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| 幻のシモンズ『推理小説の歴史』が出るぞ | 01月29日 2002年 |
| ▼新潮社のPR誌「波」2月号を見ていたら、お終いの方にある3月刊行予定の本の一覧に、なんと、J(ジュリアン)・シモンズ『推理小説の歴史』の題名があるではないか。ついに出るのか。訳者は、やはり故・宇野利泰氏だ。 先日、海外(いわゆる本格系寄り)ミステリのファン御用達のHP、「本棚の中の骸骨」(藤原編集室通信)を久しぶりにのぞいたら、ますますの充実ぶりで楽しませてもらった。 で、このなかでも、シモンズの本について触れている。 「血まみれの殺人」。 ミステリ・マニアの方々はよくご存知のように、本書でシモンズは、 「現代の推理小説はトリック中心のパズル小説から、犯罪の過程や、それをとりまく人物や状況に注目するクライム・ノヴェルへと移行していくべきだ」 と主張し大反響を呼んだ。 探偵小説は必ずしも彼の考える 「クライム・ノヴェル」へは移行しなかったし、シモンズ自身、92年の改訂3版に付した後記では、そのことを認めないわけにはいかなかった。本文を読んでも、ある種のタイプの作家には一方的な酷評を下し、自分好みの優れた作品を強引に 「クライム・ノヴェル」 と呼んで自説を補強しているようなところがある。本格ミステリの愛好家には頷けない箇所もあることだろう。しかし、そうした点を差し引いても、シモンズが優れた批評眼をもっていたことは事実だし、多くの不当に埋もれた作家にも光を当てている……。 (以上、藤原編集室「没企画2 血まみれの殺人」からの引用) 興味のある方は、このエッセイとともにぜひとも刊行予定の本に目を通していただきたいものだ。 ▼そういえば、これも別ページで紹介する予定だった海外HPのことが「ミステリマガジン」3月増大号の木村仁良氏のコラム「サイバーガムシュー」(#71)に取り上げられていた。ウィリアム・マーリング教授 William Marling による Hard-Boiled Detective Fiction である。ハードボイルドやノワールの定義はともあれ、内容はなかなか興味深いものだ。なんと、この教授、日本に滞在していたことがあり、そのあたりを写真とともに紹介しているページが面白い。 で、木村仁良氏のコラムにあるとおり、このマーリング教授は、"Hard-Boiled Fiction" の刊行を講談社と交渉中だという。 ▼素人の論文は影慮したいが、こうしたベテランの専門家による評論集が本になるのは、とてもありがたい。なぜかというと、海外(いわゆる広義の)ミステリーについて、わが国ではブックガイドは山ほど出ているものの、近年、まともな評論集はほとんど見当たらなかったからだ。 このところ、事典類(『世界ミステリ作家事典』や『日本(および海外)ミステリー事典』など)は出ているし、本格系を中心にしたマニアックな評論集も続々と刊行されている。しかし、周辺(関連)ジャンルも含めた総論的なものや歴史的、多角的に論じた本格的な評論本は、まったくといっていいほどない。 わたしがこの世界に入って驚いたのは、役に立つような海外作品の評論集がきわめて少ないことだった。 これまで出ている海外ミステリー評論(翻訳)本については、かつて関口苑生氏に教えてもらって(どこの古本屋にあるかまで。深謝)購入したり、ミステリ評論家の方々が引用している原本を探したりして、多少は集めていた。 だが、どれも古いのだ。ハワード・ヘイクラフトの有名な『娯楽としての殺人』(国書刊行会)をはじめ、ヘイクラフト編『推理小説の美学』『推理小説の詩学』(ともに研究社)、ナルスジャック『読ませる機械=推理小説』(東京創元社)など古典の類はあるものの、それ以降、戦後の流れから、とくに1980年以降の国際謀略&スパイ冒険、サイコ、リーガルなどまでを包括して古典から歴史的に追った評論集などない。当然、日本の評論家によるものもない。 もちろん、古典から述べるのは、「いまさら」なのだろう。ゆえに、「ミステリマガジン」の新保教授の連載は、「ミステリ再入門」なのだ。はやく、まとめた本が出て欲しい。 そういえば、池上冬樹氏の「本の雑誌」連載、「ヒーローたちの荒野」もいよいよこの春、本になる。楽しみだ。 とにかく、意見は違っても(違って当然だろう)いいから、個人的にはまとまった評論本が読みたい。 ▼そんなわけで、長くなってしまった。じつは、きのうきょうとスキーに行ってきた。群馬県の川場スキー場。交通のアクセスがいささか悪いものの、いいスキー場で、雪質もよかった。天気はいまひとつだったが、初滑りとしては、とても満足できた。温泉にも入れた。 遊んだ分、明日からまたハードに仕事をしなくては。ああ。 |
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| すこし余裕ができる | 01月27日 2002年 |
