お知らせ 1月6日 2009年

リニューアルしたので、 home 画面に移りました。



来年がよい年でありますように 12月28日 2008年

音楽CDもレアな名盤という類いはほぼ出尽くしたのか、ちょっと前までは最新デジタルリマスター盤や紙ジャケ盤での再発ばかりだった。

 で、最近は SHM-CD での再発盤をやたらと売り出している。CDの素材や製造技術が違うことで音がよくなるという。
 確かに、盤によってはリマスターしてないのか、ひどく音が悪いのがある。特にワーナー系だったか、あきらかに音がこもっているCD。
 でも、たいがいのものは、それまでのCDと新たなSHM−CDとたいして違わないような気もする。わたしの耳が悪いのか。

 で、ユニバーサル・ビクターに対抗してか、ソニーも負けずに Blu-spec CD なんてのを出し始めた。そうやってひとりの客に何枚も買わせる商売。むかしは、ラジカセで音楽聞いていたのになぁ。

 その点、本は、活字を大きくしたとか海外物なら新訳したとかいうのはあっても、紙の素材を変えましたというのはない。表紙カバーを新しく人気漫画家に描いてもらいました、というのはあるか。
 あと京極夏彦氏の熱烈なファンなら、同じ作品でも、単行本、ノベルス、文庫、愛蔵版といった違いを全部集めているかもしれない。

来年最初の仕事のため先週後半はミステリ系を中心に日本作家による新刊ばかりを読んでいた。(タイトルを挙げると小路幸也『残される者たちへ』、辻村深月『太陽の座る場所』、米澤穂信『儚い羊たちの祝宴』、鏑木蓮『エクステンド』、三浦しをん『光』、篠田節子『仮想儀礼』、東山彰良『ジョニー・ザ・ラビット』……)

 で、そのなかの篠田節子『仮想儀礼』は上下巻ハードカバーなのだが、やたらハードな印象がした。中身ではなく装丁。
 なぜかといえば、本の背(せ)の部分が丸くないのだ。いわゆる弁当箱本の古川日出男『聖家族』もそうだった。

 左の写真のうち、上が『聖家族』、次が『仮想儀礼』上巻で、いちばん下が三浦しおん『光』。普通は『光』のように背表紙は丸みを帯びている。だが四角いと、なんだか堅く見える。

 しかし、カバーの厚紙自体の堅さは、どれも変わらないようだ。
 それでも、本棚からあれこれ引っ張り出して比較してみると硬度の違うものもある。柔らかめのハードカバー。いや、ちゃんと硬度計で測ったわけじゃないけど。
 いったい最高にハードなハードカバーなんてのがあるのだろうか。表紙がジュラルミンで出来ているとか。

そんなわけで、年内の仕事を終えたものの、じつはまだ古川日出男『聖家族』を読んでないのでこれからなのだった。
 花村萬月『ワルツ』も志水辰夫『みのたけの春』も角田光代『森に眠る魚』も恒川光太郎『草祭』もこれから読むつもり。たのしみ。大掃除や年始の準備をせなあかんので年内に読み切れないか。

きのうは、おそらく今年最後に見る劇場公開映画だと思うが、アラン・コルノー監督・脚本「マルセイユの決着(おとしまえ)」を見に渋谷へ。
 原作はジョゼ・ジョヴァンニ『おとしまえをつけろ』で、ジャン=ピエール・メルヴィル監督「ギャング」(66年)のリメイク。今回ギュを演じるのがダニエル・オートゥイユで、マヌーシュがモニカ・ベルッチ。見逃すわけにはいかない。満足。
 でも劇場がミニシアターで寂しい。客は六〇過ぎのお年寄りばかりだった。

 残念ながら「ギャング」を見てない(もしくは覚えてない)のだが、たぶん落語の大ネタがかかった、という感じなのではないか。噺家によってそれなりに異なるけれども、元の話がよくできているから、達者な人が演じれば堪能できる。名人級ならなおよろし。

