苦手なジャンルの話と国際化するミステリー国際化問題 1月30日 2006年

えー、地味に仕事を続ける日々。

まぁ、絶対な定義ができないからって、別に「なんでもあり」というわけでもない。その時代、ある地域、ある人たちの間なりでおおむね妥当だと思われる物の見方があるでしょう。

 カレーライスの定義がどういうものか知らないけど、「カレー屋」に入って、メニューに普通のラーメンしかなかったら、困る。
 もしくは、辛きゃいいとばかりに、ご飯のうえに唐辛子炒めが山盛りに乗っているのを「これが真のカレーだ」と言われたら、怒る。

 私、なにも「いかれた連中が鬼畜のかぎりを尽くす」小説などわざわざ読みたくない。ましてやその鬼畜度が過激であればあるほど「本物の××」だの「××の金字塔」だのと言われてもねぇ……。

そういえば、「小説宝石」2月号に、「奥田英郎&角田光代が読む! 選ぶ!」というタイトルで、新たに創設された「小説宝石新人賞」の初代審査員をつとめるふたりによる対談が掲載されている。
 そこで、苦手な小説ジャンルについて触れていた。角田光代さんが、「時代小説とか弱いです」と述べたあとの会話。
奥田 僕はミステリ。あっと驚くトリックで驚かないんですよ(笑)。パーッと読んでいって、最後に「これかよ」って。みんな面白いというから読んでみても、「ええ?」という感じ。僕はトリックに驚かないというか、必要としてないから。

角田 それはわかるかも。ある小説を人に薦められて読んだんです。ずーっと物語が進んでいって、最後に、例えば男が女だったりして、何か「実は」というのがあって……。「これは何なんです」と編集者の方に聞いたら、叙述ミステリだと教えてもらって、私も驚けないんです。楽しみ方がわからないんですよね。

奥田 そう、わからない。だから、ミステリ志望の人はこの賞に応募するのは、やめたほうがいい(笑)。ハードボイルドもダメですね。
 つまり、読者側もそれなりの感性が求められたり、作品を味わうための積み重ねが必要だったりするジャンルもあるということ。分からない人は、その面白さをいくら(言葉や理論で)説明されてもわからない。
 多分、このあたりの、修練すべき行程に、説明するのが困難だという要素が隠れているのではないか。人の好みを形成していく部分と言い換えてもいい。(つづく……かな)

「ハヤカワミステリマガジン」の今月号、創刊601号記念特大号のなかの、松下祥子「英国ミステリ通信」で、イギリスの翻訳ミステリの現状について触れてる。ダガー賞の最優秀長編賞の最終候補六作のうち、四作が外国語からの翻訳作品だったことから、なんと今後は対象を英語で書かれた作品に限ると決めたという。

 ここで紹介されている《ガーディアン》の記事って、これでしょうか? 関連記事ではこんなのもある。
 ミステリーの国際化が進んでいるのは、ニューヨークの書店だけではないわけだ。

 そういえば、宮部みゆきさんの『クロスファイア』がもうすぐ英訳出版されるようだが、はやくもこんな記事が出ている。

ちょっと前まで、英語で論文を書くことが「国際化」とか「世界標準」とか言われていたけど、いまや(英語圏の人がわざわざ英語に訳してまで読みたいと思わせる)「内容」の問題になってきたのだ。まぁ、壁はまだまだあるだろうけど。

 と、自分ももっと中身をしっかりしなきゃ。


十日間の不思議 1月27日 2006年

気がついたら10日も更新が滞ってしまっていた。すみません。それでなくとも、いろいろなことを反省する毎日だ。

きのうは、新潮社、幻冬舎、テレビ朝日主催の第6回「ホラーサスペンス大賞」の授賞式へ。残念ながら、この賞も今回でおしまい。受賞者の活躍を期待します。

 新潮社は、なんらかの形でまた新しいエンターテインメントの賞を創設すると思う。してほしい。
 宮部みゆき、高村薫、天童荒太、乃南アサらを生んだ「日本推理サスペンス大賞」、永井するみ、戸梶圭太、雫井脩介、伊坂幸太郎らを生んだ「新潮ミステリー倶楽部賞」、そして(幻冬舎と共同だが)「ホラーサスペンス大賞」では、黒武洋、五十嵐貴久、佐藤ラギ、高田侑と、有望な新人が登場している。

