることも叶わない私に、その女性は厭な顔ひとつ見せることもなく、いたって通常どおりといったふうに食後の茶まで振舞ってくれた。 このまま居座っていいものか、しかしどうやって辞去の意を表したらいいものかと途方にくれてうろうろしたが、店先でうろつく私に男は「読みたい本があるのかい。まぁ勝手に読んでくれて構わない。お代はツケといてあげるよ」といって、察してくれるふうでもない。 いや、帰りたいのかといえば、そうでもないのだが。しかし、このままいくら友人の家らしいとはいっても、居座るわけにもいくまいと、扉を開けて、辞去の意をあらわそうとし、私はまたしても玄関口で立ちすくんでしまった。 車で連れてこられたものだから、――分からない。いったいどうやって自宅まで帰ったものなのか。中野という地名は分かる。銀座への戻り方も分かる。しかし、――私の家とは、どこにあったものだろう。 すごすごと玄関から引き返し、ついでに一冊ばかり本を抜き出して、座敷へ戻った。男は私の分も茶を淹れて待っていてくれた。 当たり前のように、私の分も床がのべられ、風呂を勧められた。湯上りに用意された夜着は、あつらえたようにぴったりとする。私とこの男では身の丈が違うだろうに、おかしなことだ。
余りにも居心地がよく、当たり前に三度三度食事が用意され、毎夜泊まって行く事を勧められるままに、私はずるずると留まってしまっていた。
帰らなくて良いのかと思うが、如何したら良いのか分からず、それを理由にしているうちに、私はこの古書肆の座敷に根が生えたように馴染んでいる。 「関口君。理由に思い当たるフシはあるのかい?」 その日は、京極堂に訪れる人間がいなかった。どうやら店も定休日というのではないようだが、朝から骨休めという看板を下げて、休んでいるようである。千鶴子婦人は早朝から用事があるとかで出払っていた。 私は相変わらずぼうっと本を読むともなしに見ていたのだが、そう声をかけられて顔を上げた。 「自失しているのでもない。食欲もあると――。鬱でもない。君の周りになんら変った事態も起こっていない。――純粋にどうやら、君の内部に起因が発するようだね」 「う・・」 「ああ、無理に喋らなくたっていいよ。そうか、ちょっとこちらへおいで」 手招きされても困る。既にかなり近く傍に座っているのだ。膝の上にでも来いというのか。私が身動き出来ずにいると、男は身を乗り出して、私の頤に手をかけた。 ぼんやりと見上げる。 「口を開けてご覧。喉が痛いとかそんなことじゃああるまいね。それなら君、いくらなんでも病院へいくべきなんだが・・」 私は云われるまま口を開けた。「炎症も起こしていないようだね。まァいくら君が愚かなんだと言っても、喉が痛くて喋れないのなら、治療を受けに行くだろうしな・・」 私は口を閉じて首を振った。 「頭はどうだい。痛いところがあるかい」 云いながら、男は骨ばった指で私の頭を撫でさすった。首も抱えられたままなので、抱きかかえられているようなおかしな姿勢になっている。私は落ちつかなく、ただ首を振った。 「瘤もないね。外傷はない・・」 私はまるで子供扱いされているようである。丹念に指で調べられた後、男の胸に抱き寄せられて、安心しろとでも言うようにぽんぽんと背をさすられる。気まずいが、奇妙な安心感を誘う仕種でもある。 「食欲はあるし、衣食住自分の身の回りのことは出来るんだ、このまま口が利けなくたって君の商売困りはすまいが・・」 私は骨ばった男の胸から顔を起こし、首を振った。いや・・確かに口が利けないだけならともかく・・私は……。 「そんなに心細げな顔をするんじゃないよ、関口君」 男の顔が近づいてきた。驚いて、よけるまもなくそれは私にそっと重なり、そして離れていった。 私が慌てて飛びのくのを、男はふふと笑った。――えらく艶っぽい笑い方だった。 「――今夜は、千鶴子に雪絵さんの様子を見がてら、君の家へ泊まらせることにするよ」 今のは接吻ではないのだろうか。私は早くなる鼓動を抑えて彼の笑顔を呆気にとられて見ていた。