| ▼どうにか、当面の仕事はこなしたため、すこしは自分の時間ができた。 そこで、おとつい、前から観たかった映画、張藝謀(チャン・イーモウ)監督「初恋のきた道」をやっと観ることができた。なるほど、主演女優の章子怡(チャン・ツィイー)の映画だ。なんという可愛さ。ひたすら走る姿のその健気なさ。彼女の出演映画は、アカデミー賞をたくさんとった例の武侠もの、アン・リー監督「グリーン・デスティニー」しか観てないため、チャン・ツィイーは気の強い女の子、という印象があったのだが、まるで別人のよう。 また、この映画、小説ならば短篇程度のシンプルな筋ながら、小道具(赤い布、青い茶碗、学校が見える表の井戸など)とエピソードとそれにまつわる人物の情感の動きがちゃんと最後までプロットに生かされている。ラストで「泣かせるな、感動的な場面をもってくるな」とミエミエで、そうはさせじと(?)身構えていながら、泣いてしまった。 さらに、きのうは、なんとなくハドリー・チェイス『悪女イヴ』の映画化作品、ジャンヌ・モロー主演の「エヴァの匂い」を観る。観る前にちゃんと原作を読み直した。詳しくは触れないが、映画のほうがノワールではないか。 ともあれ、チェイスの小説は、いまの読者が読んで面白いかどうか疑問ながら、いろいろと蛇足ネタを発見した。これはいずれまた本HP別ページに。書けば、たぶん3人くらいは面白がるだろう。 ▼先日の某ミステリー新人賞2次選考会のあとの飲み会などでも思ったのが、他人は、けっこう自分の細かいところまで見ていたり、反対に全然分かってなかったりするのである。このHPでも、書いてることを適当に解釈されている部分は多いのだろうな。 そこで思いだしたのが、以前、かつて研究開発の仕事をしていたとき、その上司(ホントにお世話になりました)がよく言っていた話。 「たいてい人は、自分の思っていること、考えていることを全部うまく表現できない。よくて6割くらい。そして話を聞く方も、ちゃんと正しく理解するわけではない。せいぜい人の話を聞いて理解するのは、6割くらい。つまり、0.6×0.6=0.36 と、自分の意見は、よくて4割弱しか他人へ伝わらないのが実際なのである」 やれ、言った言わない、おれは聞いてない、など他人とのコミュニケーションにおけるトラブルは、とくに会社員なら、だれもが体験したことがあるはず。 こうしてちゃんと文章に書いていても、同じことなのだ。4割伝わるならまだしも、偏見や悪意などの先入観が先にあって、どんどんねじれてしまう場合さえある。 いったん悪く見られると、どう述べようと釈明しようとなかなか正しく理解されないことも世間ではよくある話。難しいものだ。 ▼もうひとつ、やはりかつての上司がよく言っていたのは、 「人間的にどれだけ嫌われようと、ある優れた技術はここにしかないために注文がくるような製品を開発したい」 との言葉だった。 あいつのところだけには頭を下げたくないのだけど、ほかに同じ製品をつくれる会社がないので、頼まざるをえない、という技術やアイデアを持て、ということだ。 これを書評の世界に置き換えると、(編集者が)「この書評家は、自分のつくった本をなかなか誉めてくれない、イヤな奴だが、この本を評したり、このテーマでしっかりと書けるのはこの人しかいないので、どうしても仕事を依頼せざるをえない」書き手になることなのだ。 もちろん、これは理想であって、製品技術と違い、絶対的な唯一無比の書評なんてありえないだけに、現実にはそんな格好のいい書評家はほぼ存在しないはず。そうありたい、という話。ホントそうありたいです。コネや人脈や派閥やポトラッチではなく生計を建てられる存在に。 なにも、作家や編集者に気に入られたくて、ある作品を誉めるわけではない。逆に、作家が嫌いで、怒らせたくて、ときに悪く批判するわけでも決してないし。つねに傑作を待ってるのに、なぁ。いつもいい人に出会いたいし、いつも幸せでいたいものだ。 |
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| 原書の勉強の仕方 | 01月24日 2002年 |
| ▼なんとか、たまっている新刊を読んでいく。たとえば内山安雄『ミミ』(毎日新聞社)とか東直己『探偵は吹雪の果てに』(早川書房)など。どちらも痛快で、ときおりぐっと引きつけられる場面もあった。もっとも基本的にこれまでの作品の流れにあり、同じようなパターンの繰り返しや作者の趣味に走り過ぎた場面も目につく。このあたり、作者のファン以外にはどうなんだろう。 また、小説すばる新人賞受賞作の松樹剛史『ジョッキー』(集英社)をようやく読んで、とっても満足。人より馬をもっともっと描いて欲しい。とくに前半、「お馬はなんにも言わないけれど、お馬の気持ちはよく分かる。お馬、かわいや、かわいやお馬」と歌いたくなるような小説だった。 そのほか、いまちょうど第一章だけ読んだ 野沢尚『砦なき者』(講談社)は、四つの短篇が収められた連作集ではないのだろうか。 ▼きのうは、新宿へ本の買い出しに出かけたが、目当ての本は見つからず、結局、池袋へ。最近、資料集めのために、半端ではない量の本を買っているのだった。「うつ」と言ってもホントに病気だったら、こんなこと、しないだろう。そもそもこのHPの更新だってするはずない。読みたい本を読んだり、私生活を楽しんだりする時間がないことにイラついていただけか。そのゆとりも、徐々に出来つつあるみたい。 ともあれ、新宿南口、高島屋のデパ地下で食べたタイ・カレーがうまかった。サングリアという店。辛いものに弱いわたしは汗をだらだら流しながらたいらげた。 ▼帰りの電車でつり革につかまっていたら、ちょうど前の席に座っている女性が、原書のペイパーバックを読んでいた。その下には、その翻訳書らしい本を広げている。訳文を確認しながら、熱心に読んでいたのだ。しかも蛍光マーカーを片手に、あちこちにラインを引いていた。どうも知らない単語や難しい文章のところを原書、訳文それぞれにマーカーを引いてチェックしているようなのである。 しばらくその作業を眺めていた。原書はフランス語だ。しかも、ちらっとのぞいた表紙の文字を見ると、「アゴタ・クリストフ」の本らしい。