――愛し合っているなどという奇跡的状況ははたして成立しうるものだろうか。

 

 中高一貫式の男子学校のせいだからなのか、それともどこの学校というものもそうなのか、運動会というイベントに一種異様な熱気が立ち込めている。

文化祭である学園祭のときは、まだしも一般に公開のあるため、熱気といっても、いわゆるイベントに特有のにぎやかな熱であるのだけども。

 犀川創平はベッドの上で本を開いていた。

 

 別段、運動は苦手ではない。好きでも嫌いでもない。ではあるが、読書という好きなものがある以上、読みたい本があるときにまで、わざわざ外に出る必要は感じなかった。

 歓声が轟く。それはかすかに犀川の意識の片隅に認識されるだけで、聞こえないも同然だった。犀川が出なければならない競技種目は「棒取り」のみで、それは午前の内に終了している。

 

 犀川が寝転んでいるのはそのためである。棒取りとは綱引きの綱を棒でやるようなもので、綱引きよりは相当荒っぽい。運悪く、軽傷を負った犀川は、手当てを受けた後、気分が悪いと保健室に引き込むことにしたのだ。

 保健医はここではなくテントで仮設置された救護室にいるため、保健室には犀川一人だった。多分閉幕まで、ここに来るものはいないだろう。犀川は缶コーヒーと読みかけの本を片手に四方を白い幕で覆ったベッドの中でくつろいでいる。

 ぬるくなったコーヒーに口をつける。文字を読み進む。完全に音は意識から弾いていたはずが、物音が聞こえた。

 ドアが開く音、ひそめた足音。「……創平?」

小さく呼びかけられた自分の名前に反応したのだろう。声は犀川創平の友人の喜多北斗だ。

返事をするかどうか、創平は少し迷った。幕で犀川は周囲と遮断されているから、返事をしなければ喜多は創平に気がつかない。

迷う間もなかった。無造作にカーテンが捲り上げられ、喜多の日に焼けた健康的で好青年そのもののようなすこし大人びた顔がのぞき、にこっと笑う。

「僕でなかったらどうする気なんだ」

「う、ん?別に。おまえだとおもったからさ」

犀川は顔をしかめた。缶を置くと、くるりと身体を反転させ、またベッドに寝そべり本を開く体勢に戻る。

ベッドが新たな重量をかけられ、たわむ。スプリングの立てる音が犀川の神経を荒立てた。薄いうわかけのはぐられる感触、喜多の身体が横に滑りこんでくる。

「傷は?大丈夫か」

犀川は応えなかった。大したことがないことは喜多も知っている。手が擦り剥けたのと、足をややひねったのと。それだって捻挫というほどのものではない。

左手の擦過傷が一番だったが、それも、たいしたことはない。包帯が大げさなくらいだ。その包帯に触れる。その手つきが、犀川の神経を逆撫でる。息を詰めて、じっと耐えていた。

   ……たいして、意味は、ないのだろう。

包帯に覆われていない指に喜多が指を絡めて、犀川の背中へ覆い被さるように伏せてくる。

 ベッドを囲う、白いカーテンが、揺れた。

 外では相変わらずの遠い歓声。

 気が遠くなるほど・・、遠い、運動会のマーチが聞こえた。

 喜多が呼吸をしている。4回、5回、……途切れて、大きく6回。

 伏せた犀川の肩当たりに、響く。

 

   どこか、おかしいような気がした。

 

唇を重ねたのは犀川のほうだったかもしれない。それがあまりに嫌で、嫌のあまりに、反動がすこし犀川を狂わせた。精密な機械のばねが緩むように、ゆるんでおもいかけない動きをするときのように。

 

 それを、いやがったことはないはずなのに、嫌だった。喜多が理性を失くしているのが、犀川を焦らせ、さらに喜多を煽る。常に情熱的な喜多は、けして自分を失うことはない。常に冷静な犀川が、しばしばおかしいのとほとんどおなじくらい。

保健室のベッドは小さくたよりない。ぎし、という音が、あまりに直接的で、犀川は抵抗した。じっとしていたかった。ここで動いてはいけない。もうそうなると、なにもかもがとんでもないことのように思われた。学校。昼間。鍵のない部屋。保健室。服を脱がされるのだってすでにとんでもない。常識的な思考の形態が唐突に復帰して、おもわず、犀川は喜多にヤメロと呟く。