今週月曜、1月23日の朝日新聞の夕刊で、このたび芥川賞を受賞した絲山秋子さんが「芥川賞作家と呼ばないで」という題名のエッセイを書いていた。

 その最後に「これから既刊も含めて、絲山の本を初めて読もうと思われる方に一言だけお願い申し上げたい」と述べている。
 書店で、最初の二、三ページを立ち読みしていただきたいのだ。本によって文体が違うので、大体それで合う合わないを判断していただけるのではないかと思う。もし、どうも合わないということだったら、「芥川帯」などにこだわらず、他の好きな本を探していただければと思う、すばらしい本はいくらでもあるので、私の本如きで本嫌いになっていただきたくはない。私自身はあまり熱心な本好きというわけではないが、どんなすばらしい評判の本でも自分に合わない本を読むほど苦痛なことはないと思う。
 前回、「すぐれた読み手による(感性、官能による)印象批評こそがもっとも正しい(読者の役にたつ)書評である」てなこと書いたけど、この「すぐれた読み手」とは、つまり、「(自分と)趣味があい、感性が似通っていると感じて、そのうえで自分の読んでない本を多く読んでる人」と言い換えてもいい。

 本でも音楽でも、あるジャンルの初心者だった頃は、ひととおり有名な作品に触れてみたり、その道をよく知ってる人の意見を聞いたりして、だんだんと「ああ、この人の好みと合うな」とか「この人の鑑賞眼は鋭いな」とか思って参考にしていったはず。それでも、この世に、完全に評価が一致する人はいない。いたら、奇妙だ。選ぶ範囲を限定すれば、別だけど。
 つまり、ある作品が世紀の大傑作だとどれほど論理的に説明されたところで、つまらなかったらしょうがない。

 もちろん、自分の好みが世間、大衆とズレてたり、感性が鈍い可能性もある。専門家(プロの評論家)だとそれでは困るかもしれないが、ふつうの人は、自分が面白くて満足すれば、それでいいわけで……。

水曜の夜にアマゾンへ注文した "The Complete New Yorker "がはやくも今夕に届く。かの有名なニューヨーカー誌(1925年の創刊から2005年まで)が完全に収録されたDVD−ROM8枚。これは、すごい!

そんなわけで、しばらくはテレビもろくに見ず(唯一の楽しみがドラマ「小早川伸木の恋」)、ましてパーティ、宴会などにも行かず、仕事に追われる日々だったが、すこし余裕ができた。それでも、遊んでる場合ではない。
 やるべき雑用、私用の部分は、昨年のある時期でとまったままで、いいかげん専念しなくては。


大いなる空費 1月17日 2006年

直木賞は、東野圭吾『容疑者Xの献身』に決まった。おめでとうございます。東野作品はどれも水準が高いので、受賞作以外の著作もどんどんと読まれるようになって欲しいもの。

えーと、かのG・K・チェスタトンはどこかで次のようなことを述べていた。
 明晰な頭脳の持主は、自分の定義がたぶん議論を巻き起こすことになりそうだと思う時以外は、定義などに時間を空費するものではない。
 って、これ、そもそも小池滋氏の文章の孫引き。

ジャンル(分類)の定義を論じることについて、とてもタメになった一冊に、池田清彦『分類という思想』(新潮選書)がある。山梨大学教授の池田氏は生物学が専門。

「多くの人々に受け入れられた分類体系は、ある時代と地域の思想・文化をうつし出したもの。確立されたと思われている、生物の分類とてその例外ではない。分類するとはどういうことか、いったいその根拠はどこにあるのか。様々な事例を示しながら、その素朴な疑問を解き明かす。構造主義生物学の俊英による分類学事始め。」(Amazonの内容紹介)

