Q&A
(31回)
現在住んでいる家を壊して、来年新築する予定をしております。 私の家は真宗ですが、起工式では、やはりお祓いしてもらったほうがよいのでしょうか
家を新築されることは誠にめでたいことです。また普請は身を縮めるほど大変なことです。お身体には十分気を付けて頂きたいものです。さて起工式にお祓いということですが、真宗ではそういうことはしません。もちろん建築中に事故のないように、無事完成することを願うのは当然のことです。ですから浄土真宗では、儀式としては、建築現場に本尊を安置して、住職にお勤めをして頂くことをお勧めします。そのお勤めは、こうして新築できることを喜ぶ感謝の気持ちでします。 そこでこれから、そのお勤めと厄払いのお祓いとの異なりについてお話ししましょう。
そもそもお祓いとは、。犯した罪や穢れを除き去るための祓えの行事です。殆どは仏事というより、神事です。 ですから今日では、俗に、神前で行われる祈祷のことを、災厄除けの祈祷(本来の意味の「祓」)以外のものも含めて「お祓い」といっています。
少し余談ですが、「お払い箱」という言葉がありますが、これもかつて、伊勢神宮の御師が全国を廻って伊勢神宮の神札を配っていましたが、それを入れる箱のことを「お祓い箱」と呼んでいたのです。新しい神札が配られると古い神札は不要になることから、「お祓」を「お払い」にかけて、不要なものを捨てる(人を解雇する)ことを「お祓い箱(お払い箱)」というのです。また悪霊ばらいは、世界各地に見られた悪霊・怨霊などがついたとされるときに、それを取り除くために行われた一連の儀式などのことをさします。また、神社が頒布する災厄除けの神札も「お祓い」と呼ばれています。(以上フリー百科事典『ウィキペディア』を参照)そうしたお祓いに対して、浄土真宗ではあくまでもその出来事を縁として、念仏もうす身にさせて頂くことです。家は何のために必要かといえば、家族が共同生活するためです。その中心が仏さまです。ですからどうぞ家の中心のお内仏を大事にして下さい。お内仏を中心に家族が寄り添っていくのです。そのための家です。家はできたけれども家族がバラバラであったら悲しいことです。お祓いよりも一緒にお勤めして下さい。
30回
大きなお寺は必ずといっていいほど拝観料が必要だと思っており ましたが、ご本山東本願寺や地方の別院では拝観料を取られない と聞きました。それはどうしてでしょうか?
かつて、オ−ム真理教の信者の人が「寺は風景でしかなかった」といったそうです。彼らにとって、寺は外から眺めるもので、決して教えを聞くところではなかったといってよいでしょう。もちろん、一般的日本人の多くは、京都を始めとする全国の歴史ある有名な寺院を「観光寺院」としてしかその存在的意味を見いだしていないのかもしれません。そこでは殆どの寺が、「お庭」などを見せて拝観料を取っています。庭の手入れから、建物の保存については、それなりのお金がかかります。それを拝観料で賄っているのかもしれません。
そんな中、東本願寺を始めとする真宗の寺院の殆どは拝観料を取っていません。それはどこまでも「念仏の道場」として存立しているからです。お寺の庭は、子ども達の遊びの場でもあるのです。乳母車や、自転車の入いれる庭です。建物も、多くの人が集える作りになっています。いつでも誰でも自由にお参りできるのが真宗寺院です。
そこで改めて、寺の存在の意味について確認しておきましょう。浄土真宗のお寺には二つの大きな役割があります。
一つは、寺は宗教儀式を執行する場所です。修正会、報恩講、花祭り、歓喜会、春秋の永代経などです。ですから、例えば報恩講などでは、門徒の人と共にお華束やお花などの荘厳をしてお勤めをします。
二つ目は、聞法の場であることです。大勢の人が参拝して、念仏の教えを聞き、時には「ご示談」といって、皆で仏法談義をします。そこでは共に「お斎」を頂き、時には夜を徹して語り合うこともあります。
そうした役割をもつのが寺ですが、東本願寺の場合、全国のお寺から「宗派付加金」を徴収しています。そして全国のご門徒から「同朋会員志」や「相続金」を頂いています。そのお金を建物の維持や、教団の強化費に使用しています。だから東本願寺では、拝観料はいらないのです。それはどこまでも寺は拝観ではなく、参拝して、念仏の教えを聞くところだからです。それは大事なことです。
私の地元では、法事の際に、お寺さんや参詣の方々に配るお菓子 などのことを「お供養」と呼びます。この言葉には、どのような 由来があるのでしょうか.
供養について少し細かく説明致しましょう。
供養とは、インドの言葉でパリカリヤーと言って、奉仕することを意味します。それはまた、尊敬の心を持って人々に仕え、世話をすることです。ですから仏教各宗において供養は大切な正行になっています。
例えば、『法華経』には、花・香・瓔珞・抹香・塗香・所W・幢幡・衣服・伎楽の十種の供養が説かれ、また、『大日経』では、香華・合掌・礼敬・慈悲運心などの四種供養が説かれています。
一般的には、衣服・飲食・臥具・湯薬を四種供養と言っています。(以上『仏教語大辞典参照』)
また、真宗以外の多くの宗派は、一般的に死者に対して塔婆供養・その他の供物を捧げ、追善供養としての仏教行事があります。ですから今まで見てきても明らかなように、法事の時のお内仏の荘厳そのものが供養といえます。
仏具をきれいに磨き、お灯明に瓔珞をつけ、打敷を掛け、お花、仏飯、あるいはお餅を供え、蝋燭の明かりをつけ、お香をたいて、お勤めをし、あとお斎を頂きながら仏法談義をする法事のすべてが供養といえます。
その点を押さえて、今浄土真宗の供養について考えてみましょう。
端的に言いまして、浄土真宗の供養の一番大切なことは讃嘆供養ということです。もちろんこれまで述べてきた、荘厳のすべて、それから物を施す物質的なもの、それらはもちろんですが、もう一つ精神的な供養を大切にすることを讃嘆供養と言っているのです。それは五種の正行の一つで、讃嘆供養正行といって、専ら阿弥陀仏をほめたたえ、物心をささげることです。そんな中で、浄土真宗の讃嘆供養は具体的に聴聞することです。
亡き人を偲びつつ、現にこうしていのち生かされていることを確認する大切な場所とひとときを与えられたのが、法事の大きな意味でなくてはなりません。
亡き人を縁として、残された家族が人間に生まれた意義と喜びを確かめ合うことです。そして住職を中心にして南无阿弥陀仏の教えを聞かせていただくのです。亡き人に供養するというよりも亡き人から何を願われているのか、その本来の願いを聞いていくのが供養そのものなのです。決して参詣の人にお菓子を配ったり、亡き人を供養することを否定するのではありません。ただ、どこまでも大切なことは、供養とは讃嘆供養で、聴聞に身を置くことが供養そのものであることを申し上げたいのです。
28回
ありがとう」や「もったいない」という言葉は、大変美しい言葉だと思います。これらの言葉は、もともとは仏教語だと聞きましたが、その由来を教えてください。 (30代女性)
「ありがとう」とか「もったいない」という言葉は、ことさら仏教語ではありません。ただ仏教の精神に深く関わっていることは確かです。
(T)「ありがとう」・・・・仏教では、人間に生まれたことは大変有り難いことだから喜ばねばならないと説かれています。ある時、釈尊が、
「たとえば大海の底に一匹の目の見えない亀がいて、百年に一度、波の上に浮かび上がるのだ。ところがその海に一本の浮木が流れていて、その木の真ん中に一つの穴がある。百年に一度浮かぶこの亀が、ちょうどこの浮木の穴から頭を出すことが、一度でもあるだろ
うか」(「盲亀浮木の譬喩(もうきふぼくのひゆ)」)
と尋ねられました。人間にうまれることの「有ること難き」ことを譬えられたのです。それがやがて、お礼や感謝の言葉として使われるようになったのです。欲に執着しているわたしたちが、善いことをするのは、なかなかできないことです。他人から何かもらったり、親切にされるのは、有ることが難しいことだとも言えるかもしれません。だから、有り難いことをしてもらったという気持ちから、「ありがとう」と言うようになったのかもしれません。
(U)「もったいない」・・・・ノーベル平和賞を受賞したケニアの環境活動家のワンガリ・マータイ女史は、全世界に向けて、日本語の「勿体ない」(モッタイナイ)の精神を訴えました。彼女はこれほど環境保護とそれに基づく世界平和の実現をリードするすばらしい言葉はないと考え、この精神を推し進めることを国連において提唱したのです。
ところで、「勿体ない」という素晴らしい日本語が、いま日本人の間でほとんど死語となりつつあります。
『広辞苑』によりますと、「もったいない」は、「勿体なし」の口語であり、「勿体」は物の本体(物体)を意味するといいます。したがって「勿体なし」は物の本体を失うこととなるのです。本来は「神仏や貴人に対して不都合なこと、恐れ多いことを意味したが、転じて、物の持てる本質を無駄にすることは惜しむべきだ、という日常訓となって伝播したのです。
まだまだ生かして使えるものを、このまま捨ててしまうのは勿体ないとして、物を大切にした日本人の美徳といってよいでしょう。
27回
娘の結婚が決まりましたが、結婚式はハワイで挙げ、両家の家族だけ来てほしいと言います。私は、式は国内で挙げ、せめて親戚までは招待したいのですが、本人達の意志に従うほうがよろしいでしょうか? (50代女性)
結婚ということを考えると、昔と今と随分ちがってきています。一番の違は、昔は結婚というと家と家との結びつきを大切にしました。そして地域と密着して、その地方地方の風習に従って執り行われました。地域共同体の中で祝福され、また公開されました。そして仲人を立て、結納の儀式を執り行い、結婚式並びに披露をしました.
