
ドイツ・ミステリーの開拓者(3)
二度忘れられた男 ― フランク・アルナウ[1]
(『METROPOLE. No.27.2004.8)
1. 小さな訃報
1976年2月12日付けの『ミュンヘン夕刊』紙(Abendzeitung)は、ミステリ作家フランク・アルナウが前日ミュンヘン市内の病院で死亡したという記事を掲載した[2]。「フランク・アルナウ死す」との見出しのもとに、わずか20数行の短い記事の中にアルナウの生涯がいくぶん素っ気ない文章で紹介されている。むしろ冷淡とさえ感じられる書き方である[3]。Abendzeitungといえばミュンヘンを代表する大衆紙である。そしてミュンヘンはまた、20年以上におよんだブラジル亡命から帰国後、フランク・アルナウがドイツにおける居住地として選んだ都市である。ここミュンヘンにあってアルナウは、1970年にスイスに移住するまでの10数年にわたってベストセラー・ミステリ作家として、また当時の政治文化に対して痛烈な論評を加えるジャーナリストとして、多面的な活動を展開したのだった。
〔図←Abendzeitung, 12.02.1976〕
本来ならば、ミュンヘン市民の誇りとして懇意をこめて顕彰し追悼してしかるべき作家であったはずである。この記事には、もはや読者の関心を惹かない<忘れられた作家>として扱おうとする冷ややかな意思さえ感じられる。だが、1976年の時点においてフランク・アルナウが「忘れられた作家」に属していたかどうかについては、疑問の余地がある。1955年から1960年代末までに20冊以上のミステリ小説を書き[4]、他の著書も含めて総出版部数百万部以上[5]の作家が数年のうちにそう簡単に忘れられるはずがないからだ[6]。ややうがった見方をすれば、この記事にはフランク・アルナウという作家を積極的に忘れ去ろうとする意思さえ感じられるのである。
記事の最後の部分には、「(法的)恣意に対する仮借なき闘いによって、東ベルリンのフンボルト大学から名誉博士号を授与された」と書かれている。これは一見すると、作家を顕彰するために書かれたように読めるが、おそらく当時の読者の反応はそれとは違っていただろう。わざわざ書き添えられた「東ベルリン」という言葉は、まだ当時の読者にとって生々しい事件として記憶に残っていたに違いない、(西ドイツにとって)ある不愉快な政治文化的スキャンダル(「リュプケ事件」)を連想させたはずである[7]。この事件に関連して、決定的な証拠を突きつけた人物としてフランク・アルナウの名が取りざたされたのである。当時の西ドイツの人々にとってきわめて不愉快な事件だった。『ミュンヘン夕刊』紙も『ザルツブルク報知』紙(Salzburger Nachrichtenもこの事件について直接の言及は避けている。だが、「東ベルリン」の「フンボルト大学名誉博士号授与」という<顕彰の言葉>は、フランク・アルナウが<忘れ去られるべき人物>であることを明白に示唆している。
そして、フランク・アルナウは忘れ去られた[8]。ミステリ作家としてのフランク・アルナウも、杜撰な捜査と裁判による冤罪事件を告発する人権擁護活動家としてのフランク・アルナウも[9]、ナチ高官を温存し続ける西ドイツ支配層を糾弾するジャーナリストとしてのフランク・アルナウも、そしてまた在野の犯罪学者としてのフランク・アルナウも忘れられた[10]。先に触れたリヒァルト・アルブレヒト(Richard
Albrecht)がアルナウの本について図書館の貸し出し調査を行なったのも[11]、すでに80年代初頭においてはアルナウの名を聞くことはほとんどなかったからに違いない。事実また、70年代から80年代にかけてミステリ小説の分野においてさえも、アルナウの名はほぼ完全に忘れられた。1984年にアルミン・アルノルト(Armin
Arnold)はワイマール末期(1932年)にDie Literarische Weltに連載されたリレー推理小説『閉ざされた扉』(Die verschlossene
Tuer)を発掘し、同じタイトルをつけて出版したが、そのあとがきの中でこのリレー推理小説のまとめ役を務めたアルナウについて、「フランク・アルナウとは誰か」(Wer
war Frank Arnau?)と問いかけたうえで10行ほどの簡単なプロフィールを書いている[12]。ここでのアルノルトの関心は明らかにリレー小説という文学形式にあり、リレー形式についての比較論的考察を展開している。アルノルトにとってもやはり、アルナウは未知の存在だったのだ。ミステリ文学を学問的に考察する傾向は1970年代後半からドイツにおいても顕著になるのだが、その先駆的な業績であるE.