 この話、かつて某誌書評の枕に書いたっけ。
 つまり、生物学という科学の分野でさえ、時代、学者などによって意見が異なる。生物をその構造から区分けしても、系統発生をたどっても、(リゾームからも、ツリーからも)絶対的な普遍的な唯一無比の「正しい分類」など出来ないのだ。
 もともと自然はあらかじめあった分類基準のとおりに発生したのではないし、人は分類するという行為によって自らの思想を構築しようとしてるにすぎない。
 そもそも定義するために使う言葉自体が、あいまいだったり変化したりする。ゆえに、絶対でも普遍でもない「言葉」でおこなう定義が唯一無比の正しさであるはずない。長くなるので以下略。

もう一冊、書評家は必読だと思う本に、森枝卓士『味覚の探求』(河出書房新社 のちに中公文庫で刊行されたが、現在絶版のようだ)がある。文庫になったときの副題が、「美味しいとは何か」。

 たとえば、とれたての野菜は、うまい。もともと質の良い品種の作物で、豊かな土壌で育てられ、天候に恵まれ、旬の時期に収穫すれば、最高。
 でも、世の中にはトマト嫌いやナス嫌いは大勢いる。
 一方で、腐ったものは食えないが、肉は腐る直前がうまいともいわれている。
 腐った食品といえば、発酵食品は食べ慣れると病みつきになる人の多いものの、地域や人によって好き嫌いが激しい。たとえば関西人の多くは納豆がダメ。クセのあるチーズも多く、これも場所によって好まれ方があるようだ。
 地域によって異なるといえば、激辛料理もそうだ。熱いか、寒いか(メキシコ、南米、タイ、インドネシア、四川、韓国など)。

 同じ材料を使った定番のメニューでも、優れたコックが素材を吟味し調理したものは美味しい。
 しかし、運動部の学生は一流シェフによるフランス料理の一品より、たらふく焼肉を食いたいだろう。子供はカロリーの高いジャンクフードを求める。

 なにより、腹がへってりゃ、なんでもうまい。
 むかし杉浦茂のマンガ(「猿飛佐助」か「太閤記」か)で、部屋の掛け軸の言葉が「空腹にまずいものなし しげる」だった。

 では、「小説が面白いとは何だろう」という疑問につながる。

 食べ物のおいしさと同じで、人によって面白さの感じ方は違う。そればかりか、同じひとりの人間でも、子供の頃と大人になってからでは、知識や感受性のありようなどが異なるため、同じ本を読んでも読後感は大きく違うはず。いや、極端にいえば、ある本を、きょう読むのとあす読むのと違うかもしれない。

 ホームズ、クイーン、クリスティの名作群をほとんど制覇してから、日本のミステリーを読むのと、その逆では、面白さの感覚も異なるはず。
 ミステリーの読みどころ(前例の知識やそれを踏まえた上での、伏線や手掛かりへの注意とか)がまだ足りなかった子供時代と山ほど読んですれてしまった大人の読者の読み方とは違うだろう。
 まして、ある種の読む能力を身につけいても、単に疲労で集中力に欠けていたり、小説の内容とその日の気分が合わなかったりして、なんとなく面白くないまま読んでしまう場合もあるかもしれない。作者にとって、なんと迷惑な話か。

 だからといって、ろくに本を読んだことのない素人がはじめて書いた小説と一線で活躍しているプロの小説を比べたら、(たいていは)いつだれが読んでも違いは歴然としているだろう。
 しかも、そのプロの間でさえ差が大きくあるのだ(まえに書いたとおり、イチロー選手が「アマチュアとプロの差よりも、プロとプロの間の差のほうがずっと大きいんです」と発言していた。小説界も同じ?)。
 また、小説が「うまく書けている」のと「読んで面白い」のとは違うし。

 いわゆる本格ミステリー(古典パズラー)は、それを生んだはずのアメリカで、現在、まるっきり人気がない。これは冒険ハードボイルド派の卑劣な陰謀(談合カルテル)によるものなのか。
 大量死の裏返しの大量生って滅茶苦茶な話(トンデモ論)はどこ行った? 

