幻想絵画
byヨルノ カイガ
絵や芸術品を愛好するある種の人間たちの、関口も一応端くれである。これが、金持ちや身分由緒ある生まれでもあればともかく、関口のような、貧相で、みるからに庶民的な…そんな男にはまるで美など似つかわしくはない。
……しかし、関口は、それに心惹かれる、確かにその類の人間だった。絵や芸術品を愛好するものとは、だいたい、ほかのものとは変わっているのだ。教養や貧富や、そんなものの有無ではなく、美に惹かれるとだけのしょうのない病的な生き物である。
――それは、古くからの関口の友人、絵師であり、美貌の主でもあり、今は貧乏暮らしだが、生まれと教養は非常に高い、榎木津礼次郎という男のこともあったかもしれない。
関口は自分でも作品をコツコツと書いてはいた。小説である。非常に内面的で、張り詰めた狭い世界を構築する。まだ、誰の目にも触れたことはないものである。また、見せる気もないものだ。
関口は鬱だ。若いころはずいぶん悪化してそれに悩まされたものだが、いまはほどほどにまともな社会生活を営んでいる。
絵師の榎木津の家は関口の自宅と離れている。電車で何駅かかかり、そのうえ駅からは長く傾斜もある坂をえんえんと登らねばならない。それでも、関口は榎木津宅を頻繁に訪れた。
この画家は変わり者だ。戦後の大小のコンクールに幾度も入賞しておきながら、一番に画家先生と呼ぶと怒る。今は絵師のつもりである。彼は自らに冠せられる呼称を自分で決めずにはおけないらしい。学生時代には帝王と称し、その後は神だ!といっていた。まわりもなぜかそれにしたがってしまうのだ。
風景や、女性の絵など描かせると、それは素晴らしい美しいものを描く。だが、ある日「飽きたぞ」と漏らしたなり、まともな作品は書かなくなった。いまは、いくらにもならぬのに、カストリ誌のいかがわしい挿絵を書いて生活をしている。
関口はその榎木津の広い自宅を目指して、狭く、建物自体が薄汚れた自宅を出た。
*
鮮やかな紺地の上等の着物を着流しに身にまとい、榎木津は壁にもたれていた。遠目からすれば、だらしないものだが、彼はなによりその美貌がある。どんな姿勢でどんな格好だろうとまず、見苦しくなることがない。
立膝をついた足は、紺のすそからこぼれ、ぬっと白く突き出ている。彼ほどの美貌の男が取るには目に毒というものであった。
それから目をそむけもせず、女は姿勢良く座わっていた。三十路はとうに過ぎているだろうが、仇っぽい艶のある年増だ。
「ひき受けて、頂けましょうか」
ぽつりと、そう言う。榎木津は、ようやく目を開けた。その瞳も色素が薄い。琥珀のようだ。
彼は、壁にはもたれたままの投げやりな姿で、顎をしゃくった。
女は、今一度、膝元に置かれた布包みを開く。明かりを落とし、締め切って密談するのもむべなるかなというもので、布包みの中には、札束の塊が無造作に積まれていた。
「そっちじゃない。そっちだよ。そのうしろのほう……モトをあんたが持ってなきゃ、お話にならない」
「……お引き受け頂けるのであれば、御目にかけましょう」
女は微笑した。榎木津の徒な姿を流し目で舐めるように見た。驚きはしたものらしい。
「見たい、見たいぞ……だが、見なけりゃ、出来るも出来ないも解らないんだよ、僕が描くのは贋作じゃあない。真作だ!その作家の描くべき、描かれなかった真作だ……見せてみろッ」
「わかりました……御見せいたします」
女はそれ以上四の五の言わず、大きな風呂敷を解いた。洋画の技術が取り入れられて久しいこのご時世に頑なに浮世絵の技法と、そして、一途に自らのエロティシズムを追った、死して後、評価の高まるばかりの責め絵師の真作がそこにあった。現在のカストリ誌の表紙絵はだいたいこの画家の影響下だった。
「晴雨……」
「まことの、真作でございますわ。おわかり…でしょう」
榎木津は絵から目をそらせずに、うなった。
「お願いしたいのは…この絵の、完成です…彼は、責め絵を連作で描いた。これは、最初の一枚」