シュッツ編による『探偵小説のアクチュアリティ』(Zur Aktualitet des Kriminal- romans (1978)に収められたW.
ロートの論文にはともかくアルナウの名だけはあげられている[13]。ロートは「第三帝国においても戦後の西ドイツにおいてもミステリ小説は読まれてきた。書かれたのは比較的少なく、フランク・アルナウとヴァイネルト-ヴィルトン(Weinert-Wilton)を例外としてすべて忘れられた」と述べているだけで、それ以上の言及はない。1989年に出版されたJ.
シュミットの『ギャング・犠牲者・探偵』(Gangster, Opfer, Detektive)[14]は、戦後ドイツのミステリ小説について、東ドイツの作家たちをも含めてもっとも詳しい記述である。にもかかわらず、そこにはアルナウの名は見当たらない。80年代の後半にはどうやらミステリ文学の事情通にとってさえも、アルナウは完全に忘れ去られた状態にあったようだ。この状況をみごとに描いているのは1989年のミステリマガジン・シュヴァルツェ・ボイテ(Schwarze
Beute)第4号に発表されたR. ヤーンのアルナウについての評論である[15]。Jahnの評論はこの時点においてきわめて的確な評価を含んでいるのだが、冒頭でアルナウについての評論を書くにあたっての困難を語っている。どの図書館に問い合わせてもまったく反応がないというのだ。図書館の書司が名前を知らないのである。このエピソードはいくぶん戯画化されているとはいえ、80年代末の忘れ去られた状況をよく表わしている。
この状況は現在もあまり変わりないといえるのだが[16]、1998年に出版されたU. ゲッティングの研究は1945年から1970年までのドイツミステリの歴史的な発展を論じるなかで、アルナウの戦後の諸作品に言及しているのが注目される[17]。この研究は、「形式と傾向」(Formen
und Tendenzen)というサブタイトルが示しているように、本格派の推理小説から出発して、探偵小説・刑事小説・警察小説・サイコスリラー・社会派犯罪小説の形式上の展開を、戦後ドイツの15人のミステリ作家のおよそ40の作品の形式論的な分析を通して跡付けようとする試みであるので、アルナウという作家の人物像に迫るものではない。それでも、この研究において戦後の4つの作品がとりあげられ、歴史的な枠組みのなかでドイツ警察小説の草分けとして位置づけられているのはやはり画期的といえるだろう[18]。だが、フランク・アルナウというミステリ作家とその作品を的確に把握するためには、ワイマール期にまで遡らなくてはならない。戦後の警察小説を中心とするアルナウのミステリ諸作品は、じつはワイマール時代末期のまでの作家活動、そしてその後の亡命者としての抵抗運動を含む活動と緊密に繋がっているからである。すでに述べたように、60年代後半から70年代にかけて、アルナウは忘れられた。だが、アルナウが忘れられたのはこれが初めてではない。30年代前半にすでに一度忘れられたのである。むろん状況が同じだったなどというつもりはない。だがそこには、いくつかのパラレルな現象を認めるが可能である。このような視点のもとに、ここでは作品名に依拠して<閉じた環>、<閉ざされた扉>、<褐色のペスト>という三つのキーワードを中心に、フランク・アルナウワイマール期(それに続くナチ時代)と戦後の連続性を検証してみたい。いうまでもないことながら、アルナウという作家のもつ多面性と関連する時代の複雑性からして、考察はごく限られたものにならざるをえないであろう。
フランク・アルナウは複雑な現象である[19]。その生誕からして謎めいている。1894年3月9日、コンスタンチノープルからパリに向かうオリエント・エキスプレスの車内で生まれ、ウィーンの病院に収容されたというのだ[20]。父親の国籍にしたがってスイス人として育ったが、1920年にはドイツ国籍を取得している。ハプスブルク帝政末期のウィーンでフリーランスのジャーナリストとして活動を開始し、犯罪記事、裁判記事、要人とのインタヴュー記事などを書きまくった。オーストリア二重帝国情報部の委託を受けて大戦勃発直前のサラエボに潜入し、諜報活動を展開したともいう。戦後はフランクフルトに移り住んで、ジャーナリスト活動を継続し、企業の広報コンサルタントを務めながら、ワイマール末期の数年、矢継ぎ早に社会派ミステリ小説を発表する。29年にはベルリンに活動の場を移すが、このころにはすでに反体制的・左翼的なミステリ作家として著名な存在だった。1929年から31年には代表作の数々、『闇の闘士』、『権力の相貌』、『閉じた環』、『鋼と血』、『長城』[21]などが集中的に出版された[22]。このうち、『閉じた環』と『闇の闘士』は映画化されている[23]。ナチ政権掌握後の33年4月1日、すでにプロイセン警察の監視下にあったアルナウはコネを利用してナチ党機関紙Voelkischer