そんなわけで、ミステリ関連でまだ話題はあるけれども、またいずれ。
 よいお年を。



更新するつもりはなかったのに 12月26日 2008年

ついに私の求めている商品が出たのか、と思った。

 というのも、本日、某家電量販店をぶらりと歩いていたら、とある一角に電子辞書でもなくミニノートでもない、キングジムのデジタルメモ「ポメラ」という製品が目にとまったのである。

 最近安くなったとはいえミニノートではいろんなソフトが入ってると立ち上がるのに時間がかかってしまうだろう。その点。これはあくまでテキスト入力に特化した電子機器、なので、あっという間に起動するのだ。
 しかも電子辞書サイズなのに折りたたみ式の17mmパンタグラフキーボードつき。

 さっそく家に帰って検索してみると、こんなページが。そう、おっしゃるとおり、NECのモバイルギアの現代版を待っていたのだ。
 たとえばこの「ポメラ」、「起動が2秒」も重要だが、電源が「単4アルカリ乾電池×2」。これは大切なところだ。いちいちACアダプターをつなげて充電なんてしたくない。予備の電池さえ持ってればどんな山奥でも辺境にいても海外旅行中でも安心である。問題はバックアップだが、ちゃんとメモリーカードもUSB接続もある。
 じっくり使ってみないと分からないとはいえ、店でちょっといじってみた感じだとシンプルすぎるくらいシンプルなのがいいかも。いや電子辞書がついてたら、より便利か。

 あとは先のサイトの方も指摘していたが、価格設定だ。税込価格¥27,300。2万以下で買えて、十分に使えることが分かれば、2台3台ほしいかも。
 安ければ安いほど旅行とかに持っていきやすい。万が一、壊れたり失くしたりしても、ショックの少ない金額だといい。高機能携帯電話やミニノートパソコン以上の魅力となる。単にテキストの記録だけだからこそ、ノート代わりとして使い勝手があるのだ。

いや、ホント、余裕はないのであとは略、としたかったけど、せっかく書いたので、あれこれ。

 やっとジョニー・トウ監督の映画「エグザイル・絆」を見た。おなじみの面々が出演の香港映画ながら、マカオが舞台でというところで、ちょっと変わったエキゾチックな感じがしたものの、まぁ、スタイリッシュな大人のドンパチごっこという作品。楽しんだことは楽しんだけれども、なんというか、その……、好きな人は満足な映画だろう、たぶん。

一昨日の深夜はフジ明石家サンタと爆チュー問題クリスマスを見て、昨日はTBS小田和正「クリスマスの約束」を見たあとフジ「たけしのコマ大数学科」のスペシャル版を見る。
 この番組 を毎回を見ているとビートたけしは2回に1回くらい、数学的な「ひらめき」の解答も、丹念に法則をみつけて式を導く正攻法の解答も、いわゆる「美しい」(シンプルで奥深い)解き方の解答もちゃんとしている。

 で、今年のいつだったか、別のなんかの番組か忘れたけど、ゲストでガダルカナル・タカが話していたのだが、「殿(ビートたけし)がいちばん興味あるのは、お笑いでも映画でもない。数学の問題を解くこと」なのだという。

 そういう人のつくる映画がああいった(不合理な情念の世界?)ドラマであるところがまた興味深いところだ。

もうひとつ話題があったのだけれども、また次回。はやく寝るべし。



イヴ・イヴ。 12月23日 2008年

HMVとビーケーワンが提携したことで、いま金額にかかわらず一冊から送料無料!というのが続いている。そろそろ終わるかな。

「M1グランプリ2008」はどことなく「いまひとつ」。みんな緊張しすぎてか、乗れてない感じ。会場の雰囲気も悪い。唯一よかったのが「NON STYLE」で優勝は当然のこと。

