
ドイツミステリの忘却装置
(『ROM』2003年2月号所収)
昨年(2002年)夏のことだが、ドイツのミステリーファンクラブ<クリーミ・フォールム>がHPでドイツミステリーの名作百冊を選ぶアンケート調査を行った。アンケートの方法は、時代を問わず、好みの作品を5冊あげるというものだ。集計結果は秋にHP上に発表され、いまも見ることができるので、興味のある方は、
http://www.krimi-forum.de/Seiten/top100/top100.html
をごらんいただきたい。好みの作品をあげるという人気投票でもあり、また、集計総数も千に満たない小規模なアンケートなので、ドイツミステリーの全体像を知るにはあまり役立たない。それでも、このアンケートの集計を見ながら、いくつかの感慨を抱いた。
アンケートの結果は、現代ドイツ・ミステリーとクラシック・ミステリというふたつのグループに分けて集計されているのだが、このふたつのグループを分ける線は、1985年に設定されている。その理由は、もちろんいくつかあげてある。たとえば、1985年がドイツ・ミステリ大賞が創設された年であることもそのひとつだ。また、この年前後をして作家の世代が交代し、ドイツミステリーが大きく変わったことも事実なのだが、この集計法はドイツミステリーにとっては、ややいびつな印象を与えるものとなった。ふたつのグループにはそれぞれ20位までの作品があげられているのだが、クラシックミステリーのグループでは、およそ百年間のドイツミステリの作品がわずか20冊に限定されることになったからだ。
アンケートはあくまでミステリー・ファンによる人気投票であり、時代区分はその集計数を反映するものでもあろう。一般的にいって、古い作品が軽視され、忘れられるのはやむをえないことではある。だが、ここにはドイツのミステリーファンの共有するある特定の捉え方(偏見とは言わないまでも)とタブー(あるいは神話)がひそんでいるようにも思われる。それは、たとえば端的に、旧東ドイツ(旧ドイツ民主共和国)の作品がひとつも入っていないことにも現れている。旧東ドイツが建国後の40年間にわたって、数多くのミステリ作家を生み出したことは、きれいに忘れられている。1985年という区分線が引かれれば、1989年に崩壊した国家に属したミステリー作家たちは自分の作品を抹殺されたも同然である。なぜなら、旧西ドイツにおいては、「ミステリは民主主義国でなければ(少なくともいいものは)育たない」という、おそらく今ではだれも信じないような神話が生きていたからだ(いや、おそらく今でも生きているのだろう)。
だが、他方の蔑視は、自身の傲慢につながったわけではなかった。民主主義国西ドイツは、おなじ神話を自身(とその過去)にもあてはめねばならなかったからだ。ナチスの時代には数多くのミステリー作家が活動し、膨大な数のミステリー作品が生産されたことは、忘れられなければならなかった。戦後、執筆禁止が解かれた作家たち、あるいは、亡命先から帰国した作家たちが書いた無数のミステリー小説を、大衆は喜んで享受した。そして、読んだはしから忘れていった。忘れなければならなかったからだ。つまり、ややうがった見方をすれば、1985年という年の前後は、過去とはもはや直接つながりのない戦後世代のミステリー作家たちが、ようやく活動を開始した時でもあったのだ。
もう一度、アンケートの結果に戻ろう。このような(二重の)忘却装置のフィルターを通過したとすれば、19世紀から1985年までの百年のドイツ・ミステリーが、アンケートにはほとんど反映されていないとしても、なんの不思議もない。クラシックミステリーにあげられた20位のうちの上位4位までが、ともにスイスの作家であるフリードリヒ・デュレンマット(Der
Richter und sein Henker 1950年、Das Versprechen 1958年)とフリードリヒ・グラウザー(Wachtmeister
