『・・僕たちは恋してく。』
どこがそれほど、自分の感情を動かしたのか解らない。ただじんわりとせつなく哀しくなったのは事実だ。三十路も過ぎて恥ずかしいとは思うのだが、どうも自分はこの年代の男性にしては涙腺がゆるいらしい。こんなマンガに・・、なぞとなかば自嘲的に思ってみるが、マンガでも本でも映画でも、その重さに関わりなどないと思う。――まあ、ええわ、とアリスは思う。自分は曲がりなりにも小説家で、そうそう、これはその職業病とも云える繊細さのなせるわざということで。
ぐすん、と涙を拭って、恋愛ってなんかなあ、とか。あったらあったで、すぐ、憎しみやら嫉妬やらいろんなわけわからんもんにも変りやすいくせに、こんなに脆い感情もない、と思うのに、・・・結局のところ、とかイロイロイロイロ思いかけてアリスは目を上げたところでしまった、と思った。
ちょっと戸惑いぎみに、なんともいえぬ表情でこちらを見ている助教授の顔がそこにはあった。
しまった、そうかここはセンセイの部屋やったか、と今更に思い起こしてアリスはへら、と笑いを作った。ウーム、同い年のしかもこの男にマンガを読んで涙ぐむ姿は見られたくなかったかもしれない。
しかし、これはしょうがない。ここはからかいの言葉をこの大阪専門用語でいうところの、アイカタのツッコミが思い付く前に実力行使でうやむやに、とちょうどころあいの場所にあったことも手伝ってキスで塞いだ。
火村にしてみれば、涙ぐんでいたかと思ったアリスがふわっと笑うなりいきなり唇を重ねてきたわけで、反射的に拒むいわれのないその快い感触を受け入れて応じながらも、内心動揺したに違いない。もちろんそんなことを表情に載せるような可愛らしさは持ち合わせていない男であるのだけれども。
「どうしたんだよ・・?」
キスの合間に、囁くように尋ねて、返礼はきっちりと、三倍くらい濃厚なそれで返される。
「うあ・・火村」
と、それはアリスの抵抗であえなく止められてしまった。
「ん?なんだってんだ」
「きッみ、沁みるわ!くち、いったぁ・・なんやねんそれ」
アリスの目前で火村の指が自分の唇をたどる。疑問符を浮かべていたが、思い当たることがあったのか、ああ、とうなずいた。
「メンタムのヤツだからな、俺のリップ」
「はあっ・・!」
アリスの荒れた唇はぴりぴりした痛みを訴えていた。たしかにメンソレータムのピリピリ感ではある。
「きみ、リップなんかしてるのか」
「・・・、必需品だぜ?」
口をあけるアリスの前で火村は、冷たい風にさらされないですむ自由業者と違ってこっちは憐れな通勤勤務なんでな、とさらっと抜かした。
「はあ・・驚いたわ。おれ、リップなんか生まれてこの方したことあらへん」
「まあ、な。そういやオマエ、冬は唇荒れてるもんな」
意味ありげに笑う火村をアリスは礼儀正しく無視した。
「ま、俺だって必要にかられて、だけどな。荒れた唇で長時間しゃべると流血沙汰だ。講義どころじゃない」
どんなんつこうてるんや、と尋ねたアリスに火村は自分のポケットからソレを取り出してつけて見せた。女性が口紅を塗る動作とまったく同じなわけで、ソレは多少アリスの鼓動を意味もなく波立てる。
――火村の顔立ちは整っている。なんというか色男がそう云うことをしているさまというのは奇妙にいろっぽいものだ。まあ特にアリスにしてみれば、自分とただならない関係の火村、という点があるわけなのだが。
「・・・塗ってやろうか?」
アリスの頤を指で持ち上げてきれいな口唇をした男は片目を瞑った。
「い、いらん」
「そう云うなよ」
アリスの唇は暖かい感触で被われた。きゅっと啄ばまれて、火村の唇移しに、メンソールのピリピリ感がアリスの唇にのる。
治療効果の有無はともかく、キスには邪魔なようである。