 最近とっても面白かったお笑い番組は、先週末の「検索ちゃんネタ祭り2008」だった。テレ朝「爆笑問題の検索ちゃん」の年末特別プログラム。
 仕事の関係で途中からテレビをつけたため髭男爵と次長課長は見れなかったが、友近の「シガニー・ウィバー」ネタからトリの爆笑問題の時事漫才まで、ふだんあまりお目にかかれない芸をたっぷり楽しんだ。バナナマンの「日村は実は女だった」というコントは初めて見たし、土田晃之&東貴博が U-turn、デンジャラス、プリンプリン、BOOMERなど懐かしの「ボキャブラ」常連メンバーのネタを再現するという一部ぐだぐだなものも含めて、テレビの第一線で活躍している笑芸人たちが深夜枠でのびのび(好き勝手に?)やってる姿こそ、わたしは笑えるのだった。

前回の「本格の優秀なDNA」という表現は、おそらく競馬でいうと「サラブレットの血を引いている」(優秀さ)という意味なのでしょう。血統書付き。その世界で通用する突出した特質をしっかり受け継いでる。
 まぁ、それは単なる童謡「ぞうさん」にすぎないのかもしれないけど。お鼻が長いのね。そうよ、母さんも長いのよ。

 で、わたしが問題にしているのは、たとえば前にも書いた、「やんきー」が増えれば「ケータイ小説」が売れる、というような話。
 一流大学を出て一流企業につとめバリバリ仕事ができる優秀な女性はキャリアを重ねてもなかなか結婚もしない傾向にある(ようだ)。したがって優秀なDNAを継ぐ(?)子供も生まれない。そうしたキャリア・ウーマンの方々はおそらく読書も知的で趣味のいいものを好むかもしれないが、愛読書はひとそれぞれ。
 しかし、暴走族やら不良やらとつきあっている女やんきーは十代で子供をたくさんつくって、その娘らが「あゆ」の歌に共感し、横書きの「あゆの物語」である人気ケータイ小説をこぞって求める。口コミで広がりそれが圧倒的なベストセラーになる。
 ゆえにケータイ小説は売れまくるけれども、大人の読む質の高い(?)小説の市場はやせ細っていくばかり。いまの時代、大量に売れないと意味がない(???)のだ。

 足の速い馬ほど競馬界で活躍できるように、頭がよくて仕事ができればお金を稼ぎ経済的に豊かな人生をおくれるかもしれない。が、それがほんとに幸せか。なにより、その形が世代をこえていつまでも生き残れるのか。……というのが、遺伝子の大問題。

強い風が吹き荒れていて、寒いのかと思えばみょうに生暖かい、という変な気候もどうやら終わって、ちゃんとした冬になっていくようだ。
 そんなわけで、予定どおりにいかない。別な話題に触れようと思っていたのに。



年末進行 12月18日 2008年

この時期、個人的にベストテンよりも興味深いのは、前回とりあげた「わたしのベスト3」とか「今年のこの一冊」というような企画だ。

 光文社のPR誌「本が好き!」の2009年1月号のテーマエッセイは〈今年読んだ「最高の一冊」〉。
 あの『生物と無生物のあいだ』『できそこないの男たち』の著者である分子生物学者の福岡伸一氏が挙げているのは、マーク・W・カーシュナー&ジョン・C・ゲルハルト『ダーウィンのジレンマを解く 新規性の進化発生理論』(みすず書房)という本である。

 遺伝上で生じた変異は全くランダムに起こり、長い年月を経て自然淘汰のふるいにかけられる。そこで環境に適応したものだけが生き残るのだ。
 だが、たとえば眼の複雑な機能はなぜ生まれたのか。レンズ、虹彩、網膜細胞、視覚情報を脳に伝える神経などなど、実に多くのサブシステムを必要とする。システム全体が完成するまでは機能しないサブシステムがなぜあっさり淘汰されず生き残り成立するのか。
 著者たちは現役の生物学者。細胞の形を作る細胞骨格の可変的なふるまい方や分化過程で起こる細胞間の拘束とその解除の仕組みの観察から新しい手がかりを得た。細胞は必ずしも遺伝子の命令どおりには動いていない。むしろ探索的に動いている。つまり「遊び」の余地がある。その遊びが、新しい可能性をもたらすのだ。利己的だとされていた遺伝子は、実はこう命じていうのだ。自由であれと。進化論を新たな段階に導く記念碑的な著作となる予感がする。ハードな内容だが、翻訳は大変読みやすい。
 と、後半の全部を引用してしまったが、この『ダーウィンのジレンマを解く』を読まないまでも、なんだか面白そうな話である。