ところが現在では、二人が中心になり、二人の希望によって簡単な式だけを挙げる人も増えてきました。
例えば、友人だけによる人前結婚式とか、あるいは二人だけでハワイで挙式を上げるとかいう具合です。大変多種多様です。そこでは、家、親戚、地域などはあまり問題にされなくなっています。ですから、質問されるあなたの気持ちは十分理解できます。ただ少し気になるのは、最近結婚の数よりも離婚の数が増えてきていることです。結婚式も簡単になれば、離婚も簡単です。もし子どもがいれば、一番の犠牲は子どもです。ある養護施設の方に伺ったら、施設のほとんどの子ども達には両親がいるというのです。いろんな理由があるでしょうが、両親の離婚の犠牲になって施設に来る子が一番多いと聞きました。
何も我慢がいいとは言いませんが、結婚式が、家と家、仲人を介しているとなると、離婚に対しても少しは歯止めになるかもしれません。誤解の無いように申し上げれば、わたしは離婚がいけないといっているのではありません。付く縁あれば付き、離れる縁あれば離れるのが真実です。しかし、今は自由の名の下に少し自分勝手になっていると思います。 もちろん、一番大切なことは二人が愛し合うことです。その愛し合うことは「二人のために世界はある」のではなく、世界、つまり周りの人に愛されることによって自分たちの愛が成り立つのです。
『大無量寿経』には「当に相敬愛すべし」とあります。互いと互いが愛し敬い合うことから出発するのです。ハワイで式を挙げることは今流でいいかもしれません。でも願わくば仏教徒としては、ご本尊阿弥陀如来の前で、家族親戚の立ち会いの下で、互いの愛を誓い合うのが一番だと思います。やはり結婚されたら苦楽を共にしながらも幸せになっていただきたいと願うのはわたしだけではないでしょう。ただ、今は子どもさんに従って、親戚の紹介は国内で披露宴をされたらいかがでしょうか。
26回
最近の「子どもを作る」とか「できちゃった婚」という言葉が気になります。他の宗教では、「子どもは神様からの授かり物」という表現をしますが、仏教では、どのような教えを説かれますか。 (40代女性)
わたしたちがこの世にいのちをいただくには必ず父母がいります。その父母にもそれぞれ父母がいります。ですから、二人のおじいちゃんと二人のおばあちゃんと、合計六人の人のいのちがいったのです。それを三〇代遡れば何億人の人のいのちがいったのです。三〇代といえば、たかだか千年です。このように多くの人のいのちを受け継いでわたしは誕生したのです。その間、一人でも欠けていたらわたしは生まれてこれなかったのです。
空から降ってきたり、川から流れてきたという人はいないはずです。これは当然のことで理解できるでしょう。しかし子宝に恵まれるということは、じつは人間の思い通りにならないのです。ほしくても授からないご夫婦は何人もいます。人間はいろいろな縁によって誕生しているのです。
そして、じつはわたしたちのいのちには、長い歴史があるのです。地球が誕生して四八億年経つそうです。そこにいのちが誕生して三〇億年です。わたしたちのいのちは三〇億年の歴史をもっているのです。
そこでこれから、中国の善導という人の説を紹介してみましょう。
人間に生まれるには、必ず父と母の縁がいるといいます。そして人間に生まれようとするならば、善導によれば、「みづからの業識(深い人間の奥底の願いによる行為)をもつて内因となし、父母の精血をもつて外縁となして、因縁和合するがゆえにこの身がある」といっています。だから、父母の恩は重いのです。たとえば、母さんが懐胎してからは、十月を経るまで、歩いたり座ったりの動作にも苦しみを受けるのです。また、お産の時には、死ぬかもしれないほどの難義を憂うのです。そして、わたしたちを無事生み終えたならば、こんどは三年ほど、つねにおむつの始末をして、睡眠不足になることもあるのです。それくらいひとりが誕生して育つということは大変なことです。しかし、わたしたちは親に育ててもらった赤ちゃんのときのことは記憶にありません。だから「生んでくれなんてたのまないのに勝手に生んで」としばしば文句をいいます。それは恩を知らないことになります。わたしたちは多くの人に支えられて、今、いのち生かされていることを知っていただきたいと思います。
25回
お寺の坊守です。跡継ぎの一人息子がいますが、結婚相手はぜひ お寺の娘さんがいいと思っておりますが、いかがでしょうか。それは私も寺の出身ですし、やはりお寺のことは、そこで育った者にしか分からない苦労があるからです。 (50代女性)
お寺に生まれた者でなければお寺の苦労は分からないと言うことは、あなた以外の人からもよく聞きます。それでは、お寺の存在はどういう意味を持っているのでしょうか。寺は、何か特別な世界でしょうか。
かつてオウム真理教の信者の人が、「寺は風景でしかなかった」と言ったそうです。なるほど京都の多くの寺は、観光寺院として有名です。そこではとても自分の人生について考えたり、社会の問題を学ぶところとは思えないかもしれません。そうするとお寺の本来の意味は何かと問われてきます。その問いを持って生活するのが寺に住む人でなければなりません。
お釈迦さまも、親鸞さまも、共に元は在家でした。出家得度して仏者僧侶になったのです。寺が世襲制を敷いたのは、本願寺を除いては近代に入ってからといってよいでしょう。 殊に親鸞聖人が、比叡山での二十年間の学道修行の中で悩まれたのが、「愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑」する自身の煩悩だったのです。なぜ比叡の山は男性だけなのか。どうして立身出世していく人とを妬む心が起きてくるのか。どうしても解決できなかったのです。