 「え」

と、声を上げた。伏せて枕に押し付けた犀川の顔を喜多はのぞきこんで、その目が傷つく瞬間の形をする。

 拒絶に時々喜多は驚くほど敏感で、犀川には、鬱陶しい。

 「創平・・、したい」

「・・っ、」

犀川が首を振る。シャツを着ている犀川の胸をはだけ、その奥に触れようとしている喜多の目には、残像のようにそれが焼きつく。きっと、忘れられない。何度もこれから思い出すだろうことがわかって、喜多は後ろめたささえ感じる。

 息が詰まりかける。貪るような口付けと、慌てて夢中の腕と手は、だが、計算された動きをしか、ない。

 分り合うことも、交じり合うことも、望んでさえいない。

 だから、確かな動きで、反応させたい。

「い、や、だ……っ」

喜多が取り合わない。首筋を噛まれる刺激に犀川が硬直する。押し伏せて、指を直接に差し入れる。収められて震えた犀川を、そこからコントロールして、拒ませない。

 犀川の身体は、空き容量で、いくらでも喜多の動きを受けつけ、覚え、反応の連鎖が築かれていく。…自分を教えこみたくて、喜多は無理ばかりする。簡単に犀川が望めばリセットされてしまうことなど喜多にはわかっているが、アクセスが許されている間には、それを止められない。

「なんで・・許すんだ、こんなこと」

唾液だけしかないから、そこを潤すのにずいぶんかかった。繋がってしまうとようやく、少し安堵する。

珍しく、喜多のこう言うときの意味はない言動に、犀川が怒った。

眼がすがむ。「ゆ、るして、ない・・君の思いこみだろ?」

応えられない。無言で腰を進めた。細いカラダ。息を呑み声を噛んで、発作を起こしたように犀川が喜多を叩いた。

声を上げそうになるのをかろうじてこらえ、犀川の振り回される手を捕まえた。手のひらの包帯が、解けている。

かまわずその血の滲んだ皮膚をぐっとつかんだ。涙を浮かべて犀川が喜多を見る。

傷を指で探りながら、唇を合わせた。

 

二人とも声を立てない。後は無言でただついた火が絶えるまで、慎重に時間を重ねる。強く動くと、構造の弱いベッドは派手な悲鳴を上げるため、喜多も犀川もあまり動かなかった。それでもじりじりと高まる熱に、汗をかく。シーツに、滲むのが酷く気になって、犀川は身を起こした。繋がったままで。喜多の肩に手を回し、その膝を跨いで、乗る。「あ…」もう一度、呑みこむのがつらかった。

 

 

ベッドは汚さなかった。代わりに喜多は着ていた体操服を犀川のジャージに着替えた。

「あ、俺、最後のリレー……」

「……サボるなら、それもそうしてくれ。出るなら、僕の服は置いていくこと」

喜多は世にも情けない顔をした。怪我のとき、泥と血でよごれた犀川の体操服をいれた袋に、今まで自分が着ていた服をしっかり詰め込んで、素肌に犀川のジャージを羽織った姿で、犀川のしわは寄っているけれど綺麗なシャツとズボンをうらやましげに見る。喜多だって制服はきれいなまま、教室においてあるが、怪我もしていないのに着替えられない。

ジャージにはゼッケンが縫いつけられている。犀川はそんなものを着て喜多を走らせることなど考えたくもなかった。

衣服を整えた犀川の手を喜多がとった。ざらざらと肌がめくれかえり血のにじむそこに、唇をよせる。くちゅりと湿った感触。犬の舌とはちがう。熱く意志を持って、確かめるように幾度も同じ場所を這う舌の動きを犀川は我慢する。犀川のものはほとんど喜多がきれいにした。原始的なこの方法で。顔がまだ熱い。

シャワーを浴びたい、とさっきから切望している、けど、この傷はたぶん沁みるだろうな…と、犀川は思った。

 

運動会本部の呼び出しが、フィナーレの走者を求めて三回、アナウンスした。

二人とも聞こえないふりで、消毒、を続けた。


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