いったいこれはどういうことなんだろうか・・。
不可解だが、同時にひどく馴染んだ感触のする口付けだった・・。
風呂から上がるとすでに布団はのべてあった。並んでひかれたそれに、私は部屋に踏み入れるのを逡巡する。 先に風呂からあがり、煙草を咥えている男が当たり前なのだが、夜着であることにどきりとする。 「どうした、関口君、湯冷めするだろうに」 私は仕方なく部屋に入り、障子を閉めた。 「う・・あ・・」 なんとか、私の状態を察してもらおうと口を開く。そうだ、喉には何も問題はないし、言葉もちゃんと思いついている。どうしてそれを口にすることだけが叶わないんだろうか。 盆の上で火を消しきると、彼は、私の手を掴んだ。引っ張られるが、そのまま彼の腕の中に、倒れて良い訳がない。抵抗するうちに、焦れた彼がひょいと私の足を払い、引き倒してしまった。 「う・・」 果たして私と彼はこのような行為を受け入れて良い間柄なのだろうか。彼にも千鶴子さんという夫人がいるし、私にも妻という人がいるというのに。それでは、あまりにも・・。 どうしたら良いのか分からず、私は泣きたいような情けない心持になった。 しかしそうして私が途惑っているうちに、男はやたらと手馴れた風情で、私の身体を探ってくる。 唇が合わせられ、温かく柔らかい舌を含まされる。 私の舌はそれを口中に含んだまま、動くことが出来ない。そろりと内側から頬を舐められぞくりと身体に走るのは、
――駄目だ。 怖い。怖くて堪らない。 感触は身に馴染んでいる。だが、知らない。思い出せない。
「うう・・っ」 恐慌を起こし逃げを打つ身体を押さえつけられる。痩身のどこにこんな力があるのだろうか。私は男の下で虚しくもがいた。 背中から覆い被さられ、両の手が私の胸を弄った。指が乳首を捏ね回している。 その痛みがどこか甘い。つきんと背を走る悦びに私は混乱し泣いて許しを請う。 声にならない。噎び泣くようなうめきは男の手をなおさら酷く動かさせるようで、私は自分の頬へ溢れた涙がつたうのを感じた。 首筋を強く吸われ、仰け反った腰を捕らえられてもう身動きもままならなかった。尻たぶに男の熱い肉隗を感じて私はすくみ上がる。 泣き出すと、止まらなかった。声を噛み殺して泣きながら、私は男の腕にしがみ付いた。 「・・関口君」 男の私を呼ぶ声に私はなにもかも諦め切って快楽に身を委ねた。
中から抜き取られる感触に体が瘧を起こしたように震えた。男が離れていき、私の上から身を起こしてもそれが納まらない。私は身を縮め、まだ私の中で彼のものが息づいているような感触に浅く息を繰り返す。 中が脈打っている。二度も彼の手の中で放出したはずの中心がそろりと頭をもたげかけていて、私は恥ずかしさにほとんど悶死しかけた魚のようにビクビクと体を震わせ続けてしまう。 男は布団から身を起こすと煙草に火をつけて旨そうに煙りを吐く。 「吸うかい」 私は布団にますます引っ込んで首を振った。合わせる顔が無かった。 しばらく、男は無言で私を眺めながら煙を燻らせていたが、ふと、云った。
「関口君、君は――記憶を無くしているのじゃないか」
「あ――」
私は、ようやく、見つけた。どうして忘れていたんだろう・・。 「きょ、――京極堂・・」 言葉は、すんなりと口に出た。 私の遺失物係りは、あっけなく私の忘れ物をひょいと取り出して私に渡してくれたようだ――。
眩暈がした。目を閉じ、私は、浮かんでくる幻影のあの男に向かって、赤面して俯いた。私の遺失物係りは、たいそう呆れた調子で、自分をなくすなんてどうかしていると云った。
「ち、違うよ・・そんなわけない――ただ、なんとなく」
「おや、喋れたじゃないか」 「あ、嗚呼――そうだね、僕は京極堂、――忘れてなんかないさ、ちょっと――そのぅ、喋れなくなってしまっていただけだよ・・」 |