親鸞聖人は、そうした苦しみから決して逃げずに悩み続けられたのです。六角堂に九十五日参籠されました。そしてやっとの事で法然上人の吉水へ出かけられたのです。それは比叡山を下りることを意味します。挫折することでもあります。それでも女性を求め続けられたのです。
そこで法然上人は、「あなたが妻を娶って、仏の道を共に歩むことができればどうぞおむらいなさい。あなたが妻を娶って仏の教えを歩めなくなるならおやめなさい」といわれたのです。親鸞聖人は法然上人に出会うことによって、肉食妻帯の道を歩まれるのです。そこに念仏による生活が始まったのです。
ですから、大切なことは寺の出身かどうかということは大して問題ではないのです。むしろ大切なことは、お嫁さんと共に念仏の教えを聞けるかどうかが問題なのです。寺が聞法の場になることが大切なのです。
第24回
お釈迦様が亡くなられたことを涅槃と言いますね。また、偉いお坊さんが亡くなられたことは遷化と言われますが、私たちが命終わることを何と呼べばよいのでしょうか。
涅槃というのは、インドの言葉でニルバーナといいます。しばしば涅槃寂静といわれます。お釈迦さまが八〇年の生涯を終わられる時、涅槃に入られたといわれます。じつは、お釈迦さまが涅槃に入いられるということは、肉体の死を意味するのです。どんなに偉大な人であろうが、必ず死ぬということです。お釈迦さまは、スーパーマンでもないし、神様でもなく、死ぬ人間として生き、そして仏になられたのです。お弟子の人たちは、そうした悲しみを通して事実に出会っていったのです。
たまたまチベット仏教で生死の二苦について次のように説かれています。
人は生まれ出る時、大いなる苦しみを持って生まれてきた。そして、周りの人は祝福した。また、人は死に臨んで、大いなる安らぎを得る。しかし、周りの人々は死を忌み恐れ、大いなる悲しみにうちひしがれた。
人間が生まれる時は生苦と言って、大変な苦しみであったというのです。しかし、わたしたちには、そんな苦しみの記憶はありありません。ただ周りの人々の誕生の祝福は分かります。
また死に臨んでの安らぎもわたしたちには分かりません。死んで生き返った人がいれば死に臨んでの体験を聞けるのでしょうが、無理な話です。ただ周りの人が悲しんでいることは良く理解できます。
そこにお釈迦さまの涅槃の寂静なことがよく理解できます。生死一如の世界を明らかにされたのがお釈迦さまの生涯のお仕事であったのです.
それから遷化というのは、お浄土へ帰るという意味です。生死輪廻が尽きて寂滅に帰す意味において遷滅とも言います。徳の高い僧侶だけではありませんが、わたしたちを育てていただいた先生が亡くなられた時、遷化ということもあります。お浄土から世俗の世界に生まれて、またお浄土へ変える意味で遷化とも言います。わたしたちは「南无阿弥陀仏のお浄土へ帰られた」といってよいでしょう。あるいは「仏さまの国へ帰られた」といってもよいでしょう。くれぐれも「天国へ召された」とはいわないでください。それはキリスト教の世界です。
第23回
永代経の意味について教えてください。
永代経法要についてお話しいたします。
まず永代経とは、経典名ではありません。『大無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』というのは経典の名前です。ですから同じ経と在ってもそれは経典の意味ではありません。永代に渡って讃嘆供養し、読経して法要をつとめるという意味です。
そこで永代経法要に先立って、わたしたちは亡き人の法名を寺の法名軸に記載いたします。そのとき永代経懇志(金額は決まっていません)を持ってお参りします。それから住職は「お紐解」といって、お勤めの後、掛け軸の紐を解いて法名を記載します。そこで春秋二度の永代経の法要が勤まるのです。所によっては、祠堂法要ともいいます。春秋のお彼岸と一緒に勤めるお寺もあります。
何れにしても永代経法要とは、亡き人を偲びつつ、現にこうしていのちいただいて生かされてあることを確認する大切な場です。そこでは、亡き人とわたしのいのちといのちが出会う場所でもあります。
子どもの居ない人はいても、親の居ない人は一人もいません。わたしたちのいのちは必ずお父さんお母さんのいのちと連続して在るいのちです。無始曠劫よりの遼彼方の昔から、永遠の未来に続くいのちです。ですから、わたしたちのいのちは単にオギャーと生まれてやがて死んでいくというだけのいのちではありません。そのいのちの連続性に於いて、始めて亡き人から願われてあるいのちが知らされるのです。あなたは亡き人から何を聞いてこられましたか。そして子や孫に何を伝え残していきたいですか。お考え下さい。
それからもう一つ、永代経法要の大事なことは、讃歎供養ということです。
この場合の供養とは、亡き人に何かお供え物をして供養するというのではなく、むしろ亡き人を縁として自分自身が仏さまの教えを聞かせて頂くことです。
讃歎とは聴聞といってよいでしょう。わたしが本当に人間に生まれてきた意義と喜びを見いだすような、仏さまの教えを聞くということです。亡き人の願いの中に生かされ、亡き人を縁として、自分の人生を満足して終われるような教えを聞く場を永代経法要といってよいでしょう。
第22回
昨年亡くなった姑は、私にとっては嫌いな人でした。いずれ私も命終わるときが来るでしょうが、どうしても姑と一緒のお墓に入りたくありません。別のお墓を建てることは可能でしょうか?