大学生なのだろう。たぶん授業のテキストで、アゴタ・クリストフ『悪童日記』を読んでいるのだな。 なるほど、こういう勉強法があるのか、と思って感心した。 そういえば、以前、NHKラジオ第2の木曜夜にやってる番組「原書で読む世界の名作」を半年くらい続けて聞いていたことがある。これは、ネイティヴの読み手による原書の朗読と、それを大学のセンセイが全文訳して解説していくもの。目で英文とその構造を見つつ、耳で意味を知る。そのまま読んでもわたしの英語力では即座に理解できない文章までもが、訳文を聞いているとなんとなく分かったような気になってくる。 ひとりの作家の文体は、当然、同じようなくりかえしが多い。難しい語彙を使わず平明な文章を書く作家だっただけに、何ページも読んでいると、だんだん文章パターンが分かってくる。やがて訳を聞く前に意味をとれるようになってきたのである。 海外ミステリーの翻訳家には、もと早川書房編集者だった人がやたらに多い。5人、10人どころではないのだ。 そもそも編集者の仕事は、いちから原書を訳すことではない。翻訳家が訳してきた原稿を原文と丹念に照らし合わせたり、日本語表現がおかしくないか小説の文章としてふさわしいかなどをチェックしたりすることだ。このことを思うと、原書を、すでに訳された(できれば、こなれた日本語文章を使う一流の訳者による)本とつきあわせて読むことは、とてもいい勉強になるのだろう。 |
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| やっと、ひと息。 | 01月22日 2002年 |
| ▼きのうは、某ミステリー新人賞の2次選考会があって、久しぶりに同業者が集まる。無事、最終候補作が決まる。1作、二重投稿でボツになったのは残念だった。 そのあと、近くの飲み屋で夜中まで。さらに神楽坂の新潮社近く、「ブラッセルズ」という店へ行く。久しぶりに、ミステリー業界のねじれた噂やら誰がどうした何やらの話をあれこれたっぷりと耳にした。まぁ、特にここに書くような、たいしたことではありません。 ▼そんなわけで、やっかいな仕事が終ったせいか、5時間ほどの睡眠なのに今朝はめずらしく爽やかな目覚めだった。昼間は、たまっていた個人的な雑用をあれこれすませ、少しのんびりしていた。本HPの新ページ用の読書などもする。読みたい本を読めるのは幸せだ。 ▼で、小倉エージ+理都子『香港的達人』(マガジンハウス)を読み返していたら、潮州料理は料理や味だけでなく盛りつけも凝っているものの、残念で厄介なこともある、と書かれていた。スープに化学調味料がふんだんに使われているというのだ。 なるほど、潮州料理店に限らず、ときおりやたら舌に感じるほど "味の素" が入っていてがっかりする店もあるので要注意。 ともあれ、この本で小倉エージ氏が述べている意見にわたしも賛成なのは、「美味しいものは高い」との言葉。 よく「値段が高いなら旨くてあたりまえ」といって敬遠する人もいるが、いい素材とその素材をひきだす優れた調理があってこそ、おいしいものが食べられる。いい素材が安く簡単に手に入るわけではないし、優れた調理をする経験を積んだ一流のコックが、そこら中に大勢いるわけではない。当然、いい料理を出す店ほど値段が高い。そこだけでしか食べられない超美味だからこそ、額面通りの価値があるわけだ。 もちろん、高くて不味い店だって、いくらでもある。単に高級店がみんないいと主張しているのではない。実際に、安くてそれなりに旨い店もあるだろう。だが、簡単に見つかるかどうか。有名だと混んでいてサービス悪いし。 要するに、「いいものを得ようとするには、それなりの対価を払う必要がある」ということなのだ。単に金額の問題ではない。情報収集力やフットワークや年月(時間)など、そのためのエネルギーが必要。 レアな古書を求めるならば、大金を払うか、足を使って数多くの古本屋をまわるか、日頃こまめに店先の均一棚をのぞくか、だ。それと一緒。何かを得るためには、かならず失うものがある。 これは新刊小説でも同じだと思うのだが、書籍の場合はその性質上、作品の質と値段のバランスが不確かなので、判断できない。そりゃ、ときおり2000円の単行本を読んで、「金返せ!」と言いたくなるような駄作に当たることもあるだろう。 だが、たった500円ほどの文庫本で、これほど面白がらせてくれて、ありがとうと頭を下げたくなるような本も山ほどある(でしょ?)。そのとき、「申し訳ない、ぜひともあと1000円くらい払いたい」てな気持ちでいて欲しいものだ。 なにより、「書評で誉めていたから読んだけど、つまらなかった、金返せ」と怒る貧しい読者もいるようだ。みんな貧乏が悪いのだ。どの家庭も食費の2、3倍を書籍代に当ててこそ、リッチで文化的な暮しといえるのである(んな、バカな)。 いや、そもそも書評は "あなた" の好みにあわせて評してない。 "あなた" が本当に自分にとって面白い小説を見つけたいのなら、書店に通い金を払い時間を費やし、出てる本を片端から読んでいけばいいだけのことである。 と言いながら、たしかに、化学調味料ばっかりの本を誉めてるときもあるかもしれない。ちょっと不安。最近、新鮮な素材を扱って、非の打ちどころのない一流の仕事をする人の逸品に縁がなかった。本物の味を忘れているのだ。腹が空いてりゃなんでも旨い、てな状態だと味覚がだんだん貧しくなる。そこそこのものでも誉めてしまうのである。いけない。たまには、優れたネタとコック(作者)による超一流の料理(小説)を食べたい(読みたい)なぁ……ということで、また明日もがんばります(ああ、また余計な皮肉を書いてしまったかな。こういう "毒" も一部では受けているようなのだが)。 |