 おっと、この話題に触れると、いつまでもきりがない。

もうひとつ、いまだに「書評家は印象批評を垂れ流しているだけ」みたいな発言を無責任にする人が絶えない。
 21世紀になって6年目をむかえた現在、「すぐれた読み手による(感性、官能による)印象批評こそがもっとも正しい(読者の役にたつ)書評である」という認識が(「明晰な頭脳の持主」たちの間だけでも?)確立されないものか。いいかげん、理性による合理的な思考の限界を素直に認めてほしい。
 巷で「近代文学の終焉」ということが盛んに言われているようだが、つまり「理性による合理的な思考(とその小説化)の限界」が明らかになったことを明晰な頭脳の持主たちがようやく認識したわけだ。なにをいまさら。

 自分の望んでいる結論へ導くための屁理屈の垂れ流しを空虚なジャーゴン(一読して門外漢には意味の分からない特殊な専門用語)で飾ってもっともらしい知性を装うよりも、「野生の思考」こそが往々にして真実を見抜く。
 映画監督のジャン・ルノワールいわく「官能万歳。脳味噌くたばれ」。

 ああ、これも長くなるのでつづく(かも)。

えーと、まぁ、とりあえず、こんなもんです。


あれこれと近刊予告 1月13日 2006年

「本の雑誌」2月号に載っている2006年刊行予告を見ると、トップに、よしだまさし『姿三四郎と富田常雄』とある。
 近日刊行! ところが、わたし、肝心の『姿三四郎』を読んでいないのだ 。さっそく入手。なんとか時間をみつけて先に読まねば。
 ともあれ、できれば、どこの出版社でもいいから、早速、文庫再刊してほしい。

これからでる本といえば、論創社の例の〈論創海外ミステリ〉の刊行予定に、なんとなんと、ピーター・チェイニー 『この男危険につき』とあるではないか。
 ピーター・チェイニイ(早川書房表記)のレミイ・コウション(同)ものは、これまで3作目の『女は魔物』田中小実昌訳(ポケミス #329)だけ翻訳が出ている(追記:もう一作、第八作『おんな対F.B.I.』久保書店がありました。川出さん、どうも)。
 『この男危険につき』は、シリーズ第1作目にしてチェイニイのデビュー作だ。1936年発表。原題はそのまま This Man is Dangerous

 で、知ってる人は何をいまさらだけど、知らない人は初めて聞く話を紹介すると、北野武監督の映画「その男、凶暴につき」は、もともとジェイムズ・ハドリー・チェイスの『その男、凶暴につき』(創元推理文庫)という題名を借用したもの。原題は Believed Violent だから、おそらく、この邦題のもとになっているのが、チェイニイ 『この男危険につき』なのではないだろうか。

 蛇足をいえば、アメリカ連邦捜査局員レミイ・コウションのコウション caution は注意、用心という意味で、レミイ Lemmy は、lemme = let me だから、この主人公名と処女作の題名を並べると「おれに気をつけな(気をつけさせな?)」「この男、危険につき」となるのでは。

 さらに蛇足をいえば、かの〈セリ・ノワール〉の記念すべき第1番目の作品は、チェイニイのレミイ・コウションもの第2作 Poison Ivy で、なぜかシリーズ第1作の This Man is Dangerous は〈セリ・ノワール〉第2番。逆の順番で出版されたのだ。どうして?
〈セリ・ノワール〉には謎が多い。
 昨年ようやく、ジム・トンプスン『ポップ1280』が〈セリ・ノワール〉で、1275 ames に改題されたのはなぜか、長年の疑問がようやく分かったというのに。(答え、「フランス語は数を勘定できない言葉」石原慎太郎都知事)