(60代女性)
葬儀もしてもらえず、墓も無い人々
親鸞聖人の出家得度された時、京の都は大変な飢饉に襲われていました。同時代の鴨長明の『方丈記』には、当時の京都の様子が細かく記されています。養和元年(1181年)の京都では、四月五月の二ヶ月の間に、北の一条、南の九条、東の京極、西の朱雀にかけての市街で多くの人が餓死していました。仁和寺の僧が、亡くなった人のおでこに梵字で阿字を書いたら、四万二千三百余りあったという。郊外もいれたら、その数は数え切れないでしょう。捨てられた死骸からは、ウジ虫が湧き異臭を放っていたといわれます。親鸞聖人は晩年、「某親鸞閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたうべし」といわれました。火葬にせよ土葬にせよ、葬ってもらえる人はほんの一部の人でした。みんな鴨川へ捨てられていたと思います。だから親鸞聖人は「自分が死んだら、鴨川へ捨てて魚に与えてくれ」といわれたのでしょう。ですから、現代のような墓石の形を取る以前は、土葬が多かったので、亡骸の上に石を置いた程度だったと思われます
。
墓は権力の象徴
そこでこれから「お墓」について説明いたします。
もともと「お墓」は、古来より権力の象徴として建てられました。エジプトのピラミッド。インドのタジマハール。中国の秦の始皇帝の兵馬俑。同じく明の十三陵などです。中国の皇帝の中には、即位したその時から墓の建設に取りかかった人もいました。日本でも神武御陵を初めとした広大な古墳もみな権力の象徴でした。
墓は亡き人と出会う場所
一方、日本で一般民衆が墓を持つようになったのは、近代に入ってからといってよいでしょう。ただ浄土真宗の門徒の人たちは、お墓を持つだけの生活の余裕もなかったのです。それよりお内仏でお参りをしてきました。ですから、骨に対する執着を捨て、むしろ南无阿弥陀仏の念仏の中に亡き人のいのちを観ていたのです。
ところが戦後になるとお墓が○○家先祖代々の墓と刻まれるようになりました。これは真宗では良くありません。墓標は南无阿弥陀仏か、個人の法名を刻むべきです。
そのようなことからすれば、嫌いな姑と一緒の墓に入る必要はありません。ただ問題なのは、あなたが亡き姑とどこで出会うかです。今のままでは寂しいことです。あなたが「姑さんと嫁姑のご縁をいただいて良かった」と思えた時、あなたはすべての囚われ苦しみから解放されることでしょう。
第21回 両親と同居するには
現在、夫と子ども二人の四人で暮らしていますが、夫が長男で家業のこともあり、義父母が「近い将来、一緒に住んでほしい」と懇願しています。しかし私にとっては、本当の親ではありませんし、仕事や子育てで忙しいのに、老いていく義父母の面倒など見たくありません。こんな私はわがままでしょうか? (30代女性)
我が儘とか我が儘でないとかではなく、当然ご両親の面倒は見るべきです。昔から、「親のいうことを聞かぬ子も親のまねは必ずする」といわれています。二人の子どもさんはあなたの姿をちゃんと見て育っているのです。あなたが親にどう接しているか、言葉ではなく、恐ろしいほど子どもは見ています。
江戸時代、九州日田の貧しい村に伝わっているお話です。
ある時、お父さんが、物置から板きれを取り出してトロッコを作っていました。出来上がったトロッコの上に布団を敷いてじいちゃんを座らせました。じいちゃんは、最近中風で動けなくなってしまいました。ましてや働けませんので、食いぶちを減らすために、山へ捨てに行くというのです。じいちゃんを山へ置いて帰ってきた次の日、息子がそのトロッコを持って帰ってき来たのです。お父さんはビックリして、「お前それ何で持ってきたのか」と聞きました。すると息子は「ウン、これ今度父ちゃんが倒れたときに使うため持ってきたんだよ。物置へしまっておくね。」と平然といったのです。貧しさ故に親を捨てなければならない悲しい現実です。子どもはその心までは分からなくても、親のしたまねは必ずするというお話です。
当然別居しなければならない状況はあるでしょう。ただ「老いていく義父母の面倒など見たくありません」という言葉が気になります。「老い」は、誰にもついて回ることです。
ところが、年寄りを見ても、自分が年取るということが分からないのです。他人事としてしか理解できないのです。悲しい現実です。
日本はもともと二世帯三世帯同居の家制度でした。それが「スープの冷めない距離」という欧米の考え方が表面的だけ入ってきたのです。
じつは二〇〇〇年の二月、わたしは連れ合いと一緒にイギリスのランカスター近くの田舎町へ行く機会がありました。次女がホウムステイでお世話になっていたウイリーさんの家にお伺いしたのです。娘が世話になっているお礼を兼ねてお伺いいたしました。二泊お世話になりました。その時いろいろ教えられました。それはホストファミリーのウイリーさんの娘さんのミシェールさんは、それこそ「スープの冷めない距離」の自家から毎朝お話にやってくるのです。昼過ぎにはまた子どもを連れて遊びに来るのです。つまり、お互いのプライバシーを大切にしながら、毎日いろいろな話や相談事を持って家族の団欒をしているのです。ですから、あなたが、本当に家族関係が上手くできれば、ことさら同居にこだわる必要はないでしょう。
第20回 離婚
結婚5年目の息子が、夫婦間の性格の不一致で離婚すると言っています。息子夫婦には2歳になる娘もいます。昔人間の私からすれば、幼い子どもがいるのに、親の身勝手で離婚するのは許し難いことです。どうにか離婚だけは避けたいので、どうように二人を説得すればよろしいでしょうか。 (50代女性)
夫婦間の性格の不一致で離婚されることは、全くもって残念なことです。ましてや二歳の子どもさんがおられるのならば、何とか考え直して頂きたいと思います。
昔は「子はかすがい」と言って、少々問題はあっても、みな我慢して危機を乗り越えて来たものです。子を思う親の心は広大でした。現在日本では、二十六万組の夫婦が離婚している現状です。二分に一組離婚していることになります。ただこれはあくまでも統計上のことで、ほとんどの人が、順風満帆ではなかったはずです。離婚という行為は、自分の思いは納得できたとしても、必ず相手を悲しい思いにさせます。
もとより親鸞聖人は、付くべき縁あれば付き、離れるべき縁があれば離れると言っておられます。結婚も縁あってのことです。ですからその縁を大切にして頂きたいのです。
じつは、私がこの世に生を受けるのに父と母がいました。その父と母にもやはりそれぞれ父と母がいます。もし仮にわたしに先立って、三十代遡ると、何十億の人の数になるのです。たかだか千年遡るだけです。その間、誰が欠けてもこのわたしは生まれてこれないのです。ですから二歳の子どもさんの父母は世界でたった二人だけです。親子の縁は、離婚しようがしまいが消えないのです。もしあなたが、二歳の時、ご両親が離婚されていたら、あなたの生涯はどうなっていたか考えたことがありますか。父に付こうが母に付こうが、悲しい思いをしたでしょう。人間の幸せは、母がいて父がいて家族が一つになれれば、それに越したことはないでしょう。
安田理深先生がいわれました。東大の教授が、愛し合った二人の学生の仲人をされました。世界は二人のためにあると、愛し合っていた二人が一年も経たないのに、こんな人とは思わなかったとお互い罵り合いながら離婚の相談に来たというのです。二人は互いに相手を責め合いました。先生は困ったなという表情をされ、一言も言葉を発せられなかったそうです。先生は庭に出て、一時間以上腕を組んで困っておられました。二人はふと、先生は、わたしたちのことであんなに悩んでおられる。わたしたちは互いを責め合うだけだった。先生に申し訳なかった。わたしたちももう一度二人で話し合いましょう、と言って帰っていったそうです。どうか二人が、現にあるご縁の大切さに気づいていただきたいものです。
第一回 お精入れお精抜き
Q
