想い出 ――
――在りし日に 君の影かと この手引く、
よるのかいが
私にしては、珍しく、落ち着いていた。いや、安定していた。
それが善いことなのかそうでないのかは、わからないが、兎に角、私は赤面も狼狽も呼吸不全にも陥らず、京極堂の座敷で、そろそろ仕舞ったが良いのではという時期はずれの炬燵の前に腰を下ろしていた。
なんだか、好い匂いがした――春なのである。
外には桜が咲き初めているころであった。温かく、ざわざわとして、ほんとうならば私には少々厄介な――苦手な季節である。
いや、なぜ、私はいままで春が苦手などと、否、厭などと――
――これほど、うららかで好い季節もなかろうに
ところで、京極堂の主はと言えば、私の向いに端座して、季節なぞお構いなしの仏頂面で本を読んでいる。
――それを見ると、私はまたなんとなく微笑みが上るのを覚えた。
兆した不安が、また限りない安堵感に変っていく。
「関口君」
強い調子で呼ばれた。
「な、んだい? ――云っておくけど、僕は呆けちゃいないぜ。ほら君もこんなに好い陽気なんだから、ちょっとは春を楽しみ給えよ」
「ぽうっと口を開けてにたにたと笑うのが春の愉しみかたかい?酒も飲まずに酔っ払いのありさまとは大概君も器用だね」
私がもごもごと反論を唱えると、京極堂はさらに、春は埃の多い季節だからそんなに口を開けてちゃあ、君、身体に悪いよとか酷いことを捲くし立てた。
「――そろそろ、昼飯にしようか」
とそう主が言った。おもえば、空腹である。いまさら遠慮するまでもない。私はにっこりと頷いて主人の細君の料理の腕前と心映えの良さを褒め称えた。
京極堂は取り合ってくれもせずひょいと立って、重箱を並べ、茶を煎れた。それから、なぜだか私ははっきりとしなくなった。不明である。いまいましい気分がもやもやと立ちこめて、しばらく胸が痛かった。それは、思うにこの昼飯が巻き起こしているようだ。何の変哲もない美味なちらし寿しである。
「ああ。そうか」
「なんだい、関口君。君もにこにこしたり、鬱々したり忙しいね。おおかた厭なことでも思い返しているんだろう」
――私はそういう京極堂の顔を見詰めた。ぐるりと回るような不安定な感覚に、通常どおりの憎まれ口を叩く京極堂が座っていた。私は、急に食欲が失せた。それでも、あらかた食べてしまって、ごろりと横になると、そのまま目を閉じた。――アア、嫌だ。
――厭な思い出。
母は強く私の腕を引くのである。私はほんの幼児だった。強く強く腕を引くのだ。私はどうしても気が進まず、のろのろと歩いてしまう。着なれない服が身体に重苦しかった。はじめて行く小学校というところが、私にはただ恐ろしかった。
大きな建物である。こんなに大きな建物は小さな私の中では、近所の寺程度しかなかった。寺よりもなお大きくもっとなにかを威圧していて、私はその門を越えてその木造校舎を目にしたところで立ち竦んでしまった。
母は不意に手を放した。
いや……それが、母だったのか、本当は定かでない。私の母は教師の職についていた女性で、こういうときは、母でなく私には祖母が連れ添ったはずだった。あの厳しいひとが、自らの仕事を休んで子供を連れるなぞ考え難い。
私は途方にくれた。それくらい恐ろしかったのだ。いままでその手から逃げたくてたまらなかったはずの手を、それでも必死に求めた。とは逆に、いまこそ、ひとりでしつかりとしなくては、とも思うのだ。
叱られるのはわかっていた。いつでも私は叱られるのだ。もう、泣いてしまいそうだったし、そうすれば、あの厳格なひとは、いつでも冷静で静かな声音をいっそう低めて私を諭すだろう。それは身が竦むほど幼い私には堪えた。
はっと気がつくとぼんやりとしていた私の周りから大勢いた私と同じ程の子供たちが潮を引くように消えていた。広い、桜が散るばかりの校庭に取り残されているとひくくやさしい声音が、きみ、とわたしに呼びかけた。ぼんやりしてちゃあ、だめじゃないか。
おいで。
そっと手が暖かい感触に包まれる。黒い服のたもとからにゅっと伸びた骨ばった痩せた指。安堵にか泣きたくなった。ひしとその手を握って、私は下を向いた。おやおや、きみはまったく…しようがないね、……――君。
どうして私の名前を知っているのか。
きっとこの「おじさん」は僕の…僕の**なのだ。僕の……。とても懐かしかった。私はその手をぎゅうっと握って歩き出した。「駄目だよ。……――君、関口君。僕はそこまではいっしょに行けないから」彼はすっと私にかがみこむと、私の頬を手のひらに包みこんだ。私は必死に下を向きつづけた。顔を上げてこのひとを確かめたいと切望したがそれはどうしてもできなかったのだ。
――おまじないだよ。
ざあっと桜が風に騒いだ。頬に花びらが触れたような――それは温かく乾いていた。私の耳元で男はくすりと笑いを響かせた。
*
まどろみを、耳元を掠めるくすぐったい感触に破られた。「な、なっ……」すぐには声が出ない。
「なにしてるんだ、京極堂」
「いいや、まあ、……ほら、このまま君がずっと寝ていちゃあ困るからね……」
