内山俊彦『荀子』(03年7月24日読了)
「性悪説」で知られる荀子の多面的で難解な思想を、統一国家へと向かうシナの歴史の中に位置づける。
「性善説」「性悪説」と言うが、なぜこの時代の思想家は「性」にこだわったのか。「性」は「心」と「生」からなる。つまりナマのココロである。もしナマのココロが〈善〉であるならば、道徳による政治、すなわち徳治も可能になる。だが、人間の「性」が〈悪〉だとしたらどうか。
 ここで著者は、孟子の「性善説」と荀子の「性悪説」とでは「性」そのものの概念が異なっていることに注意を促す。孟子の「性」は、人間そのものにあらかじめ道徳が備わっているとするメタフィジック(形而上的)な論理から出てきた固定的なものである。ところが荀子の「性」は、秩序を与えずに放っておけば〈悪〉になり、秩序を与えれば〈善〉にもなるような、可変的なものである。つまり、「性善説」「性悪説」の対立の中で問われていたのは、「性」の性質としての〈善〉〈悪〉ではなく、むしろ「性」の概念そのものであった。荀子によれば、「性悪」も秩序さえ与えれば〈善〉に変わり得るのである。
 戦国の世にはびこる〈悪〉を〈善〉へと転換するのは秩序だと考えた荀子、その思想は秦・漢の専制国家を用意するものでもあった。
 伝統的な儒家の家族倫理「孝」に君臣の倫理「忠」を初めて等置したのが荀子であるのも頷ける。
(講談社学術文庫 1999年9月10日発行 親本は1976年『荀子―古代思想家の肖像』評論社刊)


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