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| まだまだ、ゆとりなし。 | 01月20日 2002年 |
| ▼起きてから寝るまでずっと仕事ばかりしていた。きょうは睡眠なしの徹夜覚悟だったが、なんとかクリアできそうだ。 ▼どうやら干し貝柱と鶏肉ベースの中華風(なのかな?)粥は、自分好みのものがつくれるようになってきた。 で、明日のために、豚しゃぶをした残り汁で仕込んでおいた。中火で加熱すると、昆布だしと黒豚肉から出たエキスが湯気からほんわかと匂ってきて、おいしそう。もはや中華風でも和風でもない。ジャンル(の定義)はともあれ、うまけりゃ、いいのだ。 ▼たまたま別なことを調べるために、何年ぶりかで小林信彦『本は寝ころんで』(文藝春秋)を読んでいたら、そのなかの読書日記に小倉エージ『香港的達人』(マガジンハウス)を紹介しているのが目にとまった。 もちろん、この文章はすでに「週刊文春」の連載時にも読んでいたし、このマニアックな小倉氏の香港旅行指南書も出てすぐに目を通していた。 だが、〈日本には本格的な潮州料理の店がありませんから、香港では潮州料理を食べ歩きの目当てのひとつにする人もいます。〉なんて指摘があったことは覚えてなかったのだ。小林氏は、〈ぼくもそうだ。ぼくの好きな潮州風揚げ焼きそばは〈恐怖の一品〉と片づけられている。〉と述べている。わたしは先日の香港旅行から帰って、あらためて家にあるガイドブックをチェックし直し、ぜひとも食べたいなと思ったのが、なにを隠そう、この潮州風揚げ焼きそば、すなわち揚げた伊府麺にお好みで酢と砂糖をかけて食べる〈干燒伊府麺〉なのだった。となりのテーブルに運ばれているのを見て、気になっていたのだ。そのほか、どうも潮州料理のデザート類も独特のこってりした味で、珍しいものらしい。 ▼と、食い物の話ばかりではナンだが、昼間はただパンをトーストしただけ。その前はカップラーメンだった。ろくなものを食べずに仕事を続けていると、つい頭が食欲に支配されてしまうのです。 文学やミステリーの話題もないわけではないどころか、たくさんありながら、余裕がないので、またいずれ。 |
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| ゆとりなし。 | 01月18日 2002年 |
| ▼きょうは、新保教授やトヨザキ社長や各社編集者の方々の集まる新年会の誘いがあったり、あしたは上京中の池上冬樹氏を囲む宴会があったりするようなのだが、出ている余裕はまるでない。ごめんなさい。これを書いてるヒマも惜しい。 ▼和風のあっさりうめぼし粥を食べる。香港で補給した栄養も使い果たした模様。 そんなわけで、きょうはこれでお終い……。話題はあるんだけど、長くなるから。 |
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| 映画「ヴィドック」/在日英米人作家作を読む | 01月16日 2002年 |
| ▼きのうは、気分転換にとフランス映画「ヴィドック」を見る。すでにジャン=クリストフ・グランジェの原作を読んでおり、話の中身は知っていたため、どのような映像で19世紀のパリを再現したのか、フレンチ・ゴシック趣味がどれだけ巧緻で華麗に表現されているかが興味の中心だった。だが、CGや特殊効果の多用が、画面の自然な奥行き感じさせず、やや迫力に欠けていると思った。 ただし、真犯人探しは、ミステリーとしてアンフェアと思える部分も多々あるが、小説で読むよりも映画のほうが、より考えさせられ面白いのではないか。画面も原作を読んでなければ、それなりに見ごたえがあったかもしれない。まぁ、基本は、伝統的な名探偵対怪盗みたいなものですね。 しかし、あの真犯人アイデアって、某アメリカ作家の初期の某作と同じだと思うのだが、どうなんだろうか。 ちなみに主人公ヴィドックとは、実在の人物。もともと極悪人で逮捕されるたびになんども脱獄し、その後やがて警官となったあと、世界ではじめて「探偵事務所」を開業した男である。なんとヴィクトル・ユゴー『レ・ミゼラブル』のジャン・ヴァルジャンのモデルになった人物なのだ。また、探偵小説の元祖、ポー「モルグ街の殺人」に登場する探偵オーギュスト・デュパンのモデルもまたこのヴィドックで、その敬意を表して舞台をパリにしたのではないかとの話が、原作本『ヴィドック』(角川文庫)の滝本誠氏による解説で披露されている。ルブランの怪盗ルパンもやはりそうなのかもしれない。 さらには、バルザック〈人間喜劇〉シリーズに登場する有名な悪党ヴォートランもまたヴィドックがモデル。(映画監督ジャン・エルマンが小説家としてのペンネームにヴォートランとつけたのは、このバルザックの作中人物が元だと思う。あたりまえすぎて、だれも指摘しないのだろう)ユゴー、ポー、バルザックという名だたる文豪3人の主要キャラクターのもと、大三元たるヴィドックなのだった。 ▼きょうは、やはり気分転換をかねて池袋の大書店へ。10冊買って2万6千円なり。 あと雑誌を1冊。「レコード・コレクターズ」2月号。もう何年もこの雑誌と「ミステリマガジン」「本の雑誌」だけは、ずっと毎月、隅から隅まで読んでいるかな。 今月号の特集は「キャロル・キング」。萩原健太氏が書いているとおり、最新アルバムの『ラヴ・メイクス・ザ・ワールド』のなかでは、往年の名曲「オー・ノー・ノット・マイ・ベイビー」のセルフカヴァーがいい。