「続きは!この続きは、あるんだなッ」
「あります。ただし……それは貴方次第なのでございます……」
無言で女は、和紙を束に閉じこんだものを開いた。明らかにまだ下書きの段階である書きなぐったような縛られた女の絵が続く。
「完成して…おりません……。彼はその前に。これは、彼の最後の作となってしまったもの…。そしてこれが完成していないことは、世間の知らぬこと。わたくしは、彼にこれを完成させたいのです」
「引き受けたッ」
一言で応えると、榎木津は憑かれた動きで、そのスケッチをめくった。すさまじい勢いで貪るようにその絵を見た。
女は立ち上がった。期限は三月ばかりだと念を押した。そのときにかれの目録の開示があり、それまでに遺作を差し出せねば、彼の描いたものとは認められぬのだという。
榎木津はただ、頷き、もう用はないとばかり、女に顎をしゃくり出ていけと身振りした。
一人になり、絵から目を離すと、ようやく、榎木津はいつもの、快活そのもののような顔を取り戻し、困ったように天井を振り仰いだ。
「催しちゃったぞ!…うん、そうだな、我慢は身体に良くない」
*
関口は既に玄関当たりで呆然とし、恐る恐る、呼びかけたものの、ひき返そうとした。
蓄音機からは、悩ましげな歌声が響き、それに合わせて、女の口ずさむなまめいたかすれ声が混じる。
あかるい笑い声も響き、嬌声がたえない。
「あらッ!」
緋色の襦袢一枚の女が、居間から顔をのぞかせ、そう声を上げた。関口は手振りで、辞去の意をあらわしたつもりだったが、女はにこっと笑うと、奥へ呼びかけ、榎木津に来客を伝えてしまった。
「いやあ!関君!」
たいそう愛想良く主に出向えられた。
「え、エノさん…。こりゃあいったい、何の騒ぎだい。カフェーでもここで開店さす気かい?」
というより、これじゃあ女郎屋だ。
右にも左にも、べったりと化粧した肌もあらわな女性にしなだれかかられて、榎木津は酒を飲んでいる。
「ふふふ。たまにはいいだろう。あそんでいるんだよ。君も、良ければ、遊んでいけッ、そら、どの娘でもいいし、恥ずかしいなら布団はあっちにもあるよ」
右の女を引き倒し榎木津は彼女の口を塞ぎながら、関口を見た。
関口は赤面し困っている。「い、いやだよ、ちょっとエノさん…!」
「なんだ?関は、華も愛でられないのか?しょうがないなあ、よし、みんなで遊ぶか」
榎木津は、さっさと接吻から、行為にまで至ろうとしていたのだが、関口の狼狽ぶりにあきれたらしい。
……それに女たちをここへ呼んでからすでに時はたっている。絵を見てついた火はとうに解消していた。
関口は、堅物と言うのではないが、こう言ったことには不得手である。
このまま放り出すと、また面倒な精神状態になりかねない。友人のそうした所を良く心得ている榎木津は、さりげなく身繕いを終えて、どんちゃん騒ぎをはじめた。
*
榎木津から注がれると呑むまで腕から放してもらえないし、それで言われるがままに酒を呑む関口を女たちが面白がって、さんざんに呑まされた。自分では杯も口元へ運べなくなった関口に、女が口移しに酒を飲ませようとするのだから、始末に追えない。
顔をそむけ、ままならない身体で、紅と酒の味のする接吻からじたばたと這って逃れる関口を、がっしと捕まえて、ずるずると引き戻す腕があった。
「ひゃっ」
半ば身体を抱え上げられる。小柄で貧相な体つきでも、関口は成人男性である。それをやすやすと片手で引きずるのだ。見た目もなにも優男でありながら、榎木津は滅法力が強い。
「エノさん!なにするんですかっ」
「関、いいから、ほら、もっとのむんだよ…」
榎木津の唇は赤かった。移った紅か、それとも、酒のせいか。頬は青いほど白く、滑らかで、関口はその榎木津の人形のような美貌に思わず息を呑んだ。
酒を飲み込まされた後で、ようやくその身体を押しのけ、それと同時に関口の酒量は限界をこえたのか、ふっと意識が遠くなった。