先日、お仏壇を買い換えたとき、お手次の住職さんから「真宗ではお精抜きとかお精入れということはない」と言われ、お勤めしてもらえませんでした。それでよろしいのでしょうか。
A
お勤めの善し悪しはさておいて、あなたが「お精入れお精抜き」と称して行おうとしていることが、本当に仏事になっているかどうかが問題です。
一般社会では「仏作って魂入れず」の感覚で「精」を見てはいないでしょうか。ただあなたは、ご住職にお勤めしていただいて本当に、「精」が入ったり抜けたりできると信じているのでしょうか。
私たちは、仏壇を新しく購入して、皆で初めてお参りする法要を「お入仏のお勤め」「お敬い報恩のお勤め」と言っています。また仏壇を洗濯するとき、しばらくお参りできませんので「お別れのおめ」「お礼報謝のお勤め」と言っています。ですから、あえて「お精入れ」「お精抜き」という言葉遣いにはこだわっています。たとえ、「お勤め」という行為は同じであっても、当事者にとって、恐れ祟りから逃れるため、あるいは全く意味不明のまま惰性で行っているのと意味が違います。
浄土真宗の仏事は、浄穢善悪に執している私に気づき、本当の教えに出会うことが大切です。ですから、浄土真宗の教えは、どこまも「仏恩報謝」のお念仏に生きることが主目的ですので、仏事をご縁として『正信偈』を僧俗共に「お勤め」するのがよいと思います。そこをしっかり考えてください。お勤めそのものがいけないと言っているのではないと思います。
それを住職さんは、「そんなお勤めはない」と言われたのでしょう。ぜひもう一度お勤めの意味を問いながら、住職さんにお願いしてみてください。
第二回 四九日の法事
Q
一月三十一日に父が亡くなりました。住職さんに、「四九日の法要が三ヶ月に渡るといけないと言われるので、二月末に勤めてほしいと言ったら」「どこにそんな根拠がある」と問い詰められました。本当のところはどうなんでしょうか。
A
ご住職のおっしゃる通りです。全く根拠のない迷信です。大事なことを長引かせるといけないとでも言うのでしょうか。全く意味のないことです。もしお父さんが二月一日に亡くなられれば。そんなことも考えなかったでしょう。
仏教は、因縁果の道理にかなった教えです。生まれたら必ず死ぬいのちです。死ぬのを生かしたり、念仏称えたら病気が治るとかいう教えは、本当の仏教とはいえません。むしろ、私たちが死を恐れ、病気を忌み嫌う心を見据えたのが仏教なのです。
ところが、私たちの日常生活はどうでしょう。「友引」にお葬式しないのはなぜでしょう。これも意味がありません。ただ「友を引く」と言う語呂合わせで、死を恐れているにすぎません。また、駐車場に四番が無く、病室に四号室が無いのはなぜでしょう。どうして「四」という数字を嫌うのでしょうか。これも「四」と「死」の語呂合わせにすぎません。
病院に診察に行って、「四二二一九」番のカルテの番号だったらどうでしょう。「死にに行く」と読めます。だから嫌がるでしょう。反対に、運送業の人は「四二番」の番号が好きだそうです。「始終荷」があるようにと読めるからだそうです。全く日本人にしか通用しない、馬鹿げた語呂合わせによる迷信にすぎません。ご住職は当たり前に思いこんでいる語呂合わせによる迷信に目覚めよ、と渇を入れられたのではないでしょうか。
仏教は、あくまでも道理を明らかにした教えです。意味の無い
執われからの解放を目的にしているのです。
第三回 嫁姑の問題
Q
私は嫁いで30年間、姑との争いが絶えません。姑は、自分のことは棚に上げて、他人に厳しく当たるタイプで、ついて行くことができません。いつもこちらが折れる形になり、なかばあきらめ気味ですが、今後どのように接していけばよろしいでしょうか。
A
今のままでよろしいです。人間そんなに器用に変われるものではありません。ただ考え方、気配りの点で少し考えてみましょう。
人間は「北風と太陽の話」ではありませんが、厳しく接すれば相手も厳しくなります。優しく接すれば、優しくなります。あなたは姑さんに優しく接していますか。
腹たたば鏡の前に立ってみよ 鬼の姿がただで見られる
人間はたった一言、たた一つの思い道理にならないことで腹の立つ用意をしているのです。姑が鬼に見えれば、あなたの顔からもきっと角が出ている事でしょう。
かつて大河内了悟先生はおっしゃいました。
念仏する身が辛抱するにあらず、相手の辛抱が見ゆるのである。
お互い家族の者の辛抱が見えるでしょうか。
婦人同朋会で、四〇代の嫁さんが、「最近の年寄りは我が儘で勝手がいい」と言っていた。おじいちゃんが亡くなった後、くよくよした生活をしていると思ったら、老人会の旅行で、バスに乗るとき飛ぶ様に身軽に乗っていった。勝手なものです。「私の家は私が辛抱しているから丸く収まっています」と言っていた。その言われた姑さんが、今度はお寺のおみがきの時に、「最近の若い者はわしらに相談なしに勝手にしている。先日もまだストーブが使えるのに捨てて勝手に新しいものに変えている」と言うのです。「これでも私が辛抱しているから」と言っていた。そうしたら、息子は息子で嫁姑の間に入って、「私が辛抱しているから我が家は丸く収まっている」と言っていた。なかなか相手の辛抱が見えないのです。あなたはどうですか。
第四回 先祖の祟り?
Q
私は、最近階段から落ちて腕を骨折しました。そのため仕事もうまくいかなず、だんだん食欲も減り、体調の悪い毎日を過ごしています。どうにかしようと占い師さんに見てもらったら「先祖の霊を供養しなさい」と言われました。仏教では「霊魂は存在しない」などと言われるそうですが、ほんとうに先祖の霊が祟っているのでしょうか。
A
真宗では「先祖の霊が祟る」ということは決してありません。階段から落ちたのは、足を滑らしてバランスを失ったに過ぎません。地球の引力のなせるわざです。ただ骨折されたのはお気の毒でした。
大事なことは、事故と先祖の祟りと全く関係ないということです。あなたの間違いは、占いに頼ったことです。占いは無責任です。恐れ祟りは人間の迷いの世界です。先祖の霊など関係ありません。あなたは、死んだら子や孫に祟って出ますか。
お釈迦さまの教えに「毒曹フ喩」があります。
摩羅迦という若いお弟子がいました。とっても優秀でしたが、宇宙が有限か無限か、人間は死後も存在するかしないか、霊魂と身体は同じか別か、など疑問を持っていました。ところがお釈迦さまは直接説かれませんでした。そこでとうとう摩羅迦は修行を止めようとしました。そこでお釈迦さまが説かれた喩です。
摩羅迦よ、旅人が歩いてきて、どこからともなく毒矢が飛んできて旅人の足に突き刺さった。旅人はこの弓矢の種類は、誰が矢を射ったのか、どちらの方角から飛んできたのか、それが分かるまで抜くなといったとしよう。摩羅迦よお前ならどうする。
摩羅迦は「そんな馬鹿なことを言っている間に毒が回ってしまうのでまず抜きます」と答えました。
お釈迦さまは「その通りだ、実は霊魂などの問題も同じだ、ただそのことに執らわれている間に、私たちのいのちは終わってしまう。だから、それより今をどう生きるかが大事なことだ。それには物事の道理を明らかにすることだ」と諭られました。
どうですか。先祖の霊が祟っているなどと言うことより、ゆっくり自分自身の身体をいたわることから始めて下さい。
第五回 寺へ嫁ぐ娘
Q
在家出身の娘が浄土真宗のお寺に嫁ごうとしております。私の家にはお仏壇もありませんし、仏事と言えば、お盆にお墓参りに行くくらいのことしか経験がありません。まったく仏教の心得のない娘が、お寺で務まるのか不安でありません。
A
まずもって娘さんのご結婚をお祝い申し上げます。親の不安はどこに嫁いでもあるものです。ただお寺へ嫁ぐのが不安といわれることに関してはまったく心配はいりません。
じつは、寺とか在家とかに関しては、まったく境遇の違いであって、人間の生き方には大きな違いはありません。大事なことは、娘さんがお寺に嫁いで、仏さまの教えを聞く道を歩んでもらえるかどうか、の確認です。