わたしの自慢特技に、メロディさえ知っていれば(分かれば)、どんな歌でもハーモニーをつけて歌える(ハモれる)というのがあるのだが、この曲を聞いているとつい3度のオクターブ下で歌っている。 そのほか、きのうはスザンナ・ジョーンズ『アースクエイク・バード』(早川書房)をきょうはバリー・アイスラー『雨の牙』(ヴィレッジブックス)を読む。すでに読まれた方はご存じのとおり、前者は本年度CWA最優秀新人賞受賞作。後者は、まだ原書の存在しない(アメリカでの刊行は本年後半予定らしい)という異色翻訳作。どちらも作品の舞台は東京で、著者は東京在住の経験がある日本通の英米人。 『1974/ジョーカー』のデイヴィッド・ピースも含め、こう続けて出てくると、なにか暗合を感じずにはおれないのが、書評家の因果なところ。たった3つだけど。 『雨の牙』は、ヴェトナム戦争体験をもつ殺し屋、重大な秘密をかかえる高級官僚の娘がジャズピアニスト、ありがちな〈マクガフィン〉と、陳腐な設定ばかりで筋だけ聞くとオリジナリティもなにもない小説に思えるかも知れないが、意外とそうじゃないところがミソ。まぁ、そのあたりをつかまえて悪くけなす人も多く出てくるだろうな、きっと。 南青山の蔦珈琲店とか、神保町の一誠堂書店とか、赤坂の天下一ラーメン(って、たしか京都が本店のやたらこってりしたスープのラーメンが出てくるチェーン店のことだろか)なんて、いくつも固有名詞が実名で出てくるのが面白かった。ディテールがしっかりしていて描写にリアリティがあるのだ。 ▼今回の直木賞は、山本一力氏と唯川恵さんだった。唯川さんは、以前、雑誌の仕事でインタビューしたことがある。なによりおめでとうございます。 |
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| 不調だ。鬱だ。 | 01月14日 2002年 |
| ▼きょうは、起きると頭痛がひどく、しばらく寝ていた。どうも不調が続く。終日、こもって仕事をしているのがいけないのだが。ちょっと暴飲暴食気味だったし。しかし、この一週間、新刊小説を1冊しか読んでいない。大丈夫かな。……うつうつ。 ▼きょうの朝日新聞朝刊に、「うつ病の治験にご協力いただける方を募集しています」との全面広告が出ていた。昨年から何度これと同じような広告が出ていたことか。このまえ新聞記事切り抜きをして気になったのだが、この会社(たぶん中外製薬の子会社)だけでなく、製薬系の何社かが幾度も「治験者募集」の全面広告を出しているのだ。 近年になってうつ病が増え続けているとの話はしばしば耳にする。 そこで、なぜ増加しているか、との問いに対して、「自由で束縛のない社会になったから」との説明を読んだことがある。 精神医学の黎明期には、いわゆるヒステリー症がもっぱらの治療対象として研究されていた。当時はまだ社会が個人に対して抑圧的だった。そこから生まれるストレスが、人をヒステリーにしたのだ。 ところが、封建的な社会から、次第に個人の自由を尊重する世の中になっていった。すると、社会や他者から抑圧をうけたり強制されたりしない代わりに、つねに自分で行動を選択していかなくてはいけない。自由であるということは、すなわち自分自身の判断を求められることだ。しかし、かならずしも下した判断や選択によって物事がうまくいくわけではない。能力が発揮できなかったり、結果が悪かったりする。みんなそれは自分のせいに他ならない。いつも未来は不確実である。絶対確かな選択などない。死ぬまで成功を続ける人はいないだろう。まじめで完璧主義の人ほど、理不尽な目を味わう可能性がある。どこかで失敗したり挫折したりして自分に自信が持てなくなると、やがて世の中すべてに対して興味を失う。自分でなにかをやる(行為を自由に選択する)ことを恐れるようになるのだ。なにをしても楽しくない。すなわち、鬱。 と、本当にこれが原因なのかさだかではないが、ともあれ「うつ病」が増えていることだけは、たしかみたい。抗うつ剤開発に、それだけお金をかけてペイする市場があるわけだ。 ▼あいかわらず、「ハリー・ポッター」が売れている。香港でも書店で平積みになっていた。同時期に上映された映画の方は、「ハリー・ポッター」より「千と千尋」の方が圧倒的な人気を誇っていたけど。 そこで、しばしば、「ハリー・ポッター」のどこが面白いの? との話もよく聞く。わたしの印象だと、どうも日頃いろんな小説をよく読んでる人ほど評判が悪いようなのだ。例外もあるが。 もっとも、5万部売れる本と500万部売れる本と比較して、後者が100倍面白いわけではないだろう。そうした思い込みの落差なんだろうか。 たとえば、海外ミステリーを読んできた読者には、さして評価されないP・コーンウェルの〈スカーペッター・シリーズ〉が驚異的に売れるのと同じなのだろうか。もしくは、赤川次郎、西村京太郎、内田康夫各氏らの人気もそうだ。大衆の嗜好は分からない。嗜好の総体が表れているのだから、正しいといえるか? しかし、どうしてだれも脳科学の力で「面白い本とは何か」を研究しないんだろう。さまざまなタイプの読書好きとふだん本を読まないうような人をそれぞれ1000人くらい集めて、どの小説にもっとも脳が昂奮するか、それまでの読書体験がどう作用しているか、宣伝や書評の効果があるのか……、脳の各部位の血流量や脳波や脳内ホルモンの分泌量などを徹底的に調べるのだ。「この本を読んだ76%の人に、脳内快楽ホルモンであるドーパミンの大量放出がみられました」なんて、データがでてくる。書評家の推薦文より説得力があるかも。ページごとの変化を追っても面白いだろう。「誰もが27ページと389ページでアドレナリン量が最大限になり、はらはらどきどきします」とか「120ページまで読むとα波が発生して、心が癒されます」とか。 しかしそうした「実験にご協力いただける方を募集しています」との広告が出ないのは、大きな商売につながらないためだろうか。 |