 あと、レミー・コーションといえば、ゴダールだな(わたしは未見)。

ようやく思い切って、「Adobe In Design」を購入した。特に名を秘す某社某編集部のように、アルバイト学生がアカデミック版の安いのを買って手に入れるというようなことはせず、ちゃんと正規の値段で購入。元をとるだけの活用をめざしたい。

 それにしても、最近、各出版社のデジタル化が進んでいるためか、メール(テキスト・ファイル)で入稿したあと、すぐにゲラが出るようになった。朝おくると夕にゲラのファックスが届く。

 だが、あんまり早いと、文章の間違いに気がづかない。気づきにくい。思いこみが残ったままなのだ。
 3、4日して、細かいことをすっかり忘れたときに、改めて活字になった自分の原稿を読むと、はじめて文章のひどさやあちこちの間違いを発見して、いっそ全部書き直したくなるのだが。
 しかし、書いた当日は、なんども見直しているので、まさかそんなひどい原稿だとは思わない。バカみたいな誤記をしているのに気づかなかったりする。ほんと、不思議なものだ。理性というのが、いかにあてにならないものか。

いろいろとほかにも話題はあるが、長くなるのでまた次回。


疲れ目がひどい 1月09日 2006年

ブルーベリーが眼にいいという。アントシアニンが含まれているから。
(ネットで「アントシアニン」を検索すると次の情報が出てきた)アントシアニンは、抗酸化物質ポリフェノールの一種で、視神経の働きを支えているロドプシンという色素の再合成を促して、疲れ目を改善し、視力を向上させる(のだそうだ)。
 さらには、活性酸素の生成を抑制し、血液をきれいにしたり、血圧上昇を防ぐ作用もあるとか。
 でも、スーパーなんかで売っているのをみると、ブルーベリーは高い。貧乏人は、毎日食べれない。

 で、もっとも安く、簡単に、アントシアニンを摂取できる。米屋やスーパーなどで売っている「黒米」(小さいパック100gで250円くらい)。もちろん、ご飯を炊くとき、これを加えてもいいのだが、もっと単純なやりかたがあるのだ。
 この黒米を適量、急須に入れて熱湯を注ぐと、小豆(あずき)色の色素が出てくる。これがアントシアニン。

 このお茶を一時間おきにとれば、確実に眼の疲れは軽減される。若い人は視力が1段階は確実にあがる。ウソだと思うなら、試してみなされ。

眼といえば、昨年、左手が橈骨神経麻痺になったとき、飲んだ薬がビタミン12(メチコバール)の錠剤だった。
 で、夕食後、この薬を飲んだあと、しばらくしてコンビニ買い物へ行ったときに、やたら夜道を走る車のヘッドライトの光がまぶしく感じられた。
 この薬、眼にも効くようだ。

 このあいだ、ドラッグストアへ行ったら、市販の目薬でビタミンB12が眼科医で処方される目薬と同じパーセントのものがあった。

 ただし、ビタミン12も摂りすぎるいけないという。一日、1500μgまでだったか。以前、医者が点数稼ぎでやたらビタミン剤を処方していて、その過剰摂取で障害が出た、という話をどこかで読んだ記憶がある。

眼も粘膜の一種ということでいえば、昨年、あるテレビ番組で、野菜の「かぶ」は喉(ノド)にいい、ということを知った。風邪薬でお馴染みの、消炎作用のある「リゾチーム」を含んでいるそうな。
 そこで思い出したのは、落語家はノドが荒れたとき、「ダイコンあめ」をなめるという知恵(生活情報局 の下の方参照)。
 ダイコンを賽の目に切って、それをハチミツにつけると、透明な上澄み液が出る。それをなめたり飲んだりすると、ノド荒れがおさまる。

 わざわざダイコンあめなどつくらなくとも、ダイコンの上部(からみのない、葉に近いところ)をおろして、それをしぼった液でうがいすると、ノドの炎症はよくなるのだ。

 で、粘膜系はつながっているので、胃やノドを荒らさないのも必要かな、と思うのだった。日頃からうがいをする。よく噛んで食べれば消化がよくなる。胃に負担をかけない。
 さらには、皮膚の一種ということでは、しっかりコラーゲンを摂取するといいかも。
 以上、素人考えで、正しいかどうか、わかりませんが。