今日、全国の真宗寺院の坊守の中には在家から嫁いだ人も多くおられます。ことに最近は、全国各地に設けられている真宗学院(3年間)、同朋大学文学部別科(仏教専修、1年間昼間)、京都にある専修学院(全寮制)のどこでもよろしいですので、入学をお勧めします。そこで真宗教義、声明作法、宗教法規など基本的なことが学べます。
娘さんのご結婚をご縁に仏壇の購入をお勧めします。結婚式も当然仏前ですので、出で立ちの時は仏壇にお参りして行かれるとよいでしょう。また、娘さんが実家へ帰られたときにも、まず仏壇にお参りするという習慣性も大切なことでしょう。そこに仏壇を中心にした新宗門との日暮らしの始まりがあると思います。
そして、何よりも大切なことは、家族の人たちがお念仏の教えにより一つになっていただくことです。真宗の教えを聞いていただくことです。今まで生活の中に少し仏教的なこともあったかもしれません。しかし、これからは生活の規範が真宗の教えによって成り立っていくのです。お寺さんに聞いてやって下さい。心配はいりません。大丈夫です。
第六回 月参りの意味
Q、
法事などでお手次ぎのお坊さんが来られお経をあげていただきますが、失礼ではありますがそれが下手くそで、お経が終わると、とっとと帰っていかれ愛想も何もありません。このようなお坊さんは尊敬でもできませんし、もうこれからお参りをお断りして、別のお坊さんに来てもらいたいと思っているのですが。
A、
お坊さんと門徒さんは、本来、信心による結びつきが大事です。しかし、現実は檀家制度により、昔からの寺檀関係の結びつきになっています。ですから先代住職とはうまくいっていたが、今の住職とはうまくいかないということもあるでしょう。逆もしかりです。あるいは住職さんはお経が下手であっても、若院さんは上手であるということもあるでしょう。
お経が上手下手というより、いかに丁寧に心を込めて読んでいただけるかということがあなたの関心ではないですか。
ただあなたの問題は、お経云々よりも、お坊さんを尊敬できないということです。本当にお坊さんに敬意を表すことができなければ、どうぞお断り下さい。
ただし一つだけ条件があります。お坊さんにあなたの正直な気持ちを伝えて下さい。口で言えなければお手紙でも結構です。けじめを付けてからお断り下さい。
なぜそんなことを言うかといえば、そうしたお坊さんを育ててきたのはあなた達ご門徒に責任があるからです。そして、あなた自身なぜお坊さんにお参りいただいていたのか、その意味を考えて下さい。一度改めて、お坊さんに「もう少しゆっくりお勤めしていただけないでしょうか。一口でも仏さまのお話ししていただけませんか」とお願いしてみて下さい。あるいは、『正信偈』同朋奉讃で一緒にお勤めするのも一つの方法でしょう。お願いしてみて下さい。その後お断りして下さい。
第七回 子どもの塾
Q
小学校六年生の娘がおりますが、友達のほとんどが学習塾へ通っているといいます。現在娘はピアノ・バレー・水泳を週に一回ずつ習っています。そこに塾となると大変負担がかかるように思えるのですが、友達について行けないと困るので、塾へ通わせた方がいいのでしょうか。
A、
本人が行きたいというまで、全く行かせる必要はありません。まずお母さんにお尋ねいたします。娘さんにどう育ってほしいのですか。健康に育ってほしいでしょう。そして、学力の優秀な子に育ってほしいでしょう。気持ちの優しい子に育ってほしいでしょう。キリがないですね。そうした思いが、みんな娘さんに重荷として肩に掛かっているのですよ。
ある中学生の男の子が、お母さんに質問したそうです。
「なぜ勉強するの」
お母さんは
「決まってるでしょう良い高校に入るためでしょ」
すると男の子が
「良い高校入ってどうするの」
お母さんは
「良い大学はいるためにきまってるでしょう」
すると男の子が
「良い大学入ってどうするの」
お母さんは
「良い会社に入るためでしょう」
すると男の子が
「良い会社に入ってどうするの」
お母さんは
「良い会社に入れば給料沢山貰って、死んだ時だって葬式の花 輪が 沢山飾られるでしょう」
すると男の子は
「分かった僕が勉強するのは葬式の花輪のためだったのか」
これは心理学者の漫画だそうです。どうです。なぜ人間は勉強するのでしょうか。良い中学、高校、大学、会社が、幸せの道であるという淡い幻想をそろそろ捨てたらどうですか。
くどいようですが、ここは一つ、娘さんの意思を尊重してみてください。心配はいりません。
第八回 子どもの将来が心配
Q
30歳前の独身の息子がおりますが、高校を出てからいまだに定職に就かず、いろいろなアルバイトをしながら食をつないでいます。この先の息子の人生が心配です。甘やかして育ててきた私が悪かったのでしょうか(50代主婦)
A、
ご心配です。ただ現代社会の風潮として、定職に就かずフリーターでいる人が増えています。その数百万人を超えているともいわれています。いってみれば、息子さんは現代社会の申し子といってよいでしょう。
ただ、これは個人的なことではなく、社会的な問題でもあります。現代社会は仕事も多様化しています。かつてのように、一生涯一つの仕事で通すとか、手に職を持っていく、いわゆる職人気質の人は大変少なくなってきています。会社のために家庭を犠牲にしてまで働くという人は少ないと思います。今さえよければという、個人の幸せを中心に考えている人が多いようです。
ですから、適齢期という言葉が通用するのはお母さんの年代でしょう。結婚して子どもが授かって、平和な家庭を築いてほしいと願うのは、至極当然なことです。しかし、現代の若い人たちは、もっと人生にいろんな選択を持ちたいのです。いろいろな生き方をしたいのです。
ただ、働くのが面倒で、親のすねかじって生きるパラサイト的な生き方をしている人もいます。息子さんの場合はどちらですか。それだけは見極めておいてください。無責任な言い方ではなく、人生いろいろあってもよいでしょう。
もし息子さんが何かしたいことがあれば、それは大変よいことです。待つことも大事です。とにかく一度ゆっくり話を聞いてやってください。
第九回 人間皆平等って?
Q
よく「人間みな平等」という言葉を耳にしますが、私はどうも納得がいきません。世の中には、芸能人のように華やかな人生を送る人、仕事に成功して何不自由なく暮らしている人もあれば、病気で早く亡くなる人、一生貧乏で終わる人、殺される人など不幸な人もいます。このような現実の中、どうして「みな平等」ということが言えるのでしょうか。
A、
「人間みな平等」ということに対して、疑問を感じられることはもっともなことです。
そこで平等と差別ということについて考えてみましょう。かつて東本願寺「蓮如上人の五百回会法要」のテーマ「バラバラで一緒・差異をみとめあう世界」という言葉がありました。平等ということは、全てが画一的・同一的になることではありません。それぞれがそれぞれ個性を持って有るということです。つまり、本当の平等とは、一人ひとりが個性を持って輝いていることです。だから、全ての人が芸能人になる必要はないのです。芸能人は芸能人で喜びと同時に苦しみもあると思います。仕事に成功している人に悩みはないかといえば、そうとも言えないでしょう。それよりもお尋ねのあなた自身はどうなんですか。芸能人のような華やかな生活をし、大金持ちになり、病気もせず、長生きすれば幸せですか。
かつて江戸の町人が、欲の世界を、
おまえ百まで、わし九十九
いつも三月花盛り
死なぬ子三人みな孝行
使っても減らない金十両
死んでも命が有るように
と表現して歌っていました。
これが人間の欲の極限です。真の平等と言うことは、この欲から解放されることです。他との比較に振り回されている間は、本当の平等は見えてきません。もちろん人間のいのちは、奪ってもならないし、奪われてもならない一点において平等といえることは明かです。
第一〇回 マルチ商法
Q