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| なんとか頑張ります。 | 01月12日 2002年 |
| ▼鬱というほど大袈裟なものではないのだが、年明けから、どうもテンションがあがらない。仕事のほうはなんとか予定に間に合う段取りだが、その分、私生活のゆとりがなく、新刊読書もさっぱりで、個人的に読みたい本も読めない状況が続いている。これからも同じ調子。 新年会もやりたい、出たいのだけど、もうしばらくはそんな余裕なし。 ▼中華粥は、加えた水が多過ぎたり、大きな鶏の手羽元だと身がしまりすぎて、長時間煮込むには合わなかったりと、毎日、試行錯誤を重ねている。メインとなる具は、食べる前に入れて加熱したほうがいい場合もあるのだ。あと、鍋用として市販されてる魚のつみれとかを入れればいいのかもしれない。ネギなどと一緒に加えるとそれこそ「生菜魚球粥」になるではないか。 ▼繰り返すように、面倒くさがりで不器用なわたしは何も料理が得意なのではなく、お腹が空くので、毎日しかたなく作っている次第。ただ、出来るなら美味しいほうがいいので、少しはそのために努力するだけ。なにも食通を気どるほどの舌をもっているわけではないし、上等な料理を食べてきたわけでもない。 昨年の春ごろ、朝日新聞の「私の視点」という欄で、嵐山光三郎氏が書いていた文章が面白かった。"「B級グルメ」全盛を笑う" というタイトル。 ラーメン屋のオヤジはすっかりその気になり、メンを科学し、ゆで方を史学し、スープを哲学して、平成のプラトン顔じゃないの。 たかが、腹をふくらませるためにこしらえたような簡単な食事、ラーメンやトンカツまでが、なにやら大層なグルメ文化、難解で深遠な学問であるかのように語られる昨今の風潮をバカらしいと述べていたのだ。 で、これを読んで思ったのだが、読み捨てとはいわないまでも1年後には誰も作品を語らないであろう、いわば、のびたラーメンや冷めたチャーハンみたいな娯楽小説の凡作までをも、やれニーチェだのベンヤミンだのと思想家の言葉を持ち出したり、ドストエフスキーの名作と同列に論じたりして持ち上げることの愚かしさだった。 なにより、「うまい、まずい」と同じく「面白い、つまらない」という単なる一個人の好き嫌い(味覚ならぬ読覚?)で嗜好的に評する意見の総体が、じつはいつだってもっとも本質をついているのかもしれない。 そもそも評価をくだして世間に表すること自体がヤボなのだ。粋じゃない。 と、考えつめると、自己否定につながりそうなので、この辺でやめ。 ▼なんて、書評家なんていくら否定されてもバカにされても構わないのだが、同業者も大勢いることだし、生活もあるし。 ともかく、そろそろ山のようにたまってる新刊を少しずつ読まなくてはならなくなってきた。明日から、がんばります。 |
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| 初神保と本のチラシとお札のしわ伸ばし | 01月10日 2002年 |
| ▼あいかわらず、新人賞の下読み仕事。読むのは簡単だが、選評を書くのはなかなか難しい。 デビューした新人作家が、2作3作書いていくうちに「化ける」ことがある。小説のかたちにすらなってなかった作品の書き手が、要領を覚え工夫を重ねて、いずれ傑作をものする可能性もなくはないのだ。そのことを思うと、無理にでも褒めたり励ましたほうがいいのだろうか。 ▼と、さすがに、退屈なシロウト小説ばかり読み続けるのもシンドイので、神保町へ本の買い出しにいく。初天神ならぬ、初神保。あちこち棚を眺めたあと、植田和文『群集の風景 英米都市文学論』(南雲堂)なんてのを見つけて買う。ちょうどここのところ、息抜きに読むのが、ホーソンやポーの短篇だった。昨年はメルヴィルやT・S・エリオットなどもちょこちょこ読んでいた。この本で取りあげている作家や作品は、じゅうぶん親しんでいるのだ。 そのほか、「新人賞を獲るための12講」との副題のついた、中条省平『小説家になる!』『小説家になる!2』(メタローグ)を買う。新人賞の講評を書くのに、参考になるだろうと思ったからだ。 『小説家になる!2』の帯裏には、「新人賞獲得実践プログラム」として、 1) 古今東西の名作を読みまくる。 2) 物語の構造を理解する。 3) レトリックを習得し、活用する。 4) 書出しで読者を引き込む。 5) 効果的な会話を書く。 6) 巧みな描写で勝負する。 7) 作品の中に〈謎〉を設定する。 8) 懐疑の目を持って作品を読む。 9) 他の芸術のジャンルに学ぶ。 10) 言葉に対して自覚と責任を持つ。 なんて書いてある。 そのほか、古書店によるはずが、目当ての店はすでに閉っていた。残念。 ▼そんなわけで、ほとんど起きてから寝るまで仕事を続ける毎日ながら、例の中華粥、とりあえず鶏肉の手羽中を入れたものは、たいへん美味しかった。朝のお粥というのは、なかなかいいものだ。温めるだけですむし。 しかし、どうやら1人分に対する貝柱の量は、1粒でも多過ぎるみたい。さらに乾燥しいたけ(ドンコ)や干し海老などでとったダシを加えるべきなのだろうか。