Beobachter紙の記者証を入手し、車で国境を越えてオランダに逃れる[24]。そして忘れられた[25]。アルナウはその後スペインのバルセロナ、パリ、ザールランドを行き来しつつ反ナチ抵抗運動に参画したのち[26]、第二次大戦の迫る39年5月にブラジルに亡命した。ブラジルでの活動も謎に満ちているのだが[27]、ブラジル亡命から16年後の1955年になってシュテルン(Stern)誌編集長ヘンリ・ナンネン(Henri
Nannnen)の誘いを受けてドイツに帰還し、ジャーナリスト活動を再開する。1956年、ニューヨーク警察殺人課のブリューアー警部を主人公とする警察小説(Pekari
Nr. 7)を発表するや、たちまちミリオンセラーのミステリ作家として復活する。フランク・アルナウはワイマール期と第二次大戦後のドイツミステリをつなぐほとんど唯一の作家である[28]。しかしながら、このような単純なプロフィールを描くだけでは、ほとんどなんの役にも立たないだろう。どんなに脚注で補ってみても、フランク・アルナウの全体像を描くことは不可能だからである。先に述べた三つの観点にしぼって、ワイマールから戦後に一貫する、アルナウのミステリ作品の諸特性を取り出すことにつとめよう。
3. 閉じた環
フランク・アルナウがワイマール時代(特に1929年から1932年)に手がけたミステリと戦後の1950年以降に書いたミステリは、ジャンル論的にいえば大きな違いがあるように見える。戦後の作品を特徴づけているのは、ニュウヨーク市警のブリューアー警部、モロッコ・タンジール国際統治区のラモン警部、そしてまたハンブルク市警のライダー警部の緻密で地味な犯罪捜査(poliice
procedurals)を中心とする警察小説という印象が強い[29]。実際また、アルナウといえばドイツにおける警察小説の先駆者として見られることが多いのである。U.
ゲッティングは先にあげた研究において、<フランク・アルナウ:警察小説>(Frank Arnau: Polizeiroman)という項目を立ててアルナウの4つの作品を分析している[30]。このこと自体はけっして間違いではないが、ワイマール時代のアルナウの創作活動から見直してみれば、作品のプロット、素材、テーマ、登場人物、背景といったミステリの重要な構成要素の多くがすでに初期作品のなかに見出されることに注意しなければならない。R.ヤーンはこのことをチャンドラーの例を引き合いにだしてcannibalizingと呼んでいる[31]。古い部品を利用して物を組み立てるという意味だが、アルナウの行っている改作には単に素材やプロットの再利用だけにとどまらず、意図的なテーマの継承性あるいは連続性が認められるのである。たとえば、1930年の『権力の相貌』(Das
Antlitz der Macht)は20年代後半のドイツ経済成長期を舞台として、暗い過去をもつ主人公フェリックス・ウンバラーが陰謀と知略を尽くして経済界に暗躍し(手段を選ばぬ企業買収や武器の製造・密売など)、権力の座に登っていこうとする(そして破綻する)犯罪小説である。20数年後の1953年にアルナウは同じフェリックス・ウンバラーを主人公とする『あなたもまたフェリックス・ウンバラーを知っていた』(Auch
Sie kannten Felix Umballer)を書いている[32]。そこには、50年代初頭のドイツ経済復興期において冷戦を利用して闇の商売(やはり物資横流しと武器密輸が中心だ)に暗躍する男フェリックス・ウンバラーが描かれている。汚い仕事で荒稼ぎしようとする財界の実力者の名前までもが、1930年の作品と同じになっている。これは時代背景を入れ替えただけの単なる改作ではなくて、20年代後半のドイツの状況と50年代復興期の西ドイツが支配構造においてほとんど変化していないという認識がアルナウにあったからに違いない。どちらにおいても暗躍するのは闇の商売で財をなして恥じることを知らない政界・財界の権力者たちなのだ。