Studer 1936年、Matto regiert 1936年)の作品によって占められているのは象徴的である。もちろん、彼らのミステリーが名作であることは間違いない。だが、このことは、戦後の作家にせよ、あるいは戦前の作家にせよ、多くのミステリー作家たちが忘却装置にかけられたことを物語ってもいるのだ。
アンケートで興味深いのは、19世紀末のテーオドア・フォンターネ(1819〜1898)の作品がクラシックミステリーに選ばれていることだ。フォンターネの『梨の樹の下』(1885年)は、広い意味でのミステリー文学の名作なのだが、むしろ犯罪小説に近いといったほうが適切だろう。このあたりにも、ドイツミステリーのひとつの性格が現れている。ドイツ語で「ミステリー小説」を表わす言葉は、直訳すれば「犯罪小説」(Kriminalroman)である。近代小説が「犯罪」と「謎の解明あるいは暴露」という意匠をよそおうとき、ミステリー小説となるのだが、ドイツにおいては、いわゆる「探偵小説」は必ずしも雛形ではなかった。ドイツミステリーの起源といったことはあまり語られないけれど、E・T・A・ホフマンの『スキュデリー嬢』(1819年)や、W・ハウフの『ユダヤ人アプナー』(1827年)が論じられたりするのはこのためである。こうした傾向は、ドイツミステリーが「探偵小説」という様式を取り入れたのちも、犯罪者の側に描写の重点をおく犯罪小説的な側面が強いところにもうかがわれる。
アンケート調査にはないが、ドイツミステリーにおいて、探偵小説の様式を取り入れ、犯罪捜査に合理的な知性を駆使する近代探偵像を形象化したのは、ウィーンの女性作家アウグステ・グローナー(1850〜1929)が最初ではなかったかと思われる。彼女は1895年に、ヨーゼフ・ミュラーを主人公(警察の秘密捜査員である)とする一連のシリーズを発表した。探偵ミュラーは事件の解明に慧眼を発揮するのだが、暗い過去をもち、小柄で地味な中年男として描かれている。同時にまた、犯罪の背後に潜む心理的・社会的な面が強調されてもいる。ここにもまた、ドイツミステリーの特性がよく表れているといえるだろう。1910年頃には、Grace
Isabel Colbronによる、やや簡略化された英訳版が出版され、ドイツ語圏以外にも早くから紹介されていたが、ドイツでは長く忘れられていた。1985年に東ドイツの出版社から復刻版が出され、ようやく今日の読者にも読めるようになった。
20世紀に入ると、ドイツミステリーでも探偵小説は全盛期を迎えた。世紀初頭からすでに、数多くの作家が探偵小説に挑戦し、ベルリン、ウィーンの出版社が競ってシリーズを組んだ。なかでも探偵小説家として有名になったのは、バルドゥイン・グロラー(1848〜1916年)とパウル・ローゼンハイン(1877〜1929)だった。オーストリア人のグロラーは、1910年から1912年にかけて、タゴベルト・トロストラーを主人公とする13篇を発表した。ウィーン社交界を舞台にして才気を輝かせるアマチュア探偵であり、第一次大戦前の、古き良きウィーンを彷彿とさせるものがある。パウル・ローゼンハインは、1915年にジョー・ジェンキンズという名のアメリカ人探偵を生み出した。ジェンキンズはドイツや北欧の都市をめぐり歩く私立探偵であり、各地で起こる怪事件を解決するという趣向である。ジェンキンズものは第一次大戦後もしばらく書き継がれるが、もはや注目を浴びることはなかった。
20世紀の初頭から第一次大戦前後までの探偵小説の隆盛には、ドイル、ルブラン、ルルーらの影響に加えて、北欧の探偵作家の流行も一役かっていたようだ。ノルウェイの作家、スヴェン・エルヴェスタ(1884〜1934)が生み出したアスベルン・クラッグ探偵のシリーズは1907年に始まったし、スウェーデンの作家、フランク・ヘラー(1886〜1947)のフィリップ・コリン探偵のシリーズも1910年代にはすでに紹介されていた。さらに、1914年にスタートしたドイツ映画『アマチュア探偵−スチュアート・ウェッブス』もブームに油を注いだのだろう。この映画シリーズは大人気を博し、大戦後の1926年まで続いた。