ショウガ以外の薬味や隠し味になにが必要なのだろうか。中華粥を究めるにはまだまだ時間がかかりそう。 きょうも夜中になると、明朝のために米を四分の一合といで、お粥の準備。鶏肉もなくなったので、大きめの冷凍ムキ海老を加えてみた。明日が楽しみ。 ▼「本の雑誌」2月号では、「三角窓口」の「テープ事件に私も言いたい!」(86ページ)に思わず笑った。書店にやってくる横暴な態度の客に戸惑い、怒りつつもこらえ、憤懣やるかたない店員の不満を語っている、この文中で、 「あと、中にはさまれているしおりやチラシを捨ててくれ、と言われたり。出版案内などのチラシ、書店で入れていると思ってるお客様、多いんですよね」 という部分が個人的にウケたのだ。 ほら、町の新聞配達所の横を通ると、よく翌日の朝刊用のチラシをアルバイトの人たちがせっせと折り込んでいる光景を目にする。同じように、本屋さんでも、店を閉めたあと、搬入された新刊に書店員さんたちがせっせと新刊案内のチラシを入れていたらおかしい。日本中、いっせいにそれをやりだすのである。ときおり、講談社文庫に文春文庫の新刊案内をまぜてしまって、やりなおしたりするなど、大混乱がある(?)のだ。 どうせなら、書店ごと、地元ならではのチラシをはさめばいいのかも。近くの商店や料理店のサービス券などを入れるのである。「あの本屋に行くと、スーパーの割引券が手に入る」とか、「書店員のおすすめ本の案内」がはさまれていたりするのである。やがて、本よりチラシのほうが分厚くなったりして。 ▼ふと思いだしたのだが、学生のころ流行ったのが、古いお札のしわ伸ばし。しわくちゃの紙幣を水にぬらして、それをガラス窓に貼って乾かしておけば、しわがなくなり新品のようにきれいになる。 で、そのとき誰かがいったジョークが面白かった。 なんで銀行は、まだ日が沈んでもいない午後3時で店を閉めるのか。それは、そのあと受け取ったお札の中から、しわくちゃのものを選び、水につけて、それを職員全員で窓ガラスに貼っていく作業が待っているから。みんなで手分けして、店の窓ガラス全面に濡れたお札を貼っていくのだ。全部がピンと乾くまで家に帰れない。 だから、いつも銀行のお札は、みんなしわのないきれいなお札なのである。 ……うーむ。 |
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| 新人賞下読みと中華粥 | 01月08日 2002年 |
| ▼なんとかレギュラーの仕事をこなし終えた。続いて、新人賞の下読み仕事。この某賞は、1本1本しっかりと選評を書かなくてはいけないので、気が抜けない。しかし、下読みばかりに専念してると、新刊読書がおろそかになる。今月しばらくは、休みなしに終日がんばらなくては。 ▼きのう、七草粥ならぬ、中華粥をつくってみた。香港で食べる、あのなんとも美味なる中華粥が作れないものか、挑戦してみたのだ。 調べてみると、香港のお粥の一般的な作り方は、たとえば、 1)米は炊く30分まえに洗って水気を切り、サラダ油(米カップ1に対してサラダ油大さじ1)をまぶしておく 2)米の12倍の湯を沸騰させ米を入れる。 3)もどした干し貝柱をほぐして入れる 4)貝柱のもどし汁を加える。具も最初から入れ、煮立ったら中火にし、ふたをしないで、時々なべ底をしゃもじでかき混ぜ、約30粉炊く。 米の量は4人前でカップ1くらい。具はピータンや鶏肉、海鮮など好きなものを入れればOKだ。 と書いてある。(「アジアの人気グルメ必勝ガイド326」AB・ROAD リクルート社 1995年保存版より) どうやら、日本のお粥とは違う、あの香港のお粥の黄色みがかった色は、「干し貝柱」のダシから生れているようなのだ。もちろん店によって、さらにいろいろな食材をもとにした秘伝のダシがあるようだが。 たとえば「粥麺」の店では、麺のスープは「干し海老」から取っているらしい。いずれにしても、中華乾物から出るダシが味の大きなポイントになるわけである。 そこでまず、「干し貝柱」を手に入れようと思ったが、スーパーにおいてある中華食材の「干し貝柱」はバカバカしいほどに高い。たった五つ粒で1500円もするのだ。これは暴利だ。 もう少し安く手に入らないか、と探してみると、某酒屋の珍味として、北海道産の干し貝柱が、およそ20粒で1000円で売っていた。とりあえず、これを購入。 なぜ、中華食材のものがバカ高いのかというと、おそらく日本から輸出されたものが逆輸入されてるせいではないのだろうか。たぶん、御徒町のアメ横に行けば、はるかに安く買えるはずだ。 とにかく、まずは寝る前に、お米を4分の1合だけといで、ざるにあけ、水気を切る。 同時に、干し貝柱4粒に熱湯を加え、やわらかくなるようにしておく。 「シャトル・シェフ」という商品名の保温鍋にといだ米と10倍近くの水を入れて、さらにほぐした貝柱と汁を加えて、煮立てる。あとは、保温鍋に入れたまま、一晩、寝かせるだけ。 で、次の日、どんな状態か、見てみると、どうも貝柱が多過ぎたようで、あまりに生臭く、乾物くさい。貝柱のお粥みたい。不味い。失敗した。そこで、鶏がらベースのいわゆる中華ブイヨンを加え、味をととのえた。薬味のネギを加えたり、ごま油を加えたりして、なんとか食べられるようになった。香港のお粥が美味しいのは、大量に長時間煮込んでつくるため、干し貝柱などの臭みを消してくれるのだろう。弱火で炊くと米からデンプンの甘みが出てくる。一人前だと、どうしてもそこまでの味を出すのは無理なのだ。 で、きょうは前日の反省をふまえ、干し貝柱の量を1粒半にして、さらに鶏の手羽中を加える。日本酒と鶏がらの中華ブイヨンの粉を小さじ半分くらい加えた。 さらに、香港で食べるお粥には、必ずショウガが入っていたことを思い出し、ほんの少量のショウガを千切りにして加えてみた。すると、干し貝柱の乾物臭さが緩和された。本場の味とは違うものの、なかなか美味しそうなお粥ができそうだ。 なわけで、明日の朝食が楽しみ。 |
