犀川はいささか居心地悪く、かすかに身をひねった。相手はくすっと笑みをもらした。
犀川は慣れてなく、相手はなれていない人間の相手に慣れている。頬に手を添えられじっと覗きこまれる。
「こわいですか」
「少しね」
犀川は仕方なく答える。
「すぐ慣れます」
……吐息がかかるのが気持ち悪い。相手の濡れた指ばかりが目に入る。
「濡らしておかないと……痛むでしょう」
「あ、……」
「いえ、じっとしておいてください。恐くないですよ。すぐ、慣れますから……入れますよ」
頬に手を添えられ、じっと見つめられて決まり悪かった。
「ああ、入らないかな…乾いてるとね、痛いんですよ」
小さな使いきりの目薬の封を切り、そっと犀川の瞼を開かせる。目薬を人に注されるのは何年ぶりだろうか。つい、雫が垂れてくるのをじっと見てしまい、それが瞳めがけて落ちてくるようすに、反射作用が起こる。
接触するレンズは、犀川の眼に張り付いて、鮮明な視界を涙で塞いだ。
クリア過ぎる視界は、返って不鮮明だった。
違和感だけが拭えない。自分で外し着けても変わらなかった。
そして、やはり購入を諦める旨を伝え、早々に店から逃げ出した。店員はしきりに慣れればなんてことはないと試すよう勧めていたが。
犀川は、別段メガネで困ることも無いのだ。それを外さなくて済めば。
***
「なにを見ているのですか?」と西之園萌絵が言った。
犀川はメガネを外し、それを手にしている。
「見えない」
短く犀川が答える。その眉間には皺が寄った。いや、寄せている。萌絵が微笑んだ。
「いや……見えないことを見てたんだ……うん、視力が落ちててね、メガネを外すと、あまり見えない」
犀川はメガネを外していたことを指摘され、ややうろたえているようだった。意味のないことを口にし、萌絵を見ない。メガネをそでで拭い、そのためにはずしたといいたげに、何気なく顔の上に収めた。
「度が合わなくなったのですか?」
「いや」
とんとんと書類束を手に取り揃える。「なんでもないよ」
「先生?」
不安定な世界、こんな端末の一つを切り替えただけで、何もかもぼやけて、同じようには見えない。いや……観測器が異なれば、当たり前の話だ。それを不安に思う犀川のほうが、おかしい。
不便、だから、ね。当然、こんな視界では、腕時計の文字盤だって見にくい、書棚から本を探すのも絶望的だ。このまま動きまわれば、つまずき転ぶかもしれない。床のタイルも、天井の模様も数えることも出来はしない。
だから、犀川には、メガネが必要……なのだ。標準装備で、取り外しは不可。
そう言ってやろう、とすべてのエラーをクリアしたような清々しさを味わったのだが。
***
「創平」
名前を呼ぶ。ひょいと唇がふさがれて、すぐ離れる。喜多は視力がよい。メガネはかけていない。犀川のメガネを邪魔そうに、キスをする。近づきすぎた対象物に目を閉じ、開く。犀川はたちまちに滲む視界に眉をひそめる。
喜多は犀川から外したメガネを慎重にサイドテーブルに置いた。酷く慎重な手つきは、喜多がメガネのつるを歪ませると犀川が文句を言ったせいだ。
舌が滑りこんでくる。「……、」
それについては、言葉はない。今日は喜多を犀川の部屋へ泊める予定だった。風呂にも入っている。喜多も犀川も寝巻きで、ベッドサイドには喜多のウイスキィと犀川のコーラがある。長い付き合いだ。
喜多の顔が犀川の首筋へ落ちた。犀川は手を伸ばしてメガネをとった。
「……」
喜多がその動きに犀川の顔を見つめる。ひょいとまた喜多の手が伸びてメガネをとりあげ、犀川にキスをした。それには応えながら、喜多の指からメガネを奪う。
「…っ、」
息の乱れを感じながら喜多の顔が離れた隙に、戻す。クリアな視界に、喜多のきょとんとした顔がある。
「創平?」
犀川は片頬で笑い、ベッドに倒れこんだ。強引なくせに繊細なところのある男の心配げな顔を面白がってみる。
ぎし、とベッドが軋む。犀川の両側に手をつき、喜多は覗きこんだ。メガネ越しのクリアなまなざし。ガラスを通したほうが、その瞳が鮮明なのはなぜだろう。きれいなものはすきが無くて、ぞくぞくする。だけど、いつものほうが…いろっぽい。
「いや、なのか」
「いいや。どうして」
「どうしてって! いやじゃないなら、なんだよ!」
「ふぅん……」
「こら、創平」
行ったり来たり。邪魔だろ、外せ、と言う喜多に、邪魔になるならキスはしなきゃいいとこともなげにいう。
