幻想絵画

                        byヨルノ カイガ


 

 榎木津の専門は洋画である。一時期は、単身、欧羅巴にまでわたったこともある。それが、やはり浮世絵の色彩に魅せられて、最近では和風とも洋風ともつかぬ題材と技法になっている。

 純粋な日本画を描くのは、久方ぶりの事となる。

 

 和紙は繊細だ。布張りのカンバスと違い、脆く細やかで、一筆が取り返しのつかぬ一筆となる。

 緊張感が快かった。

 思うがまま大胆に、計算もなにもせずに描く油彩を描くのとはまったく違うのだ。自由で、享楽的ともいえる油彩の愉しみとは真反対に、厳密で、苦行とも言えるほど、一筋の線が絵を殺し、生かす。

 ゆっくりと作家の下書きを思い描きながら、その思考過程と、心情をなぞる。この女への苦しいまでの愛しさと…、相反する、もどかしい憎しみ。

 この画家はあまり、名を公に口にされることがなかった。同時期に作家であり、またこの同じ女を題材にした絵を描いたものの、「夢二の女」としてのほうが、名は高い。

 榎木津は昨晩買い集めた女たちは、一晩の約束どおり、夜が明けるとそうそうに去った。酔いを残すものはさすがにいない。

 関口は、引いてやったかれ用の布団で寝苦しそうに眠ったまま起きてこない。

 榎木津はかまわず顔料を溶き、絵に没頭した。

 いつ、関口が二日酔いの身体を押して、帰ったのかもわからなかった。関口は、榎木津の書いている彼にしては珍しい絵に興味を引かれたようだったのだが、榎木津は邪険に応えなかった。

「……じゃ、お世話様。…また、来ても、いいかい」

「ああ……うん、しばらく後にね」

「……うん、有難う」

常にない榎木津の上の空な応対に少々関口は傷ついたような弱弱しい笑いを浮かべた。その顔になにか、ちりりとした引っ掛かりを感じながらも、榎木津はまだ、紙の上の女に夢中だった。

 

 

                    *

 

 二日酔はまだ残っていたが、重い身体を引きずるようにして、関口は榎木津宅を出た。湯を使わせてもらったせいで、身体はさっぱりとしていたが、気分は優れない。これから仕事に行かねばならないのが憂鬱だった。

 愚図愚図としていたせいで、いったん家に帰る時間もない。客商売なのだから、身奇麗にして置けとは常々言われるのだが、関口は、ついどうでも良いと思うことが多かった。折角得た職だが、さほど執着しているのでもない。

 それでも、髪に櫛を通し、よれよれのシャツの上にベストと蝶ネクタイを結ぶ。

 ここで職を得られているのは、榎木津のおかげだ。榎木津は関口にとって学校の一つ先輩に当たる。学生時代からの付き合いで、榎木津が画家として一応の成功を収めるまで、榎木津もあのとおりまっとうな職ではとても勤まらないから、こう言ったバーで弾き語りなどをしていたのだ。関口も、わりに楽器は扱えて、榎木津がいたころはともにそんなことをしていた。

 そのときの馴染みの店で、もう曲を弾いたりすることはないが、バーテンとして雇ってもらえているのだ。関口がどんなに拙い客あしらいでも、常連が多く、たまに榎木津がくると、関口と一緒に演奏したりしてくれるものだから、なんとか多めに見てもらっているのである。

 話しかけても口篭もったり、些細なことで動転する関口を常連の友人と言うか榎木津の仲間に庇われる、というのがパターンである。

 オーナーは店の二階に寝泊りしていて、関口が出ていくと、客の少ない…そして関口の面倒を見られる常連の誰かがいるときには、店を空けて、二階へ引っ込む。今日は、出てきた関口があからさまに二日酔だったせいだろう、コーヒーを淹れてくれたうえ、関口がそれを飲み終わると、「じゃあ、頼むね」といつもと変わらない調子でちょいと頭を下げると、ゆっくりと上にあがった。関口も頭を下げ、カウンターのなかに入る。

