| 義江彰夫『神仏習合』(03年6月6日読了) 律令末期の土地の私有化による〈個人〉の析出から神仏習合を論じる刺激的な一冊。〈共同体〉の内部で富を所有する裕福な人々は初めて〈個人〉としての自覚を得たのだが、同時に所有することの罪悪感を感じるようになり、そこからの救いを求めて次第に仏教に接近したのだという。つまり、古代の信仰では死後の魂は〈共同体〉の〈祖霊〉の一塊りの中に帰って行ったのに、仏教では死後もその魂は一人の〈個人〉として残る。しかも、死後、生前の罪悪を〈個人〉で償うことが要求されるのだという。この死生観のもたらす不安は、仏教によってもたらされたものであり、仏教によってしか解消されない。ところがそのような富裕な〈個人〉は伝統的な〈共同体〉の〈神〉を祭るものでもあり、すぐに仏教に転ずることは出来ない。そこで、〈共同体〉の〈神〉そのものが罪業に苦しんで仏教への帰依を求めるという物語が語られることになった。〈神〉が仏に転じたのである。これが仏としての〈神〉を祭る寺、神宮寺の起源だという。 古代の神宮寺が〈神〉の側からの仏教への接近の帰結だとするなら、中世の本地垂迹説は、積極的に土着の〈神〉を取り込んでいく仏教からの動きであった。これは太陽の仏である大日如来(ビルシャナ仏)が太陽神アマテラスの本地であるとするような、仏教からの日本神話や歴史の読みかえである。この作業が徹底することで神仏習合は完結する。 御霊信仰やケガレ観念の発生をも社会的な所有形態の変動で読み切ったり、本地垂迹説の比較宗教学的な側面(神々と諸仏の類似点を探って結びつける)を無視したりと、人類学的な切り込みが浅い面はあるものの、歴史書としての本書の価値は高い。 (岩波新書 1996年7月22日発行) 書評に戻る 武庫川通信に戻る |