世紀末の魔術師 よるの かいが
――彼は夜空を滑空していた。
空も地も海も分かてぬほどの暗闇だった。チューブからひねり出したばかりのブラックを一面に塗りたくったような黒いキャンバス。そのうえに、白い翼が残像を光の尾のように引く。
眠らないはずの都市大阪が目を瞑らされてから、30分ほど――ポツリポツリとあちこちで非常用の灯りが灯り、――やがていっせいに安っぽい光を取り戻した。
今夜の魔術の唐突な終わりを、告げられたかのように。
*
赤い光点――それは強烈な視線として認識された。とっさに顔を逸らし――、しかしモノクルの端をかすめただけのそれでも、銃弾の衝撃はすさまじかった。
低空を飛んでいたとはいえ、地上の離れた場所からの狙撃だ。勢いは半ばそがれている。だがそれでも、白い魔術師から暗黒を切り裂くべき翼を失わせるには十分だった。
とっさに安全装置のしかけを引っ張るのがせいっぱいで……、あとは、街が明かりを取り戻したのと反対に、今度は彼の意識が暗黒に呑まれていった。
若くしなやかな姿態は、するすると地に向かって落ちて行く。モノクルによって隠されていた素顔が無防備にさらされていた。
***
服部は、空をふり仰いだ。
―――足はしきりに痛みを訴えている。跳ね飛ばされた瞬間、受身を取ることも忘れ、小さな身体をかばった。衝撃に身体が浮いたとき、服部の頭を占めたのは背にしがみついた小さな彼のことだけだった。
(工藤っ)
頭を打ち付けたせいで霞みかける視界で、必死に彼の姿を探す。――「はっとり…」
その無事を確かめ、ようやく服部の頭にまともな思考力が戻る。と同時に右足に強い痛みがあるのもわかった。
自分は追いかけられない。
夜空を翔ける怪盗の白い影を追って、小さなコナンの姿が駆けていくのを見送り、服部は立ちあがったのだった。
そして、空を仰いだ。もうコナンの姿はとうに見えないほど遠ざかっていた。立ちあがるのにそれほどの時間がかかったわけではないのだが。どちらにしろこのケガでは歩くのが精一杯で、彼らを追うことは出来そうも無かった。
自分をかばい、ケガをしている服部を置いて、追って行ったコナンが一瞬自分を見た視線がちらりと頭のすみをよぎる。「すまん、工藤」小さな彼の身体を気遣うあまりぽかをしたのは服部であって、工藤の、コナンのせいではない。いや、工藤がコナンの身体をしていなくたって、やっぱり自分は『失敗』をするだろうと思う。それは工藤の責任ではなくて、こんなときにも私情を挟む服部のせいだ。といっても、この私情を忘れるつもりはどんな場合だって、服部には無かったが。服部の思いがわからない工藤新一がその持ち前の誇り高さで、……あの瞬間済まなそうな、それでいて傷ついたような表情をしたのが、足の痛みよりも服部にはつらかった。
事故の喧騒を離れ、服部は目を凝らした。痛みをこらえ、白く大きな翼を広げ滑空する怪盗の姿を睨み付ける。
――不意に、ぐらりと、その力強かった羽ばたきがよろめいた。はっとする。
なにか光るものがその真下へと落ち、もう一つ黒っぽいパラシュートのようなものがふわっと浮かび上がった。
――そして、白い翼をまとった人影はバランスを崩しながら、着地する場所を探すように下降しつつ飛んで行った。
「どうなっとるんや!? 」
湾岸に沿うこの道路の先にひしめくパトカーの動きがここから見渡せた。高台になっているせいで海岸上の様子がわかりやすい位置なのだ。パトカーは白い影を追って行くようだった。
黒い影は風に流され、この道路のした、海岸線のあたりに落ちて行く。
服部は思わず自らの状態も忘れ駆け出した。道路のガードレールを乗り越え、傾斜を駆け下りて、パラシュートの落ちた辺りへ駆けつけようと必死に足を動かす。
数歩踏み出したとき、服部の身体は崩れた。
今ごろ頭を打った衝撃が訪れたようで、血の気が引き、両足をふんばって耐えようとしたが――右足の痛みに服部は急な斜面を転がり落ちた。
身体が冷たかった。服部は、暗い海のそこであがいている夢を見た。遠くに、冴え冴えとした月を見るように、新一の存在があった。天才だと思う。きれいで、頭が良くって。もう、ライバルというよりは、かけがえの無い、なにか、なのだ。友人でも憧れでもない。あいつがいなきゃ、服部は、世の中おもしろくない、と思う。
目の前にその工藤新一の姿があった。きっちりとタイをしたスーツ姿で。ぴんと姿勢を伸ばし、たたずんでいる。あれ…おまえ、戻れたんか?なら、いいたいことがあったんや、我慢しとったんやで、俺な。
赤い明滅が新一の白い頬に瞬いた。あぶない、と思う。だが声は出なかった。鈍い、発射音。
「―――っ!!」
服部は飛び起きた。額に冷や汗が伝っている。喉がからからだった。ベッドサイドに水差しがおいてあるのを見つけ、疑問に思うより先に飲み干した。
白いベッド。夜の海が見える窓がひとつ。壁には服部の汚れた上着。その反対側は壁ではなく白いカーテンが引かれていて、ここはどうやら病院の二人部屋のうちの片方であると窺える。
服部は、情けない、といいたげに精悍な日焼けした顔をしかめた。うかうあかとあんくらいのけがで気ィ失って病院送りや、とぼやく。
「そうや、なにぼやっとしとんねや、自分っ」
喚いて、ここが病院で在ることを思いだし、慌てて口を塞ぐ。……隣にも誰か寝ているかもしれない、とそっとカーテンを引き、……服部は、息を呑んだ。そのまま呼吸がとまってしまうかと思うほど驚いた。
包帯を頭に巻き、寝息も立てずに昏睡する姿がそこにあった。
それは――工藤新一。高校生の工藤としか思えない少年だったのだ。
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