親しくしている職場の先輩から「いい儲け話があって、これがダイエットに効くよ」と言って、高額な健康食品を勧められました。これはマルチ商法か危ない新興宗教かと思い断ち切ろうと思うのですが、上司ということで、キッパリと断れないまま買い続けています。どうしたらいいでしょうか。(30代女性)
A
先ず本当にマルチ商法か、危ない新興宗教か確認してください。そして、結論的にいえば、ダイエットに効いていればよろしいですが、そうでなければ早く断った方が無難でしょう。ただ断り方が大変です。特にマルチ商法であれば、知縁血縁等身近な人から進められる場合が多いからです。
ですから、先ず家族のどなたかに相談することです。そしてご両親、結婚しておられればご主人に断って貰ったらどうでしょうか。 それができなければ、近くの生活相談所にご相談してください。 自分だけで解決しようと思わないでください。また近々、買わされることから、今度は友達に売る側に回らされたら、それこそ人間関係が複雑に絡み合ってしまいます。
もしダイエットの効果がないといえば、もう少し飲み続けなさいといわれるでしょう。でも2〜3ヶ月で効果が現れなければ、断った方がよいでしょう。「嘘も方便」ではありませんが、持病があって、医者に聞いたらしばらくやめた方がいいといわれましたとかいって、断ってみてください。早いに超したことはありません。
人間にとって、断るということは大変なことです。義理と人情の世界ではよけい大変です。上司とはうまくやっていきたいのは当然です。しかし、たとえ親切心であったとしても、部下にものを売りつける上司は最低です。ここはビジネスはビジネスと割り切って、キッパリ断ってみてください。長引かせないことです。
第十一回 地球環境
Q
近頃は、地球温暖化防止や限りある資源を無駄遣いしないために、冷暖房を控えめにするとか、レジ袋や割り箸等をなるべく使わないようにするといった運動が広まりつつあります。この背景には、私たち人間がより快適な生活を求めた挙げ句に、たまったツケが回ってきたように感じられます。この危機的な状況を、仏教からはどのように見られるでしょうか。(50代女性)
A
『大無量寿経』というお経に、
田(土地)があればあることで憂い、宅(家)があればあるこ とで憂う。 田がなければないでまた憂え、田があったらと欲う。 宅なければないでま た憂え、宅があったらと欲う。
と出てきます。
人間の欲には限りがありません。普通はものがないから悩み苦しむと思いますが、お経では、ものを手に入れたときから新たな悩みが始まるというのです。人間は満足ということが分からず、いつも欲望に流されているのでしょう。
そんな中、アイヌの人々が大切にしている言葉に、「ウレシパモシリ」という言葉があります。それは、
この地球の大地は人間だけのものではありません。そこに住む 万物が互い に互いを育てあう大地ですよ。だから共存共栄することを考えなさい。
という意味内容です。
アイヌの人々は、地球の大地は人間だけのものではないといっています。しかし、現代の多くの人々は、この大地は自分のもと思っているのではないでしょうか。
地球に生きる多くの生き物は、人間によって、人間のために役立つものとして
峻別されています。牛や豚は人間のために、家畜として扱われています。鶏もかごの中に入れられて卵を産み続け、やがて殺されて肉にされています。そうした現実をしっかり見つめ、改めて、どう自然と共存共栄していったらよいか考えてみるべきでしょう。仏教ではそうした生き方を、報恩感謝、勿体ない、生かされたいのち、という言葉で表現をしているのです。
十二回 お葬式の念珠
Q、お葬式の時には、黒い数珠か透明の数珠を持つものだと思っておりましたが、赤い数珠を持っておられる方を見ました。お葬式に赤い数珠は不謹慎だと思ったのですが、いかがでしょうか。
A、お葬式に赤い数珠は不謹慎だと思われるのは、まったく常識的だと思います。例えば男性の礼服の場合、結婚式は白いネクタイ、お葬式は黒のネクタイをつけるのが一般的でしょう。数珠も同じ感覚かもしれません。ただ、数珠そのものの色にそれほどの意味はありません。
数珠は、念珠ともいわれ、今日仏教徒の多くが常用しています。お参りの時、数珠の輪に両手を会わせます。そこに一切すべてを仏さまにお任せしますという絶対的信頼を表します。
子どものころこんな話を聞きました。
住職は、数珠の玉がわたしたち一人ひとりで、親玉が仏さま、糸が仏さまの教えにたとえて説明されました。もしこの糸が切れたら、玉はバラバラになってしまいます。数珠玉は、親玉を中心にしかり結ばれています。わたしたちも仏さまを中心に仏法によって仲良くしましょうといわれました。
もともと数珠は、インド中国から日本に伝わったものですが、数珠玉の基本数は一〇八です。ですから半分の五四であったり三分の一の三六だったりします。材質は、金、銀、赤銅、水精、珊瑚、菩提子、真珠など多数に渡っています。色もそれぞれです。数珠そのものを持つことが大事であって、色にはあまりこだわる必要はないでしょう。
十三回 飲酒
Q、飲酒について思うのですが、酒を飲んで車を運転し重大な事故を起こしたり、酔った勢いで女性を乱暴したりと、酒は人間を狂わせる麻薬だと思います。仏教にも「酒を飲んではいけない」という戒律があるそうですが、いかが思われますか。 私はお酒が飲めないので少々皮肉に聞こえるかも知れませが。
A、仏教の戒律には、不飲酒というのがあります。修行の身では、お酒はいけません。
もちろん酒を飲んで車を運転したり、酔った勢いで女性に乱暴することがよいはずはありません。ただ、酒を飲めば酔うということは事実です。酔わないように飲むことはなかなか難しいことです。ですから不飲酒というのです。
タイのバンコックのお坊さんは、世界仏教徒大会の式典中にたばこを吸ったそうです。聞いてみると、戒律にないからだそうです。それはお釈迦さま在世の当時は、たばこがなかったからです。ですから、戒律を守ることは仏教徒として大切なことであることに違はありませんが、戒律は時代社会、宗派によって異なることもあるでしょう。ことに親鸞聖人は、無戒名字の比丘といわれ、戒律を無視するのではなく、自身はとても保つことができない事実に立たれました。
本願寺八代蓮如上人も、お文で、
あながちに酒を飲む人を止めるわけではない、仏法につけ、門徒につけ、重ねて杯を受 ければ、酔狂してしまうので、その時には僧侶も酒を止めなければいけない。
といわれるのです。
つまり、飲んだらいけないというのではなく、酒に飲まれてはいけないといわれるのです。仏法聴聞の時にお酒はいけません。しかし、息抜きの時酒をたしなむことは一人ひとりに任せればよいと思います。
十四回 ロウソク
Q、仏事に用いる蝋燭に、赤色と白色がありますが、真宗では赤を用いることが多いと聞きました。使い分けとその意味を教えてください。
A、蝋燭について説明します。蝋は、もともと動植物の分泌してできた脂肪のかたまりです。淡い黄色い色をしたもので、それによく似た梅を蝋梅といっています。糸または紙をより合わせたものを芯にして、その周囲を蝋で塗り固め円柱状にして灯火のようにしたものを蝋燭といっているのです。多くは白色になります。浄土真宗の寺院で用いる蝋燭には、四種類あります。
白蝋(平常一般法要)
朱蝋(年回法要、報恩講等)
金蝋(落慶法要、仏前結婚式等の慶事法要)
銀蝋(葬式、中陰法要)
一般的には金蝋は朱蝋、銀蝋には白蝋をもって代用する場合もあります。蝋燭の型は、イカリ型、藤型と呼んでいます。また、法要以外の時には朱塗りの木蝋お立てて置きます。
結論的に言えば、朱、白のさしたる意味はありません。
繰り返しますが、打敷のない日常的勤行では白蝋、歳事、修正会、年回法要、報恩講(お取り越し、お仏事、ご引上)などの仏事では朱蝋を用いられればよろしいでしょう。
十五回 墓石
Q 真宗門徒のお墓には「南無阿弥陀仏」もしくは「倶会一処」と書いてありますが、なぜ「○○家之墓」ではダメなのでしょうか? (40代女性)