どーでもいいけど、ひところ、いわゆる「本格系」の日本ミステリ作家の新作の帯に、「本格の優秀なDNA」というような表現があった。正確な引用ではないが、この手の文句を目にした覚えがある。

 でも、進化論からいうと、優劣ではなく、環境に適応できたかどうか、生き残ったかどうかということが重要なのでは?

 たとえばどんなに複雑で優れた目という視覚器官ができあがっても、暗闇では役に立たないのだ。問題は、その環境に適応できるかどうか。優れているからといって、そのDNAが生き残るわけではない、ということでしょう。
 そもそもDNAにいいも悪いも優れているもダメもない。いろんなものがあったなか、結果として「それ」がたまたま残っただけ。
 間違っていたらごめんなさい。

きのう、海野弘『ファンタジー文学案内』(ポプラ社)とか森瀬繚/クロノスケープ『シャーロック・ホームズ・イレギュラーズ』(エンターブレイン)とかいろいろ買う。

海外の出版社もリストラや廃業(?)の波に飲み込まれているらしい。扶桑社海外文庫・編集部通信からの情報。

まだまだ話題はたくさんあるけど、略。

 11月忙しかった反動か、12月になってからテレビばかり見てなまけていた。クラシコにトヨタ・カップとサッカーもぜんぶ見ている。いかん。

 あわてて新刊をむさぼり読む日々。



今朝、月が地球に最接近 12月13日 2008年

ついに1ドルが88円台に。いろいろと不況な話はとまらない。

今週は某ミステリ忘年会に某お祝い会(ベストセラーの恩恵これぞトリクルダウン)などであちこち出かける。

 久しぶりにいろいろと業界の噂話、裏話、悪口などを耳にした。にぎやかな世間。

そこで、あれこれ前々回の話に関する持論を力説する。

 わたしは何も年末のベストテンをまったくダメだと完全否定するわけではないし、ああしたお祭りがあるのは楽しいものだと思っているけれども、すべてがベストテンだのみでは困りもの、と言いたい。
 日々、新聞雑誌に新刊案内が広告され、書評欄であれこれ新刊評が載っているのを目にする。そして書店に並んでいる実物を手にとり、装丁や帯の文句なども含め、「ああ、なんか面白そうだな」と思って買う。
 これが基本でしょ。

 それぞれの人がそれぞれの本に「あたり」「はずれ」があるかもしれないけれども、まず手にとって読んでみなければはじまらない。ときに「まさかこんな本が出ていたとは」と、驚くことも少なからずや。
 イヤなのは、それ以前になにか絶対の評価(のようなもの)が世間で決まってしまう風潮なのだ。

そういうことでいえば、自分はまったく「信頼できる書評家」(?)なんてものを目指してない。この人がほめた本は確実に面白い、なんて存在になろうなどと思ってません。なにも謙遜とか卑下しているとかではなく。

 もちろん、小説でも音楽でも映画でも自分とものすごく趣味の合う人は世間に少なからずいて、その人の褒めたものお勧め商品をそのまま買う、ということはわたしも子供の頃からやっている。でもそういう人はめったにいないし、(あたりまえだけど)すべての好みが一致するわけではない。

 むしろ、大事なのは「違い」だ。「他人」だ。

 具体例を挙げると、わたしの今年読んだ海外物でとくに個人的なお気に入りに、ジェイムズ・リーズナー『聞いてないとは言わせない』という作品がある(いま即席で、「小説すばる」誌に書いた拙レヴューをこういうページにしてみたので参照にされたし)。