『閉じた環』(Der geschlossene Ring)の改作はこうしたアルナウの認識をおそらくもっともよく表わしていると思われる。1930年に発表された『閉じた環』は、杜撰な捜査と裁判によって無実の人間が死刑を宣告される法的な状況に対する告発を意図した法廷ミステリである。ベルリンの『モルゲンツァイトゥング』(Morgenzeitung)紙の編集者マグヌス・アルバー(Magnus
Arber)は冤罪による死刑宣告に抗議するために、自らが冤罪の犠牲者となる道を選ぶ。もちろん最後に無罪を勝ち取るための方途を用意しておき、その経緯を克明に記録に残すのである。偶然に夜中の街で出会った人物が事故死したことを利用して、それを殺人と見えるようにあらゆる証拠を組み立てていく。アメリカ人の叔父リンチャーだけには自分が無罪である唯一の証拠を託して、判決の日に帰って来る約束をしてフランスへ旅立たせる。ベルリン市警のカプラリク警部の捜査はアルバーが組み立てた架空の証拠に導かれて、アルバーを逮捕し予審判事も誤謬捜査を見抜けないままに裁判手続き行い、アルバーを法廷に立たせる。そして法廷はアルバーに死刑を宣告するのだが、無罪を証明できる叔父リンチャーは旅先で事故にあって法廷に姿を現さないという予想外の状況に追い込まれ、死刑の執行を待つ身となる。最後には叔父が発見されて無罪が証明されるのだが、小説はアルバーの仕組んだ状況証拠のままに捜査が進行し、無実のままに死刑判決が下される「司法殺人」(Justizmord)の過程を克明に描いていくのである。状況証拠よる犯罪捜査の逆手をとった、ミステリとしては特異な構成であるが、アルナウ特有の緻密な描写がそれなりに現実感を与えている。先に述べたように[33]、このミステリは1931年にカール・ハインツ・ヴォルフ(Carl
Heinz Wolff)監督によって『犯人を求む』(Taeter gesucht)というタイトルで映画化されていることからしても、当時評判になった作品だったに違いない[34]。
いずれにしてもここで注目すべきなのは、アルナウがこの作品を改作して1957年にまったく同じタイトルで出版していることだ[35]。事件の基本的なプロットは同じであるが、大きな違いは、原作の三人称形式の小説が一人称による記録に変更され、この記録を原作でアルバーの弁護士の助手を務めたパーカー博士が戦後になって、リオネジャネイロで開かれる国際人権会議での発表のために携えていくという構成になっていることである。ハンブルク空港からリオネジャネイロまでの長い飛行機の旅に乗り合わせたフランツ・フォン・ヘルマーは、パーカー博士から見せられたその司法殺人の記録を暇つぶしに読むという、いわば一種の枠小説の構成に仕上げられているのである。リオネジャネイロはいうまでもなく、アルナウの亡命地であった。パーカー博士のブラジルへの旅はアルナウの亡命と重ね合わせられている。そしてブラジルから戦後のドイツへの逆方向の旅でもある。このことは、アルナウがワイマール末期のドイツの司法的な状況が戦後のドイツにおいても基本的になんら変っていないという認識を示すものと見なければならない。それは先に触れたように[36]、西ドイツにおける人権擁護活動家としてのアルナウの姿勢に直接つながっている。ここにもまた、アルナウの思考の連続性・継承性が読み取れる。かくして、環は閉じたのである。
4. 閉ざされた扉 ― フーダニットの世界へ
ヴィリー・ハース(Willy Haas)の主宰する週間文芸誌『文学世界』(Die literarische Welt)に犯人捜しの懸賞つきリレー推理小説が連載されたのは、おそらく画期的な出来事だったに違いない。1932年6月10日発行の24/25合併号によって始まり、同年の8月26日発行の35号をもって10回の連載は完結した[37]。タイトルは『閉ざされた扉』(Die verschlossene Tuer)とされ、第一回とアンカーをフランク・アルナウが担当した。契機となったのは、前年に出版された英国探偵クラブのセイヤーズ、クリスティ、チェスタトンらによる『漂う提督』(The Floating Admiral)[38]であったことは間違いない。