エコノミークラス症候群




 何年か前の話。パリに行くので格安航空券の店でアエロフロートのチケットを購入し、出発の日を待っていたとき、弟と電話で話すことがあった。
 「パリに行くんだって?」と弟。
 「そうだよ」と私。
 「またリュックサックで行くんじゃないだろうね」と弟。
 「そうだよ」と私。
 「航空会社は?」
 「アエロフロート」
 「・・・キミねえ・・・」
 弟はアジアやアメリカにも駐在経験のある、ちょっとインターナショナルなビジネスマンのヒトで、だから国際線というのは、ネクタイをしめてスーツケースを持ち、ビジネスクラスに乗るものと思っているのだ。そもそも航空会社のチョイスも違う。堅気のビジネスマンは、アエロフロートなんかには乗らないものらしい。
 でもそんなこと言われたって、出発は明日。ま、これでいいのだ。

 さて出発当日、規定に従い離陸時間の2時間前には成田に到着していた私だったが、出迎えていたのは「アエロフロート航空パリ行き××便は、使用機材の到着の遅れにより、出発時間は大幅に遅れる見込みです」とのアナウンス。やはりアエロフロート、いきなりやってくれます。
 そもそも考えてみれば、アエロフロートに乗るのは、かなり久しぶりのことだった。もちろんソ連崩壊後初めてである。
 かつてのアエロフロートは、東京線にはソ連製のイリューシンIL62を使っていて、それだけでかなり濃厚にロシアンムードが漂っていたものだが、現在の使用機材は軟弱にもエアバス。世界に冠たる航空宇宙産業を持つ(ということになってた)ロシアが、恥ずかしげもなく他国の飛行機を使うこと自体が堕落の極みだが、まあこれも世の中の流れ、仕方ないのだろう。
 というわけで、機材もエアバスになったし、なんとなく「普通のヨーロッパの航空会社」みたいな気持ちでチケットを買ったのだ。でもやっぱりアエロフロートはアエロフロートだった。数時間後れで離陸した上、乗ってるのはガクセイばっかり。私のようなオジサンは、もう、それだけで浮いてしまう。

 それでもモスクワ空港までの飛行は順調だった。
 この飛行機はモスクワに一度着陸し、そのあと再びパリに向けて飛ぶことになっているので、だからパリ行きの乗客は、そのままシートに座ってればいいはずだった。
 ところが待てど暮らせどパリに向け飛び立つ気配はなく、あげくに、全員が機外に降ろされてしまった。
 なんだなんだなんだ、という感じなのだが、特に詳しい説明もなく、とにかく空港内で待て、ということらしい。しかしこれが「のんきな観光一人旅」の気安さ、遅れたら遅れたで、別に困るわけじゃない。「なるほど、これではビジネスマンはアエロフロートを使えまい」なんて一人納得しつつ、ドル建て販売の高めのビールをチビチビやってりゃいいのである。
 昔々、遅れまくるパキスタン航空に乗って、なんと33時間かかってヨーロッパにたどり着いたことを考えれば、こんなの屁でもない。
 しかし、それにしても待ち時間が長い。多分初めての海外一人旅なのだろう、ガクセイの中には青ざめちゃってるヤツもいる。本来ならこの飛行機、夕方にはパリに到着するはずなので、それから「地球の歩き方」で宿を捜せば十分間に合う、なんて考えてたのに違いない。甘いヤツめ。すでにその「本来のパリへの到着時刻」も過ぎちゃってるのだ。

 我々が再び機内に案内されたのは、それからまもなくだった。でも、あれれっ、この飛行機、ここまで乗ってきたエアバスじゃないぞ、これは旧ソ連製のツポレフTU154ではないか。おお、元気だったか、まだ飛んでいたか。ハラショー!ツポレフ!

 私は実は、まだソ連が存在したころ、このTU154にはキエフ、レニングラード線で乗ったことがある。当時こいつはまだアエロフロートでも新鋭の部類に属していて、新潟空港にも飛んできている定評のある機材だったのだ。
 しかしこうして今乗ってみると、とにかくボロい。ポンコツトラックというか、スクラップ直前の軍用機というか、半分壊れた電気掃除機というか・・・本当にこれで飛ぶのかいな、てな感じなのだ。
 この飛行機のことを知ってる私ですらそう思うのだから、ツポレフなど知らないガクセイさんは、これは不安だろう。さっきの「青ざめクン」をちらりと見ると、もう「強引に絶叫マシンに乗せられちゃった心臓の悪い男」みたいな顔をしている。おまけに誰が持ち込んだのか、機内に黒い小犬がキャンキャン言いながら走り回っている。なんだこりゃ。
 そうこうするうちに機内でもめごとが発生した。フランス人らしき団体客がなにやら乗務員に抗議しているのだ。
 どうやらこの「機材取り替え劇」、エアバスの故障ではなく、「モスクワで乗客が少なくなったので、エアバスを飛ばすより、もっと小さい飛行機に乗せ換えてしまえ」という会社側の策略だったようなのだ。で、総人数的には収まったのだが、ビジネスクラスに乗っていたフランス人の一部がエコノミーにはみ出してしまって、「約束が違うぞ!金返せ!」てなことになったらしい。

 さてそのもめごとも納まり、ようやく機体がターミナルを離れて滑走路へと動き始めた頃には、もうかなり夜も更けていた。
 これで「青ざめクン」もちょっとは安心しただろうと、彼のほうを見てみると、おお、なんと彼、もう顔は土気色に変わり、ガタガタと痙攣しているではないか、これはまずいぞ。と思うまもなく、周囲のガクセイが彼の異変に気づいてスチュワーデスに連絡。飛行機はいったん停止し、パーサーなども駆けつけてきた。しかし青ざめクン、口はパクパク池の鯉状態、その視線はもう虚空をさまよっている。
 パーサーたちも、これはまずい、と思ったのだろう。一度動き出し滑走路まで行ったツポレフは、再びターミナルビルに逆戻り。そこで待つことしばし、医者が乗り込んできて治療開始・・・とまあ、こんなことがいろいろあって、結局我々がなんとかパリにたどり着いたときには、もうとっくに日付も変わったあとだった。そして、一晩だけ予約しておいたホテルに転がり込み、シャワーを浴びたときには、もう夜明けも近い時刻である。ああ、本当に疲れた。やはり私も、もうオジサンなんだし、一応定収入もあるにはあるのだから、そろそろガクセイの真似はやめて、今度はマトモな飛行機に乗ろう、なんて思って、その時は寝たのであった。

 しかしそんな私も一度だけ「まともな飛行機」に乗ったことがあるのだ。驚くなかれ、ヨーロッパまでのノンストップ直行便である。それもANA!。なんたってその時は新婚旅行だったのだ。
 その時も弟と電話で話をしたのだった。
 「聞いてくれ、ANAのノンストップ直行便だぞ」と私。
 「ふーん」と弟。
 「すごいだろ」と私。
 「それって、普通なんじゃないの」と弟。さらに続けて「で、ビジネスなんだろうね?」
 「え?、エコノミーだけど」と私。
 「・・・、新婚旅行くらい、ビジネスで行けよな、ヨメさんに逃げられるぜ」と弟。

 しかしいいんである。私はエコノミーが好きなんである。それに、どんなトラブルがあったって、アエロフロートとかパキスタン航空とかインド航空なんかが好きなんである。そういう飛行機に乗らないと、「旅」って気がしないんである。そして多分これからも、私はそんな飛行機に乗りつづけるんである。文句あっか?なんである。


↑旅のページ・トップへ