A 墓の歴史を見れば、昔は土葬が多く、納骨の習慣は近代に入ってからです。なおかつ、真宗門徒の多くは、名字帯刀が許されていなかった家が多かったのです。ですから、もし石碑があったとしても、各自の法名が記されていました。
それが明治以降、名字が許されると、家を中心とした生活が始まり、また墓を持つ余裕もでき、各自が「○○家の墓」「先祖代々の墓」と書くようになりました。
ただ、もっと大切なことは、「骨」のことで迷わないことです。「○○家の墓」になると、名字の異なる親族が納骨できないという事態も生じています。
例えばある家で、嫁に行ったおばさんが夫と死別して、実家へ帰っていました。おばの名字は嫁ぎ先のままでした。そのおばが亡くなったとき、お骨をどうするかで家族がもめたそうです。名字が違うからお墓の中で骨と骨が喧嘩しているかもしれない。家族に不幸が訪れたらどうしようというのです。馬鹿げた話です。
それに対して、「倶会一処」「南無阿弥陀仏」は、お浄土の世界ですので、差別限定がありません。いつでも誰でも納骨できる広い世界を意味します。家を中心に生活することは、大切なことですが、家に縛られ、姓名に執らわれ、本当の人間の出会いが拒まれてしまったら大変です。
ですから浄土真宗では、墓石に、故人の法名、「南無阿弥陀仏」、「倶会一処」と記すのが良いというのです。
16回
ペットのお骨は
Q。ペットとして猫を1匹飼っています。私は、いずれこの猫が死んだら、ぜひうちのお墓に入れたいと思っています。今まで、そんなことをしたことがありませんが、それは可能でしょうか。また、動物は火葬できるのでしょうか? (60代女性)
A、現在日本では、2000万匹のペットのうち、毎年42万匹のペットが捨てられています。癒しを求めた人間が、ペットを飼うのですが、また人間の都合により捨てられ、虐待され殺されているのが現実です。そういう人はペットを飼う資格はないでしょう。
そんな中で、ペットを家族の一員として飼っている人もいると思います。
もう30年程前でしたか、団地で、50代の男性の葬式がありました。連れ合いの人は、気丈夫に葬儀を施行されました。それから一年ほどたったある日、飼っていたい犬が亡くなったので来てほしいといわれお伺いしました。そうしたら、前のご主人の時は、涙一つ見せなかった人が、おいおいと慟哭していました。わたしはその落差に驚いたことがありました。もちろん都会では、ペットを埋める土地もない人もおられますので、火葬場へ持って行けば焼いてもらえます。
人間もペットも、同じいのちを生きていることに違いはありません。そこにいのちの差別はまったくありません。ただ一つだけ違いがあります。生老病死のいのちの自覚が有るか無いかです。人間は死ぬことを知っています。同時に喜び悲しみ苦しみの感覚を持っています。ペットは、そうした考え分別する感覚が無いといってよいでしょう。そして、ペットは、仏さまの教えを言葉として聞くことができないのです。葬儀は、人間に生まれた意義と喜びを確かめる大切な仏事です。ですから、浄土真宗では、ことさらペットの葬儀はしないのです。もちろん、ご本山では、ペットの納骨もありません。ただ、猫が死んだらお墓に入れるかどうかは、気の済むままご自由になさったらよろしいでしょう。
17回目 真宗の法名
Q、真宗以外の仏教は「戒名」と言われますが、真宗では「法名」 と言われるのは、どうしてですか。 また院号とは何のことでしょう。(40代女性)
A、まず戒名について説明します。戒名とは受戒した人に与えられる名です。もともと戒とは、仏教教団の修行規則を守ろうとする決心で、修行を推進しようとする自発的な精神を指します。ですからインドの初期仏教では、出家者に与えられていました。それが後には、仏教に帰依した在家信者にも与えられるようになりました。そして、さらに一般的には、受戒を行わなくても、法名として授けるようになりました。
浄土真宗では、正確に言えば戒名といわず、法名というのです。その法名には必ず、「釋○○」という具合に「釋」の字がつきます。この「釋」の字こそお釋迦さまのお弟子になったという証としてつけられるのです。ですから法名をいただくことは、仏と法と僧との三宝に帰依するわけですから、死後ではなく、生前中につけていただくのが本義です。
つぎに院号について説明します。院とは、垣根を巡らした建物を意味します。現在では○○病院、○○学院、あるいは○○院というように寺院の名として使われています。
院号については、もともと上皇の称号、天皇の追号、寺内の子院や塔頭の称号でした。それがやがて、貴族の生前建立した寺院の院号が、そのまま戒名の中に用いられるようになったのです。その後、一般の人々にも用いられるようになったのが「院号法名」です。ですから、浄土真宗では法名というのです。そして法名は、本来的には「釋○○」でよいのです。
18回目 真宗のお勤め
Q、真宗以外の仏教は、般若心経をあげられますが、なぜ真宗ではあげないのですか (30代女性)
A、おっしゃるとおり、『般若心経』は浄土真宗と日蓮宗系をのぞく、仏教の諸宗で常に読誦されています。内容的には、空をあらわしています。例えば、「色即是空、空即是色」と説かれています。そして、多くの人に読誦される一つの要素に、その字数が300字足らずで短いと言うこともあるでしょう。
それに対して、浄土真宗で『般若心経』を読誦しないのは、親鸞聖人の教えに基づいてのことです。親鸞聖人は、数多くの経典の中から、『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』を浄土三部経として選択してくださったのです。そこには本願念仏の教えが説かれているのです。ですから本願念仏の教えを首とする浄土真宗では、法事などで、この三部経を読誦しているのです。
そして、ご門徒の多くは、親鸞聖人が書き残してくださった『正信偈』を朝晩読誦するようになったのです。それは、今からおよそ四五〇年程前の八代目蓮如上人からです。蓮如上人は、浄土真宗の仏事をわかりやすくわたしたちの手元に届けてくださったのです。どんなときでもお内仏の前に座って、『正信偈』をあげ、親鸞聖人のお書きくださった和讃を読み、そして最後に蓮如上人のお作りくださった「お文」拝読するのです。北は北海道から南は沖縄まで、全国津々浦々で勤められているのです。それは何を読んでもよいというのではなく、自身の信心の拠り所が明らかにされることになるのです。ですから浄土真宗のご門徒は『正信偈』を朝晩読誦しているのです。
19回目 木魚
Q、真宗以外の仏教は、木魚がありますが、なぜ真宗では用いないのですか
A、木魚とは、読んで字のごとく、木で作った魚形の仏具です。これに二種類あります。
一つは、古くは魚板などとも呼ばれ、細長い魚の形をしたもので、京都宇治の黄檗宗万福寺などでは、回廊に吊され、これを叩き鳴らして食事や法事などを知らせ、僧や衆を集めるのに用いていました。これは現在でも中国や韓国の仏教寺院で用いられています。
もう一つは、一四世紀頃、中国(明代)で、木でほとんど球形で中をくり抜いて空洞にして、横に細長い口を開け、座布団の上にのせ、バチで叩いて鳴らし、読経の際の調子をとるのに用いられてきました。これは、日本でも浄土真宗以外の各宗で用いられています。それではなぜ魚かというと、魚は夜昼問わず目覚めているので、修行の身である僧などが、怠惰を戒めるために、木魚という説もあります。
浄土真宗では、木魚は使いません。それは仏道修行を軽んじるのではなく、ただ親鸞聖人が、多くの修行はわたしにはできません、南无阿弥陀仏の念仏一つで十分ですと言われたからです。
そこで、木魚に変わるものとしては、音木(おんぎ)があります。音木は、読経の時、拍子木に似て、句読に合わせて打ち鳴らし、読経の調声に使っています。そして、法要の時には大鐘や大太鼓をついて知らせる場合もあります。また、僧や衆を集め法要を始めるときには、半鐘(はんしょう)を鳴らします。仏具は宗派によって異なっています。