これに刺激を受けてリレー推理小説という企画を持ち出したのが誰だったのかは明らかではない。アルノルトはハースとアルナウのどちらもありうるが、アルナウの方ではなかったかと推測している[39]。だが、アルナウのそれまでの作風からすれば犯人捜しのミステリはやや異質である。一方、ヴィリー・ハースが<フーダニット>系の推理小説の熱烈なファンだったことは1930年に出版された『時代の形象たち』(Gestalten der Zeit)に『探偵小説の神学』(Theologie im Kriminalroman)という評論を書いていることからも窺える[40]。そこには、ポオの『盗まれた手紙』とチェスタトンの『見えない男』に共通するトリック、いわゆる「盲点原理」[41]について言及されている。これは、いつも前にあって見ているものがもっともよく見えないというトリックのことだが、『閉ざされた扉』はこのトリックの応用なのである。このことから、おそらく『漂う提督』についての情報とリレー推理小説の基本的なトリックの出所はハースの方だったと思われる。この企画を持ちかけるミステリ作家は当時アルナウを措いて他になかったに違いない。むしろハースはアルナウを念頭においてこの企画を立てたと考えられる。そしてアルナウは素材とプロットをもって,ハースの期待に応えたのである。
オペラ『マイスタージンガー』の観劇からベルリン・グルーネヴァルトの邸宅に帰宅した映画女優イェシカは、女友達の同居人マルヨリー・スルコウスカの射殺死体を発見する。マルヨリーの傍らには一丁の拳銃が置かれている。使用人はその日に限ってだれ一人としていない。邸宅の扉と窓は内部から鍵が掛けられていて、密室状態である。連絡を受けたベルリン市警の殺人課が現場に急行到し、コッペン警部の指揮のもと鑑識作業とイェシカの訊問が行なわれる。ベルリン・ターベブラット紙の記者ゾムライが取材を開始する。マルヨリーは自殺したのか、殺害されたのか。マルヨリーの性格からすれば自殺は考えられない。著名人イェシカと同居人マルヨリーの周囲には複雑な人間関係が築かれていた。イェシカの口から、4人の男の名前が漏れる。捜査班は直ちに捜査に着手する。
これがアルナウの担当した第一回の内容である。殺人が起こり、警部の捜査がスタートする。数名の容疑者の名が浮かび上がる。典型的なフーダニット・ミステリの第一章である。このあと、担当者が変るにつれてストーリは複雑になり、死んだはずの人物が現われたり、第二の殺人が起こったりと錯綜を極め、奇怪なウォレス・ミステリの様相と呈するにいたる。影のようにつきまとう新聞記者ゾムライに捜査員(あるいは作家)はなんの注意も払わない。アルナウに続く7人の作家[42]が思いつきのアイデアを詰め込み、収拾のつかない展開を見せるのだが、ここでは細部の紹介は必要ないだろう。第十回目にアンカーのアルナウが縺れに縺れたストーリを解きほぐし、謎解きをするのだが、アルナウといえども混乱のすべてに収拾をつけることはできなかった。犯人は新聞記者のゾムライというのが解決なのだが、「盲点原理」(新聞記者=見えない男=犯人)と「密室殺人」のトリックを組み合わせたプロット[43]は、アルナウが(おそらくハースも)当初考えたようには進行しなかったようだ。だがここでは、このリレー推理小説の成否を云々するつもりはない[44]。ここでは、アルナウが犯人捜しの謎解き<フーダニット>のプロットをこの作品で初めて試みたということ、それが戦後のブリューアー警部ものを始めとする警察小説に確実に継承されていくこと、さらにまた、この『閉ざされた扉』の素材とプロットがすでに述べたアルナウ特有のcannibalizingの能力に負うていることを指摘しておきたい。それらは、戦後の警察小説に反映されるという進行方向だけではなく、逆の方向、つまりアルナウのワイマール時代の新聞記者生活から生まれてきたものでもあるのだ。
アルナウが<フランクフルト新聞>(Frankfurter Zeitung)の記者として活動していた1925年夏、フランクフルトの社交界で令名を馳せていたアーダ・ホーフ(Ada