 で、今月号の「本の雑誌」の「2008年度 私のベスト3」のコーナーで翻訳家の羽田詩津子さんが『赤めだか』『13番目の物語』とともにこの小説を取り上げていた。
「一気読みできる疾走感がたまらない。今年いちばん驚かされたシニカルなラストだった」と。

 で、いくら自分がこの本を褒めても、しょせんわたし好みのアメリカンB級犯罪小説にすぎない。マニアックな同好の士を別にすれば、あらすじ紹介を読み「なるほど、こんな内容ね」と中身を読まずして切り捨ててしまう人もいるだろう。
 ところが、こうした羽田さんのような日本を代表する女性翻訳家の重鎮で、読書家で、信頼できる人格を持ちだれもが認める美貌の方であらせられる本読みが褒めていると、話は違う。

 つまり、普段からこの手の本を気に入っているような人がどれほど褒めても、ある種の身びいきというか、自分のフィールドの好みの範疇というか、その筋の好きな人が好きに読めば、という感じで終わってしまうけれども、ときおりこうして「違う」「他人」が取り上げているとなると、話は大きく異なるのだ。

 本の評判って、ここでも褒めてた、この人も面白いって言ってる、といったいくつもの積み重ねから印象が深まり生まれるものではないか。否定的な意見も含めて。おれはわたしは絶対にこの作品を認めない、てな評が気になって買ってしまう場合もあるし。これぞ「信頼できる書評」の形だろう。
 こうした場をつなげていくか、口コミの道筋をいかにつくっていくか、アンテナをひろげていくか、が大事なのだと思う。だからベストテンの順位(とくに一位)だけですべてが完結してはならない。

ちなみに、いま日本橋丸善日本橋店の洋書部門の売り上げで、9位がフロスト警部だった。10位はコーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』。これもベストテン効果か。年末のベストテンの上位や話題作の原書を買う洋書読みも少なくないようだ。ちなみに1位は「ミシュラン2009」。

 そいういえば、ちょっと前にアマゾンジャパンの洋書ベストセラー一覧を見ていたら、やたらロバート・B・パーカーの過去の作品が並んでいた。『初秋』『約束の地』の原書ペイパーバック。
 おそらくこれは米Googleアメリカの副社長兼日本社長となった村上憲郎氏が著書『村上式シンプル英語勉強法』(ダイヤモンド社)のなかで、英語のリーディングならまずロバート・B・パーカーを読めと書いていたせいだろう。たぶん。本が売れるには理由がある。

 追記:丸善の本店の4階の洋書売り場のペイパーバックのコーナーには、ロバート・B・パーカーの本が平積みになっており、その棚の間に、くだんの村上本が並んでいた。

世の中は、リストラだの淘汰の波だのと不景気なきびしい話ばかり。
 わたし個人は、3年前くらいにひどく体調を壊してそこからできるかぎり無理な仕事を減らして減らして連載レギュラーを降りいまはぎりぎりのところでやってきているのだった。すでに淘汰されちゃってる。

 おかげさまで、加齢からくる筋肉系の不具合も少しましになり、最近はそこそこの安定した状態。今年の9月くらいに最悪だった内臓系もなんとか復調した。この調子でいけば、来年はいまよりもっと仕事を引き受けられるのだが、出版界自体が縮小していくとなると期待しないほうがいいような。贅沢はできない。
 まぁ、ここ数年は低空飛行でお勉強や調べごとばかりやっていくことになるだろう。先のことを考えてもしかたないけど。

あと、今日買った本のうちの一冊は、山口仲美『ちんちん千鳥のなく声は』日本語の歴史 鳥声編(講談社学術文庫)だ。
 昔から、カラスは「カアカア」ニワトリは「コケコッコー」ではなかったという、日本語の鳥の鳴き声のさまざまな例を取り上げている。日本語や言葉に興味ある人に薦めたい。ぜひとも続編で「獣声編」をはじめ人間の特殊な表現などもまとめてほしいものだ。



だらだらと独り言のような内容 12月08日 2008年

このまえ、ふと思ったのだが、おそらくこの20年くらい Billboard のトップ10がどうなっているのか、知らないままだ。
 80年代、小林克也の「ベストヒットUSA」(初期のヤツ)が放送されていた頃はそれなりにアメリカのヒット曲、人気歌手や人気バンドを知っていたのに。

 いちおう現在のビヨンセとか Ne-Yo とかの歌手名は知っているけれども、どういう曲がヒットしているのか詳しくない。バンドだとコールドプレイ? 