……キスはダメだと? それじゃまるで……。
「あ、ばか、喜多……」
乱暴にメガネが取り去られ投げ出される。と同時に口内が熱かった。口移しにウイスキィを注がれたのだ。ごく、と飲み干してからカッと身体が熱くなった。顔をそむけるが追いかけてきて、2口3口と呑みこまされる。
「君は時々短絡思考だ……」
「おまえよりましだろう…キスとメガネとどっちがいいんだよ」
「……、キスよりいいことだって可能だけど」
「…俺とメガネとどっちがいいんだよ!」
「僕とキスとどっちがいいんだ?」
「酔ってるな、創平」
「酔わせたのは……」
喜多は犀川に噛みついた。犀川の腰をまたいで半身を起すと、上着を勢い良く脱ぎ捨てた。喜多は、身体を鍛えている。細身だが、日に焼けてその体つきはたくましい。自分の上で、あらわになる不鮮明な男の上半身から、犀川は顔をそむけて目を閉じた。
*
翌日、犀川は重い身体を引きずって、メガネショップに真っ先に寄った。おかげで、午後まで寝ていられる予定が台無しで、腰のだるさとともに、毎朝恒例の頭の重さを味わう羽目になった。
ついでに、以前に寄った店にもはしごして、少々衝動的にコンタクトも購入した。
タイプが合わないのだろうか。それを装着しているのにも、メガネをはずしているという状態にも違和感がある。イメージの修正が、上手くいかないのだ……。
結局、コンタクトレンズはしまいこんだまま、犀川は頭の痛い半日を過ごした。
帰り間際、犀川宛にメールが届いた。
昨日はすまなかった。
怒ってはいない。
送信を終え、スリープさせ、犀川は立ちあがった。まだ残っているものに挨拶し、部屋を出る。
一日なにも口にしていないため、空腹だったが、面倒さが勝っていた。喜多が来るのは、ちょうどいい。寄り道をせずに部屋に戻れる。
駐車場に車を滑り込ませたとき、8:27分だった。
部屋についたとき、8:35分だった。
喜多は、部屋の入り口で壁にもたれていた。犀川のほうを見た瞳孔がすこし大きくなった。
クリアな喜多の姿に犀川は瞬きをした。
8分かかったのと、喜多が驚いたのと、犀川が目をぱちぱちとやるのはすなわち、車の中で犀川が視力補助器具を接触式レンズに交換したからだ。
「やあ」
「ああ…買ってきた。お詫び。さめないうちに食おう」
「心当たりがないけど」
「それ」
喜多は袋を手にしたまま犀川の顔を指した。「ああ…」犀川は微笑む。ドアを開けて、喜多を先に入れてやった。
「…大丈夫なのか。てっきり俺は、おまえはメガネなしじゃ駄目なのかと…」
「ダメって?なにが?」
犀川は取り合わない。どんどんうろたえて行く喜多にかまわず、明かりをつけ、上着を脱ぎ、ハンガーにかけ、コーヒーメーカをセットし、なおもおろおろとしていく喜多から袋を取り上げ、自分の分の食料をレンジにかけた。
「メガネ。どうしたんだ?直らなかったのか?」
「食べないのか、喜多?」
「創平!」
「うん、憶えてるからね。大して見えなくても部屋の中なら困らないんだ」
「そ、うか…そうだな」
*
瞬きの回数が多い。もう…295回目か…一分に4回以上の割合だ。涙があふれそうになるのを瞬きで散らし、犀川はタバコに火をつけた。
さらにカウントが増える。煙が目に染みるとは…。
「創平…大丈夫か?」
「さあ……」
喜多が落ち着かない。瞬くと涙が伝った。犀川は微笑む。その顔を喜多が引き寄せた。
「目が赤い。瞬きする。涙をこぼす。どうしたんだよ?おまえ」
「さあ」
「だいたい車の運転は?メガネなしじゃできないはずだ。なあ!」
どうして、そこまでいってわからないのか。喜多は目が悪くない。そのせいか。
「してもいいのか?」
「どうぞ」
かさなってくる喜多の顔。
あえて、目を閉じなかった。
それでも近づきすぎる物体に視界は塞がれる。
どちらにしろ、見えない。
触れるとすこしわかる。
見えなくてもかまわない。
触っても良い。それぐらいしか、犀川にとって、他と喜多の違いを判別する基準はない。
だから……。
している最中も、カレンダが読みとれる。時計の針も。22日、金曜日、23:46:50…。
気が散った。
「喜多……」
喜多には犀川しかみえないのだろうか。
表情も、よくわかる。ちょうど、喜多は入れようとしていた。苦しそうな顔をしている。
なんだか必死だ。わざとなのだろうか……。
作ってる?