Hof)がシューマン劇場の観劇をおえて帰宅したのち不可解な拳銃自殺を遂げるという事件が起こった[45]。二発の銃弾が発射され、そのうちの一発が致命傷となったのである。警察は自殺の線を崩さず、捜査は打ち切れられた。アーダ・ホーフの知己でもあったアルナウは自殺という発表に不審を抱き、自力で捜査を始めるのである。発見された二発の銃痕の位置から自殺はありえず殺人であるとの確信にいたる。さらに捜査をすすめたアルナウはアーダの元愛人の存在を突きとめる。すでに老境に達した元愛人の男を捜し出して、事件の夜の出来事を問いただす。それは恋愛感情のもつれから、口論の末に起こった拳銃の暴発事故だったのである。アルナウは真相を伏せたままにして、事件について暗示的な報告を記事にする。興味深いのは、『閉じられた扉』においてこのプロットをほぼそのまま用いていることである。新聞記者を犯人とする「盲点原理」のトリックが異なるが、これは先に述べたようにハースのアイデアである可能性が高い。いずれにしても、アルナウがアーダ・ホーフの素材、そしてまた『閉じられた扉』のプロットを戦後の警察小説のいくつかに再利用していることは間違いない。もっとも顕著な例はロサンジェルス市警のブレナン警部を登場させる『ハリウッド殺人課』(Mordkommission
Hollywood)である[46]。これは失敗作に終わったリレー推理小説を27年後にして1人で構成しなおした観があるが、それはアルナウが意図したことだったに違いない。舞台はハリウッドだが、むしろ20年代末のベルリンと映画都市バーベルスベルクを彷彿とさせる。新聞記者ジョージ・パーカーが犯人であり、そしてまた事故に遭遇して供述が不可能になる「不完全解決」のモチーフも使われている。アルナウは、1932年にリレー推理小説という形で<フーダニット>の世界に入っていった。そして、その素材とプロットを30年近い年月の後に完成させたのである。
5. 褐色のペスト ― そして60年代へ
アルナウがナチスの宿敵であったことはすでに述べたが、その敵対関係は32年末から33年初頭にかけてアルナウがゲーリングを始めとするナチスの指導者たちの収賄事件を暴いたころから先鋭化の一途をたどった。アルナウは広報コンサルタントを務めていたBMW社がゲーリングらのプロイセン政府(および第三帝国)のナチス高官に賄賂を贈ったことを暴露した記事を発表したのである[47]。ナチスにとってアルナウは極めて危険な人物だった。ナチスの政権奪取以降、ベルリンのアルナウの自宅はプロイセン警察の恒常的な監視下におかれた。すでに述べたように、身の危険を察知したアルナウは33年4月1日にオランダに逃れるのだが[48]、ヘルマン・ゲーリングの指導のもとに33年4月26日に設置されたゲシュタポはアルナウの国外での活動に神経を尖らせた。アルナウはオランダへの逃亡後の33年から34年にかけて、バルセロナ、パリ、ザールラントを頻繁に行き来して反ナチ抵抗運動に協力していたのだ。とりわけザールラントが焦眉の急だった。ヴェルサイユ条約によって連合国統治下にあったザールラントは1935年1月31日に国民投票によって帰属を決定することになっていたからだ[49]。ナチスの御用新聞だった『ベルリナー・ヘラルト』紙はジャーナリズムのなかでもアルナウ攻撃の急先鋒だったが、そのザールラント・キャンペーンもたけなわの頃、アルナウはこの新聞に偽名を使ってザールラントのナチスを虚仮にする記事を送った。ナチ心酔者を装って愛国者と反ナチ活動家の名を逆にしてナチスを賛美するという内容だった。それはそのまま、『ベルリナー・ヘラルト』紙に掲載され、同紙はザールラントの住民の大笑いの的になったという[50]。こうしたザール帰属をめぐる闘いのさなか、アルナウはナチスの暴虐を暴露する小説『褐色のペスト』を執筆中であり、近々出版すると発表したのである。
〔図←アルナウの『褐色のペスト』の予告を出したWiener Sonn- und Montag Zei tung. 23. Oktober 1933〕