 多くの人が似たようなものだろう。
 というより、まだ自分はアメリカの大衆音楽事情をそこそこ知っている部類になってしまうのかもしれない。たとえばノラ・ジョーンズが売れると似たタイプの女性歌手が雨後の筍のように登場した、なんて話の前に、そもそもノラ・ジョーンズって誰、という時代かも。

と、同じように米国の大衆小説、とくにミステリも、関心をもつ日本読者がどんどんと減っているのだろうか。

 個人的な感想で言えば、どうも90年代後半あたりから、アメリカの探偵小説がローカルな内容に傾いている印象を持っていた。
 というか、以前は自分にとってアメリカはみんなアメリカだった。ニューヨークだろうがLAだろうがシカゴだろうがフィラデルフィアだろうがワシントンDCだろうが、アメリカだった。その自分の意識が変わったためなのだろうか。

 たとえば、ハーラン・コーベンだっか誰の小説か忘れたけれども、そこで交わされるジョークや軽口が分かる人にだけ分かるような内容にすぎると感じたのだ。
 もしくは、ジョージ・P・ペレケーノス作品に頻出するきわめてマニアックなソウル・ミュージック(R&B)についての記述なんかは、あんな「分かる人にしか分からない」書き方でいいんだろうか、と思ってしまった(わたしはそこがうれしいのだけど)。それが主人公をはじめ登場人物の嗜好やライフスタイルなどと密接に関わっているのだ。それらの知識を全然もたない人が、物語をちゃんと理解できるものなのだろうか。
(あ、いま検索したら、「37歳東京暮らし」というブログに、 今日もペレケーノス とあり、「音楽ファンにこそ読んでもらいたい。ハードボイルド・ファンには勉強をしていただきたい。」と。まったく同感。いや勉強というか、ペレケーノスを好むならそこに書かれている音楽を聴くべし、と)

 しかし、もしかしたら昔からそうだったのかもしれない。
 うーむ。うまく説明できないな。
 アメリカの小説が変わったのか、自分の読み方が変わったのか、それともグローバルにフラット化した世界の反動(なんじゃそりゃ)のためローカルで私的な趣味に傾いた記述が濃くなっているのか。

日本人のやるレゲエ音楽はジャパレゲと略されるらしい。その分野でも活躍する MUNEHIRO さんが結婚したけど、いまの歌姫はJAMOSA(ジャモーサ)だという話も前に知った。もはや21世紀老人にはついていけない世界。

そんなわけで、もう二、三日かかる予定でいたとある仕事が早めに片づいた。
 すっかりデジタルのHDDに録画したテレビ番組を見る生活につかっているが、仕事がらみで久しぶりに昔ビデオに録画した洋画を見る。日本でDVD化されてない白黒映画。それをパソコンに取り込んでDVD-Rに焼き移す。

 あと、再放送分を録画したNHK大河ドラマ「篤姫」を少しずつ見ていると知らず口調が移ってしまうのじゃ。大儀である。




本HPも九年目に突入(やや長いです) 12月04日 2008年

きのうのロイター発で、「9月の米食料配給券受給者、過去最高の3150万人超」というニュースがあった。三千万を超えるとは半端なものではない。

 ちょうど昨年のいまごろ、NHKスペシャル「ワーキングプアIII 〜解決への道〜」 でアメリカのワーキングプアの実態が紹介されていたのだが、たしかその番組中、アメリカのワーキングプア人口(?)が17%、日本は15%となっていた。