「よう。誰に呑まされたんだい」

ああ…、旦那が来ていたのか…、――いまさらになって気が付き、関口は微笑った。

「あの馬鹿か。奴ァ元気にしてんのか?」

「なんだい、旦那、会ってないのか。榎さんは、そりゃあ、その、…元気だったよ」

 なんとなく決まり悪げに、関口は頬を染めた。木場は、関口の赤くなった顔を見て、敏感に察し、

「なんだよ、女でも呼んで騒いだか。しょうがねえ」

関口はあいまいに頷く。木場は、いかつい様子をして、話し方もらしく雑だが、その実、細やかな男でもある。旦那というあだ名は、木場の職業が刑事だからだった。横暴な官憲を演じているようでいて、実際には、話のわかる情に厚い好い男なのだ。榎木津とは幼馴染でもある。

昨晩の様子を聞くと、木場は顔を曇らせた。

「そりゃあ、ずいぶん派手にやったな。またあいつは危ない橋でも渡ってやがるのか」

「ち、違うよ。絵を、描いてるみたいだった。その、前渡しのお金じゃないかな」

「まぁあいつのことだ、ドジはふまないだろうし、それほど悪い事をするようなやつじゃねぇってことも解ってるけどな……厄介ごとに手ぇつっこまねぇように…なんていっても聞くような野郎じゃないしなあ」

心配しきりの旦那に、関口はくすくすと笑った。いつもは、ボトルを手酌でやる木場に、それなりに様にはなってきたしぐさでウイスキーを水割りにして出す。

 馴染みの客が、そろそろ顔を出して来始めた。注文を聞き、飲み物を作るのに関口が追われ出す。

 いつもどおりにそうして仕事に追われ、なじんだ空気のうちにあるままに、関口は、榎木津のことをつかの間忘れ、重い気分を忘れた。

 どうせ、週末までは、あまり自由になる時間がない。関口がこの店に出るのは一日置きだが、それでは食べていけぬから、別口の仕事もしている。今週は他の仕事があって関口にしては忙しい。今週末にでも、また訪ねよう…そう心に決めてしまうと関口はそれきり、榎木津の少々妙だったことなど本当に忘れてしまった。

 

                       *

 

         

 あの絵は、いったいなんだったのだろう……私の脳裏にちりちりとした引き攣れを起こす。

 目が放せなかったんだ……。

 痺れるような痛みがじわじわと蝕んだ。

 あさましく、喉をならし、あふれる唾液を飲み下した。

 手が痛かった。気がつくと、私の身体には紐が絡み付き、ぎりぎりと締め付けられていた。喉にするりと、つめたい絹のようなしなやかな手触りが巻きついた。

 するりとした心地よいスカーフのような感触は、私の首にぐるりと巻きつくなり、ぴったりと張り付き、たちまちのうちに強く呼吸を阻んだ。

 

 

 ああ……私は、目を閉じ、目眩をこらえた。

 厭なゆめを見た。自らの、被虐の心がなによりいとわしい…・。

 

 

                        *

 

 再び榎木津を、あの女が訪れたとき、女は少女の手を引いていた。口の聞けぬ娘のようだった。うつむいたその白い顔を榎木津は人形のような顔で見ていた。

「……お気に入りませぬでしょうか」

 黙ったままの榎木津にたいそう女は気がもめるようで、初めて声を震わせた。少女と女は母娘のように似ていた。絵の女とも良く似ていた。

 榎木津は黙ったまま、じっと見つめる。半眼になった目つきが、美しい菩薩の像のようだ。

「お脱ぎなさい」

女は鬼のような顔つきで少女をせきたてた。オシの娘はひらひらと服を脱いだ。絵の女と体つきは良く似ていた。

「置いてゆきます。言葉は不自由ですが、身のまわりのこともひととおりは。なんでもいいつけてやってくださいな」

 白い裸身から目をそらすようにして、一息にいい終えると女はきびすを返した。