アルナウの自伝(Gelebt, geliebt, gehasst)の巻末にある著書リストによれば、『褐色のペスト』は1934年、ザールブリュッケンの<ドイツの自由出版社>(Verlag Deutsche Freiheit)から出版されている。だが、原稿はすでに失われているというし、著書としても一部も残されていないようだ。ザールラントで勝利したナチスが全部数を没収し、焚書処分にしたのだろう。したがって、『褐色のペスト』がどのような内容だったのか、今ではもはや知ることはできない。リヒァルト・アルブレヒト(Richard Albrecht)は33年から34年にかけてのゲシュタポの資料からアルナウに対するゲシュタポの追及と陰謀を復元することによって、『褐色のペスト』の内容にいくらかでも迫ろうとする試みを行なっている[51]。それによれば、ゲシュタポは『褐色のペスト』の出版をあらゆる手段を使って阻止しようとしていたようだ。ナチ高官(おそらくゲーリング、ゲッベルス、ヒトラーを含むだろう)およびドイツに対する「誹謗中傷に満ちた」書として、出版と内容についての情報を躍起になって追い求めていたことが分かる。1934年2月27日のゲシュタポの報告には、「・・・フランク・アルナウはあらゆる手段を用いてドイツの信用を失墜させようとしている国家反逆者であり、モスクワからの資金援助を受けて、書類を偽造しモスクワに送っている・・・」[52]。アルブレヒトはアルナウ追及に関わったベルリン市警コンラート・ヌスバウム(Konrad Nussbaum)警部の役割を重要視しているようだ。ヌスバウムはベルリン・ゲシュタポの協力者であり、国会議事堂放火事件の捜査を担当していた。1934年にはベルリン警視長官アルトゥーア・ネーベ(Arthur Nebe)のもとで諜報活動を指揮していたが、同年5月半ばフランクフルトの刑事警察部長に左遷され、7月2日には保護拘束されている。こうしたヌスバウムの失墜と『褐色のペスト』の出版(および内容)となんらかの関係があると推測している[53]。
ここでは別の方法をとってみよう。すでに『閉じた環』、『閉ざされた扉』について考察してきたように、アルナウという作家はcannibalizingの天才であった。つまり、すでに用いた素材やプロットを再利用して新たな作品を構成する能力に長けた作家である。とすれば、1934年にアルナウが書き、その後永遠に失われてしまった『褐色のペスト』のさまざまな部品は、戦後のミステリ作品のどれかに再利用されていると考えるのが自然ではなかろうか。そのような視点から見るならば、1958年に出版された『死者の証人のみが沈黙する』(Nur
tote Zeugen schweigen)[54]がもっとも有力な候補であると思われる。この作品は、カリブ海に浮かぶ小国プエルト・トリンダーデとニューヨークを舞台として、独裁政権下で激しい弾圧に苦しむ国内の反政府運動の過酷な運命を描きだすことから始まる。ニューヨークに亡命している反政府運動の指導者は、そこから武器の調達や搬入、軍事作戦の指揮をとっている。独裁政権の警察長官は派手は振舞いを好む、ゲーリングを思わせるずんぐりした男なのだが、この反政府運動指導者の誘拐を計画し、ゲッベルスを思わせる「びっこの」諜報部長をニューヨークに送り込む。市内での誘拐は周到に計画され、反政府指導者は巧みに拉致され、小国に飛行機で輸送される。後半はこの飛行機の操縦を任されたアメリカ人青年の悲劇に終わる運命を描くのであるが、反政府運動指導者を飛行機を用いて拉致するプロットは、ゲーリングが空軍大臣であったことも想起させるところであり、1933年から34年にかけての反ナチ亡命者が抱いていたゲシュタポによる拉致、殺害といった恐怖と共通している[55]。『褐色のペスト』が当時の亡命者の不安を反映しつつ、ゲーリング、ゲッベルスにそっくりの男たちの犯行というグロテスクな揶揄と滑稽さによって、痛烈なナチ批判の書となっていたのではあるまいか。
『褐色のペスト』から34年後、ドイツの戦後ミステリ界に華々しい復帰を遂げてから12年後、アルナウは再び忘れられた。第二代リュプケ大統領のナチ時代の犯罪を告発する1968年1月22日号のシュテルン(Stern)誌には、強制収用所建設に携わったリュプケのナチ時代の署名と大統領になってからのリュプケの署名のを比較した筆跡鑑定が発表されたのである。その鑑定をニューヨークの著名な筆跡鑑定学者に依頼したのはフランク・アルナウだった[56]。ナチ時代の筆跡と同一との鑑定が出されたのである。西ドイツの反応は芳しくなかった。鑑定は東ドイツ共産主義者によるプロパガンダであり、署名は偽造であるとの言説が一般化した。当初全面否定を繰り返していたリュプケ大統領は引退表明をする。そしてリュプケは忘れ去られた。フランク・アルナウもまた忘れられた。アルナウにとっては二度目のことだった。
6. アルナウのミステリ小説リスト(参照しえたもの)