 やはり昨年「年収200万円以下が1000万人超す」という報道があったけれども、日本には食料配給券の制度はない。みんなちゃんと食べていけているのだろうか。

今年も各種のミステリー年末ベストテンが発表されつつある。

 で、先日、ふと思ったことがあった。

 何年か前に、「みんなベストテンの一位をまずこれが今年の最高傑作として読む。で、それが面白ければ、二位、三位と読んでいくのだ。しかし、なんでこんな(マニアックな?)ものがと思うような作品が一位に上がってしまうと、もはやそれ以外を読もうとせず、ベストテンが本の売り上げにつながらない」という意見があった。ほんとうか?

 ならば、たとえばジェフリー・ディヴァーが一位になったり、「フロスト警部」が一位になったりしたら、つまり多くの人が面白いと思うような作品、最大公約数的な面白さの本がトップになれば、それ以外のランクの本もどんどん売れるというのだろうか。ほんとうにそういう現象が実証されているのだろうか。

 で、連想したのは、これまた新自由主義の失敗の話。いわゆる「トリクルダウン理論」というのがある。ウィキペディアをそのまま引用すると「富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が浸透(トリクルダウン)するという経済理論」。しかし、実際は、そのとおりにはならなかった。
 アメリカで「ワーキングプア」が増えた大いなる原因は、企業が生き残るために、安い労働力を求めてアジア人を雇ったり海外に拠点を移したりしなくてはならなかったからだ。

 富める者は富めるため、まず目先の貧しい者を切り捨てた。
 職を失った貧しいものはそのままどんどん貧しくなっていくだけ。やがて世界の経済ばかりか、社会そのものが破綻をきたしはじめた。

 同じように、どんな本が一位になろうと、いまだその本だけが突出して売れるだけなのではあるまいか。格差は広がり業界の枠は縮まってゆくばかり。

いまから十年以上まえの話ではあるけれども、ある作家が高名な賞を受賞したとき、わっと受賞作が売れた。とんでもない部数が出た、ところが、その次の受賞第一作は、思ったほど売れなかったという。正確な数字は知らないけれど。

 で、その本(受賞作)を読んだなかで面白いと思った人が次も買ってくれれば、もう少し部数はあがったはず。しかし、関係者によると、期待以上に売れなかった、らしい。

 つまり大半は「高名な賞の受賞作だから」買った、にすぎないのだ。
 たぶん年末のベストテンの一位だけ売れるのも似たようなもの、ではないのかな。

 もちろん、核となるミステリマニアは違う。その年の上位に入っている未読本が気になれば、かならず買うでしょう。読むでしょう。面白ければその作家の次作も絶対に見逃さないでしょう。
 でも、それだけではダメだなのだ。ふだんミステリを読まない層まで抱き込み、ベストテン効果で業界全体がウハウハする(死語?)ほど売れなければ、その結果が間違っていることにされてしまう。むしろマニアが駆逐される。やがてみな死に絶えて、すべては無になるのだ。

で、まえに内田樹氏のブログで、「入試の季節」という話題のなか、村上春樹氏の文章を引用していた。
「若いときにジャズバーの経営者だった村上春樹さんはお店をやるコツについてこう書いている。」と。そっくり孫引き。
「『みんなにいい顔はできない』、平ったく言えばそういうことになる。
 店を経営しているときも、だいたい同じような方針でやっていた。店にはたくさんの客がやってくる。その十人に一人が『なかなか良い店だな。気に入った。また来よう』と思ってくれればそれでいい。十人のうちの一人がリピーターになってくれれば、経営は成り立っていく。逆に言えば、十人のうちの九人に気に入ってもらえなくても、べつにかまわないわけだ。そう考えると気が楽になる。しかしその『一人』には確実に、とことん気に入ってもらう必要がある。そしてそのために経営者は、明確な姿勢と哲学のようなものを旗じるしとして掲げ、それを辛抱強く、風雨に耐えて維持していかなくてはならない。それが店の経営から身をもって学んだことだった。」(村上春樹、『走ることについて語るときに僕の語ること』、文藝春秋、2007年、59頁)
 なにが言いたいかといえば、小説にもそういう本がたくさんある。十人が読んで九人は気に入らないどころか、どこが面白いのかさっぱりわからない。けれども残る一人へ強烈な印象をもたらす本。