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| はやくも仕事に追われる毎日 | 01月06日 2002年 |
| ▼きのう、きょうとアルコールを一滴も摂らず、烏龍茶を2リットルばかり飲んでいた。はやく正月気分を捨てなきゃ。まだ雑煮は食べてるけど。 いくつもの締め切りが重なっているので、それをこなしていく毎日。本もどんどん読まなくちゃいけない。 ▼ヒマさえあれば、くだらないテレビ番組をザッピングしながら見るのは嫌いじゃないのだが、さすがに正月の特番だけはほとんど見る気になれない。 そんななか、今日は、FM東京ラジオの恒例、大瀧詠一&山下達郎の「新春放談」(「サンデー・ソングブック」)を聴く。シュガーベイブ(エレック・レコード)時代から山下達郎を聴き続けているわたし。この「新春放談」も、もう十何年か毎年かかさず聞いている。ことし大瀧さんによる企画編集(?)で、小林旭のCDが出るらしい。 何年か前に、NHK・FMで「大瀧詠一の日本ポップス伝パート2」なる番組を放送したことがあり、このプログラムも勉強(ため)になる話と音源ばかりだった。ポップスだのクラシックだの洋楽だの歌謡曲だの演歌だのロックだの、音楽のジャンルとはいったい何か、なんてことを実際の曲をあれこれ流しながら説明していた。結論をいえば、すべて「流行り歌」とくくるより他にない、ということになるのである。いずれ機会があれば、この内容を詳しく説明したいところだ。 そういえば、達郎さんもRCA時代のアルバムがリミックス+未発表音源つきの再発CDとして、もうすぐ出るらしい。 ▼夜は、NHK・BSのテレビ番組で、これまで外国のマスコミが取材したことのなかった東ブータンの "ブロックパ" という少数民族についての貴重なドキュメンタリーをやっていた。彼らは、ヒマラヤの高山のなか、ヤクを放牧し、そのミルクをしぼって生計をたてているのだ。 みなニコニコとして明るい笑顔が絶えない人たちばかりだが、決して楽な暮らしでもないうえに、伝統を守ったり国の政策にしたがったりするために、あれこれと苦労が絶えないようだ。 ▼そのほか、いくつか話題があったように思うが、また次回。 |
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| 謹賀新年 | 01月03日 2002年 |
| ▼2002年になりました。あけましておめでとうございます。 三が日は、あいかわらず本の整理。それから読書。のんびり休んでいられない。結局、片づけも中途半端なまま仕事にとりかかる。 そういえば、昨年、業界人が集まった某酒席で、某新聞社の某氏のかけ声により、「わが家(吉野仁の家)で鍋パーティをやろう」なんて話が勝手に決まってたらしい。「鍋はみんなで食べるもの。ひとりで食べるのはけしかからん」という(鍋奉行)奉行のメタな申し入れなのだが、とてもそんな状況ではない。 ▼雑煮は、まず、いわゆる関東風のすまし汁で食べる。やはりいい昆布とかつ節を使って、おしまず、ぜいたくに出汁をとるとおいしい。さらに正月なので肉厚の高級なしいたけと質のいい鶏肉を入れた。それにニンジンと里芋。モチはオーブントースターでふくらむまで熱したあと、コンロでこげ目をつけ、かりっとした感じで加える。なかなか正統派のすまし汁の雑煮ができたと自負。 で、その次に食べる時は、関西風(なのかな)白味噌雑煮にして食べる。ダイコンを加え、もちも多少くずれるくらいに煮込んでやわらかくするとうまいのだ。子供の頃から、どっちかというと、やや甘みのある白味噌雑煮のほうが好きだったのだが、今年は、やはり出汁をていねいにとったせいなのか、塩しょうゆの加減がよかったのか、関東風のほうがうまくできた。おいしかった。 ▼ちょっと前までは、「老後の楽しみ」が山ほどあると思っていた。いま忙しくて見れないビデオや読めない本も老後になったら、山ほど見たり読んだりできるだろうと。 ところが、どうも年をとると目は悪くなる、体力はなくなる、興味や関心も変わってくると、思うように運ばない可能性もあるのだ。 若くて体力のあるうちに出来ることは限られている。肉体的に、無理ができるのも、そろそろ臨界期に達しているのかもしれないのだ。そのあたりのプライオリティを考えるべきなのか。いったいなにを最優先すればいいのだろう。 といって、結局は当面の仕事におわれるばかり。そんなわけで、今年の抱負もなにもなく、なんとか去年の延長で生きていくつもり。いろいろとご迷惑をおかけする向きもあるかもしれませんが、なにとぞひとつご寛容によろしくお願いいたします。 ▼海外犯罪小説関連では、余裕があれば正月に読みたかった(当分、読むヒマない。しくしく)ジャン・ヴォートランの初期傑作という『グルーム』(高野優訳/文春文庫)の刊行を祝して、本サイト内「犯罪小説作家辞典」にヴォートランの項目を追加した。ちなみに、このファイルをつくりはじめたのは、昨年の2月だった。なにかとても強い動機がないと、ずるずる後回しにしてしまいがちなのが、よくないのだ。分かっているんだが。 |
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