●2010年2月8日
秘すれば花なり
お
そらく20年ぶりくらいで、世阿弥『風姿花伝』をはじめから読み返したのは、竹本幹夫訳注で現代語訳付きという版(『風姿花伝・三道』角川ソフィア文庫)を書店で目にしたから。前に読んだのは岩波文庫だった。
能の理論書、日本最古の演劇論というだけではなく、あらゆる芸能や文芸にも通じる話ばかりだとあらためて痛感した。
とくに演劇の理論とあわせて興行としての成功や役者の浮き沈みなどについて語られているあたり、なかなか面白いのだ。
ちょっと長い文章となるが、たとえば次のような箇所。(花伝第七 別紙口伝 一、因果の花を知る事、極めなるべし)
〈また、時分にも恐るべし。去年盛りあらば、今年は花なかるべき事を知るべし。時の間にも、男時・女時とてあるべし。いかにすれども、能にも、よき時あれば、かならず悪き事またあるべし。これ、力なき因果なり。〉
〈また時の運に対しても恐れ慎まねばならない。前年に芸の花を大いに咲かせて人気を博したならば、今年は芸の花が咲かず、人気も低迷するかも知れないことを認識せよ。短い時間でも、運気の上昇期の男時と、下降期の女時というのがあるであろう。どのように工夫しても、能の場合でも、よい時があれば、必ず悪いこともまたあるものなのだ。これは人力ではいかんともしがたい因果なのである。〉
〈これを心得て、さのみに大事になからん時の申楽には、立合勝負に、それほど我意執を起こさず、骨をも折らで、勝負に負くるとも心にかけず、手をたばひて、少な少なと能をすれば、見物衆も、「これはいかやうなるぞ」と思い醒めたる所に、大事の申楽の秘、手立を変へて、得手の能をして、せいれいを出だせば、これまた、見る人の思ひの外なる心出で来れば、肝要の立合、大事の勝負に、定めて勝つ事あり。これ、めづらしき大用なり。このほど悪かりつる因果に、またよきなり。〉
〈これを理解して、大して重要でもないような興行の時には、他座との勝負との立合でも、少し勝ちにこだわる気持ちを抑えて、あまり演出に凝ったりもせず、勝負で負けても気にかけず、力を温存して、控えめ控えめに能を演じれば、観客も「これはいったいどうしたことだ」と期待がはずれて失望しているところに、(貴賓の見物があるような)重要な興行日に、やり方を変えて、得意の能を演じて、あらん限りの工夫を繰り出せば、前とは打って変わってまた、観客は意外性を感じるから、肝心の大切な立合勝負に、必ずや勝つことになる。これこそが、珍しさの大きな効用である。それまでよくなかったという「因」の結果として、またよいということになるのである。〉
と引用しだすときりがなくなる。
能だけの話にとどまらないというあたりでは次のような文章はどうだ。
〈経に曰く、「善悪不二、邪正一如」とあり。本来よりよき・悪しきとは、なにをもて定むべきや。ただ時によりて、用足るものをばよきものとし、用足らぬを悪しきものとす。……〉
〈仏典に、「善と悪とは別のものではなく、正と邪とは表裏一体だ」とある。あるものについて、もともと良いとか悪いとかは、なにを基準に定めたらよいのか。基準などあるまい。ただその時と場合により、役に立つものを良いものとし、役に立たないものを悪いとするのである。〉
よい小説とはなにか、よい書評とはなにかといった話でも、通じる部分がいくらでもあるように思う。
って書きながら、まだ最後まで読んでない。巻末解説もたっぷり五〇頁ある。各社から出ている古典は、ときおり違う版で読み返すのもいいかもしれない。
環境改善
ず
っと液晶画面の壊れたノートパソコンにモニターをつないで使っていたのだけれども、やはり何かあったとき心配なので、ディスクトップパソコンを新調した。
無事、面倒な設定やソフトやファイルの移行も終わった。大きなモニターも購入したため、目に優しい。
そんなあれやこれやに時間をとられる。忙しくて余裕がないとまずテレビを見なくなる。いわゆるお笑い番組や深夜番組も近頃ほとんど見てない。大人しくお仕事。大量の古いペイパーバックが待っている。
まさに「非道を行ずべからず」、遊んでないで芸を磨きなさい。
いろいろ話題はあるけど、また次回。
●2010年2月3日
アバター変わりはないですか、日ごと寒さがつのります
よ
うやく、昨日、3D映画「アバター」を見た。IMAXシアターだ。大迫力だ。吹き替え版で画像を見るのに専念。これはもう圧巻でした。
見る前に、物語はたいしたことない、との噂を聞いていた。だが、もうひとつ、アメリカ白人によるインディアン(殲滅)・コンプレックスの表れ(?)といった話も目にしてた。そのあたりの興味もあったのだ。
なるほど類型的な悪役との対決が中心ながら、たしかに騎兵隊vsインディアン(もしくはアメリカ軍vsベトコン)のような展開。
まえにコーマック・マッカーシー『ブラッド・メリディアン』の話で、バローズ『ウォー・チーフ』という作品を挙げたけど、これ大まかに言えば「アバター」の主人公造詣や話の骨格が同じだ。アメリカの原罪。
バローズ『ウォー・チーフ』は、白人の子供がインディアンに育てられ、やがてインディアンの勇者(王)として圧倒的な武力を誇る騎兵隊と戦う。で、この原型をたどるとジェームズ・フェニモア・クーパー『モヒカン族の最後』にたどり着く。
一方の「アバター」は地球人の兵士が惑星パンドラのナヴィ族に近づき、やがて彼らの勇者(王)となり、圧倒的な武力を誇る地球人と戦う話。もともと足が不自由であるという主人公設定も、地に足をつけてない者=あの世、むこうの人という意味だったのだな。
いや、もうこうした裏読み、神話的な解釈についてはあちこちでさんざん指摘されているところなのだろう。
ハメットの項目がある
2

年ほど前の刊行時に紹介した渡辺利雄『講義 アメリカ文学史』全3巻(研究社)の「補遺版」が先月刊行されたのだった。
で、このなかの第99章は「ダシール・ハメット」。
我が国のアメリカ文学者、いわゆるアカデミズムの分野でも、ハメットやある種の犯罪小説作家は無視できない対象になっているのだった。
本国ではとっくにそうした扱いだけど。
(追記:たぶん。少なくとも The Library of America には、ダシール・ハメットの Complete Novels と Crime Stories and Other Writings の二巻が収録されている)
ゾンビを存分に
そ
んなわけで、ジェイン・オースティン『高慢と偏見』を読んだ後、オースティン&セス・グレアム・スミス『高慢と偏見 とゾンビ』(二見文庫)を読んだら、ほんとに『高慢と偏見 とゾンビ』だった。
パロディとかパスティーシュというのではない。まんまゾンビの要素を加えただけ。あとニンジャも。とてもおかしかった。
面白がりたいのなら、このオースティン&セス・グレアム・スミス『高慢と偏見 とゾンビ』を読む前にかならず原典を読むべし。
それにしても、映画だとレディ・キャサリンは誰が演じるのだろうか。
そういや前にWOWOWで二階堂正宏の漫画「極楽町一丁目 嫁姑地獄篇」のショートドラマ版を嫁役がベッキー、姑役が室井滋でやってた。これ、構図が『高慢と偏見 とゾンビ』のエリザベスとレディ・キャサリンとの関係にほんのちょっとだけ(いや、かなり?)似てる。いま気づいた。
話題はまだまだあるけど、略。