 この村上春樹氏の姿勢は、年末ベストテン版「トリクルダウン理論」と対極にあるものだ。

 そりゃ、年末ベストテンでたとえばジェイムズ・エルロイが仮に一位になったら、店のまえに行列がいっぱい出来ているから私も並びましたてな流行ラーメン店好きのノリと同じでみんなが今年一番の傑作と言うから読む、というアホ丸出しブランド信仰読者にはキツイでしょう。
 日頃いっさい自分で選んで読もうとしないし、面白かろうとつまらなかろうと次を読まない人たち。エルロイ『ホワイト・ジャズ』なんて、十人に一人というより、百人に一人も気に入る者がいないかも。

 その一方で、普段からいろんな作品を読んで、自分なりに偏愛する作家を見つけて、長くひいきにする読者もいる。少数かも知れないけれども確実にお金を払い継続して作家や出版社へ益をもたらしているにもかかわらず、そういう人たちをあっさり切り捨てる世の中って、つまり「新自由主義的」だ。

と、なぜか経済問題がらみの話に流れていく。そういえば、「第2回日経小説大賞・日経中編小説賞受賞作決定」の報道があった。

 日本経済新聞社が主催だからって、かならずしも、経済小説が受賞するというわけではないのか。

今年バカ売れした本に、血液型別の説明書とかいうのがあった。まぁ、血液型性格分類には何ら科学的な根拠はない、と言われているけど。

 それはともあれ、先日、某バラエティ番組でその血液型の性格の問題をテーマにしていて、血液型別に人が集まっていたなか、女優の雛形あきこさんがA型代表女性のように出演していたのだが、雛形さんの性格からくる他人への見方、感じ方、気持ちの表し方などが、まるっきり自分(わたしもA型)と同じなのに笑った。ここまで一致する人も珍しいと思ったくらい。

 しかし、だから(気持ちの悪いくらい性格が自分と似ているから)といって、女性として雛形さんになんら興味がないのだ(失礼。別に人として嫌っておらず、いつも「めちゃイケ」楽しく見てます)。趣味が同じだとか性格が似てるとか別にどーでもいい。多くの人が手をとりあって「あんたと私は同じだ同じ」「いっしょだいっしょだ、同じ村人だ」と喜ぶ気持ちが分からない私は、血液型の本もさして興味がないのだった。いろいろと違うけれども尊敬できるすばらしい人、すべての面で異なっても愛せずにはおれない人はいる。

かならず劇場へ足を運ぶつもりでいたのに忙しくて行けなかった映画「パンズ・ラビリンス」、ようやくWOWOW放送を録画して見ることができた。なるほど、大戦中のスペインの残酷な物語が重なっているところが、ダークファンタジーなのか。

あと、最近どうも古い海外ミステリばかり読んでいて、新刊読書の絶対量が減ってきているため、すこしは現代のものにも関心をもとうと、「海外ミステリ」新刊紹介ブログ開設を検討しているのだった。というか、すでに「ココログ」登録をして、試行錯誤中。近日、公開予定です。
 と、長くなってしまったので、あとは略。

 今回の話をいまいちどまとめると、ベストテンには入らないかも知れないが、つまりまんべんなく一定の高い支持を得られないだろうけれども、人によっては人生を変えるほどの衝撃的な偏愛作家や愛読書があって、ときにそれこそが、それこそが、それこそが、なにより大事なのだ、まだ来ぬ明日をつくるのだ、ということである。
 それにしても、「いまの日本は資本主義社会なので売れたが勝ち、売れたものが絶対に正しい」って公言してはばからない人もいまだにいるのかな。