だが、第一次大戦の敗戦とともに、探偵小説はドイツ語圏では急速に魅力を失っていく。敗戦国ドイツ、オーストリアでは帝政が崩壊し、共和国が生まれ、社会は激震に見舞われた。革命の嵐が吹き荒れ、非合理主義と暴力が席巻する時代が続き、やがてナチが台頭してくる。合理主義と知性によって事件を解決するという探偵像は、もはや説得力をもたなかった。それとともにドイツミステリーは、本来もっていた心理的・社会的な側面を再び強めながら、一気に拡大してゆく。犯罪小説というミステリー文学の性格づけは、混乱した社会相を描くのにむしろ適していた。社会小説、企業小説、幻想小説、スパイ小説といったジャンルは、ミステリー文学との多様な混交を繰り返した。ナチの政権掌握前のワイマール末期は、ドイツミステリーの第二の隆盛期だったのだ。
ヴァルター・ゼルナー(1889〜1943)をまずとりあげよう。ゼルナーは、チューリヒで大戦末期のダダ運動に参加したあと、ヨーロッパ各地を流浪しながら数多くの犯罪小説、コルポルタージュ、クライム・ノヴェルを書いた。かつてゼルナーに徴兵逃れの手助けを頼んだフランツ・ユングは50年代に「ゼルナーの『街角の口笛』からアイデアを盗めば、アメリカのミステリーなどいくらでも書ける」と称えている。彼の犯罪小説のリアリティは、ナチの反感を買うことになった。身に危険が迫るのを感じたのだろう。20年代末には執筆を断念し、プラハに潜伏するが、42年には妻とともにテレージエンシュタット収容所に送られた。
『ユダヤ人のいない街』(1922年)で有名なフーゴー・ベッタウアー(1872〜1925)もナチの犠牲になった。彼は自身の編集室で執務中にナチの扇動に乗った青年の凶弾に斃れた。ウィーン生まれのベッタウアーは1899年にアメリカに渡り、波乱に満ちた生活を送ったあと1910年にウィーンに戻ってきた。彼はセンセーショナルなジャーナリスト活動をしながら社会派ミリョー小説を書きまくったとされるが、デビュー作の『自己防衛』(1919年)はミステリー小説だった。彼はもともとミステリー作家をめざしていたのだ。新聞連載小説『喜びのない街』(1924年)は、むしろ現代的な感覚さえある傑作ミステリーである。
ウィーン生まれのオットー・ゾイカ(1881〜1955)も、実験的なミステリー小説にとりくんだ一人である。ゾイカは幻想文学作家として知られるが、1911年に発表した『権力の息子たち』は「未来派探偵小説」と銘打たれていた。マインド・コントロールが主題だが、ふたりの探偵とマフィアの首領との知恵比べが描かれる。『フィリップ・ゾンロウ事件簿』(1926年)はホームズのパロディだが、英米風の探偵の合理・主知主義に対する当てこすりが時代の雰囲気をよく伝えている。ゾイカとの関連では、レオ・ペルッツ(1882〜1957)も忘れてはならない。『最後の審判のマイスター』(1923年)は幻想ミステリー小説の傑作である。
ナチの政権掌握後もプラハで執筆活動を続けていたミステリー作家がいた。長くプラハのドイツ劇場の総監督を務めたルイス・ヴァイナート=ヴィルトン
(1875〜1945)である。ウォレスの物まねとみられたこともあったが、それは戦後のウォレス・ブームが生み出した伝説にすぎない。作品の質はウォレスをはるかに凌駕している。『白い蜘蛛』(1929)はゴルトマン社の選んだ「ミステリー文学傑作選」の1冊である。1929年からドイツに占領される1939年まで11冊のミステリーを書いたが、その後沈黙した。1945年夏、プラハのドイツ人用収容所で死亡した。そして、忘れられた。
忘れられた作家はほかにもいる。戦前からすぐれたスパイ小説、社会派ミステリー小説を書き、長い亡命時代を経て、戦後にミステリー作家として復帰したフランク・アルナウ(1894〜1976)もまた忘れられた。ナチ時代に数多く書かれたミステリー小説がきれいに忘れられたように。そして、社会主義国東ドイツのミステリー作家たちが忘れられたように。忘却装置は完璧である。