気持ちがいいと、無表情になる。強いて、犀川は微笑んだ。
入れられて、痛くなれば、自然にどうせこんな顔になるだろう……。鏡が見てみたい、と珍しいことを犀川は思った。
*
喜多は苛立たしげに、犀川のうえで動きを止めた。犀川が浅く息をつく。冷静な目つきで見られて、喜多は落ち込んだ。ふうと溜息をつく。
こいつは、こういうやつなんだよな……。
冷え切ってる。冷たい。
そのきれいさに、ぞくぞくする。こんなときまで、本当には熱くならない。そしてけっして、喜多を、好きだとも思ってない、こんなときでさえ。
どんな人間だって、身体を合わせているときにはその真っ最中には愛しいと思う喜多だ。
「……どうしたんだ、早く。くるしいじゃないか……」
「好きだよ、創平」
犀川は、困った顔をした。
「……あそう」
好きだと繰り返しながら、喜多はだんだん空しくなる。「もう、いい、わかったから……」
「わかってない。わかってないだろ、創平」
「……まあ、うん、じつはね……解ってないかな?」
あ、と犀川は声を上げた。ぐいと腰をひきつけたせいだ。
頬が染まる。きまり悪げに視線をそらす犀川が、すこし喜多を慰めた。
ようやく、犀川の身体にのめりこむ気になった。犀川は快楽に少々弱い。まあ、どうしてか、この手の経験に乏しいせいだろう。
柔らかくあちこちを噛む。ずっと収めていたせいで、喜多の大きさに慣れた犀川のうしろは多少乱暴に動いても大丈夫そうだった。
「好きなんだよ…創平」
涙でぐちゃぐちゃになっても、やはり冷たくきれいな…もう昏睡状態だと思い、つい、低い声で本音を漏らしたとき、その目が開いて喜多はきまずく口を閉じた。
冗談には、好きだのということはできても、それを犀川にいうのはエラーだ。チェック機能が低下している。チ、と喜多は舌打ちした。最初にエラーしたのは犀川のほうだ。ながれるはずのないもの。
まだ…こぼれつづけている。
その目つきは、このシチュエイションではおなじみのものだった。やはりすこしまえまでの目つきがおかしかったのだ。
「間に合わない……それはもう、閉じてるんだ……」
犀川が、寝言のように応えた。
喜多には、わからない。
*
翌朝、目を覚まし、犀川はベッドサイドをまさぐった。それを喜多は首をかしげて見守った。犀川の目は腫れぼったい。いつもなら、犀川の探すのはまずメガネで…。喜多はそれが、諸事情により犀川が取りにくい場合には探し、取ってやることにしているのだが。
「えっと、メガネ…」
「修理中じゃないのか?おまえ、昨日は……」
「ああ。そうか。僕の服を取ってきてくれないか。すまないけど、喜多」
「ああ……?」
ハンガーにかけられた犀川の上着を手に取る。そのポケットには壊れていないメガネが入っていた。
「ありがとう。もうひとつお願いしてもいいかな?」
「どうぞ」
「コンタクトレンズがどこかにあるんだ。探してみてくれないか」
喜多は、一瞬、赤い犀川の目を見つめた後、腹を抱えて笑いだした。
「そこまで、笑うようなことかな……」
「いや。ゴメン。悪い。おれ…馬鹿だな……」
「間抜けのほうがあってるように思うけど。とにかく探してくれ。3万円もしたんだ」
「ああ…そりゃあ、たいへんだよな……」
結局、それは、見つからなかった。