マドリッドの逃亡者
あとから思えば、チャマルティン駅に到着した時から、少し体調が悪かったような気もする。でも、本格的に熱が出て、寝込んでしまったのは、その日の夜になってからだった。
大学の2年の夏にユーレイルパスを使って、ヨーロッパ鉄道旅行をしていたとき、ウィーンの同じ宿にいた日本人の学生からモロッコの話を聞かされ、もう行きたくて、いても立ってもいられなくなったのがその2日前。思い立ったが吉日とばかり、その晩の夜行でパリへ、パリからまた夜行でマドリッドに入り、そこで一泊してからスペインを南下、ジブラルタルを越えてモロッコへ、というのがプランなのだった。
しかしその途中、マドリッドでダウンしてしまった。
今でもそうだろうが、金のない学生はユーレイルパスで夜行列車を利用して、宿代を浮かす。特に当時は1ドル250円の時代で、東京でのアルバイト代は時給500円。学生旅行者はいまよりさらに厳しい経済状況にあったはずで、夜行列車への連泊など、常套手段だったのだ。
そういう旅行をしていると、いくら若いとは言え疲労が溜まってくる。それがマドリッドで吹き出したらしいのだ。
それに、どうやらマドリッドで夜に食べたものも悪かったらしい。
なにしろマドリッドというところは、内陸のくせに魚介類が豊富で、有名なパエリヤを始めとして、おいしい魚料理が豊富なのだ。また酒場に入ればイカリングなど、妙に日本的なものもある。
それまでゲルマン系の土地を旅し、イモだのマメだのばかり食べてきた私には、これはもう天国。食いしん坊バンザイ状態で、手当たり次第にバンバン食いまくってしまったのだった。そして、それが当たったらしい。
最初はお決まりの発熱と下痢。食欲は全くなく、そのうちに声も出なくなってしまった。
寝込んでしまった宿は、マドリッドの中心地に近い古いアパートの中にあった。広さは8畳くらいだろうか、本来はこの倍の広さがあったものを、中央をベニヤ板の壁で仕切って2部屋にしているという構造。でも一応、中庭に面した窓はある。これで1泊500円。
この部屋で数日間寝込むうちに、隣の部屋、つまりベニヤ板の向こう側の住人と顔見知りになった。彼の名はパクさん。当時の私よりはかなり年上の、30歳くらいの韓国人だった。
彼は市内のレストランで夜にアルバイトをしているそうで、だから昼間は部屋で寝ていることが多く、それで顔見知りになったのだ。
初めはちょっと会釈をする程度だった彼が、私に身の上を語り始めたきっかけは、多分私が当時の韓国大統領の名を、「ゼントカン」ではなく「チョンドファン」と言ったからではなかったか。
最近ではテレビのアナウンサーも、金大中をキムデジュン、仁川空港をインチョン空港と発音するが、当時の日本では、キンダイチュー、ジンセンなどと強引に日本語読みしていたと思う。
たまたま私の場合は、高校時代に習った社会科の教師が「現地読み推進者」で、それを覚えさせられていたにすぎなかったのだが、彼はその「チョンドファン」の発音をいたく気に入ったらしかった。
彼が語ってくれた身の上話は、とても興味深いものだった。
彼はその少し前に起こった韓国南部の光州暴動の指導者の一人で、暴動鎮圧後も韓国内に潜伏していたが、当局の追求が厳しく(あるいは一度逮捕され?)、日本に逃れ、そこからアメリカに脱出したとのこと。
不可解なのは、もし彼が韓国内で指名手配されていたのなら、日本への入国などできないはずだし、またアメリカへ出国もできないだろう。とすれば、もしかしたら当時日本国内に、光州暴動で追われる学生を逃がすような組織があったのかも知れない。まるでスパイ小説のようだが、けしてありえない話ではないのだろう。
実際にその数年前には、東京滞在中のキムデジュンがホテルの部屋から拉致され、数日後にソウルで発見される、という「金大中氏事件」が起き、さらに日本政府はその事件を「政治決着」と称して不問に付し、解明することなく闇から闇に葬ってしまうという不思議な(というよりはお粗末な)出来事があった。とすれば、学生の一人や二人、海外に逃がすことなどなんでもないのだろうか。
まあとにかく、なんとかアメリカに逃れたパクさんだったが、なにしろ不法入国、仕事を探すのに苦労したらしい。が、結局、田舎の農場に住み込みで働くことになった。