 さらに、冬の時期はドライアイという問題もある。パソコンをみつめ続けて、まばたきしないでいるといけない。
 眼にうるおいをあたえるなら、鍋でお湯をわかして、しばらくその蒸気を眼にあてるとか。蒸しタオル(以前も書いたが、もっとも簡単に蒸しタオルをつくるのは、手頃なタオルを水につけて、軽くしぼって、電子レンジで1分強加熱するとできる)で眼をおおって、湯気をあてるとか。

なんて、ことを書きながら、ここんところ、酷使しているせいで、眼の下に隈ができている。やれやれ。

 もうひとつ書くべき話題があったけど、また次回。


謹賀新年 1月05日 2006年

明けましておめでとうございます。以前に比べて、更新の頻度はどんどん少なくなっていくかもしれませんが、本年もなにとぞよろしくお願いします。

昨年末、神保町へ行ったとき、大書店の雑誌コーナーをあれこれ読んでいたなか、あるミュージシャンの発言が目にとまった。要約すると、「(これからますます)本当に必要なものはネットで無料(タダ)で手に入り、別にどうでもいいものをお金を出して買わなきゃならない(社会になるのでは)」という意見だ。

 多少高くても本当に欲しいものがお金で買えるのならいいのだが、そういうものほど、どこにもない。というより、どこにもないから欲しくなるのか。
 たとえば1万人の需要があれば商売になるものがあって、製品となり、そこそこの値段で買える。だが、まったく商売にならない(なんらかの事情で商品化されていない)ものは、熱心なマニアの努力とかにより無料で流される……のかな。

ちょっとまえまで何千円かで出ていた、(版権切れの?)古典名作映画のDVDがいまや、たった500円で販売されている。
 ところが、一方でこれらのデジタル・リマスタリング盤プラス特典映像付きが数千円で新たに販売されるのだ。マニアは画質音質のよさとボーナス映像目当てで購入する。

そういえば、昨年の秋頃、ジェイムズ・M・ケイン『郵便配達夫はいつも二度ベルを鳴らす』の映画化作品を都合3作DVDでつづけて観た。
 もっとも原作のストーリーどおりにつくられているのは、テイ・ガーネット監督(46年)版だったが、原作の精神というか凄みを映像化しているのは、ルキノ・ヴィスコンティ監督(42年)版だと感じた。
 で、このヴィスコンティ版「郵便配達は二度ベルを鳴らす」も2月にデジタル・リマスター完全版が販売される。わたしの観たのは118分版だが、完全版は140分だそうな。宣伝文句によると「誰も見たことのない、完璧な「郵便配達は二度ベルを鳴らす」」。本邦初登場。

このことから考えると、マニアなファンのついている作家ほど、凝った装幀で何種類も出すとか、詳しい解説とか、作者による長いあとがきをつけるとか、なにか余剰の付加価値をつけて売り込んだ方が売れる、商売になる、ということなのかな。プレミア商売。思い切って、やたら高い値段をつけるとか。

 まぁ、大衆娯楽は、そもそも数(量)のなかから傑作が生まれるものかもしれないので、そちらのほうの市場をつねに確保し、手頃な値段で供給し続けなくては、いけませんが。ただし、どうやら書店(棚に本を並べて売る)という場も、時代に合わなくなっているのかな……、そもそも本なんて(何時間もかけて自ら活字を読んでいかねばならぬ)面倒な愉しみが大衆娯楽として成立しなくなってしまったのか、さて。

そんなわけで、新年そうそう締め切りが重なり、年末の大掃除もできず、のんびりした正月も過ごせず、年賀状も出せないまま、ばたばたと時はすぎていくばかり。ほんと礼を失ったままの一年になりそうな年明け。ごめんなさいっ!