エッセイ:1901-2001
Essay: The First Centennial 1901-2001

2007年12月23日

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2005年5月4日:藤野玄洋について更新

2001年:外科の会誌に寄稿

 今から100年前の1901(明治34)年、つまり20世紀最初の年は、色々と記念すべき出来ごとがありました。その一つが官営八幡製鉄所の開業です。関門海峡の九州側で鹿児島本線に乗っているとスペースワールド駅近辺で製鉄所の鉄塔に「1901」という標識が目に付き、これにより「1901年溶鉱炉に火が入ったのだな」と容易に想像がつくでしょう。この同門会誌の出る今秋は、八幡の起業祭が盛大に催されることと拝察します。

 さて海峡の本州側、下関においても1901年は記念すべき年です。当時、下関市は赤間関市と呼ばれ(翌年、現在名に改称)、また下関駅は馬関駅と呼ばれていました。その駅に「山陽鉄道」が5月27日に開通し、2001年の同日、これを祝して蒸気機関車が記念運行します。また同年に、赤間関市の市立病院が市内の高尾の地に誕生しました。ただし当院の誕生日となると、市役所編纂の下関市史においても10月説と12月説とがあり、詳細は定かではありませんが、1901年が開院の年であることは間違いありません。

 白状すると小生はこの100周年のことを認識不足でしたが、今年の年始に下関市役所の公式ホームページ、websiteの病院局部門を編集するにあたり気付きました。偶々当院が現在の土地に移転して10周年となる1999年(平成11年)に赤尾元一前院長がそれまでの病院史を編纂して公文書を発行しており、この文書を電子化しながら気付いた次第です。

 当時、幕末から続いていたコレラ(当時感染すると急激な経過で「コロリ」と死ぬことから「虎烈刺」、「虎列刺」と言われて恐れられていた)患者の隔離病院(僻病院)が、1612年(慶長17年)宮本武蔵と佐々木巌流小次郎とが決闘した関門海峡の孤島、巌流島(舟島)にあったという史実もあり、感染対策のための病院が、当院の前身であったといえます。

 21世紀の現在、下関には当院の他にも基幹病院が3施設あり、各々が連携し、かつ競いあいながら市内および周辺郡部の医療圏をカバーしています。感染関係では、1世紀以上続いた旧伝染病法が1999年(平成11年)から感染症新法に代わりましたが、当院は新法2類疾患(コレラ、赤痢、チフス等)について山口県西部の拠点病院となっており、第2の世紀にむけて面目躍如というべきかと思います。

 19世紀の感染性下痢症について世界に目を転じると、1853-54年(嘉永6-7年:ペリー来航の年)のクリミア戦争におけるイギリス軍病院の伝染性下痢症(コレラ・チフスと推察されている)が想起されます。ご存知のとおり近代看護の創始者フローレンス・ナイチンゲールが活躍した現場ですが、当時の記録を読むとScutariの野戦病院では排泄物(糞尿)と悪戦苦闘し、まず清潔な環境づくりから始めています。看護面における感染対策の先がけともいえると思われます。彼女は1910年に90歳の長命で没しました。

 一方、1903年(明治36年)九州大学医学部(当時名「京都帝国大学福岡医科大学」)が創立されました。時局は日露戦争に向かう頃であり、医学関係では感染症学が黄金期を迎える頃でした。自験談で恐縮ですが、北京の日中友好病院(中国名「中日友好医院」)に内視鏡外科の仕事で赴任していた1995年は、1895年の日清講和会議が下関の春帆楼で行われて1世紀という節目で、対日感情が微妙であったことを記憶しています。なお今日料亭となっている春帆楼<ウエブサイトへのリンク>の前身は、中津出身の医師藤野玄洋が西南の役における戦病者を治療するために開いた月波楼医院ということです(佐藤裕先生のpersonal communication◆ここは娯楽休憩所超然亭(中津市)であった!)。

 さて当院の第1世紀は公式サイトで赤尾前院長が詳述していますのでご高覧ください。ただし97年目の1998年からは記載が途絶えていますので補足させて頂きます。

 その後の大きなプロジェクトとしては、「病院情報システム」の立ち上げがあります。視察団が国内の数ヶ所の施設を回った後、全部所を統合した会議が数あまた持たれて、2001年春をもって完工しました。いわゆる情報技術(IT)の時代にむけ病院一丸となって取り組んだことは、当院がまとまる好い機会となったとも言えます。このシステムは現在Hospital Information System、HISと命名されていますが、俗にいうオーダリングシステム(東芝の登録商標)です。

 このHISはback upの時間が1日のうちで未明の時間帯にありますが、病院全体を繋げているネットワークは24時間動いています。このintranetにおいて疑似ホームページを感染管理委員会も24時間利用しており、緊急情報、サーベイランス結果や電子マニュアルを掲載しています。その成果を今夏の日本消化器外科学会総会シンポジウムで「IT化感染対策」として話題提供させて頂く予定です。サイト名は題して「e感染委員会」としています。

 当院は救急患者が多数来院しますので、夜間を含む時間外にどのように対応するかは、毎日の切実な問題です。たとえば赤い下痢便を主訴とする患者と如何に対応するか、は実際的かつ法的報告義務を伴う任務です。今春、院内の外科カンファランスで、「市内でO-157の症例が散発しているので要注意」と伝えた直後の週末にO-157症例に遭遇しました。その事例では虫垂炎を伴っており、虫垂切除術まで受けていました。Vero毒素を確認するまで「まさか3類疾患(腸管出血性大腸菌感染症)ではなかろう」と思われましたが、周術期から厚労省による手術室の消毒などの通達を守って対応しており、ITシステムのお陰と感じました。

 このように100年前でも現在でも、コレラといい、O-157といい、感染症は常に地域住民に対して脅威です。さらに結核も若い世代と超高齢者を蝕んでおり、当科においても肺切後の患者に再燃してくることも稀ではありません。

 19世紀、巌流島において先人が伝染病に対して当院の前身なる施設を開設した時と同様に、21世紀の現在も「新興感染症」や「再興感染症」と闘う毎日です。特に日常の外科臨床もMRSAや、今後はVREなど強敵が控えています。近い将来、病院機能の評価に感染対策が重要な一項と目されるように、さらには行政が感染専門医(Infection Control Doctor、ICD)を中規模以上の病院に配置を義務付けるといわれるように、感染対策は重要な位置を占めるかと思われます。いみじくも2000年の沖縄サミット会議のキーワードは「感染症」と「IT」でした。

 どうか若い世代の医師は外科技術の習得は言うに及ばず、ITや感染管理についても一層の関心を持っていただくよう、切望します。併せて「自分や家族が患者であって、手術を受けるとしたらどうしてほしいか」という視点で毎日の患者さんを診て頂きたいと祈念します。

記念SL号の汽笛響く下関にて

2001(平成13)年5月27日

謝辞

 日本医学史学会会員 佐藤裕先生には時代考証を賜り、感謝します。

現在の巌流島の航空写真。19世紀ここにあったコレラ隔離病院が当院の前身ともいえる。下関観光コンベンション協会の許可による。