京極堂の骨ばった手は私の耳朶を弄ったまま離さない。私の頬は赤らんだ。――あんなことを思い出してしまったのは、その行為のためだったらしい。うろたえる私にもう一度京極堂が口付けた。
身体が引き起こされる。私の身体は脱力しきっていて、京極度の腕の中へ引っ張られるまま抱え上げられた。着物の襟が引っ張られてはだける。合わせから這いこんだ手が、私の胸をするりと撫でる。
京極堂の細く骨ばった指が、尖りを探り当てて弄る。私は眉をひそめてそのむず痒さを噛み殺し、身をよじった。
「き、きょうごく……」
肩に着物をすべり落とされる。私は抗うことになど慣れていないから、どう抵抗すべきか困り果てているうちに、すっかり裸に剥かれてしまった。あせりが募る。そろそろ、私たちの妻たちが帰ってくるのではないかと、それをこの男が心得ていないはずはないのにと、そんな言葉が口から零れるはじから、京極堂の唇で塞ぎとめられる。
「心配要らない。どんなに早くとも、もう何時間かはかかるよ。…それに、帰るときに電話をするよう言ってあるんだ」
「で、でも、さ……ちょっ、と、いくらなんでもだよ、き、きみ……」
うららかな春の昼下がりである。座敷は障子から暖かい陽光が射し込んで、あかるい。
おし伏せられて目の前が暗く翳った。京極堂の身体の陰が私に落ちていた。
「外でないだけ、ましというものだろう、関口君」
嘲いを含んだ声でささやきながら、京極堂が私をまさぐって来る。
なにを言われているのか、最初、わからなかったが、――不意に思い出した。「ア……」
――恥ずかしい思い出
私たちに関係が出来て、の最初の春だった。私たちは外で、息を潜めていた。校舎裏の、桜の木の陰で、やはり私は京極堂の身体が作る影の下でもがいていた。
「覚えてるかい? ――覚えているようだね」
きゅっと抱き寄せられながら耳元に意地悪く囁かれる。身を竦めた。思いだしていた。
京極堂――もちろんそのときは中善寺だが、京極堂はほとんど衣服を乱さずに、私だけが制服の前をはだけられ、ズボンを落とすという羞恥の極みの格好だった。立ったまま、背中を太い幹に押し付けられて、剥き出しの部分を舐められた。
「新学期の式典の最中だ。君が式に出られないといって僕が付き合ったんだぜ。がたがた震えて、君は――抱いてくれ、と云ったのだよ」
――抱いてくれ、中禅寺、ちゅ、うぜんじ……た、のむよ、中禅寺……。
若き日の京極堂は、中禅寺は、じっと私を見ていた。そして、私の衣服を乱暴にはだけると、そこをくまなく抱いてくれた。甘い痛みにあがる悲鳴をこらえて、私は桜の太い幹にすがった。まだ、慣れていない部分が強引に後ろから割り広げられ、彼の侵入にきしみを上げるようだった。
――あっあ、は、あっ
――関口君。駄目だよ。
咎められても私の声はとまらなかった。痛みと、なんだかせりあがる大きなものに押し出されるようにして、獣じみた声が上がってしまう。
――駄目だといってるだろう。関口君。
私の口を後ろから中禅寺の手が覆った。息苦しい。声がくぐもる。その指を口に食みながら、強く突き上げられた。馴染んだ彼の形に、すでに性器として機能するあさましい尻の孔が、ひくつく。
強く噛んだ指から、血の味が私の口中に広がっていた。
――おまじないだよ。関口君。
そのときも、終わりにそういって彼は私に口付けたのだった…気がする。
「おまじないって、なんのことだったんだ、……」
ぐったりと重い身体を横たえながら、私は呟いた。残滓はぬぐわれていたが、どうにも拭い切れないなにかがあるような感じだった。
それはけして不快ではなかったが。
京極堂は半身をおこして煙草を吸っていた。私の問いになんのことだと目顔で問い返す。少々恥ずかしかったが、学生時代の、彼が私に口付けとともにそう云ったことと、私が幼いころに、そんなことをしてもらった記憶があるのだと説明をした。
「君ね、そりゃあ、後付けの過去ってもんじゃないか」
「後付けって、……まあ確かに本当なのかはあやふやな記憶なんだけどね…」
「違うよ。君は、現在の僕と関係があるから、その過去を作っているんだ。云ったろう、弁慶も酒天童子も、異常な出産で生まれるんじゃない。傑物となったとき、その異常な生い立ちが遡って発生する。それは、そうだけどね。自分で自分の過去を改竄するのは君くらいなものだぜ」
「うん……、そうかもしれない、」
私はそっと目を閉じた。おかげで、桜の匂いがもう不安を誘うものではなかった。いいのだ。あの時、確かに京極堂は不安な子供の私の頬に触れたのだ。
「良くない。君はまったく…仕方のない人間だな」
「いいんだ。僕の記憶なんだ、改竄しようと過去をいま作っているんだろうと勝手にさせてもらうよ」
もう、私は目を開けなかった。心地よく眠りが誘う。頬を手で包まれた。温かい口付けの感触がした。
「――おまじない、ね。云っとくが、こんなことをしたのは、学生時代の、その、一時だぜ。まったく君はくだらないことは覚えてるんだ。恥ずかしくはないのかい、まったく」
春は穏やかで、暖かく、風はやや強く心ざわめくが、そう、さほど悪いものでもない。