パクさんは、その農場での仕事がけっこう肌にあったらしく、一時はこのままアメリカで農業をやるのも悪くないかな、とまで思ったらしい。そのくらいだから、彼はそこの農場主にも高く評価されて、やがて使用人頭みたいなポストが与えられたのだとか。
ところが彼のその昇進を妬んだ他の使用人が、パクさんが不法入国者であることを嗅ぎ付けて警察に密告、彼は逮捕され、1年ほど投獄されたあと、国外退去処分になり、ヨーロッパに渡ったとのこと。
ヨーロッパに渡ったあとの話も聞いたような気がするが、なにしろ私は高熱、パクさんは日本語がしゃべれるといっても片言で英語まじり。そんなわけで、詳しくは覚えていないが、とにかく紆余曲折のはてにマドリッドに流れ着き、夜のバイトをしながら潜伏中というワケらしいのだ。
とりあえずこのマドリッドでは、仕事も見つかり生活は成り立っているが、やはり「追いつめられている」という意識はぬぐえないらしい。
あるとき「このままここにいるつもりですか?」、と聞いたら、「ここはあまり長居が出来ない場所です」との答え。どうやら彼は正規のパスポートも持っていないらしいのだ。
実は北欧に行き、そこに亡命するつもりだ、という話を彼から聞かされたのは、その翌日だったろうか。私がトーマスクックの鉄道時刻表を持っているのを知って、彼が北欧までのルートを作ってみてほしいと頼み込んできたのだ。
さっそく私は、北欧の、彼が望む国までの鉄道のルートをメモして渡すと、「これはダメです。このルートではパリを通ります。私はパリへは行けません」とのこと。やはり首都クラスの大都市は避けたいのだろうか。
そこで今度は、大都市を避け、なるべくローカルな路線を乗り継ぎつつ、かつ短い移動時間で目的地に達するルートを作って手渡した。
しかしそれ以後、彼と会うことはなかった。彼は消えてしまった。
鍵穴から覗くと荷物は部屋にあるようだが、帰ってくる気配はなく、そのうち私のほうは快方に向かって、パリに戻ってしまったからだ。だから彼が私の作ったルートで北欧に脱出したのか、したなら、無事に目的地に着いたのか、今では知るすべもない。
だがもし、彼がそのルートで北欧に向かったなら、きっとたどり着いただろう。なにしろマドリッドに来るときも、実は一人、私の椅子の下に隠れて国境越えをした男がいるのである。彼がなにやら懇願するものだから、「私は寝ていて彼がシートの下に入り込んだのに気がつかなかった」ということにする条件で、彼をシートの下に入れ、シートを引き出してベッド状態にして彼を密封し、国境を越えてきたのである。
いま、欧州各国の国境線は開放されてしまったが、当時はこんな方法で、何らかの理由でパスポートのない連中が「密出入国」することも多かったに違いない。
結局私はマドリッドに1週間もいたくせに、フラメンコも闘牛も見ていない。
体が動くようになってからプラド美術館を見たくらいで、あとはパクさんと話しをしたり、ベッドの上で窓から空を眺めたりしてすごしていた。だからどうしても私にとってのマドリッドのイメージは、密入国者や亡命者のたむろする、あの映画「カサブランカ」のようなものになってしまうのだ。
あるいは本当にマドリッドには、このような側面があったのかもしれないし、他の大都市にも、そんな裏の部分が必ずあるものなのかも知れない。それがただ単に、普通に生活する普通の人の目には見えないようになっているだけなのかもしれない。
もし私がマドリッドで体調を崩さなかったら、人並みにスペイン観光をするなりして、文字どおり「太陽の国」を感じただろう。この街のどこかに、人目を避けて隠棲する活動家がいるなんてことは、普通なら意識するまい。それがたまたま寝込んでしまったがゆえに、そんな都市の裏の姿を、ほんのちょっと見てしまったのかも知れない。
先にも書いたが、その後のパクさんの消息を私は知らない。
しかしあれから20年近くたち、当時光州暴動を支援したとして逮捕され、死刑判決を受けていたキムデジュンは大統領に、また光州暴動自体の評価も変わり、暴動を指導した学生たちも復権を果たした。とすればパクさんも無事に韓国に戻ることが出来たはずである。彼がいまも健在で、大いに活躍されていると信じたい。
(写真は私が寝込んでしまったマドリッドの安宿「Hostal Naranco」の螺旋階段)
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