……スタンバイ              byよるの かいが

 

……もう格好になぞかまう時間はなかったし、正直思いつきもしなかったのだが、なかなか人前に出るにはすごい格好だった。髪の毛はぼさぼさ、目は血走っている。限界まで書きつづけ、時折ベッドに倒れこんで仮眠をとり、またすぐさま机に向かうという生活だったので、パジャマ姿のままだ。
 いつも頼むバイク便が、たまたま今日に限って女性だったのだ。原稿を渡してほっとするとさすがに常識がアリスの中によみがえって、はあ、とため息を付きたくなる。
「ま、バイク便頼むようなんはみんな俺みたいなもんやろ」
 バイク便を頼むような作家は、だろうが、そう思い自分を慰めて、とにかく風呂にでも浸かって……と思っていると電話が鳴った。
「なんや、君か。うん、終わったで。予定通りでええよ」
火村からの電話に瞬間的にアリスの顔は紅潮する。…電話でよかった、とアリスは頭のすみで考える。
『―――……』
「ねむいんや。あったときでええやろ、じゃ、切る」
火村との予定は翌日の夕方だった。本当はその次の日くらいまでゆっくりしたいところだが、終わったらすぐ会うと言う約束なので仕方ない。前もって約束されているところが、今までとの関係の変化を示されているようで気恥ずかしい。
アリスの顔の赤みはなかなかひかなかった。唐突に友達以上になってしまってからまだ時間がたっていない。まだ、数えるほどしかそういう夜を過ごしてはいないのだ。
また、電話が鳴った。
『――ひとつ、きかせろよ』
「なんや、もう寝るいうてるやろ」
 声まで震えそうだ。なにを聞かれるのかアリスには分かっている。
『……泊まってもいいのか?』
「予定通りでええいうてるやろ」
 それだけいうと、アリスは急いで通話を切った。そして、寝室に行き、ベッドに飛びこむと、ごちゃごちゃと頭をよぎるハズカシイことを締め出して眠った。
 

 アリスが長い眠りから起きると、日はもう陰りかけていた。
「布団干そう思うてたのになあ」
つぶやいて、うっとアリスは赤面した。…なにも、準備しとるわけやない、仕事明けには、布団はいつも干すやんか!
 だが日は陰っている。
しゃあない、シーツだけ、……いつもしてることや!
となんだかどうしても自分のやっていることが『仕度』めいているような気がして、つい内心で突っ込んでしまうアリスだった。
 その方向に思考が向いてしまっているせいなのか。
 アリスはあれこれ考えずにいられない。
「風呂、風呂、入っとらんやん、自分…」
しかも何日入ってないんだ? だから入るしかないが。あと数時間で火村が来るというときに、なんで風呂に入らなあかんねん!とどうしても思ってしまうアリスではある。
 そんなことはさておき風呂は気持ちいい。一週間近い苦行でバリバリと固まった筋肉がほぐれるようだ。
ゆっくりと湯船に浸かり、首を回すとごきごきと音がする。んーっ、と手を伸ばすと肩までこきっと音を立てる。
「うわ、ほんまに固まっとるわ」
 椅子に座りワープロに向かった姿勢で、筋肉が硬直しているような気がする。浴槽の中で脚を伸ばすとひざまで音を立てた。
「……ちょお、まてや!」
なにを考えたのかアリスはやや青醒めて、そう叫んだ。ある心配ごとがアリスの脳裏をよぎり……。
アリスはゆっくりとお風呂に浸かった。あがると、むすっとした顔のまま、ある動作をし続けた。

 

「……なにしてんだ、アリス」
「な、何でもない、なんでもないんや」
 火村は声をかけて入ってきたのだが、それに夢中になっていたアリスはまったく気が付かなかった。
 火村はしばらくアリスが屈伸をして、開脚屈伸をして、アキレス腱を伸ばし、1、2、3とラジオ体操か、体育の準備運動のように身体を動かすのを見ていたのだ。
「準備運動か?」
 もくもくと、真剣に準備運動するアリスの行動はかなり不可解なものだった。しかも火村の言葉に慌てすぎている。
「き、君はなにをいうんや!」
「はあ?おまえ訳わかんねえぞ」
 アリスはさらに赤面した。
「べ、べつに意味ない!…ただ最近運動不足やったからな、それだけや」
「……なんだ、夜まで待てば俺と楽しい運動ができるのに」
「あほいうなや!いきなりしたら脚おかしなるねん!」
逆上して叫んでしまったアリスは、火村の表情の変化にすぐさま自分の失言に気が付いたが、あとの祭りというものだ。
「……準備運動なんだな、アリス」
困惑気味の顔から、にやりとした笑顔に変わった火村がゆっくりという。そのいやみったらしいにやけ顔にアリスはますます逆上して失言を重ねた。
「だいたい!君がひとの脚ぐいぐい開くからいかんのや!もう筋肉痛でごっつ痛いんや!男の脚はそないひらくようになっとらんのやで」
「だから、準備しておいてくれたんだろ。――期待には応えないとな」
 

その夜火村がどう期待に応えたかはご想像のとおりだ。
 ……準備運動しといてよかった、とアリスが思ったかどうかは分からないが。