冨谷至『韓非子 不信と打算の現実主義』(03年7月2日読了)
 韓非は君臣関係を血縁関係になぞらえる儒者を徹底的に批判した。君臣関係は相互の思いやりで成立するような生やさしいものではなく、もっと生々しい利害関係である。つまり「君」は、自分に仕えることが「臣」にとってどのように得かをきっちりと示さなければならないのであって、それが明らかであってこそ、「臣」は「君」に仕えることができるのである。もしこの点が曖昧になれば、「臣」は私利私欲に走り、国は乱れ滅ぶであろう。君臣関係には親子関係の間にあるような親愛の情とは違った利害関係の原則が働いているのである。
 また、儒家を批判するために韓非はたとえ話を多用した。「守株(いわゆる「まちぼうけ」ってやつです:諫山補)」は、時代の変化を読みとれず一度あったことは二度あると思い込んで「周」時代の再来を待つ儒家たちを批判するために持ち出された。さらには「矛盾」も、堯が上手くやっていれば舜が必要であったはずがない、つまり堯が聖人なら舜は必要なく、逆に舜が聖人だったとしたら堯は失敗者とされなければならない、なのに、儒家はこの両者を褒め称えている、これはどんな盾をも通す矛とどんな矛からも守れる盾を売るのと同じ「矛盾」である。と、あまりの「たとえ」の上手さに舌を巻く。
 このような極度に洗練された合理主義的・功利主義的な思想はどのような時代背景のもとで生まれたのか。本書は古代中国の歴史と思想をたどりつつ、西洋の法学思想ともからめてわかりやすく説いている。
 ちなみに、本書によれば、韓非を「東洋のマキアベリ」と呼ぶのは間違っている。時代の後先で言えばマキアベリをこそ「西洋の韓非子」と呼ぶべきなのだ。実に正論と言うべきだろう。
(中公新書 2003年5月25日発行)


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